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6章 Side:雪哉

2話

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 下階行きのエレベーターが7階で停止すると、ポーンと音がして扉が開く。顔を上げるとそこには愛梨と恋人のいずみ弘翔ひろとが並んで立っていた。今日は定時で仕事を終えたらしく、まだ18時を過ぎたところなのに2人とも上着を着てバッグを持っている。

「お疲れ様です。丁度良かった……上田うえださん、少しお時間頂けませんか?」

 仲良く並んで帰るのか、と思うとそれだけで羨ましさから溜息が出そうになったが、その感情をどうにか押し殺して笑顔を貼り付ける。恋人である弘翔に警戒されないよう名字で呼ぶと、愛梨が少し傷付いたような顔をしたのが分かった。

「あぁ、俺、席外した方がいいですね?」
「申し訳ありません。すぐ終わりますから」

 それに対して弘翔は、さわやかな笑顔で自分のポジションをあっさり明け渡してくる。彼はすっかり雪哉を『いい人』だと思い込み、愛梨と雪哉の関係を再会した『ただの』幼馴染み同士と認識しているようだった。人の良い笑顔は他人を疑う事を知らない性格であることを物語っていて、雪哉としては都合がいい。

「愛梨。俺、待ってる間にショールーム行ってくるから」
「えー。私も欲しかったのに……」
「いいよ。愛梨の分も貰ってきてやる」

 そう言うと7階で降りた雪哉と入れ替わりに、1階へのエレベーターの中に弘翔の姿が吸い込まれていく。

 2人の会話から、先ほど見た社内メールの内容を思い出す。そこには店舗から引き下げた旧パッケージの入浴剤の在庫品を、欲しい社員にショールームで無料配布すると記載があった。どうやら2人はそれを貰って帰るところのようだ。

 通訳のお三方も是非どうぞ、と言われて、浩一郎が『嫁が喜ぶわー』と言っていた。バス用品を1番喜びそうな友理香は、今日は出勤日ではない。

「愛梨。この間は友理香が迷惑かけて本当に悪かった」

 弘翔の姿が完全にその場から居なくなったことを確認すると、愛梨に向き直って謝罪する。今度は名字ではなく名前で呼ぶと、愛梨は少し俯きながら、

「ううん、大丈夫」

 と呟いた。

 雪哉に叱られ、友理香はかなり反省したようだった。だから浩一郎の年の功と、愛梨の望みと、雪哉の考えを総合的に鑑みた結果、結局本社への報告はしないことに決めた。

 それが良い事なのか悪い事なのかは考えるまでもないが、物事の判断はいつだって状況により変化するものだ。

「愛梨が望まない対応はしないから安心して」
「ん。わかった」

 全てを説明しなくても雪哉の考えを察したらしい愛梨が、ほっと息を吐いた。その表情を見て、雪哉もそっと安堵する。

 愛梨はいつも優しい。周囲とすぐに打ち解けて、正義感が強くて、義理堅くて、誰にでも笑顔を向けることが出来る。昔から変わらないその優しさを、早く自分だけに向けて欲しいと願うのはわがままなのだろうか。

「やっぱり、彼氏と仲良いな」
「え…?」
「妬ける。俺の方が、愛梨の事好きなのに」

 1歩近付いて耳元で囁くと、愛梨はその耳も、顔も、首まで赤く染めて下を向いてしまう。その可愛らしい反応に、また少しだけ満足する。


 本当は、少し前から気付いていた。
 愛梨はきっと、いや、間違いなく雪哉の事を好いていた。

 愛梨の深層に眠る感情に決定的に気付いたのは、資料室で転びそうになったところを助けた時だった。抱き起こした愛梨と見つめ合うと、その瞳はガラス細工のように光を反射し、涙で潤んで揺れ動いていた。

 それは紛れもなく『恋する表情』だった。

 困った仔犬のように雪哉を見つめて揺れる瞳が、切なく恋焦がれる15年間の歳月を投影しているように感じた。その表情ははじめてキスをした後に見た、15年前のあの日と同じ。愛梨の瞳は雪哉の『約束の答え』を欲していた。

 その瞳を見て気付いた。きっと自分と同じぐらい、愛梨も切ない年月を過ごしていた。
 15年は――やはり長すぎた。


 けれど愛梨は、まだ自分の本当の感情きもちに気付いていない。恐らく認めたくないのだと思う。

 愛梨の実家で約束を忘れたのかと問いかけた時、最初は上手くはぐらかされてしまった。けれどその後、彼女は「迎えにくるから待っててって言ったのに」と自分から呟いた。その矛盾に、気付かない訳がない。愛梨は本当は雪哉との約束を覚えていた。雪哉が誓った台詞までちゃんと覚えていたのに、その時は忘れたフリをした。

 はぐらかされた理由が、最初は分からなかった。けれど資料室で見つめ合った時に、気が付いた。

 愛梨はきっと『雪哉を裏切った』と思っている。『後ろめたい』と感じている。本当の気持ちに気付くことが雪哉にも弘翔にも不誠実だと思っている。だから感情に蓋をして、わざと気付かないようにしている。

 それならいくら言葉で言っても、愛梨は自分の恋心を認めない。自分からは、行動できない。

 だから雪哉の腕の中で上目遣いのまま動き出せずにいる愛梨に、少しずつ理解させるための魔法を掛けることにした。

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