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6章 Side:雪哉

3話

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 多少強引な方法で、自分の胸の内を丁寧に教え込んだ。愛梨にキスしたいと思っている。彼氏に嫉妬してる。それは全て事実だが、愛梨が知らない――必死に認識しないように努めている雪哉の生身の感情だ。

 でもいつまでも知らないままでは困る。睦まじい2人の様子をみている間に『結婚することになった』『子供が出来た』なんて言われたら、本当にもう取り返しがつかなくなってしまう。

 だから愛梨に、雪哉の感情をちゃんと知ってもらう手段を選んだ。愛梨自身の感情にちゃんと気付いてもらう方法を取った。

 それが腹黒いと、最低だと、卑怯だと罵られても構わない。愛梨が自分以外の人と生涯を誓い合う瞬間を直視できる冷静さは、最初から微塵もなかった。


 覚え込ませるために触れた唇は、長年妄想し続けたそれよりずっと柔らかくて甘かった。あの日の小さなキスの感覚とそこから15年間どれだけ望んでも手に入らなかった月日を思い出すと、このまま彼女を手放したくないと思った。

 必死でその唇を貪っているうちに、これは自分の方がよほどマズイ状況なのではないかと思った。だが、泣いてしまった愛梨を見るとすぐに我に返ることが出来た。


 予想していた通り、愛梨は中々手強い。認めてしまったら全てが崩れると思っているらしく、どんな言葉を囁いても彼女は絶対に首を縦に振らない。

 流石に『連絡してこないで』と言われた事は堪えた。しかしそれが愛梨なりの防衛反応だと気付くと、むしろ雪哉がかけた魔法が徐々に効力を発揮している反動にさえ思えた。

 確実に『理解し始めている』『覚えてきている』と感じていた。なのに。


「ユキは、昔の約束に囚われてるんだよ」
「……は?」

 愛梨がぽつりと呟いた言葉に、思わず間抜けな声が出た。それが『俺の方が、愛梨の事好きなのに』に対する返答だと気付いて、つい顔を顰めてしまう。

「あんな約束なんてしなかったら、ユキはもっと自由に恋愛できたと思うの」

 愛梨の台詞から、ざわざわと嫌な胸騒ぎがする。確実に解氷をはじめ、ゆっくりと溶け出し、透明な雫が少しずつ自分の色に染まっていると実感し始めた矢先なのに。

「別に今からでも遅くない。あの約束、もう無効にした方がいいと思――」
「愛梨」

 思わず制止する。

 その言葉を最後まで言わせてあげられる心の余裕はない。愛梨はまだ、少しずつ雪哉の存在を思い出し、異性として意識し始め、それが恋心と結びつき始めたに過ぎない。まだ自分の想いを認められる段階まで来ていない。

「俺が嫌なら拒絶しても、突き放してもいい。でも約束そのものを無かったことにするのはやめて」

 こんな不安定で曖昧な状態で、最初で最後の切り札を破り捨てられる事は許容できない。だからそれだけはさせないと、必死に説得してしまう。

「愛梨と会えなかった15年間、俺を支えたのはあの約束だ。それを取り上げられたら、俺はこの先どうすればいい?」

 突然こんなことを言い出したのは、雪哉が愛梨を口説こうと悪戯な台詞を呟いた所為もあると思うが、きっと友理香のためなのだろうと思う。

 女子同士仲が良い事は認識していたし、普段の業務に支障がないならクライアント先の社員と仲良くなる事は特に問題ではない。女子特有の恋愛トークに華が咲き、その際に友理香が自分の恋愛話をした事は容易に想像できる。

 それなら愛梨は、友理香の気持ちを知っている筈だ。もちろん雪哉も友理香に向けられる感情を理解しているが、それに応えるつもりはないとその都度ちゃんと断っている。

 だが愛梨はそれを知らない。自分の気持ちを認めたくない防衛反応に加えて、友理香の恋を応援しようとか、雪哉と友理香がお似合いだかとか考えているから『河上かわかみさんとどうこうとか、絶対にない』とはっきり宣言してきたのだろう。『絶対にない』と言われた雪哉のショックなど、知りもしないで。

 その腕を掴んで、振り向かせる。そしてその瞳を覗き込んで、問いかける。愛梨の琴線に触れ、胸の奥の恋心にちゃんと届くよう、声の低さの中に誘い込むような色を含ませる。

「愛梨は今の俺がどれだけ必死なのか、ちゃんとわかってる?」

 視線が合うと愛梨はびっくりしたように目を見開いていたが、すぐに視線を逸らしてまたそっぽを向いてしまう。

 その態度は、彼氏に変に染められていないようにも、異性からのアプローチを綺麗にかわすように仕込まれたようにも感じられる。―――やはり愛梨はまだ、雪哉に落ちる気配がない。
 
 更に踏み込もうと腕に力を込めたところで、下階に赴いていたエレベーターが戻って来た。ポーンと音がして開いた中には弘翔が乗っており、手には黄色と桃色のリボンラッピングが施された小さな袋が握られていた。

「愛梨、ギフトセットのヤツでいい? 一応まだバラのもあったけど…」
「弘翔」

 雪哉の手を振り解いた愛梨が、弘翔の傍へ寄っていく。そしてそのままスーツの端を掴んで、彼の顔を見上げる。

「愛梨? 何、どうしたの?」

 弘翔にくっついた愛梨は『もうおうちに帰りたい』と拗ねてしまった子供のようだ。人前で寄り添われた事に焦ったのか、弘翔が慌てたように愛梨の名前を呼ぶ。

(俺の目の前で、そんなにくっつかなくてもいいだろ…!)

 その様子を見た雪哉の胸の中には、また酷い焦燥感が渦を巻く。

 愛梨は確実に雪哉の事を気にし始めている。だから諦めさせようと思って、わざとに、けれど無意識に、目の前で弘翔にくっついたりするのだろう。それが雪哉の嫉妬心を猛烈に煽っていることなど一切気付かずに。

「なんでもない。もう行こ、弘翔」
「あ、うん……。………河上さん?」
「! …はい。何でしょうか?」

 不思議そうに名前を呼ばれ、はっとして顔を上げる。俯く愛梨をじっと見つめてしまっていたらしく、目が合った弘翔は困惑したように眉を動かしていた。

「……。いえ…」

 一応笑顔は作ってみたが、少し遅かったらしい。弘翔の瞳の奥に深刻な警戒色が走り抜けていくのが分かった。だが彼は結局何も言わずに、小さく首を振って踵を返した。

 愛梨と弘翔がエレベーターの中に乗り込み扉が閉まると、他の利用者がいないエレベーターはその場で上階行きから下階行きに切り替わり、ゆっくりと1階へ下がっていった。

(今のは……完全に気付かれたな)

 折角油断させていたのに、怒りの感情が表に出てしまっていたようだ。醜い嫉妬心を仕舞い込もうと必死になっていた雪哉に気付き、弘翔は驚いたような表情をしていた。

 愛梨ですら言わなければ気付かなかった雪哉の感情を、彼はすぐに理解したようだ。今後は恋人からのガードが厳しくなると予想し、また溜息が出てしまう。

 まだ愛梨と弘翔が仲良く並ぶ姿を、こうして指を咥えて見ていなければならない。今すぐ2人の後を追いかけて、無理にでも引き剥がして、自分の腕の中に愛梨を抱きすくめて、唇も身体も奪ってやりたい衝動と戦わなければいけない。

「愛梨……」

 あの約束を無効に、なんて質の悪い冗談を思いついている場合じゃない。

 もっとちゃんと意識して。
 早く自分の気持ちに気付いて。

 愛梨が振り向いてくれるための罠なら、いくらでも用意するから。

    
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