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最終章 Side:愛梨

26話

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「わあぁ、キレイだねぇ」
「うん。田舎は星が綺麗だったけど、都会の夜景も悪くないな」

 雪哉が散歩だと言って連れてきてくれたのは、商業ビルの屋上展望テラスだった。真夏はビアガーデンになるらしいが、シーズンオフの今は可愛らしいリトルガーデンになって憩いの場として開放されている。この時間はカップルが多いようで、ベンチやウッドデッキの合間に見える人影は決まって男女の2人組だった。

 フロアの端から眼下の景色を覗き込むと、そこには夜の海に宝石箱をひっくり返したような美しい夜景が煌めいている。

「そういえば、ユキのお父さん、夜景も描いてるもんね? この前ネットで検索して見たんだー。すごい綺麗だった」

 風が冷たいからか周囲には人がまばらで、はしゃぐ愛梨の事は誰も気に留めていない。

 日本の都心の夜景と、アメリカの大都市の夜景はどっちが綺麗なんだろう。

「ユキはあの絵の夜景の本物……」
「愛梨」

 そう思って振り返ったら、至近距離にいた雪哉にそっと名前を呼ばれた。顔を上げると、優しく、愛おしそうに頬を撫でられる。そして。

「俺と結婚して欲しい」

 まるで歌でも歌っているのかと思うほど軽やかに呟いた言葉は、紛れもなくプロポーズの言葉だった。

 愛梨は一瞬、言われた言葉を理解できなかった。雪哉が『日本語に聞こえる英語』を喋ったのではないかとさえ思い、面食らって口を開けたまま雪哉の顔を凝視した。

「もう愛梨を待たせないし、置いていかない」

 そんな愛梨の混乱をしっかり認識しているくせに、また拒否の言葉も言わせないように、鮮やかに華麗に愛の言葉を重ねていく。頬を包んでいた指先が動き、耳の裏をするりと撫でた。

「ずっと傍にいて、愛梨だけを愛するって誓うから」
「ユキ……」

 くすぐったさにぴくっと動いた愛梨の反応まで楽しむように、クスリと笑われる。

「前に、昔の約束を無効にしてって言ってたやつ」

 ふと、雪哉がいつかの話を持ち出してきた。マーケティング部がある7階のエレベーター前で、友理香のミスを謝罪してきた雪哉と2人になった時。あの頃はまだ弘翔と付き合っていて、けれど愛梨が雪哉の事ばかり考えていた頃だ。

 その時は雪哉の事を好きになりたくない一心だった。本当は心が惹かれていることに自分でも気付いていたくせに、認めてしまったら全てが崩壊してしまう気がして、雪哉との『約束』を破棄しようとした。『あの約束、もう無効にした方がいいと思う』と口走った。

「もういいよ。あれは約束じゃなくて、たった今からただの思い出」

 確かに口にした言葉を思い出していると、今日は雪哉の方からその約束を破棄してきた。15年前に交わした甘くて、苦しくて、懐かしい『約束』が、愛梨が何かを口にする前にあっけなく消えて無くなる。

 あまりに簡単に約束を無効にしてきた雪哉を見上げると、そっと笑顔を返してきた。

「その代わり新しい約束をさせて。俺はもう、愛梨のものだよ。それに愛梨も、俺のものだから」
「……!」
「異論ないよねあっても絶対認めないけど」
「息継ぎぐらいしてよ」

 ようやく発する事が出来た言葉は、やけに必死な説得に対する突っ込みだった。それがプロポーズに対する返答ではなかった事に文句を言って来ると思ったが、雪哉は可笑しそうに笑うだけだった。

 ふと自分の上着のポケットに右手を突っ込んだ雪哉が、左手で愛梨の手首を掴まえた。そのまま持ち上げられた手に、雪哉の指先が触れる。

 ポケットから出した小さな金属を、愛梨の左薬指に滑り込ませて。

「わぁっ」

 思わず感嘆の声が漏れる。
 愛梨の左手の薬指に嵌められたのはプラチナのリングにダイヤモンドが1つ。そしてその周りに銀細工の装飾があしらわれた『エンゲージリング』だった。いつの間にサイズを確かめたのか、綺麗な指輪はぴったりと愛梨の指に収まり、きつさもゆるさも感じない。

「……びっくりした」
「うん。そういう顔してる」

 雪哉の顔を見上げて呟くと、彼はにこりと悪役っぽくて優しい笑みを浮かべた。まるで子供の悪戯が成功した時のような、無邪気で屈託なくて、純粋な笑顔。

「俺は昔から、愛梨に驚かされてばかりだった。たまにはやり返さなきゃな」

 雪哉に言われて、思い出す。
 そう言えば愛梨が髪を切った時も、ゲームで負かした時も、後ろから大声を出した時も、いつも雪哉はビックリして目を丸くして、その後は悔しそうな顔をしていた。でもそれは、幼い頃の話だ。

「十分やり返されてるよ。ここ最近、勝てた試しがないもん」

 今の自分は、あの幼い頃の可愛らしい少年と同じ顔をしているのだろう。驚きと、勝てない悔しさ。けれど幼い子供の表情ならまだ可愛げがあるが、もうすぐ28歳になる大人の女性がするには、ちょっと間抜けっぽい表情だと思うのに。

「結構悩んだけど、ちゃんと愛梨に似合ってよかった」
「え、えっと……」
「返事は……そうだな。愛梨から、キスして欲しいな」
「……ユキ」

 また無茶な要求をする。
 確かに展望テラスに人はまばらで、誰もこちらの様子など気にも留めていないけれど。他人の目がある場所でキスなんて、出来るはずがないのに。

 自分の頬が火照っている事に気付いて、じっと雪哉の目を見つめる。出来ないよ? 無理だよ? と祈りを込め続けると、雪哉がふっと笑顔になった。握られていた手をゆっくりと引かれて更に距離が縮まると、降りてきた唇が耳元にあきらめの台詞を囁く。

「うん。結局、俺が負けるってわかってた」

 愛梨の不安を察したのか、他人の目から愛梨を隠すように少しだけ立ち位置を変えると、ゆっくりと唇を重ねられる。

「ん」

 小さく漏れた声は、すぐに夜空の中に消えていった。音の行方を確認する前に、雪哉にぎゅっと抱きしめられてしまう。お互いにコートを着ていて隔てるものが多いはずなのに、心臓の音がはっきり聞こえて、体温さえも直に感じる気がした。

 まるで2人の境界線が溶けてしまったみたいに。

「私も、ユキとずっと一緒にいる」

 不思議な感覚を味わいながら、ようやく『プロポーズ』の返事をする。答えは15年前から決まっていたが、恥ずかしくて言えなかった言葉を口にすると、雪哉が嬉しそうにはにかんだ。

「ユキだけを愛するって、誓うから」

 次のキスが降りてくる前にどうにか伝えるけれど、きっと言葉は必要なかったのだと思う。

 小さな頃からずっと一緒で幼馴染みだった2人は、また動きと視線だけで意思の疎通がとれるような『特別な関係』に戻れたのだから。
 
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