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第五幕&終幕
「おまえを泣かせてまで、ほしいものなんかない。」~勇者の友情、魔王の涙~
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第五幕
どれくらい、バルコニーに座り込んでいたのだろう。
気がついたら、体がひどく冷えている。
吹き始めた夕風、空に輝きだした一番星。広がるのは、黄昏の薄闇。
「勇者、我が主よ。」
そう呼びかけられて、フェアは、のろのろと顔を上げた。それだけの動きで、ぎしっと首の付け根が痛む。ずいぶん長く同じ姿勢でいたせいだ。
フェアの目の前に立って、否、正確には浮かんでいたのは、金髪碧眼の少年だった。
十年ぶりに目にする姿。十年前と同じ姿。
あの時は同い年くらいだった。今は違う。
「勇者の剣…。」
この少年が何なのか、深く考えたことはなかった。勇者の剣だから、精霊のようなものが宿っていてもおかしくない、という程度の認識。
「その姿、すげえ久しぶりだな…。契約の時にしか出てこないのかと思ってたぜ…。」
この十年、呼びかけても、この少年の姿が現れることはなかった。
「必要なかっただろう。今までは。」
勇者の剣は言う。十年前と変わらない、澄んだ、透明な声で、淡々と。
「勇者よ、覚えているか?我は言ったな。」
一言一句変わらず、十年前の言葉を紡いでみせた。
「勇者になれば、そなたは、想像を絶する苦痛を味わうことになる。友はあきらめよ。」
「オレは…あの言葉は、単に勇者になりたいやつの覚悟を聞いているのかって、最近では思ってたんだけどな…。」
「通常は、そうだ。我は、おまえたちが神と呼ぶ絶対存在の端末。神が定めた勇者の資格は、覚悟のみ。能力も生まれも容姿も人品骨柄も関係ない。だが、おまえの場合は、覚悟を聞いたわけではない。」
「勇者の剣、おまえは…最初から全部、分かっていたのか?」
「否。」
勇者の剣が首を振る。
「我は、全てを見通せるわけではない。おぼろげに未来はわかったが…ラント・トイフェルが、魔王だとはわからなかった。」
その名を聞いて、フェアはまた涙があふれそうになった。
勇者の剣は、それを気にかけていないのか、あえて無視することに決めたのか、変わらぬ口調で続ける。
「魔王は、自分の全てを完璧に封じていた。魔力だけでなく、記憶も、人格でさえも。」
思い出してみろ、と剣は言う。
「魔族は、ラント・トイフェルを攻撃してきただろう?魔王の片鱗でも表に出ていれば、魔族たちは、とてもそんなことはできん。魔王は、全ての魔族の上に君臨する絶対の君主なのだから。」
サファイアの瞳が、憐れむように主を見る。
「魔王が自らにかけた封印は完璧だった。綻びだしたのは、夢魔の件からだな。おまえを殺されかけて激昂したことで、ほんのわずかに魔王の心が目覚めた。」
フェアは、ごくりとつばを飲み込んだ。
ラントが悪夢を見始めたのは、フェアを裏切る予感に苦しむようになったのは。
「さあ、再び、決断の時だ。勇者、我が主よ。」
少年の姿の神の分身が、両手を広げた。
勇者の剣が問う。
神の端末だという、その青い瞳。
選択を突き付ける。
「おまえは、どうする?」
フェアが、ぐい、と袖で乱暴に涙をぬぐって、立ち上がった。
「―。」
フェアの決意を聞き届け、勇者の剣は、尋ねた。
「―。」
フェアは、勇者の剣の言葉に頷く。
純白だった婚礼の衣裳は血まみれだ。着替えなければいけないなと思う。
その前に、フェアは、姫君の首に近づいた。見開かれたままの目を閉じさせる。
妻になるはずだった娘。好きだったと思う。
「ごめんな。」
口づけ一つ交わすことなく終わった恋だった。
フェアは、振り返らなかった。勇者の剣を手に、歩き出す。
☆
世界の果て、魔王の居城。
「おかえりなさいませ、陛下。」
「おかえりなさいませ、我らが魔王。」
久しぶりに城に戻った魔王のもとに、魔族たちが集う。
魔族の二十年は、人の二十年とは違う。魔族にとって、魔王は少し長く留守をしていた、という程度のこと。
玉座に優雅に座る魔王は、裾が長い漆黒の衣裳に、真紅のマントを身に着けている。
あいさつに来た魔族たちが、それぞれ持ち場に戻っていくと、玉座の間には、魔王と、第一の側近が残った。
黒に近い藍色の髪と瞳の美貌の青年。切れ長の瞳が、ひどく冷たい。
「リスティヒ。」
と主に呼ばれ、彼は答える。
「はい、陛下。」
「もうすぐ、ここに勇者が来るぞ。」
魔王は愉しそうだ。赤い瞳の中で、残忍な光が躍っている。
「部下たちを差し向けますか?」
「無傷でここに通せ。いや…邪魔をされたくはないな。しばらく、城を出ろと皆に伝えろ。」
命令しなれた者の、傲慢な響き。いつもなら、御意と答えるだけだが。
「陛下、せめて私はお残しください。御身に何かあれば…。」
リスティヒは、最後まで言えずに膝を折った。魔王の漆黒の光に貫かれ、鮮血が吹き出す。
「私の命令が、聞けぬか?」
魔王の、ゾッとするほど冷たい双眸が、リスティヒを射抜いていた。リスティヒは、傷を押さえたまま、答える。
その目には、魔王への怒りも不信も皆無。むしろ、陶酔に近いものがある。
魔族にとっては、力が全て。絶対の存在である魔王に従うことこそ、魔族の本望。
「いいえ。全ては、陛下の御望みのままに。」
魔王は、妖しく微笑んだ。
「なら、去れ。全てが終わったら、再び来るがよい。」
「御意。」
リスティヒは、姿を消す。
舞台は整えた。
始まるのは、鮮血の宴。
☆
一面の荒野の中、その城は建っていた。
草一本ない、岩が転がるばかりの、生き物の気配は欠片もない、「世界の果て」。
城だけが、絢爛豪華にそびえ立つ様子は、どこか異常だった。
だが、フェアはそんなことを気にもかけない。
ひたすら荒野を進む。その足取りには迷いはない。
城の真下まで来て。
どうすれば入口は開くのかと思案するより先に、音もなくそこは開いた。
待ち構えていたかのように。
ぱっくりと、虚無の深淵が口を開けたように感じた。
用心しながら踏み出したが、中は、しんと静まり返っていた。
入ったとたん、罠にかかったり、魔族が襲い掛かってきたりするのだと思っていたので、拍子抜けする。
城の内部は、豪奢な装飾に埋め尽くされている。王宮でしばらく暮らしていたフェアの目にも、この城は、眩しいほど煌びやかに映る。小国のキルシュバオムの城の内装が質素に思えるほど、魔王の城は美しく整えられていた。
フェアが一歩歩くたびに、壁に光が灯る。
進むべき先を示しているように。
(呼ばれている。)
フェアは、確信をもって、そう感じた。
どれくらい廊下を進んだのか、いくつの階段を登ったのか。
フェアは、一つの扉にたどり着く。
巨大な、黒曜石の扉。
磨きこまれ、鏡のように周囲を映す石の表面に、フェアは手を置いた。今まで、どこもかしこも凝った装飾がされていたのに、この扉にだけは、何もない。
逆にそれが、この先の部屋が「特別」であることを示している。
フェアは、すうっと息を吸い込んだ。
ぐ、と力を込めて扉を押す。
音もなく開いていく。
そこは、玉座の間。
黒曜石の床と壁。
数段の階段の先に、玉座がある。
そこに優雅に腰かける、見慣れた美貌の主が、聞きなれない口調で言った。
「我が城へようこそ、勇者よ。」
見たことのない格好をしている。裾の長いー床に着きそうなほどの長さの、漆黒の長衣。どんな生地なのか、闇色なのに不思議な光沢がある。肩にかかるのは、真紅のマント。
だが、そこに流れ落ちる銀色の長い髪と、マントと同じ色の瞳は、フェアの知る親友のものだ。
フェアは、いつもの服装。動きやすい上下に、軽装備の鎧。肩を過ぎる長さの黒髪を、麻紐で無造作にくくり、腰には勇者の剣。
フェアは、魔王に近づいて行く。玉座へ続く、数段の階段を登り、魔王の正面へ。
魔王は、咎めるでもなく、面白そうにフェアを眺めている。
足を組んで玉座に腰かけ、肘かけに肘をついて、手の甲に細いあごを乗せた魔王。
黙ったまま、魔王を見下ろして立つ勇者。
手を伸ばせば触れられる距離。剣の間合い。
魔王が、小首をかしげる。それだけの仕草に、ゾクリとするほどの色香が滲む。
「どうした?勇者。まずは恨み言を並べるがいい。聞いてやるぞ。」
「恨み言、言いに来たんじゃねえから。」
「ならば、問答無用で切りかかるか?」
「それも違う。オレは。」
フェアは、まっすぐに魔王を見つめた。
「オレは、おまえを取り戻しに来た。」
沈黙が落ちた。
「…?」
魔王は、眉をひそめた。不愉快、というのではない。純粋に、理解できなかった。勇者の言葉の意味が。
「何を言っている?」
「オレの隣に帰って来いって、そう言ってんだよ。」
その漆黒の瞳。
奥で星が輝いているような、眩く輝く双眸。
魔王は、目をそらした。フェアの腰にある、勇者の剣に視線を据える。
「神の端末、説明しろ。こいつは何を言っている?」
勇者の剣が、蒼白く光り、ゆらりと影が立ち上る。
透き通る、半透明な十歳ほどの少年の姿。金の髪、青い瞳の、勇者の剣の化身。
「魔王よ、おまえの目論見は外れたということだ。」
勇者の剣は、平坦な声で淡々と答える。
「我が主は、おまえを憎んでいない。」
およそ感情らしいものがない勇者の剣の声に、ほんの一瞬、笑みらしきものがよぎる。
「主の決意を聞いて、我は尋ねたのだ。恋よりも、正義よりも、友情を選ぶか、とな。」
「オレは、そうだ、って答えたんだよ、ラント。」
フェアが、に、と笑みを浮かべた。
悪童めいた笑顔、少年の日の顔に、フェアは今でも一瞬で戻れる。
真昼の婚礼から数時間、自分がどうするべきか、ずっと考えていた。いや、考えているふりをしていたのだ。
とっくに結論は出ていたのに。
けれど、悩みもせずに決めてしまったのでは、あまりに薄情な気がしたのだ。姫にも、殺された、キルシュバオムの民にも。それでも、世界中から間違っていると、非道だと罵られても、フェアは、ただ一人を選ぶ。
(おまえを失うってわかっていたら、オレは恋なんかしなかった。おまえを泣かせてまで、ほしいものなんかない。)
「おまえが一番大事だ、ラント。」
「と、いうわけだ、魔王よ。この友情は、愛か狂気だな。」
その言葉を残して、少年の姿はかき消える。
残されたのは、元通り、勇者と魔王の二人。
「なるほど。」
魔王は、思案するように、白い指先をあごに当てた。
「確かに、私の描いた筋書きを外れたようだ。」
魔王が見たかったのは、「裏切り者」と、泣き叫ぶ勇者の姿。信じていればいるほど、裏切られた時の絶望は耐え難い。
それが人の心。いともあっさり負の感情に堕ちる。強い信頼ほど、たやすく憎悪にすりかわる。
魔王が望んだその光景こそ、ラントが苦しんだ悪夢。魔王の意識が漏れ出して、ラントの無意識を侵食した。
「だが、恋と正義も捨てても、おまえの望んだものは返りはしない。」
魔王の声は、極寒の烈風のごとく冷たい。真紅の瞳に、人の情はない。
フェアの言葉は、ラントの心になら届いたのだろう。けれど。
「おまえの友情を受け取る相手は、どこにもいない。愚かな勇者、結局、おまえには絶望しか残らぬ。求める相手の手にかかって死ね。」
魔王は立ち上がる。真紅のマントと銀の髪を揺らして。
スッと右手を掲げる。それだけの仕草さえ、舞のひとさしのよう。
白い手に、銀の光が生まれ、まっすぐに伸びた光は剣となる。
銀の刀身、柄には紅玉。
色彩は、ラントの姿を映し、形はフェアの持つ勇者の剣に瓜二つ。
剣を構える姿は、華麗にして冷酷。
「まあ、そんな簡単にはいかねえよな。」
フェアは、鋭い目で魔王を見据えた。
「言葉だけでおまえが戻って来るなんて甘いことは考えてねえよ。」
その程度で済むことなら、ラントはあれほど苦しまなかった。殺してくれと、泣きそうな顔で請うことはなかった。
「本気でいく。」
勇者の剣を抜き放つ。鞘走る金属音。この十年、幾度となく奏でてきた。ラントの隣で。
「おまえを傷つけても、取り戻すぜ。力づくでわからせてやる。」
フェアが剣を振り下ろす。
「おまえの居場所は、オレの隣だ!」
魔王は、自分の剣で、斬撃を受け止める。
ギインッ!!
甲高い金属音。
飛び散る蒼い火花。
フェアが、上から渾身の力を込めても、魔王の剣は微動だにしない。
ラントの時と変わらない、細い腕のどこにこれほどの力があるのか。しかも、魔王は涼しい顔で、さほど力を入れているようにも見えない。
逆に、下から押し返される。
「くっ!」
返す刃の一閃を、背後に跳ぶことでかろうじてかわす。
フェアは、着地と同時に床を蹴り、突っ込んだ。
キン、と魔王が軽く払いのける。
「つっ…。」
剣からフェアの腕に伝わる衝撃が凄まじい。腕がしびれる。
(なんつう力だよっ…!)
ラントだった時に、剣の修行などしたことはなかったのに。
フェアは、再度、飛びかかった。
突き。喉元を狙う。
魔王に、怖れは微塵もない。ふ、と嘲る笑みを刷き、ひらりと跳躍した。
マントや銀髪の一本にすら、かすらない。
フェアの真上から、一撃が来る。
(!)
構えて受けたが、あまりにも重い。
腕の筋肉が悲鳴を上げた。剣を落しかけ、唇をかみしめて握り直す。
握り直した剣を、必死で、下から斜めにはね上げた。
魔王が、片手に握った剣で、上から押さえつける。
フェアは両手、魔王は片手。それなのに、びくともしない。
魔王が、空いた手を、空中に踊らせた。
何を、と考える暇もなかった。
黒い光が、フェアの肩を直撃した。
「っ!」
肉が抉られ。
骨が砕けた。
声にもならない激痛に、膝をつく。
生暖かい液体が、肩から胸元や腕を伝い、腰までも赤く濡らす。
フェアは、ゆっくりと息を吸い、苦痛を逃がす。
(強すぎるだろ、これは。)
格が違うと、本能が叫んでいる。
こっちは、初めから全力だ。そうでなければ、あっという間に殺されると、肌でわかる。十年間、戦いの中に身を置き、極限まで研ぎ澄まされた戦士の勘で
対して、魔王は、ただ遊んでいるだけ。実力の欠片も使ってはいない。
圧倒的な実力差。全ての魔族の頂点に立つ存在にとって、人など脆弱な下等種族。
鳥肌が立ってくる。心臓がどくどくと早鐘を打ち、傷が痛んだ。
魔王が、鼻で嗤う。
「防御が疎かだな、勇者。」
「ずっとおまえが守ってくれてたからだろ。」
正面から突っ込んでいく戦い方が癖になるくらいに。
十年前、フェアは何があっても、ラントを守り抜くと誓ったけれど、守られていたのは、自分の方だった、と今になってフェアは思う。
フェアがたやすく組み敷けてしまった華奢な体で、ラントはいつもフェアの前に立った。身を挺して庇ってくれた。
(だから、今度は、オレが。)
フェアは、歯を喰いしばって、立ち上がる。ポタポタと、鮮血が床に落ちた。
魔王は、つまらなそうにフェアを眺める。酷薄な瞳で。
「まだ、心は折れぬか。」
しぶといな、と呟き、剣をくるりと回す。銀の刀身がきらりと光をまき散らす。
「どこまでもつかな?」
残忍に嗤う。
見慣れた美貌に、けしてフェアに向けたことのなかった笑みを浮かべる。そのことが、何よりも痛い。どくどくと血を流し続ける肩の傷よりも、すっと。
魔王が、一瞬で間合いを詰めた。
空間を切り取ったかと思えるほどの速さ。
目で追うことすらできなかった。
そのまま、無造作に剣を振り下ろす。
ザンッ!
ざくり、と肉を刺し貫く音。
金属の冷たい感触が、内部を抉り、瞬時に灼熱の激痛へ。
あふれる鮮血。
「-!!」
フェアは絶叫した。
魔王の剣は、フェアの右大腿部を貫通し、そのまま黒曜石の床を穿つ。
フェアの悲鳴、勇者の剣が、カランと床に落ちる音、魔王が剣を引き抜く音。それらが重なって響く。
魔王の剣から、赤い珠が飛散する。
フェアは、どさ、と床に崩れ落ちる。
魔王の指先が優美に振られた。
フェアの全身に、漆黒の光の線が奔る。
革製の鎧が切り刻まれ、床に落ちる。
全身の肌が浅く切られ、フェアは血塗れになった。
それでも、冷たい石の床に片手をついて、体を支え、起き上がった。膝をついたまま、顔を上げる。
ゆっくりと、頬を血が伝わっていった。
まっすぐに、魔王を見上げて。
「ラント、もう終わりか?」
魔王が、銀の眉をひそめた。初めて、はっきりと感じた。不愉快だと。
何もかも意のままにしてきた彼は、思い通りにならない人間に苛立ちを覚えたのだ。筋書を外れた玩具など、不要。
「いつまで幻に縋っている。」
もういい、と吐き捨てた。飽きた、と。
銀の剣を構える。
「死ね。」
フェアは動かない。
動けない、のではなく。静かに魔王を見つめたまま。
恐れも絶望も諦めも、その目には無い。揺らがない眼差しを、ぴたりと魔王に据えて。
魔王は、フェアの首を飛ばすために剣を振るおうとして、瞬きをした。
腕が、動かない。
どうしてなのか、わからない。
目の前の勇者の仕業ではない。勇者は、何もしていない。身動き一つ。ただ、じっと見つめてくるだけ。
魔王は、視線を動かして、自分の手を見た。
何かがおかしい。
互いに無言のまま、時間が過ぎていく。
静寂の中に響くのは、血だまりの上にさらに血の雫が落ちていく音。二人分の息遣い。
どれくらいの間、そうしていただろうか。数瞬にも、永遠にも思える時間だった。
フェアは、魔王から、ほんのわずかも目を反らさずに、言った。
「どうした?オレを殺すんだろ?」
魔王は身を引きかけ、そのことに混乱する。
勇者は、既に満身創痍だ。警戒など不要。否、無傷であろうと、魔王の敵ではない。
それなのに。
フェアは、脂汗が滲む激痛に耐えて、よろよろと立ち上がる。魔王の剣をつかんだ。掌に刃が食い込むのも気にせず、無理やり引き寄せる。
自分の胸元に、刃を止める。
魔王が息を呑んだ。
「ほら、やれよ。」
真紅の瞳が見開かれる。
「簡単だろ?」
魔王の瞳に走ったのは、戦慄だった。
フェアは、刃をさらに引く。剣先が、服を裂いて肌へ。。
「手伝ってやろうか?」
「やめろ!」
魔王は叫び、叫んだことに凍りつく。
完全に、手から力が抜ける。フェアは、魔王の手から剣を抜き取った。黒曜石の床に投げ捨てる。
そこで再び、膝が砕けて座り込む。
甲高い金属音が、長く尾を引く。
魔王がどさりと、膝をついた。
声がする。
頭が割れそうだった。突き刺さるように響く。
殺すなと、叫んでいる。
絶対に嫌だという悲鳴。
誰の声だと、考えて。
まぎれもなく、自分自身の声だと、気づいてしまった。
ハッと顔を上げたとき、漆黒の瞳が間近にあった。
「おまえ、オレを殺せないだろ。」
腕の中で震えていた、細い肩の感触を覚えている。
(オレを殺す悪夢を見て、あんなに苦しんでいたくせに。オレを裏切りたくなくて、最後には泣いたくせに。)
(あっさり魔王になんて、もどれると思うな。)
「おまえ、オレに殺してくれって言ったよな。勇者の剣じゃなきゃ、自分は死ねないって、あの時、わかってたんだろ。オレを裏切るくらいなら、死んだ方がいいって考えたんだろ。そんなやつが、オレを殺せるわけねえだろ!」
「違う!おまえを殺せないのは、ラント・トイフェルだ!オレは違う!」
魔王は、自分の言葉にこそ、雷に打たれたような衝撃を受けた。
その一人称は、誰の。
フェアが動いた。
かろうじて自由になる右手だけで、魔王を抱きしめる。
全身、ぐっしょりと血に濡れている。それでも止まらない流血。激痛に意識が飛びそうになる。吐き気がする。けれど、意志の力だけでねじふせた。
ラントを血で汚してしまうなと、そんなことが、頭の片隅をちら、とかすめた。
魔王の肩がはねた。
「離せ、殺すぞ。」
「馬鹿。」
フェアの声が笑みを含んだ。
「今、できなかっただろ。やっぱり、おまえは、オレのラントだよ…。」
魔王は、フェアの腕の中で息を止めた。
自分の肌は、この腕のぬくもりを覚えている。
自分の耳は、この声の優しい響きを覚えている。
魔王の中で、ラント・トイフェルとして生きた二十年が甦った。
「ラント、こっち来いよ!オレと勝負しようぜ!」
「最強の勇者になって、みんなを助ける。」
「だから、オレと一緒に戦ってくれ。」
「オレの魔法使いになってくれ。」
「…助かったけどさ、無茶して助けるの、やめてくれ。」
「オレだって、おまえがいなくなったら、必死で探す。」
「ああ。強くなる。オレは、最強の勇者になってやる。」
「ラント、オレたちは、何も変わらないだろ。ずっと一緒に戦おうって、言っただろ。これからも、オレの魔法使いでいてくれ。」
「オレは、おまえに何ができる?」
「言えよ。おまえの願いを聞いてやるから。オレはどうしたら、おまえを助けられる?」
「一緒に謝ってやるし、一緒に償ってやる。」
「オレは、おまえに何されたって許してやるし、おまえのためなら何でもしてやるよ。」
「負けんな。」
「何が相手でも逃げんな。オレが助けてやるから。オレも一緒に戦ってやるから!」
魔王として、悠久の時を生きてきたのに、たかが二十年のかりそめの生に縛られるなど、全く予想していなかった。
「ここにいるのは…誰だ…?」
「オレにとっては、ラントだよ。」
フェアは、右腕に力を込めた。きっと、ラントの華奢な肩には痛いだろう。わかっている。それでも。
「戻って来い。戻って来てくれ。おまえの本当の姿が魔王でもいいから!」
魔王が、ふっと笑った。
ああ、私の負けか。
「ラント?」
笑みの気配に、フェアが、腕をほどいて魔王をのぞきこんだ。
魔王の浮かべた笑みは、フェアのよく知っている、ラントの笑顔だった。
フェアだけに見せてくれた、ラントの素顔。子どもの頃からずっと、フェアだけの特権だった。
いつの間にか、囚われていた。もう、認めるしかない。不思議と、屈辱はなかった。しかし。
魔王は、フェアを見つめた。
「私に、おまえへの友情は残っている。それでも、私は魔王だ。」
虫けらを踏みつぶすように、人を殺してきた。
キルシュバオムだけではない。
いくつの村を、街を焼き払ったか、覚えてすらいない。国ごと滅ぼしたことさえある。
それを罪だと感じるのは、魔王の心のほんの一部、残ったラントの心の欠片だけ。
「魔族は、人の敵。それが、世界の理。私は、おまえと共には生きられない。」
「だったら、世界を変えようぜ。」
フェアの目には、一切の迷いが無かった。
「おまえの罪が消えないのも、わかってる。だから、一緒に背負う。おまえを許したオレも同罪だ。」
魔王は、大きく目を見開いた。
造物主の、神の定めた世界の理すら変えるつもりかと。
「一緒に償ってやるって、約束しただろ。」
心を射抜くように、フェアが見つめてくる。まっすぐに、手を差し出された。
「約束か。」
微笑んで、十年前の誓いを口にした。
「なら、オレもそれを守る。」
当たり前のように、
「フェア。」
と名前を呼んだラントが、フェアの手をとった。
「ずっと一緒に行ってやるよ。」
終幕
これが、人間と魔族が共存の道を歩き始めたきっかけです。
もちろん、簡単にはいきませんでした。
魔族は、もともと、人に害を成すために作られた種族ですから、本能にそれが刻まれていました。それゆえに、人は魔族を恐れ、忌み嫌っていました。
ですから、二つの種族が手を取り合うようになるまでには、幾多の困難がありました。それを乗り越えるためには、長い長い時間が必要でした。双方の努力と犠牲の上に、今日の世界があるのです。
そう、けして勇者だけの功績ではありません。
けれど、全ては彼から始まったのです。
恋よりも、正義よりも、友情を選んだ勇者が、世界を変えたのです。
終
どれくらい、バルコニーに座り込んでいたのだろう。
気がついたら、体がひどく冷えている。
吹き始めた夕風、空に輝きだした一番星。広がるのは、黄昏の薄闇。
「勇者、我が主よ。」
そう呼びかけられて、フェアは、のろのろと顔を上げた。それだけの動きで、ぎしっと首の付け根が痛む。ずいぶん長く同じ姿勢でいたせいだ。
フェアの目の前に立って、否、正確には浮かんでいたのは、金髪碧眼の少年だった。
十年ぶりに目にする姿。十年前と同じ姿。
あの時は同い年くらいだった。今は違う。
「勇者の剣…。」
この少年が何なのか、深く考えたことはなかった。勇者の剣だから、精霊のようなものが宿っていてもおかしくない、という程度の認識。
「その姿、すげえ久しぶりだな…。契約の時にしか出てこないのかと思ってたぜ…。」
この十年、呼びかけても、この少年の姿が現れることはなかった。
「必要なかっただろう。今までは。」
勇者の剣は言う。十年前と変わらない、澄んだ、透明な声で、淡々と。
「勇者よ、覚えているか?我は言ったな。」
一言一句変わらず、十年前の言葉を紡いでみせた。
「勇者になれば、そなたは、想像を絶する苦痛を味わうことになる。友はあきらめよ。」
「オレは…あの言葉は、単に勇者になりたいやつの覚悟を聞いているのかって、最近では思ってたんだけどな…。」
「通常は、そうだ。我は、おまえたちが神と呼ぶ絶対存在の端末。神が定めた勇者の資格は、覚悟のみ。能力も生まれも容姿も人品骨柄も関係ない。だが、おまえの場合は、覚悟を聞いたわけではない。」
「勇者の剣、おまえは…最初から全部、分かっていたのか?」
「否。」
勇者の剣が首を振る。
「我は、全てを見通せるわけではない。おぼろげに未来はわかったが…ラント・トイフェルが、魔王だとはわからなかった。」
その名を聞いて、フェアはまた涙があふれそうになった。
勇者の剣は、それを気にかけていないのか、あえて無視することに決めたのか、変わらぬ口調で続ける。
「魔王は、自分の全てを完璧に封じていた。魔力だけでなく、記憶も、人格でさえも。」
思い出してみろ、と剣は言う。
「魔族は、ラント・トイフェルを攻撃してきただろう?魔王の片鱗でも表に出ていれば、魔族たちは、とてもそんなことはできん。魔王は、全ての魔族の上に君臨する絶対の君主なのだから。」
サファイアの瞳が、憐れむように主を見る。
「魔王が自らにかけた封印は完璧だった。綻びだしたのは、夢魔の件からだな。おまえを殺されかけて激昂したことで、ほんのわずかに魔王の心が目覚めた。」
フェアは、ごくりとつばを飲み込んだ。
ラントが悪夢を見始めたのは、フェアを裏切る予感に苦しむようになったのは。
「さあ、再び、決断の時だ。勇者、我が主よ。」
少年の姿の神の分身が、両手を広げた。
勇者の剣が問う。
神の端末だという、その青い瞳。
選択を突き付ける。
「おまえは、どうする?」
フェアが、ぐい、と袖で乱暴に涙をぬぐって、立ち上がった。
「―。」
フェアの決意を聞き届け、勇者の剣は、尋ねた。
「―。」
フェアは、勇者の剣の言葉に頷く。
純白だった婚礼の衣裳は血まみれだ。着替えなければいけないなと思う。
その前に、フェアは、姫君の首に近づいた。見開かれたままの目を閉じさせる。
妻になるはずだった娘。好きだったと思う。
「ごめんな。」
口づけ一つ交わすことなく終わった恋だった。
フェアは、振り返らなかった。勇者の剣を手に、歩き出す。
☆
世界の果て、魔王の居城。
「おかえりなさいませ、陛下。」
「おかえりなさいませ、我らが魔王。」
久しぶりに城に戻った魔王のもとに、魔族たちが集う。
魔族の二十年は、人の二十年とは違う。魔族にとって、魔王は少し長く留守をしていた、という程度のこと。
玉座に優雅に座る魔王は、裾が長い漆黒の衣裳に、真紅のマントを身に着けている。
あいさつに来た魔族たちが、それぞれ持ち場に戻っていくと、玉座の間には、魔王と、第一の側近が残った。
黒に近い藍色の髪と瞳の美貌の青年。切れ長の瞳が、ひどく冷たい。
「リスティヒ。」
と主に呼ばれ、彼は答える。
「はい、陛下。」
「もうすぐ、ここに勇者が来るぞ。」
魔王は愉しそうだ。赤い瞳の中で、残忍な光が躍っている。
「部下たちを差し向けますか?」
「無傷でここに通せ。いや…邪魔をされたくはないな。しばらく、城を出ろと皆に伝えろ。」
命令しなれた者の、傲慢な響き。いつもなら、御意と答えるだけだが。
「陛下、せめて私はお残しください。御身に何かあれば…。」
リスティヒは、最後まで言えずに膝を折った。魔王の漆黒の光に貫かれ、鮮血が吹き出す。
「私の命令が、聞けぬか?」
魔王の、ゾッとするほど冷たい双眸が、リスティヒを射抜いていた。リスティヒは、傷を押さえたまま、答える。
その目には、魔王への怒りも不信も皆無。むしろ、陶酔に近いものがある。
魔族にとっては、力が全て。絶対の存在である魔王に従うことこそ、魔族の本望。
「いいえ。全ては、陛下の御望みのままに。」
魔王は、妖しく微笑んだ。
「なら、去れ。全てが終わったら、再び来るがよい。」
「御意。」
リスティヒは、姿を消す。
舞台は整えた。
始まるのは、鮮血の宴。
☆
一面の荒野の中、その城は建っていた。
草一本ない、岩が転がるばかりの、生き物の気配は欠片もない、「世界の果て」。
城だけが、絢爛豪華にそびえ立つ様子は、どこか異常だった。
だが、フェアはそんなことを気にもかけない。
ひたすら荒野を進む。その足取りには迷いはない。
城の真下まで来て。
どうすれば入口は開くのかと思案するより先に、音もなくそこは開いた。
待ち構えていたかのように。
ぱっくりと、虚無の深淵が口を開けたように感じた。
用心しながら踏み出したが、中は、しんと静まり返っていた。
入ったとたん、罠にかかったり、魔族が襲い掛かってきたりするのだと思っていたので、拍子抜けする。
城の内部は、豪奢な装飾に埋め尽くされている。王宮でしばらく暮らしていたフェアの目にも、この城は、眩しいほど煌びやかに映る。小国のキルシュバオムの城の内装が質素に思えるほど、魔王の城は美しく整えられていた。
フェアが一歩歩くたびに、壁に光が灯る。
進むべき先を示しているように。
(呼ばれている。)
フェアは、確信をもって、そう感じた。
どれくらい廊下を進んだのか、いくつの階段を登ったのか。
フェアは、一つの扉にたどり着く。
巨大な、黒曜石の扉。
磨きこまれ、鏡のように周囲を映す石の表面に、フェアは手を置いた。今まで、どこもかしこも凝った装飾がされていたのに、この扉にだけは、何もない。
逆にそれが、この先の部屋が「特別」であることを示している。
フェアは、すうっと息を吸い込んだ。
ぐ、と力を込めて扉を押す。
音もなく開いていく。
そこは、玉座の間。
黒曜石の床と壁。
数段の階段の先に、玉座がある。
そこに優雅に腰かける、見慣れた美貌の主が、聞きなれない口調で言った。
「我が城へようこそ、勇者よ。」
見たことのない格好をしている。裾の長いー床に着きそうなほどの長さの、漆黒の長衣。どんな生地なのか、闇色なのに不思議な光沢がある。肩にかかるのは、真紅のマント。
だが、そこに流れ落ちる銀色の長い髪と、マントと同じ色の瞳は、フェアの知る親友のものだ。
フェアは、いつもの服装。動きやすい上下に、軽装備の鎧。肩を過ぎる長さの黒髪を、麻紐で無造作にくくり、腰には勇者の剣。
フェアは、魔王に近づいて行く。玉座へ続く、数段の階段を登り、魔王の正面へ。
魔王は、咎めるでもなく、面白そうにフェアを眺めている。
足を組んで玉座に腰かけ、肘かけに肘をついて、手の甲に細いあごを乗せた魔王。
黙ったまま、魔王を見下ろして立つ勇者。
手を伸ばせば触れられる距離。剣の間合い。
魔王が、小首をかしげる。それだけの仕草に、ゾクリとするほどの色香が滲む。
「どうした?勇者。まずは恨み言を並べるがいい。聞いてやるぞ。」
「恨み言、言いに来たんじゃねえから。」
「ならば、問答無用で切りかかるか?」
「それも違う。オレは。」
フェアは、まっすぐに魔王を見つめた。
「オレは、おまえを取り戻しに来た。」
沈黙が落ちた。
「…?」
魔王は、眉をひそめた。不愉快、というのではない。純粋に、理解できなかった。勇者の言葉の意味が。
「何を言っている?」
「オレの隣に帰って来いって、そう言ってんだよ。」
その漆黒の瞳。
奥で星が輝いているような、眩く輝く双眸。
魔王は、目をそらした。フェアの腰にある、勇者の剣に視線を据える。
「神の端末、説明しろ。こいつは何を言っている?」
勇者の剣が、蒼白く光り、ゆらりと影が立ち上る。
透き通る、半透明な十歳ほどの少年の姿。金の髪、青い瞳の、勇者の剣の化身。
「魔王よ、おまえの目論見は外れたということだ。」
勇者の剣は、平坦な声で淡々と答える。
「我が主は、おまえを憎んでいない。」
およそ感情らしいものがない勇者の剣の声に、ほんの一瞬、笑みらしきものがよぎる。
「主の決意を聞いて、我は尋ねたのだ。恋よりも、正義よりも、友情を選ぶか、とな。」
「オレは、そうだ、って答えたんだよ、ラント。」
フェアが、に、と笑みを浮かべた。
悪童めいた笑顔、少年の日の顔に、フェアは今でも一瞬で戻れる。
真昼の婚礼から数時間、自分がどうするべきか、ずっと考えていた。いや、考えているふりをしていたのだ。
とっくに結論は出ていたのに。
けれど、悩みもせずに決めてしまったのでは、あまりに薄情な気がしたのだ。姫にも、殺された、キルシュバオムの民にも。それでも、世界中から間違っていると、非道だと罵られても、フェアは、ただ一人を選ぶ。
(おまえを失うってわかっていたら、オレは恋なんかしなかった。おまえを泣かせてまで、ほしいものなんかない。)
「おまえが一番大事だ、ラント。」
「と、いうわけだ、魔王よ。この友情は、愛か狂気だな。」
その言葉を残して、少年の姿はかき消える。
残されたのは、元通り、勇者と魔王の二人。
「なるほど。」
魔王は、思案するように、白い指先をあごに当てた。
「確かに、私の描いた筋書きを外れたようだ。」
魔王が見たかったのは、「裏切り者」と、泣き叫ぶ勇者の姿。信じていればいるほど、裏切られた時の絶望は耐え難い。
それが人の心。いともあっさり負の感情に堕ちる。強い信頼ほど、たやすく憎悪にすりかわる。
魔王が望んだその光景こそ、ラントが苦しんだ悪夢。魔王の意識が漏れ出して、ラントの無意識を侵食した。
「だが、恋と正義も捨てても、おまえの望んだものは返りはしない。」
魔王の声は、極寒の烈風のごとく冷たい。真紅の瞳に、人の情はない。
フェアの言葉は、ラントの心になら届いたのだろう。けれど。
「おまえの友情を受け取る相手は、どこにもいない。愚かな勇者、結局、おまえには絶望しか残らぬ。求める相手の手にかかって死ね。」
魔王は立ち上がる。真紅のマントと銀の髪を揺らして。
スッと右手を掲げる。それだけの仕草さえ、舞のひとさしのよう。
白い手に、銀の光が生まれ、まっすぐに伸びた光は剣となる。
銀の刀身、柄には紅玉。
色彩は、ラントの姿を映し、形はフェアの持つ勇者の剣に瓜二つ。
剣を構える姿は、華麗にして冷酷。
「まあ、そんな簡単にはいかねえよな。」
フェアは、鋭い目で魔王を見据えた。
「言葉だけでおまえが戻って来るなんて甘いことは考えてねえよ。」
その程度で済むことなら、ラントはあれほど苦しまなかった。殺してくれと、泣きそうな顔で請うことはなかった。
「本気でいく。」
勇者の剣を抜き放つ。鞘走る金属音。この十年、幾度となく奏でてきた。ラントの隣で。
「おまえを傷つけても、取り戻すぜ。力づくでわからせてやる。」
フェアが剣を振り下ろす。
「おまえの居場所は、オレの隣だ!」
魔王は、自分の剣で、斬撃を受け止める。
ギインッ!!
甲高い金属音。
飛び散る蒼い火花。
フェアが、上から渾身の力を込めても、魔王の剣は微動だにしない。
ラントの時と変わらない、細い腕のどこにこれほどの力があるのか。しかも、魔王は涼しい顔で、さほど力を入れているようにも見えない。
逆に、下から押し返される。
「くっ!」
返す刃の一閃を、背後に跳ぶことでかろうじてかわす。
フェアは、着地と同時に床を蹴り、突っ込んだ。
キン、と魔王が軽く払いのける。
「つっ…。」
剣からフェアの腕に伝わる衝撃が凄まじい。腕がしびれる。
(なんつう力だよっ…!)
ラントだった時に、剣の修行などしたことはなかったのに。
フェアは、再度、飛びかかった。
突き。喉元を狙う。
魔王に、怖れは微塵もない。ふ、と嘲る笑みを刷き、ひらりと跳躍した。
マントや銀髪の一本にすら、かすらない。
フェアの真上から、一撃が来る。
(!)
構えて受けたが、あまりにも重い。
腕の筋肉が悲鳴を上げた。剣を落しかけ、唇をかみしめて握り直す。
握り直した剣を、必死で、下から斜めにはね上げた。
魔王が、片手に握った剣で、上から押さえつける。
フェアは両手、魔王は片手。それなのに、びくともしない。
魔王が、空いた手を、空中に踊らせた。
何を、と考える暇もなかった。
黒い光が、フェアの肩を直撃した。
「っ!」
肉が抉られ。
骨が砕けた。
声にもならない激痛に、膝をつく。
生暖かい液体が、肩から胸元や腕を伝い、腰までも赤く濡らす。
フェアは、ゆっくりと息を吸い、苦痛を逃がす。
(強すぎるだろ、これは。)
格が違うと、本能が叫んでいる。
こっちは、初めから全力だ。そうでなければ、あっという間に殺されると、肌でわかる。十年間、戦いの中に身を置き、極限まで研ぎ澄まされた戦士の勘で
対して、魔王は、ただ遊んでいるだけ。実力の欠片も使ってはいない。
圧倒的な実力差。全ての魔族の頂点に立つ存在にとって、人など脆弱な下等種族。
鳥肌が立ってくる。心臓がどくどくと早鐘を打ち、傷が痛んだ。
魔王が、鼻で嗤う。
「防御が疎かだな、勇者。」
「ずっとおまえが守ってくれてたからだろ。」
正面から突っ込んでいく戦い方が癖になるくらいに。
十年前、フェアは何があっても、ラントを守り抜くと誓ったけれど、守られていたのは、自分の方だった、と今になってフェアは思う。
フェアがたやすく組み敷けてしまった華奢な体で、ラントはいつもフェアの前に立った。身を挺して庇ってくれた。
(だから、今度は、オレが。)
フェアは、歯を喰いしばって、立ち上がる。ポタポタと、鮮血が床に落ちた。
魔王は、つまらなそうにフェアを眺める。酷薄な瞳で。
「まだ、心は折れぬか。」
しぶといな、と呟き、剣をくるりと回す。銀の刀身がきらりと光をまき散らす。
「どこまでもつかな?」
残忍に嗤う。
見慣れた美貌に、けしてフェアに向けたことのなかった笑みを浮かべる。そのことが、何よりも痛い。どくどくと血を流し続ける肩の傷よりも、すっと。
魔王が、一瞬で間合いを詰めた。
空間を切り取ったかと思えるほどの速さ。
目で追うことすらできなかった。
そのまま、無造作に剣を振り下ろす。
ザンッ!
ざくり、と肉を刺し貫く音。
金属の冷たい感触が、内部を抉り、瞬時に灼熱の激痛へ。
あふれる鮮血。
「-!!」
フェアは絶叫した。
魔王の剣は、フェアの右大腿部を貫通し、そのまま黒曜石の床を穿つ。
フェアの悲鳴、勇者の剣が、カランと床に落ちる音、魔王が剣を引き抜く音。それらが重なって響く。
魔王の剣から、赤い珠が飛散する。
フェアは、どさ、と床に崩れ落ちる。
魔王の指先が優美に振られた。
フェアの全身に、漆黒の光の線が奔る。
革製の鎧が切り刻まれ、床に落ちる。
全身の肌が浅く切られ、フェアは血塗れになった。
それでも、冷たい石の床に片手をついて、体を支え、起き上がった。膝をついたまま、顔を上げる。
ゆっくりと、頬を血が伝わっていった。
まっすぐに、魔王を見上げて。
「ラント、もう終わりか?」
魔王が、銀の眉をひそめた。初めて、はっきりと感じた。不愉快だと。
何もかも意のままにしてきた彼は、思い通りにならない人間に苛立ちを覚えたのだ。筋書を外れた玩具など、不要。
「いつまで幻に縋っている。」
もういい、と吐き捨てた。飽きた、と。
銀の剣を構える。
「死ね。」
フェアは動かない。
動けない、のではなく。静かに魔王を見つめたまま。
恐れも絶望も諦めも、その目には無い。揺らがない眼差しを、ぴたりと魔王に据えて。
魔王は、フェアの首を飛ばすために剣を振るおうとして、瞬きをした。
腕が、動かない。
どうしてなのか、わからない。
目の前の勇者の仕業ではない。勇者は、何もしていない。身動き一つ。ただ、じっと見つめてくるだけ。
魔王は、視線を動かして、自分の手を見た。
何かがおかしい。
互いに無言のまま、時間が過ぎていく。
静寂の中に響くのは、血だまりの上にさらに血の雫が落ちていく音。二人分の息遣い。
どれくらいの間、そうしていただろうか。数瞬にも、永遠にも思える時間だった。
フェアは、魔王から、ほんのわずかも目を反らさずに、言った。
「どうした?オレを殺すんだろ?」
魔王は身を引きかけ、そのことに混乱する。
勇者は、既に満身創痍だ。警戒など不要。否、無傷であろうと、魔王の敵ではない。
それなのに。
フェアは、脂汗が滲む激痛に耐えて、よろよろと立ち上がる。魔王の剣をつかんだ。掌に刃が食い込むのも気にせず、無理やり引き寄せる。
自分の胸元に、刃を止める。
魔王が息を呑んだ。
「ほら、やれよ。」
真紅の瞳が見開かれる。
「簡単だろ?」
魔王の瞳に走ったのは、戦慄だった。
フェアは、刃をさらに引く。剣先が、服を裂いて肌へ。。
「手伝ってやろうか?」
「やめろ!」
魔王は叫び、叫んだことに凍りつく。
完全に、手から力が抜ける。フェアは、魔王の手から剣を抜き取った。黒曜石の床に投げ捨てる。
そこで再び、膝が砕けて座り込む。
甲高い金属音が、長く尾を引く。
魔王がどさりと、膝をついた。
声がする。
頭が割れそうだった。突き刺さるように響く。
殺すなと、叫んでいる。
絶対に嫌だという悲鳴。
誰の声だと、考えて。
まぎれもなく、自分自身の声だと、気づいてしまった。
ハッと顔を上げたとき、漆黒の瞳が間近にあった。
「おまえ、オレを殺せないだろ。」
腕の中で震えていた、細い肩の感触を覚えている。
(オレを殺す悪夢を見て、あんなに苦しんでいたくせに。オレを裏切りたくなくて、最後には泣いたくせに。)
(あっさり魔王になんて、もどれると思うな。)
「おまえ、オレに殺してくれって言ったよな。勇者の剣じゃなきゃ、自分は死ねないって、あの時、わかってたんだろ。オレを裏切るくらいなら、死んだ方がいいって考えたんだろ。そんなやつが、オレを殺せるわけねえだろ!」
「違う!おまえを殺せないのは、ラント・トイフェルだ!オレは違う!」
魔王は、自分の言葉にこそ、雷に打たれたような衝撃を受けた。
その一人称は、誰の。
フェアが動いた。
かろうじて自由になる右手だけで、魔王を抱きしめる。
全身、ぐっしょりと血に濡れている。それでも止まらない流血。激痛に意識が飛びそうになる。吐き気がする。けれど、意志の力だけでねじふせた。
ラントを血で汚してしまうなと、そんなことが、頭の片隅をちら、とかすめた。
魔王の肩がはねた。
「離せ、殺すぞ。」
「馬鹿。」
フェアの声が笑みを含んだ。
「今、できなかっただろ。やっぱり、おまえは、オレのラントだよ…。」
魔王は、フェアの腕の中で息を止めた。
自分の肌は、この腕のぬくもりを覚えている。
自分の耳は、この声の優しい響きを覚えている。
魔王の中で、ラント・トイフェルとして生きた二十年が甦った。
「ラント、こっち来いよ!オレと勝負しようぜ!」
「最強の勇者になって、みんなを助ける。」
「だから、オレと一緒に戦ってくれ。」
「オレの魔法使いになってくれ。」
「…助かったけどさ、無茶して助けるの、やめてくれ。」
「オレだって、おまえがいなくなったら、必死で探す。」
「ああ。強くなる。オレは、最強の勇者になってやる。」
「ラント、オレたちは、何も変わらないだろ。ずっと一緒に戦おうって、言っただろ。これからも、オレの魔法使いでいてくれ。」
「オレは、おまえに何ができる?」
「言えよ。おまえの願いを聞いてやるから。オレはどうしたら、おまえを助けられる?」
「一緒に謝ってやるし、一緒に償ってやる。」
「オレは、おまえに何されたって許してやるし、おまえのためなら何でもしてやるよ。」
「負けんな。」
「何が相手でも逃げんな。オレが助けてやるから。オレも一緒に戦ってやるから!」
魔王として、悠久の時を生きてきたのに、たかが二十年のかりそめの生に縛られるなど、全く予想していなかった。
「ここにいるのは…誰だ…?」
「オレにとっては、ラントだよ。」
フェアは、右腕に力を込めた。きっと、ラントの華奢な肩には痛いだろう。わかっている。それでも。
「戻って来い。戻って来てくれ。おまえの本当の姿が魔王でもいいから!」
魔王が、ふっと笑った。
ああ、私の負けか。
「ラント?」
笑みの気配に、フェアが、腕をほどいて魔王をのぞきこんだ。
魔王の浮かべた笑みは、フェアのよく知っている、ラントの笑顔だった。
フェアだけに見せてくれた、ラントの素顔。子どもの頃からずっと、フェアだけの特権だった。
いつの間にか、囚われていた。もう、認めるしかない。不思議と、屈辱はなかった。しかし。
魔王は、フェアを見つめた。
「私に、おまえへの友情は残っている。それでも、私は魔王だ。」
虫けらを踏みつぶすように、人を殺してきた。
キルシュバオムだけではない。
いくつの村を、街を焼き払ったか、覚えてすらいない。国ごと滅ぼしたことさえある。
それを罪だと感じるのは、魔王の心のほんの一部、残ったラントの心の欠片だけ。
「魔族は、人の敵。それが、世界の理。私は、おまえと共には生きられない。」
「だったら、世界を変えようぜ。」
フェアの目には、一切の迷いが無かった。
「おまえの罪が消えないのも、わかってる。だから、一緒に背負う。おまえを許したオレも同罪だ。」
魔王は、大きく目を見開いた。
造物主の、神の定めた世界の理すら変えるつもりかと。
「一緒に償ってやるって、約束しただろ。」
心を射抜くように、フェアが見つめてくる。まっすぐに、手を差し出された。
「約束か。」
微笑んで、十年前の誓いを口にした。
「なら、オレもそれを守る。」
当たり前のように、
「フェア。」
と名前を呼んだラントが、フェアの手をとった。
「ずっと一緒に行ってやるよ。」
終幕
これが、人間と魔族が共存の道を歩き始めたきっかけです。
もちろん、簡単にはいきませんでした。
魔族は、もともと、人に害を成すために作られた種族ですから、本能にそれが刻まれていました。それゆえに、人は魔族を恐れ、忌み嫌っていました。
ですから、二つの種族が手を取り合うようになるまでには、幾多の困難がありました。それを乗り越えるためには、長い長い時間が必要でした。双方の努力と犠牲の上に、今日の世界があるのです。
そう、けして勇者だけの功績ではありません。
けれど、全ては彼から始まったのです。
恋よりも、正義よりも、友情を選んだ勇者が、世界を変えたのです。
終
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