「おまえを泣かせてまで、ほしいものなんかない。」~勇者の友情、魔王の涙~

火威

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第五幕&終幕

「おまえを泣かせてまで、ほしいものなんかない。」~勇者の友情、魔王の涙~

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第五幕

 どれくらい、バルコニーに座り込んでいたのだろう。
 気がついたら、体がひどく冷えている。
 吹き始めた夕風、空に輝きだした一番星。広がるのは、黄昏の薄闇。
「勇者、我が主よ。」
 そう呼びかけられて、フェアは、のろのろと顔を上げた。それだけの動きで、ぎしっと首の付け根が痛む。ずいぶん長く同じ姿勢でいたせいだ。
 フェアの目の前に立って、否、正確には浮かんでいたのは、金髪碧眼の少年だった。
 十年ぶりに目にする姿。十年前と同じ姿。
 あの時は同い年くらいだった。今は違う。
「勇者の剣…。」
 この少年が何なのか、深く考えたことはなかった。勇者の剣だから、精霊のようなものが宿っていてもおかしくない、という程度の認識。
「その姿、すげえ久しぶりだな…。契約の時にしか出てこないのかと思ってたぜ…。」
 この十年、呼びかけても、この少年の姿が現れることはなかった。
「必要なかっただろう。今までは。」
 勇者の剣は言う。十年前と変わらない、澄んだ、透明な声で、淡々と。
「勇者よ、覚えているか?我は言ったな。」
 一言一句変わらず、十年前の言葉を紡いでみせた。
「勇者になれば、そなたは、想像を絶する苦痛を味わうことになる。友はあきらめよ。」
「オレは…あの言葉は、単に勇者になりたいやつの覚悟を聞いているのかって、最近では思ってたんだけどな…。」
「通常は、そうだ。我は、おまえたちが神と呼ぶ絶対存在の端末。神が定めた勇者の資格は、覚悟のみ。能力も生まれも容姿も人品骨柄も関係ない。だが、おまえの場合は、覚悟を聞いたわけではない。」
「勇者の剣、おまえは…最初から全部、分かっていたのか?」
「否。」
 勇者の剣が首を振る。
「我は、全てを見通せるわけではない。おぼろげに未来はわかったが…ラント・トイフェルが、魔王だとはわからなかった。」
 その名を聞いて、フェアはまた涙があふれそうになった。
 勇者の剣は、それを気にかけていないのか、あえて無視することに決めたのか、変わらぬ口調で続ける。
「魔王は、自分の全てを完璧に封じていた。魔力だけでなく、記憶も、人格でさえも。」
 思い出してみろ、と剣は言う。
「魔族は、ラント・トイフェルを攻撃してきただろう?魔王の片鱗でも表に出ていれば、魔族たちは、とてもそんなことはできん。魔王は、全ての魔族の上に君臨する絶対の君主なのだから。」
 サファイアの瞳が、憐れむように主を見る。
「魔王が自らにかけた封印は完璧だった。綻びだしたのは、夢魔の件からだな。おまえを殺されかけて激昂したことで、ほんのわずかに魔王の心が目覚めた。」
 フェアは、ごくりとつばを飲み込んだ。
 ラントが悪夢を見始めたのは、フェアを裏切る予感に苦しむようになったのは。
「さあ、再び、決断の時だ。勇者、我が主よ。」
 少年の姿の神の分身が、両手を広げた。
 勇者の剣が問う。
 神の端末だという、その青い瞳。
 選択を突き付ける。
「おまえは、どうする?」
 フェアが、ぐい、と袖で乱暴に涙をぬぐって、立ち上がった。
「―。」
 フェアの決意を聞き届け、勇者の剣は、尋ねた。
「―。」
 フェアは、勇者の剣の言葉に頷く。
 純白だった婚礼の衣裳は血まみれだ。着替えなければいけないなと思う。
 その前に、フェアは、姫君の首に近づいた。見開かれたままの目を閉じさせる。
 妻になるはずだった娘。好きだったと思う。
「ごめんな。」
 口づけ一つ交わすことなく終わった恋だった。
 フェアは、振り返らなかった。勇者の剣を手に、歩き出す。

 世界の果て、魔王の居城。
「おかえりなさいませ、陛下。」
「おかえりなさいませ、我らが魔王。」
 久しぶりに城に戻った魔王のもとに、魔族たちが集う。
 魔族の二十年は、人の二十年とは違う。魔族にとって、魔王は少し長く留守をしていた、という程度のこと。
 玉座に優雅に座る魔王は、裾が長い漆黒の衣裳に、真紅のマントを身に着けている。
 あいさつに来た魔族たちが、それぞれ持ち場に戻っていくと、玉座の間には、魔王と、第一の側近が残った。
 黒に近い藍色の髪と瞳の美貌の青年。切れ長の瞳が、ひどく冷たい。
「リスティヒ。」
 と主に呼ばれ、彼は答える。
「はい、陛下。」
「もうすぐ、ここに勇者が来るぞ。」
 魔王は愉しそうだ。赤い瞳の中で、残忍な光が躍っている。
「部下たちを差し向けますか?」
「無傷でここに通せ。いや…邪魔をされたくはないな。しばらく、城を出ろと皆に伝えろ。」
 命令しなれた者の、傲慢な響き。いつもなら、御意と答えるだけだが。
「陛下、せめて私はお残しください。御身に何かあれば…。」
 リスティヒは、最後まで言えずに膝を折った。魔王の漆黒の光に貫かれ、鮮血が吹き出す。
「私の命令が、聞けぬか?」
 魔王の、ゾッとするほど冷たい双眸が、リスティヒを射抜いていた。リスティヒは、傷を押さえたまま、答える。
 その目には、魔王への怒りも不信も皆無。むしろ、陶酔に近いものがある。
 魔族にとっては、力が全て。絶対の存在である魔王に従うことこそ、魔族の本望。
「いいえ。全ては、陛下の御望みのままに。」
 魔王は、妖しく微笑んだ。
「なら、去れ。全てが終わったら、再び来るがよい。」
「御意。」
 リスティヒは、姿を消す。
 舞台は整えた。
 始まるのは、鮮血の宴。

 一面の荒野の中、その城は建っていた。
 草一本ない、岩が転がるばかりの、生き物の気配は欠片もない、「世界の果て」。
 城だけが、絢爛豪華にそびえ立つ様子は、どこか異常だった。
 だが、フェアはそんなことを気にもかけない。
 ひたすら荒野を進む。その足取りには迷いはない。
 城の真下まで来て。
 どうすれば入口は開くのかと思案するより先に、音もなくそこは開いた。
 待ち構えていたかのように。
 ぱっくりと、虚無の深淵が口を開けたように感じた。
 用心しながら踏み出したが、中は、しんと静まり返っていた。
 入ったとたん、トラップにかかったり、魔族が襲い掛かってきたりするのだと思っていたので、拍子抜けする。
 城の内部は、豪奢な装飾に埋め尽くされている。王宮でしばらく暮らしていたフェアの目にも、この城は、眩しいほど煌びやかに映る。小国のキルシュバオムの城の内装が質素に思えるほど、魔王の城は美しく整えられていた。
 フェアが一歩歩くたびに、壁に光が灯る。
 進むべき先を示しているように。
(呼ばれている。)
 フェアは、確信をもって、そう感じた。
 どれくらい廊下を進んだのか、いくつの階段を登ったのか。
 フェアは、一つの扉にたどり着く。
 巨大な、黒曜石の扉。
 磨きこまれ、鏡のように周囲を映す石の表面に、フェアは手を置いた。今まで、どこもかしこも凝った装飾がされていたのに、この扉にだけは、何もない。
 逆にそれが、この先の部屋が「特別」であることを示している。
 フェアは、すうっと息を吸い込んだ。
 ぐ、と力を込めて扉を押す。
 音もなく開いていく。
 そこは、玉座の間。
 黒曜石の床と壁。
 数段の階段の先に、玉座がある。
 そこに優雅に腰かける、見慣れた美貌の主が、聞きなれない口調で言った。
「我が城へようこそ、勇者よ。」
 見たことのない格好をしている。裾の長いー床に着きそうなほどの長さの、漆黒の長衣。どんな生地なのか、闇色なのに不思議な光沢がある。肩にかかるのは、真紅のマント。
 だが、そこに流れ落ちる銀色の長い髪と、マントと同じ色の瞳は、フェアの知る親友のものだ。
 フェアは、いつもの服装。動きやすい上下に、軽装備の鎧。肩を過ぎる長さの黒髪を、麻紐で無造作にくくり、腰には勇者の剣。
 フェアは、魔王に近づいて行く。玉座へ続く、数段の階段を登り、魔王の正面へ。
 魔王は、咎めるでもなく、面白そうにフェアを眺めている。
 足を組んで玉座に腰かけ、肘かけに肘をついて、手の甲に細いあごを乗せた魔王。
 黙ったまま、魔王を見下ろして立つ勇者。
 手を伸ばせば触れられる距離。剣の間合い。
 魔王が、小首をかしげる。それだけの仕草に、ゾクリとするほどの色香が滲む。
「どうした?勇者。まずは恨み言を並べるがいい。聞いてやるぞ。」
「恨み言、言いに来たんじゃねえから。」
「ならば、問答無用で切りかかるか?」
「それも違う。オレは。」
 フェアは、まっすぐに魔王を見つめた。
 
「オレは、おまえを取り戻しに来た。」

 沈黙が落ちた。
「…?」
 魔王は、眉をひそめた。不愉快、というのではない。純粋に、理解できなかった。勇者の言葉の意味が。
「何を言っている?」
「オレの隣に帰って来いって、そう言ってんだよ。」
 その漆黒の瞳。
 奥で星が輝いているような、眩く輝く双眸。
 魔王は、目をそらした。フェアの腰にある、勇者の剣に視線を据える。
「神の端末、説明しろ。こいつは何を言っている?」
 勇者の剣が、蒼白く光り、ゆらりと影が立ち上る。
 透き通る、半透明な十歳ほどの少年の姿。金の髪、青い瞳の、勇者の剣の化身。
「魔王よ、おまえの目論見は外れたということだ。」
 勇者の剣は、平坦な声で淡々と答える。
「我が主は、おまえを憎んでいない。」
 およそ感情らしいものがない勇者の剣の声に、ほんの一瞬、笑みらしきものがよぎる。
「主の決意を聞いて、我は尋ねたのだ。恋よりも、正義よりも、友情を選ぶか、とな。」
「オレは、そうだ、って答えたんだよ、ラント。」
 フェアが、に、と笑みを浮かべた。
 悪童めいた笑顔、少年の日の顔に、フェアは今でも一瞬で戻れる。
 真昼の婚礼から数時間、自分がどうするべきか、ずっと考えていた。いや、考えているふりをしていたのだ。
 とっくに結論は出ていたのに。
 けれど、悩みもせずに決めてしまったのでは、あまりに薄情な気がしたのだ。姫にも、殺された、キルシュバオムの民にも。それでも、世界中から間違っていると、非道だと罵られても、フェアは、ただ一人を選ぶ。
(おまえを失うってわかっていたら、オレは恋なんかしなかった。おまえを泣かせてまで、ほしいものなんかない。)
「おまえが一番大事だ、ラント。」
「と、いうわけだ、魔王よ。この友情は、愛か狂気だな。」
 その言葉を残して、少年の姿はかき消える。
 残されたのは、元通り、勇者と魔王の二人。
「なるほど。」
 魔王は、思案するように、白い指先をあごに当てた。
「確かに、私の描いた筋書きを外れたようだ。」
 魔王が見たかったのは、「裏切り者」と、泣き叫ぶ勇者の姿。信じていればいるほど、裏切られた時の絶望は耐え難い。
 それが人の心。いともあっさり負の感情に堕ちる。強い信頼ほど、たやすく憎悪にすりかわる。
 魔王が望んだその光景こそ、ラントが苦しんだ悪夢。魔王の意識が漏れ出して、ラントの無意識を侵食した。
「だが、恋と正義も捨てても、おまえの望んだものは返りはしない。」
 魔王の声は、極寒の烈風のごとく冷たい。真紅の瞳に、人の情はない。
 フェアの言葉は、ラントの心になら届いたのだろう。けれど。
「おまえの友情を受け取る相手は、どこにもいない。愚かな勇者、結局、おまえには絶望しか残らぬ。求める相手の手にかかって死ね。」
 魔王は立ち上がる。真紅のマントと銀の髪を揺らして。
 スッと右手を掲げる。それだけの仕草さえ、舞のひとさしのよう。
 白い手に、銀の光が生まれ、まっすぐに伸びた光は剣となる。
 銀の刀身、柄には紅玉。
 色彩は、ラントの姿を映し、形はフェアの持つ勇者の剣に瓜二つ。
 剣を構える姿は、華麗にして冷酷。
「まあ、そんな簡単にはいかねえよな。」
 フェアは、鋭い目で魔王を見据えた。
「言葉だけでおまえが戻って来るなんて甘いことは考えてねえよ。」
 その程度で済むことなら、ラントはあれほど苦しまなかった。殺してくれと、泣きそうな顔で請うことはなかった。
「本気でいく。」
勇者の剣を抜き放つ。鞘走る金属音。この十年、幾度となく奏でてきた。ラントの隣で。
「おまえを傷つけても、取り戻すぜ。力づくでわからせてやる。」
 フェアが剣を振り下ろす。
「おまえの居場所は、オレの隣だ!」
 魔王は、自分の剣で、斬撃を受け止める。
 ギインッ!!
 甲高い金属音。
 飛び散る蒼い火花。
 フェアが、上から渾身の力を込めても、魔王の剣は微動だにしない。
 ラントの時と変わらない、細い腕のどこにこれほどの力があるのか。しかも、魔王は涼しい顔で、さほど力を入れているようにも見えない。
 逆に、下から押し返される。
「くっ!」
 返す刃の一閃を、背後に跳ぶことでかろうじてかわす。
 フェアは、着地と同時に床を蹴り、突っ込んだ。
 キン、と魔王が軽く払いのける。
「つっ…。」
 剣からフェアの腕に伝わる衝撃が凄まじい。腕がしびれる。
(なんつう力だよっ…!)
 ラントだった時に、剣の修行などしたことはなかったのに。
 フェアは、再度、飛びかかった。
 突き。喉元を狙う。
 魔王に、怖れは微塵もない。ふ、と嘲る笑みを刷き、ひらりと跳躍した。
 マントや銀髪の一本にすら、かすらない。
 フェアの真上から、一撃が来る。
(!)
 構えて受けたが、あまりにも重い。
 腕の筋肉が悲鳴を上げた。剣を落しかけ、唇をかみしめて握り直す。
 握り直した剣を、必死で、下から斜めにはね上げた。
 魔王が、片手に握った剣で、上から押さえつける。
 フェアは両手、魔王は片手。それなのに、びくともしない。
 魔王が、空いた手を、空中に踊らせた。
 何を、と考える暇もなかった。
 黒い光が、フェアの肩を直撃した。
「っ!」
 肉が抉られ。
 骨が砕けた。
 声にもならない激痛に、膝をつく。
 生暖かい液体が、肩から胸元や腕を伝い、腰までも赤く濡らす。
 フェアは、ゆっくりと息を吸い、苦痛を逃がす。
(強すぎるだろ、これは。)
 格が違うと、本能が叫んでいる。
 こっちは、初めから全力だ。そうでなければ、あっという間に殺されると、肌でわかる。十年間、戦いの中に身を置き、極限まで研ぎ澄まされた戦士の勘で
 対して、魔王は、ただ遊んでいるだけ。実力の欠片も使ってはいない。
 圧倒的な実力差。全ての魔族の頂点に立つ存在にとって、人など脆弱な下等種族。
 鳥肌が立ってくる。心臓がどくどくと早鐘を打ち、傷が痛んだ。
 魔王が、鼻で嗤う。
「防御が疎かだな、勇者。」
「ずっとおまえが守ってくれてたからだろ。」
 正面から突っ込んでいく戦い方が癖になるくらいに。
 十年前、フェアは何があっても、ラントを守り抜くと誓ったけれど、守られていたのは、自分の方だった、と今になってフェアは思う。
 フェアがたやすく組み敷けてしまった華奢な体で、ラントはいつもフェアの前に立った。身を挺して庇ってくれた。
(だから、今度は、オレが。)
 フェアは、歯を喰いしばって、立ち上がる。ポタポタと、鮮血が床に落ちた。
 魔王は、つまらなそうにフェアを眺める。酷薄な瞳で。
「まだ、心は折れぬか。」
 しぶといな、と呟き、剣をくるりと回す。銀の刀身がきらりと光をまき散らす。
「どこまでもつかな?」
 残忍に嗤う。
 見慣れた美貌に、けしてフェアに向けたことのなかった笑みを浮かべる。そのことが、何よりも痛い。どくどくと血を流し続ける肩の傷よりも、すっと。
 魔王が、一瞬で間合いを詰めた。
 空間を切り取ったかと思えるほどの速さ。
 目で追うことすらできなかった。
 そのまま、無造作に剣を振り下ろす。
 ザンッ!
 ざくり、と肉を刺し貫く音。
 金属の冷たい感触が、内部を抉り、瞬時に灼熱の激痛へ。
 あふれる鮮血。
「-!!」
 フェアは絶叫した。
 魔王の剣は、フェアの右大腿部を貫通し、そのまま黒曜石の床を穿つ。
 フェアの悲鳴、勇者の剣が、カランと床に落ちる音、魔王が剣を引き抜く音。それらが重なって響く。
 魔王の剣から、赤い珠が飛散する。
 フェアは、どさ、と床に崩れ落ちる。
 魔王の指先が優美に振られた。
 フェアの全身に、漆黒の光の線が奔る。
 革製の鎧が切り刻まれ、床に落ちる。
 全身の肌が浅く切られ、フェアは血塗れになった。
 それでも、冷たい石の床に片手をついて、体を支え、起き上がった。膝をついたまま、顔を上げる。
 ゆっくりと、頬を血が伝わっていった。
 まっすぐに、魔王を見上げて。
「ラント、もう終わりか?」
 魔王が、銀の眉をひそめた。初めて、はっきりと感じた。不愉快だと。
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 フェアは、脂汗が滲む激痛に耐えて、よろよろと立ち上がる。魔王の剣をつかんだ。掌に刃が食い込むのも気にせず、無理やり引き寄せる。
 自分の胸元に、刃を止める。
 魔王が息を呑んだ。
「ほら、やれよ。」
 真紅の瞳が見開かれる。
「簡単だろ?」
 魔王の瞳に走ったのは、戦慄だった。
 フェアは、刃をさらに引く。剣先が、服を裂いて肌へ。。
「手伝ってやろうか?」
「やめろ!」
 魔王は叫び、叫んだことに凍りつく。
 完全に、手から力が抜ける。フェアは、魔王の手から剣を抜き取った。黒曜石の床に投げ捨てる。
 そこで再び、膝が砕けて座り込む。
 甲高い金属音が、長く尾を引く。
 魔王がどさりと、膝をついた。
 声がする。
 頭が割れそうだった。突き刺さるように響く。
 殺すなと、叫んでいる。
 絶対に嫌だという悲鳴。
 誰の声だと、考えて。
 まぎれもなく、自分自身の声だと、気づいてしまった。
 ハッと顔を上げたとき、漆黒の瞳が間近にあった。
「おまえ、オレを殺せないだろ。」
 腕の中で震えていた、細い肩の感触を覚えている。
(オレを殺す悪夢を見て、あんなに苦しんでいたくせに。オレを裏切りたくなくて、最後には泣いたくせに。)
(あっさり魔王になんて、もどれると思うな。)
「おまえ、オレに殺してくれって言ったよな。勇者の剣じゃなきゃ、自分は死ねないって、あの時、わかってたんだろ。オレを裏切るくらいなら、死んだ方がいいって考えたんだろ。そんなやつが、オレを殺せるわけねえだろ!」
「違う!おまえを殺せないのは、ラント・トイフェルだ!オレは違う!」
 魔王は、自分の言葉にこそ、雷に打たれたような衝撃を受けた。
 その一人称は、誰の。
 フェアが動いた。
 かろうじて自由になる右手だけで、魔王を抱きしめる。
 全身、ぐっしょりと血に濡れている。それでも止まらない流血。激痛に意識が飛びそうになる。吐き気がする。けれど、意志の力だけでねじふせた。
 ラントを血で汚してしまうなと、そんなことが、頭の片隅をちら、とかすめた。
 魔王の肩がはねた。
「離せ、殺すぞ。」
「馬鹿。」
 フェアの声が笑みを含んだ。
「今、できなかっただろ。やっぱり、おまえは、オレのラントだよ…。」
 魔王は、フェアの腕の中で息を止めた。
 自分の肌は、この腕のぬくもりを覚えている。
 自分の耳は、この声の優しい響きを覚えている。
 魔王の中で、ラント・トイフェルとして生きた二十年が甦った。

「ラント、こっち来いよ!オレと勝負しようぜ!」
「最強の勇者になって、みんなを助ける。」
「だから、オレと一緒に戦ってくれ。」
「オレの魔法使いになってくれ。」
「…助かったけどさ、無茶して助けるの、やめてくれ。」
「オレだって、おまえがいなくなったら、必死で探す。」
「ああ。強くなる。オレは、最強の勇者になってやる。」
「ラント、オレたちは、何も変わらないだろ。ずっと一緒に戦おうって、言っただろ。これからも、オレの魔法使いでいてくれ。」
「オレは、おまえに何ができる?」
「言えよ。おまえの願いを聞いてやるから。オレはどうしたら、おまえを助けられる?」
「一緒に謝ってやるし、一緒に償ってやる。」
「オレは、おまえに何されたって許してやるし、おまえのためなら何でもしてやるよ。」
「負けんな。」
「何が相手でも逃げんな。オレが助けてやるから。オレも一緒に戦ってやるから!」

 魔王として、悠久の時を生きてきたのに、たかが二十年のかりそめの生に縛られるなど、全く予想していなかった。
「ここにいるのは…誰だ…?」
「オレにとっては、ラントだよ。」
 フェアは、右腕に力を込めた。きっと、ラントの華奢な肩には痛いだろう。わかっている。それでも。
「戻って来い。戻って来てくれ。おまえの本当の姿が魔王でもいいから!」
 魔王が、ふっと笑った。

 ああ、私の負けか。

「ラント?」
 笑みの気配に、フェアが、腕をほどいて魔王をのぞきこんだ。
 魔王の浮かべた笑みは、フェアのよく知っている、ラントの笑顔だった。
 フェアだけに見せてくれた、ラントの素顔。子どもの頃からずっと、フェアだけの特権だった。
 いつの間にか、囚われていた。もう、認めるしかない。不思議と、屈辱はなかった。しかし。
 魔王は、フェアを見つめた。
「私に、おまえへの友情は残っている。それでも、私は魔王だ。」
 虫けらを踏みつぶすように、人を殺してきた。
 キルシュバオムだけではない。
 いくつの村を、街を焼き払ったか、覚えてすらいない。国ごと滅ぼしたことさえある。
 それを罪だと感じるのは、魔王の心のほんの一部、残ったラントの心の欠片だけ。
「魔族は、人の敵。それが、世界のことわり。私は、おまえと共には生きられない。」

「だったら、世界を変えようぜ。」

 フェアの目には、一切の迷いが無かった。
「おまえの罪が消えないのも、わかってる。だから、一緒に背負う。おまえを許したオレも同罪だ。」
 魔王は、大きく目を見開いた。
 造物主の、神の定めた世界のことわりすら変えるつもりかと。
「一緒に償ってやるって、約束しただろ。」
 心を射抜くように、フェアが見つめてくる。まっすぐに、手を差し出された。
「約束か。」
 微笑んで、十年前の誓いを口にした。
「なら、もそれを守る。」
 当たり前のように、
「フェア。」
 と名前を呼んだラントが、フェアの手をとった。
「ずっと一緒に行ってやるよ。」

終幕
 これが、人間と魔族が共存の道を歩き始めたきっかけです。
 もちろん、簡単にはいきませんでした。
 魔族は、もともと、人に害を成すために作られた種族ですから、本能にそれが刻まれていました。それゆえに、人は魔族を恐れ、忌み嫌っていました。
 ですから、二つの種族が手を取り合うようになるまでには、幾多の困難がありました。それを乗り越えるためには、長い長い時間が必要でした。双方の努力と犠牲の上に、今日の世界があるのです。
 そう、けして勇者だけの功績ではありません。
 けれど、全ては彼から始まったのです。
 恋よりも、正義よりも、友情を選んだ勇者が、世界を変えたのです。

                                      終
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勇者の隣に住んでいただけの村人の話。

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とある村に住んでいた英雄にあこがれて勇者を目指すレオという少年がいた。 だが、勇者に選ばれたのはレオの幼馴染である少女ソフィだった。 その事実にレオは打ちのめされ、自堕落な生活を送ることになる。 だがそんなある日、勇者となったソフィが死んだという知らせが届き…? 才能のない村びとである少年が、幼馴染で、好きな人でもあった勇者の少女を救うために勇気を出す物語。

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