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第四幕&終幕
「おまえはオレのものだ。だから、オレもおまえのものだ。」~龍神少年 参~
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第四幕
翡蓮は、微動だにしない。
晩秋の早朝。差し込む、透明な日差しの中。
こんこんと眠り続けている翡蓮の顔には、血の気がない。頬も唇も、いつもの色を失っている。緋皇は、翡蓮の手をずっと握りしめたまま、「清焔浄化」をかけ続けている。
翡蓮が瘴気に晒されたのは、ほんのわずかな時間だった。そして、再生直後の頭が吐いた瘴気だったのも、不幸中の幸いだった。
無傷で残っていた頭が吐いた瘴気は、一瞬で大木を腐らせ、大地を溶かしたが、そこまでの威力はなかった。
しかし、それでも、邪神の瘴気。
体内に入り込んでしまった瘴気は、薄めることはできても、完全には取り除けなかった。
浄化し続けるしかない。もとをたたない限り、消えないのだ。
八岐大蛇は、再生しかけていた。玻璃は、再生を出来うる限り遅らせるために、八岐大蛇を氷の棺に閉じ込めた。
しかし、いずれは完全に復活する。
翡蓮の体を蝕む瘴気は、その時に一気に濃度を増すだろう。
「翡蓮。」
緋皇は呼ぶ。昨夜から幾度も呼び続けてきた名を。
翡蓮の右手を抱え込んだ両手に、ぐっと力を込めた。
その掌の温度が、いつもより低い。
「翡蓮、起きろよ。」
慣れ親しんだぬくもりが遠い。
「翡蓮、頼むから、」
背後に軽い足音がした。
「緋皇、キミもそろそろ休まないともたないよ…。」
ふだんは犬猿の中だが、今は気遣いの滲む声で、玻璃が声をかけてきた。食事ののった盆を手にして。
☆
「玻璃、翡蓮と緋皇は…?」
カタンと襖をしめて出てきた双子の兄に、瑠璃が訊く。
玻璃はため息をつきつつ、首を振った。
「翡蓮は眠ったまま。今すぐ命が危ないってことはないと思う。緋皇が浄化の神術をかけ続けているから、小康状態。たぶん、翡蓮自身も、無意識に瘴気を浄化していると思う。目覚めないのは、そっちに体力を使っているからじゃないかな。」
玻璃はすとんと座り、結論を言う。
「翡蓮の方は、今のところは心配ないよ。問題は…。」
「緋皇…?」
瑠璃が表情を曇らせる。玻璃も全く同じ表情で頷いた。
「浄化代わるから休んでって言っても、聞かないし。食事置いて来たけど、食べるかどうか。」
玻璃と瑠璃は、同じ小隊に属していても、緋皇とは険悪だ。
夏の頃までは、緋皇が、秩序も作戦も無視して、好き勝手に動き、その結果、翡蓮が苦労するので、心底腹立たしかった。
秋口には、翡蓮に誰かが近づくと、とたんに機嫌が悪くなる緋皇に、呆れていた。
最近は、前ほど荒れた様子はないが、翡蓮以外はどうでもいい、という態度の緋皇は、瑠璃や玻璃を仲間として見ていないことは明白だ。玻璃や瑠璃と軽口を叩き合うことはあっても、引いた線の内側に、入れる気がないのだと。
それがわかっているから、玻璃と瑠璃も、素直に緋皇を仲間とは言えない。
(だけど、あんな姿を見ちゃうとね…。)
まるで、親にしがみついて離れない雛鳥だ。
ふだんの、傲慢尊大で、自信たっぷりで、周囲の全てを小馬鹿にしているような言動の緋皇とは別人で。
ふう、と重いため息が重なったとき。
「よろしいですか。神官候補生様方。」
障子に影が差した。
☆
庄屋は、竹筒を抱えて部屋に入ってきた。玻璃と瑠璃の正面に腰を下ろす。
「翡蓮殿…といったか。あの神官候補生様の容体は…?」
沈痛な表情で切り出した庄屋に、玻璃が正直に答える。
「小康状態です。今すぐ容体が急変することはないと思いますが、まだ意識は…。」
「そうですか。あの、よろしければ、これを。」
と、庄屋が竹筒を畳に置いた。
「蔵に残っていた、古い文献をもとに、薬師が調合しました。体内に入った蛇神の瘴気を消す効果があると。」
玻璃と瑠璃が、そっくりな顔を見合わせる。
「そんなものが、あったのですか?」
「…蛇神に、人身御供を捧げることを、反対した者たちもいたのです。ずっと昔には。彼らは、蛇神に立ち向かう方法をいくつも考え、実践したと伝わっております。この薬湯はその一つで。…結局、蛇神に従おうという声の方が大きくなり…今に至るのですが…。」
庄屋は、痛みをこらえるような顔で、俯く。
それは、今まで見てきた庄屋の姿とは、何かが決定的に違っていた。
玻璃が、慎重に、問いかけた。
「あの、どうして…蛇神の調伏に失敗したボクたちを、受け入れてくださったのですか…?」
庄屋は、翡蓮が八岐大蛇の瘴気に倒れた姿を、見ていたはずだ。八岐大蛇は消し飛んだように見えたが、いずれ復活するとも伝えてある。
庄屋は、伏せていた顔を上げた。
「儂は今まで、神官様が戦う姿を、見たことがありませんでした。…初めて見た…神術。というのですか。あなた方の力は凄まじかった。けれど、あなた方は、生身の…それも、年端の行かぬ子どもなのだと、気づいてしまったのです。」
瘴気に倒れた少年。彼を抱きかかえ、狂ったように、その名を叫んでいた少年。そう、あの銀の髪の少年の言ったことは正しかった。「蛇神に屈して、媚びて、他人差し出して美味い汁吸うか?」と、あの少年は突きつけてきた。
この村が、そして庄屋自身が犯し続けてきた罪を。
「儂が、あなた方くらいの年だった頃に。」
急に話が飛んだが、玻璃と瑠璃は、口を挟むことなく耳を傾ける。庄屋の声が、次第に重くなっていく。
「幼馴染の娘が、蛇神の生贄に選ばれました。儂には、どうすることもできず、儀式の夜、彼女を見送りました。もう、顔もはっきりとは思い出せないのに…白無垢の後姿だけは、忘れられないのです。まっすぐに伸びた、あの背を。」
老いた庄屋の目は、何十年も昔を見ているのだろうと、玻璃と瑠璃は思った。
「戦う術はないのだと、儂はずっと思ってきました。だが、違ったのではないかと、あなた方を見て、初めて思ったのです。」
深い皺の刻まれた口元に、哀しい笑みが広がった。
「儂になかったのは、勇気だった。」
懺悔のように。己の長い人生の全てを、否定するかのように。
「できるだけのことは、させていただきたい。この村の命運を、あなた方に託します。いかなる結果になろうとも、悔いはしません。」
玻璃と瑠璃が、蒼と青の瞳を見開く。
その時、玻璃と瑠璃の脳裏に浮かんだのは、「神官の役目は、無辜の民を守ること。」という言葉だった。幾度となく、繰り返し耳にしてきた、その言葉の、本当の意味。
((初めてわかった気がする。))
☆
翡蓮に薬湯を飲ませて、しばらくたつと。
心なしか、その頬に赤みが差してきた。いつもの薔薇色の頬や、桃花の唇とはほど遠いが。
まぶたがぴくりと動いて、金のまつ毛が揺れたのを、緋皇は息を詰めて見守る。
ゆっくりと開かれた翡翠の瞳に、いつもの凛とした意志の強さはなく。とろんとした様子が、常よりも幼く見える。
それでも緋皇は、心底安堵して、肺が空になるほどに息を吐いた。
そんな緋皇を見て、翡蓮の唇がかすかに動く。
「翡蓮、どっか痛むのか?苦しいのか?」
身を乗り出すようにして、顔を寄せてきた緋皇に、翡蓮がささやく。
「…緋皇…おまえ、寝てないだろ…?」
半覚醒の、ふわふわとした声音で、どこまで状況をつかんでいるのか謎だが、言ったことは正しかった。
何も言えなくなった緋皇を見て、翡蓮は微苦笑する。小さな子に言い聞かせるように。
「ちゃんと休めよ。」
す、と翡蓮は右腕を持ち上げて、自分の上に覆いかぶさっている緋皇の髪を撫でた。いたずらっぽく微笑みながら、白い指が、波打つ銀色の髪を梳いていく。
「オレが起きたときに、おまえが元気じゃなかったら、キライになるぞ…。」
「勝手なこと言ってんじゃねえよ!おまえがっ!」
叫んだ緋皇の声が、ぷつりと途切れた。
翡蓮のまぶたが再び閉ざされ、すとん、と腕が落ちたからだ。
「っ!」
翡蓮の右手を両手で受け止め、緋皇が握りしめる。
ぬくもりが戻ったその掌に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
「翡蓮。」
と、呟いたまま、唇をかみしめている緋皇に、背後から風鈴のような軽やかな声がかけられる。
「さすが翡蓮だね。」
「緋皇の弱点を熟知してるよ。」
くすくすとこぼれる笑み。
「翡蓮の隣に布団敷けばいいよ。何かあったら、すぐに起こしてあげるから。」
「あ、でもその前に、朝餉はとらなきゃだめだよ。」
その響きはひどくあたたかくて。
緋皇は振り向かなかった。
今の自分の顔を、見られるのは嫌だった。
☆
緋皇が目覚めたのは、昼前。障子ごしに明るい陽射しが降り注いでいる。
すぐ傍らには、眠っている翡蓮と、翡蓮に浄化の神術をかけている玻璃。瑠璃はその向こうで丸くなっている。双子は、賢明にも無理をせず、交代して休憩をとりながら、浄化の神術をかけているようだった。
眠ったのは仮眠程度の時間だったが、眠りの質はよかったらしく、緋皇は完全に覚醒している。
「ああ、おはよ、緋皇。気分は。」
気づいた玻璃がかけてくる言葉をぞんざいに遮り
「翡蓮は。」
と、緋皇が訊く。ほとんど詰問口調で、それなのに玻璃には一瞥すら与えず、翡蓮の寝顔をのぞきこむ。
(ほんっと、ぶれないよねえ…。)
半ば呆れつつも、玻璃が答えた。
「だいぶ、回復してる。あの薬湯が効いたみたい。庄屋さんに感謝しないとね。でも。」
「元を断たなきゃ、完全に浄化は無理か。」
と、緋皇が見抜いた。
「本体から離れても、そっちが生きている限り影響を断てない型の瘴気だね。さすが、堕ちたとはいえ、神の一柱。そこいらの妖とは格が違う。」
大半の瘴気は、本体から離れれば、徐々に影響が消えていくものだ。それはちょうど、着物に焚き染めた香が、いずれは薄れ、消えていくのと似ている。しかし、稀に、本体と見えない管でつながっているように、瘴気が送られ続ける場合がある。今回はそれだった。
緋皇は、じっと翡蓮を見た。
灼熱の視線。
鋭利で苛烈で、それなのに切なくなるほど真摯な眼差しだった。
緋皇は立ち上がる。
障子を開け放つ。
高く昇った日輪の、目を射る輝きがさあっと差し込む。
踏み出した緋皇に、玻璃が慌てて声をかける。
「ちょっと、どこに。」
「翡蓮を死なせたら、おまえら殺すからな。」
緋皇は背を向けたまま言う。一気に温度が下がるような、凍てついた声音は、完全に本気だった。
玻璃が
「なっ…。」
と、空色の瞳を見開いた。
「まさか一人で行くつもり!?」
「てめーらなんか、足手まといだ。術力ろくに残ってねーくせに。」
「それは。」
玻璃が、く、と小さく呻いた。
緋皇の言う通りだった。
玻璃や瑠璃は、二級神術までやすやすと使いこなす緋皇や翡蓮とは、備える術力が違う。彼らが無理なく扱えるのは四級まで。それでも限度がある。
玻璃は、四級を連発した上に、無茶をして三級の封印氷棺を使ったので、消耗が激しい。それが回復しきっていない状態で、交代でとはいえ、翡蓮に浄化の神術をかけているので、術力が底をつきかけている。
三級神術を使っていない瑠璃は、玻璃よりはマシだが、それでも、万全の状態とはほど遠い。並の妖ならともかく、八岐大蛇の前では無力に等しい。
(オレが、本体倒して、元を断つ。)
それが翡蓮を助ける唯一の方法で、もうあまり時間がないことも緋皇はわかっている。
玻璃の「封印氷棺」は、そろそろ限界だ。
何も言えなくなった玻璃に、それ以上の言葉はかけず、緋皇は駆けて行った。
☆
朝晩は冷え込むが、真昼の日射しは熱を孕んでいる。それに晒されて、氷の棺はぽたぽたと水滴を落しながら溶け続けている。
脆く、薄くなった氷の下。
八岐大蛇か完全に復活を遂げていた。
緋皇が、憤怒の炎を燃やした瞳で、邪神を睨み据えた。
ひら、と緋皇の肩に舞い下りた紅葉の一葉。
緋皇の闘気が、バチッとそれを弾き、粉々に砕け散る。
八対の、鬼灯の双眸が、己の敵をとらえて、ギラギラと光り。
八岐大蛇が怒りに身を震わせたことで、ぎりぎり保たれていた氷の棺に亀裂が入る。
ピシイッ!
空気にひびを入れるような、乾いた炸裂音。それに続いて。
ガラガラガラガラッ!!
氷の棺を砕き割り、八岐大蛇が鎌首をもたげた。
「二級神術発動、烈火狂爆、狂咲!!」
最初から、全開。
炎が生んだ突風が、緋皇の銀髪を激しくなびかせる。
火の玉が、四方八方から八岐大蛇へ向かう。
八岐大蛇は、クワッと、人など一呑みにできるあぎとを開き、瘴気の塊を吐く。
どす黒い瘴気と、真紅に燃える火球。
ぶつかり合って、爆発し、相殺する。
緋皇は、火球を打ち続けながら、八岐大蛇が瘴気を吐き出す速さと、その量を見極める。
瘴気を上回る速さと量で、「烈火狂爆」を発動させること自体は可能だと。しかし、術力がもつか。
(出し惜しみしてる場合じゃねーけどな。)
刹那、よぎったのは翡蓮の寝顔。
緋皇が、烈火狂爆を強化する。
バババババババッ!!
突然降り注ぐ量が増え、さらに避ける隙もなくぶつかってきた火球に、八岐大蛇の七つの首が動く。
中心へと。
その身を盾にし、一つの首を守る。
(やっぱり、あの首を守るのか。)
緋皇が紅の目をすがめた。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇の掌中に、刀身が燃え盛る刀が生まれる。緋皇は、それをグッと握りしめ、八岐大蛇に向かって走り出す。
火の玉が飛び交う中を。
自ら発動した神術であっても、当たれば確実に焼け死ぬ。
緋皇は、飛んでくる火球を、刀で弾いて突き進む。常ならば、風の神術で守ってくれる翡蓮はいない。
八岐大蛇は、身を挺して一つの頭を守りつつ、火球を瘴気で撃ち落しているが、火の玉の数が多すぎる上に、次々と襲ってくるので、さばききれない。
緋皇は、その間に、八岐大蛇の胴体に辿り着く。七つの頭が守る、中心の首の真下。
七つの首が、緋皇の意図に気づいたか。
緋皇目がけて大量の瘴気を吐き出すのと。
緋皇が、炎の刀を中心の首に突き刺して、飛び下りるのが同時。
普通の刀なら、大蛇の鱗に弾かれ、貫くどころか傷一つつけられなかっただろう。龍神の炎が燃える刀だからこそ、蛇神の肉を燃やしながらその奥に刺さった。そして、その炎は肉の奥で燃え続け、次第に頭の方へと上って行く。
八岐大蛇は、身の毛のよだつような咆哮を上げ、瘴気をまき散らした。
真昼なのに、一気に夜のとばりが落ちたよう。視界が真っ黒に染まる瘴気。極限まで凝縮した濃度の。
「っ!!」
緋皇は、八岐大蛇から飛び下りた直後に駆けて、素早くその巨躯から離れていた。しかし、それでも、四方八方、広範囲に放たれた瘴気がかすめた。
「三級神術発動、清焔浄化!」
浄化の神術を自分にかけたが。
(くそっ…祓いきれねえっ…。)
並の妖とは違うと痛感する。かすめただけで、しかも、ほんの一瞬で、全身に回り、肉どころか骨にまで染み込んだ猛毒。
翡蓮の不在を、強く感じる。今まで、緋皇が窮地に陥ることのないように、翡蓮がずっと守ってくれていたことを。翡蓮自身の身を犠牲にして。
視界が揺れるのは、足元がふらつくせいか、眩暈か。
(だが、再生の要は潰した。)
炎刀閃光は三級だが、内部に打ち込んだ分、威力は大きい。紅龍の聖なる炎は、邪神の身を焼き清めていく。
刀から発し、燃え上がる炎は、ついに、頂点、頭部にまで達していた。
黒く焼け焦げ、ぼろぼろと崩れ落ちる首。
緋皇は、ギリッと歯を噛みしめた。
珊瑚色の唇を厳しく引き結び、ふらつく頭を無理やり上げる。
(これで、残りの首は、復活しない。)
烈火狂爆を広範囲に、しかも最大火力で放ち続けたので、術力がかなり削られている。緋皇の術力の総量は、候補生の中では群を抜いているが、無尽蔵ではない。
それに加えて、瘴気が身を蝕んでいる。八岐大蛇を倒して元を断てば、自然と消えるはずだが、この状態で、どこまでもつか。
七つの首が、ぎろっと緋皇を睥睨した。
全く同時に、七つのあぎとが開く。地獄への扉のように。深淵が。
躊躇う間はなかった。
「二級神術発動、紅蓮焦土!!」
天から灼熱の塊が落ちる。
太陽が落ちたかのような閃光と、大地を揺るがす衝撃。
爆発的に燃え広がり、全てを蹂躙し、灰燼に帰す。
無慈悲にして苛烈なる、神の裁き。
翡蓮の「風皇息吹」を欠いている分、緋皇の残り全ての術力を結集させざるをえなかった。
ゴウゴウと燃える炎。
高熱が生み出す突風。
巻き上げられた粉塵。
視界を覆う漆黒の煙。
肉が焼ける不快な臭。
緋皇は、肩で息をしながら、それらが薄れていくのを待つ。
ここまで消耗したことは、数えるほどしかない。
ぽたぽたと、汗がこめかみから頬を伝い落ちる。
膝が崩れそうなのを、気力でもたせ、緋皇が睨み据える先で。
粉塵や煙が残っているせいで、紗がかかっているように見にくいが、それでも、黒く焼け焦げた頭がぼろぼろと崩れていくのが確認できる。
一つ、二つと落ちていく蛇の頭。その数を六まで数えたところで、緋皇は舌打ちする。
八岐大蛇の最期の首。
無傷とは言わない。あちこち焼け爛れながらも、シュルシュルッと素早い動きで緋皇に迫る。胴体もゆるやかにうねりながら近づいて来る。
濁った鬼灯の瞳は、血走って、憎悪と殺意にぎらついている。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇が、炎の刀を呼ぶ。心なしか、火の勢いが常よりも弱い。緋皇は唇をかみしめた。
(くそっ。何で一つだけ残った?首はどれも同じ場所にあった。「紅蓮焦土」の炎が届かなかったはずがねえのに!)
シャアッと、蛇のあぎとが開き、二つに分かれた舌が嘲笑うように揺れる。
吐き出された瘴気を、緋皇は炎の刀で切り裂く。
(他の頭が庇った?復活の要の頭とは別だろ?)
その思考をもう少し進められていたなら、気づけただろう。
だが、そんな余裕はなかった。
八岐大蛇は、次々と瘴気を吐き出す。うねうねと、すべるように首を動かしながら。
目の前に迫る瘴気を防ぐだけで精いっぱいだった。
それでも。
戦いを積み重ねて研ぎ澄まされた勘か。
緋皇は、うなじに、ピリッと何かが奔った気がして、反射的に首を回した。
背後にあったのは。
鬼灯の眼。
(首がもう一つだと!?)
回り込まれた訳ではない。
八岐大蛇の最期の首は眼前にある。
思考が真っ白になった瞬間。
「三級神術発動、風翼飛翔!!」
緋皇の背に、風の翼が広がり。
あっという間に上空に引き上げられた。
☆
緋皇が一瞬前まで立っていた大地が、どす黒い瘴気に溶かされ、どろどろに崩れていく。
間一髪だった。
「大丈夫か、緋皇!」
と、のぞきこんでくるのは。
緋皇と同じように、風の翼を羽ばたかせた翡蓮。
緋皇は、呆然と翡蓮を見返す。
「…翡蓮…。」
まったく緋皇らしくない、おそるおそる、という様子で呼びかけてくる。緋皇は、名前しか呼ばなかったが、翡蓮は緋皇の言いたいことくらいわかる。安心させるように、微笑んで、力強く頷いた。
「もう大丈夫だ。瘴気はまだ少し残っているけど、十分戦えるし、八岐大蛇を倒せば、それも消える。」
緋皇が泣きそうな顔になる。
そんな、あからさまにホッとした緋皇の顔を、翡蓮は初めて見た気がする。
いつもより素直で、幼くて。偉そうで傲慢な威勢の良さがないと、緋皇は急に稚くなる。
思わず状況を忘れそうになって、翡蓮は(そんな場合じゃなかった。)と、慌てて気を引き締める。
下には、上空の「敵」を威嚇するように、二つの首を伸ばしてくる、八岐大蛇。
中心の首さえ残っていれば、他は復活できるから、その首を庇ったのだと思っていた。しかし、中心の首を潰しても、再生が可能だった。
翡蓮が口を開いた。
「どの首でも良かったってことみたいだな。」
庇うのは、どの首でもよかったのだ。どの首でも、一つ残っていれば、再生が可能。中心の首さえ潰せばいいという判断が、誤り。そのせいで窮地に陥った。実際には、全ての首が均等だった。
翡蓮は、緋皇の様子をうかがう。
(相当消耗してる。早く休ませないと。)
もう限界だ。
手負いで封印されていたとはいえ、相手は邪神。たった一人で、ここまで戦い、八岐大蛇の力を削ったのは、奇蹟に近い。
残った首は二つ。
ボコボコッと、水面が煮え立つのにも似た、不気味な音がしている。
他の首も復活しようとしている。
(勝機は今しかない。)
翡蓮は、すうっと、瘴気に穢されていない、上空の空気を吸い込んだ。
真昼の日輪にあたためられた、秋の空気は乾いて、澄んでいる。
体中を、清涼な風が吹き渡るのを想像し。
翡蓮は、純白の小袖を翻し、空中に図形を描く。
「二級神術発動、風皇息吹、禊!!」
ザアアアアアアアアアッ!!
駆け抜けたのは、風の神たる、翠龍の息吹。
全てを清め、浄化する。
一切の不浄を、圧倒的な聖性で、消滅させていく。
八岐大蛇の二つの首が、目に見えないほどに小さく切り刻まれ、消えていく。その瘴気ごと。
<おのれ。ここまで消耗していなければ、人ごときに。>
<なぜだ。先に贄を捧げて頼んで来たのは、貴様らだろう、人の子よ。我は、喰らった贄の分の恵はもたらしたではないか。>
その瘴気の一片すら消える直前。
風に乗ってかすかに聞こえたのは、怨嗟というより、純粋な問いだった。
翡蓮は、「風翼飛翔」を解き、地上に舞い下りる。
八岐大蛇のいた場所に向かって、膝をつき、頭を下げた。
名残の風が、翡蓮の金髪を揺らして吹き過ぎた。
☆
翡蓮は、ゆっくりと立ち上がった。
「風翼飛翔」を操って、緋皇を地上に下ろしてから、神術を解く。
緋皇は、「風翼飛翔」に支えられていただけだったらしい。ぐらっと崩れたその体を、翡蓮は慌てて両腕に抱えた。
だが、緋皇は完全に力が抜けていたようで、支えきれなかった。引きずられる形で、翡蓮も一緒に座り込んでしまう。
「緋皇、大丈夫か?」
八岐大蛇が消滅した瞬間、翡蓮の中に残っていた瘴気は完全に消えて、体が一気に楽になった。
(緋皇も同じはずだけど、緋皇は限界まで神術を使って消耗が激しいから、それで。)
心配になった翡蓮だが。
「え、緋皇!?」
と、限界まで翠の目を見開いて完全に動きが止まった。
緋皇の真紅の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちたから。
白い頬を伝って、次々と雫が流れ落ち、翡蓮の首筋や、小袖の胸に弾ける。
涙が、熱い。
声を出したくないのか、緋皇は、歯を喰いしばって泣いている。
翡蓮は、呆然とそれを見つめてしまい、ハッと我に返った。
「緋皇、どうしたんだよ!?どっか痛いのか?」
おろおろと、翡蓮が緋皇の背中をさすると。
「…怖かったんだよ!」
予想外の言葉が緋皇の口から飛び出して、翡蓮はますます混乱した。
(怖い?緋皇が、怖いって。)
「え?え?」
「おまえが死ぬかと思ったら、すげえ怖かった!!」
感情の全てを吐き出すように、ぶつけるように、緋皇は全身で叫んだ。
「ちくしょう、オレは今まで、怖いものなんか、何もなかったのに!おまえのせいだ!責任とれよ、馬鹿野郎!」
翡蓮は、胸がいっぱいになって、自分も泣きそうになる。
ここで泣いたら駄目な気がして、翡蓮は力いっぱい緋皇を抱きしめた。
「ごめん、ごめん、緋皇。心配かけてごめん。もう、こんなことにならないように、もっと強くなるから!」
「…もっと強くならなきゃいけねーのは、オレの方だろ。」
緋皇が、拳で涙を拭う。
その目に在るのは、決意と覚悟。
泣いたせいなのか、照れているのか、顔が赤い。耳まで朱に染まった緋皇を見て、翡蓮の鼓動が速くなった。
どくどくと脈打つ。心の臓が、痛いほどに。
「どうしよう。オレ、今、緋皇のことすごく好きだ。」
緋皇が、拗ねたように珊瑚色の唇を尖らせた。
「今まで好きじゃなかったのかよ?」
「ずっと好きだったよ!!でも、今、自分でも怖いくらい好きになった。」
(もし、もしも緋皇と一緒にいられなくなったら、オレは。)
急に不安になって、翡蓮は、緋皇の真紅の双眸をのぞきこむ。
「緋皇、オレたち、ずっと友達だよな…?ずっと、一緒にいられるよな…?」
「当たり前だろ!!」
緋皇が、電光石火の速さで返した。
「おまえはオレのものだ。だから、オレもおまえのものだ、翡蓮。」
一生な、と緋皇が不敵に笑い、翡蓮は深く重く頷いた。
☆
神官候補生の少年たちが去った湖のほとりに、ふわりと降り立つ白い影がある。
桜重ねの狩衣をまとった、美貌の異形。
艶やかな黒髪を風に遊ばせ、優艶に冷酷に、それでいて、遊戯に熱中する子どものような無邪気さで笑う。
「生きたいと願う贄の欲望、人を犠牲にしてでも、豊かな暮らしを望む村人の欲望。どちらもそれなりに美味だったのに。もう味わえないのは残念。」
歌うように軽やかに、美鬼は言う。
「せっかく、百年前、巫女を唆して、この仕組みを整えたっていうのに。」
その身を犠牲にすれば、村は救われると。それが水神を堕とすことになり、その後、百年に渡って、人身御供を差し出さねばならなくなるとは知らず、高潔な巫女は、蛇神に喰らわれた。
「まあ、いいか。」
と、飽きた玩具に見向きもしなくなった子どものように、あっさりと言う。
「なかなか面白いモノが見られたし、仕掛けは済んだ。さあ、ボクに見せて。紅の御子、そして、翠の御子。絆ゆえに狂う、キミたちの姿を。」
終幕
おまえと離れたら、オレは狂う。
緋皇が泣くなんて、思ったこともなかった。
心ごと守ると、決意したばかりだったのに。
オレが自分を犠牲にして緋皇を庇えば、緋皇は苦しむって、わかっていたのに。
でも、力がなければ、オレは何度も同じことをくり返して、緋皇は自分を責めるだろう。
神官候補生として仕事をする以上、オレたちに、猶予なんかなかったんだ。
強くならなきゃ。今すぐに。
オレは絶対に、強くなるから。
ずっと、おまえと一緒にいるために。
オレは、もう一度緋皇を抱きしめる。
「なんだよ、翡蓮。もう大丈夫だっつーの。」
緋皇は、泣いたことを心配されていると思ったのか、そんなことを言うけれど、オレの好きにさせてくれた。
オレは目を閉じる。
緋皇の熱。緋皇の香。
ずっとこうしていたかった。
終
翡蓮は、微動だにしない。
晩秋の早朝。差し込む、透明な日差しの中。
こんこんと眠り続けている翡蓮の顔には、血の気がない。頬も唇も、いつもの色を失っている。緋皇は、翡蓮の手をずっと握りしめたまま、「清焔浄化」をかけ続けている。
翡蓮が瘴気に晒されたのは、ほんのわずかな時間だった。そして、再生直後の頭が吐いた瘴気だったのも、不幸中の幸いだった。
無傷で残っていた頭が吐いた瘴気は、一瞬で大木を腐らせ、大地を溶かしたが、そこまでの威力はなかった。
しかし、それでも、邪神の瘴気。
体内に入り込んでしまった瘴気は、薄めることはできても、完全には取り除けなかった。
浄化し続けるしかない。もとをたたない限り、消えないのだ。
八岐大蛇は、再生しかけていた。玻璃は、再生を出来うる限り遅らせるために、八岐大蛇を氷の棺に閉じ込めた。
しかし、いずれは完全に復活する。
翡蓮の体を蝕む瘴気は、その時に一気に濃度を増すだろう。
「翡蓮。」
緋皇は呼ぶ。昨夜から幾度も呼び続けてきた名を。
翡蓮の右手を抱え込んだ両手に、ぐっと力を込めた。
その掌の温度が、いつもより低い。
「翡蓮、起きろよ。」
慣れ親しんだぬくもりが遠い。
「翡蓮、頼むから、」
背後に軽い足音がした。
「緋皇、キミもそろそろ休まないともたないよ…。」
ふだんは犬猿の中だが、今は気遣いの滲む声で、玻璃が声をかけてきた。食事ののった盆を手にして。
☆
「玻璃、翡蓮と緋皇は…?」
カタンと襖をしめて出てきた双子の兄に、瑠璃が訊く。
玻璃はため息をつきつつ、首を振った。
「翡蓮は眠ったまま。今すぐ命が危ないってことはないと思う。緋皇が浄化の神術をかけ続けているから、小康状態。たぶん、翡蓮自身も、無意識に瘴気を浄化していると思う。目覚めないのは、そっちに体力を使っているからじゃないかな。」
玻璃はすとんと座り、結論を言う。
「翡蓮の方は、今のところは心配ないよ。問題は…。」
「緋皇…?」
瑠璃が表情を曇らせる。玻璃も全く同じ表情で頷いた。
「浄化代わるから休んでって言っても、聞かないし。食事置いて来たけど、食べるかどうか。」
玻璃と瑠璃は、同じ小隊に属していても、緋皇とは険悪だ。
夏の頃までは、緋皇が、秩序も作戦も無視して、好き勝手に動き、その結果、翡蓮が苦労するので、心底腹立たしかった。
秋口には、翡蓮に誰かが近づくと、とたんに機嫌が悪くなる緋皇に、呆れていた。
最近は、前ほど荒れた様子はないが、翡蓮以外はどうでもいい、という態度の緋皇は、瑠璃や玻璃を仲間として見ていないことは明白だ。玻璃や瑠璃と軽口を叩き合うことはあっても、引いた線の内側に、入れる気がないのだと。
それがわかっているから、玻璃と瑠璃も、素直に緋皇を仲間とは言えない。
(だけど、あんな姿を見ちゃうとね…。)
まるで、親にしがみついて離れない雛鳥だ。
ふだんの、傲慢尊大で、自信たっぷりで、周囲の全てを小馬鹿にしているような言動の緋皇とは別人で。
ふう、と重いため息が重なったとき。
「よろしいですか。神官候補生様方。」
障子に影が差した。
☆
庄屋は、竹筒を抱えて部屋に入ってきた。玻璃と瑠璃の正面に腰を下ろす。
「翡蓮殿…といったか。あの神官候補生様の容体は…?」
沈痛な表情で切り出した庄屋に、玻璃が正直に答える。
「小康状態です。今すぐ容体が急変することはないと思いますが、まだ意識は…。」
「そうですか。あの、よろしければ、これを。」
と、庄屋が竹筒を畳に置いた。
「蔵に残っていた、古い文献をもとに、薬師が調合しました。体内に入った蛇神の瘴気を消す効果があると。」
玻璃と瑠璃が、そっくりな顔を見合わせる。
「そんなものが、あったのですか?」
「…蛇神に、人身御供を捧げることを、反対した者たちもいたのです。ずっと昔には。彼らは、蛇神に立ち向かう方法をいくつも考え、実践したと伝わっております。この薬湯はその一つで。…結局、蛇神に従おうという声の方が大きくなり…今に至るのですが…。」
庄屋は、痛みをこらえるような顔で、俯く。
それは、今まで見てきた庄屋の姿とは、何かが決定的に違っていた。
玻璃が、慎重に、問いかけた。
「あの、どうして…蛇神の調伏に失敗したボクたちを、受け入れてくださったのですか…?」
庄屋は、翡蓮が八岐大蛇の瘴気に倒れた姿を、見ていたはずだ。八岐大蛇は消し飛んだように見えたが、いずれ復活するとも伝えてある。
庄屋は、伏せていた顔を上げた。
「儂は今まで、神官様が戦う姿を、見たことがありませんでした。…初めて見た…神術。というのですか。あなた方の力は凄まじかった。けれど、あなた方は、生身の…それも、年端の行かぬ子どもなのだと、気づいてしまったのです。」
瘴気に倒れた少年。彼を抱きかかえ、狂ったように、その名を叫んでいた少年。そう、あの銀の髪の少年の言ったことは正しかった。「蛇神に屈して、媚びて、他人差し出して美味い汁吸うか?」と、あの少年は突きつけてきた。
この村が、そして庄屋自身が犯し続けてきた罪を。
「儂が、あなた方くらいの年だった頃に。」
急に話が飛んだが、玻璃と瑠璃は、口を挟むことなく耳を傾ける。庄屋の声が、次第に重くなっていく。
「幼馴染の娘が、蛇神の生贄に選ばれました。儂には、どうすることもできず、儀式の夜、彼女を見送りました。もう、顔もはっきりとは思い出せないのに…白無垢の後姿だけは、忘れられないのです。まっすぐに伸びた、あの背を。」
老いた庄屋の目は、何十年も昔を見ているのだろうと、玻璃と瑠璃は思った。
「戦う術はないのだと、儂はずっと思ってきました。だが、違ったのではないかと、あなた方を見て、初めて思ったのです。」
深い皺の刻まれた口元に、哀しい笑みが広がった。
「儂になかったのは、勇気だった。」
懺悔のように。己の長い人生の全てを、否定するかのように。
「できるだけのことは、させていただきたい。この村の命運を、あなた方に託します。いかなる結果になろうとも、悔いはしません。」
玻璃と瑠璃が、蒼と青の瞳を見開く。
その時、玻璃と瑠璃の脳裏に浮かんだのは、「神官の役目は、無辜の民を守ること。」という言葉だった。幾度となく、繰り返し耳にしてきた、その言葉の、本当の意味。
((初めてわかった気がする。))
☆
翡蓮に薬湯を飲ませて、しばらくたつと。
心なしか、その頬に赤みが差してきた。いつもの薔薇色の頬や、桃花の唇とはほど遠いが。
まぶたがぴくりと動いて、金のまつ毛が揺れたのを、緋皇は息を詰めて見守る。
ゆっくりと開かれた翡翠の瞳に、いつもの凛とした意志の強さはなく。とろんとした様子が、常よりも幼く見える。
それでも緋皇は、心底安堵して、肺が空になるほどに息を吐いた。
そんな緋皇を見て、翡蓮の唇がかすかに動く。
「翡蓮、どっか痛むのか?苦しいのか?」
身を乗り出すようにして、顔を寄せてきた緋皇に、翡蓮がささやく。
「…緋皇…おまえ、寝てないだろ…?」
半覚醒の、ふわふわとした声音で、どこまで状況をつかんでいるのか謎だが、言ったことは正しかった。
何も言えなくなった緋皇を見て、翡蓮は微苦笑する。小さな子に言い聞かせるように。
「ちゃんと休めよ。」
す、と翡蓮は右腕を持ち上げて、自分の上に覆いかぶさっている緋皇の髪を撫でた。いたずらっぽく微笑みながら、白い指が、波打つ銀色の髪を梳いていく。
「オレが起きたときに、おまえが元気じゃなかったら、キライになるぞ…。」
「勝手なこと言ってんじゃねえよ!おまえがっ!」
叫んだ緋皇の声が、ぷつりと途切れた。
翡蓮のまぶたが再び閉ざされ、すとん、と腕が落ちたからだ。
「っ!」
翡蓮の右手を両手で受け止め、緋皇が握りしめる。
ぬくもりが戻ったその掌に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
「翡蓮。」
と、呟いたまま、唇をかみしめている緋皇に、背後から風鈴のような軽やかな声がかけられる。
「さすが翡蓮だね。」
「緋皇の弱点を熟知してるよ。」
くすくすとこぼれる笑み。
「翡蓮の隣に布団敷けばいいよ。何かあったら、すぐに起こしてあげるから。」
「あ、でもその前に、朝餉はとらなきゃだめだよ。」
その響きはひどくあたたかくて。
緋皇は振り向かなかった。
今の自分の顔を、見られるのは嫌だった。
☆
緋皇が目覚めたのは、昼前。障子ごしに明るい陽射しが降り注いでいる。
すぐ傍らには、眠っている翡蓮と、翡蓮に浄化の神術をかけている玻璃。瑠璃はその向こうで丸くなっている。双子は、賢明にも無理をせず、交代して休憩をとりながら、浄化の神術をかけているようだった。
眠ったのは仮眠程度の時間だったが、眠りの質はよかったらしく、緋皇は完全に覚醒している。
「ああ、おはよ、緋皇。気分は。」
気づいた玻璃がかけてくる言葉をぞんざいに遮り
「翡蓮は。」
と、緋皇が訊く。ほとんど詰問口調で、それなのに玻璃には一瞥すら与えず、翡蓮の寝顔をのぞきこむ。
(ほんっと、ぶれないよねえ…。)
半ば呆れつつも、玻璃が答えた。
「だいぶ、回復してる。あの薬湯が効いたみたい。庄屋さんに感謝しないとね。でも。」
「元を断たなきゃ、完全に浄化は無理か。」
と、緋皇が見抜いた。
「本体から離れても、そっちが生きている限り影響を断てない型の瘴気だね。さすが、堕ちたとはいえ、神の一柱。そこいらの妖とは格が違う。」
大半の瘴気は、本体から離れれば、徐々に影響が消えていくものだ。それはちょうど、着物に焚き染めた香が、いずれは薄れ、消えていくのと似ている。しかし、稀に、本体と見えない管でつながっているように、瘴気が送られ続ける場合がある。今回はそれだった。
緋皇は、じっと翡蓮を見た。
灼熱の視線。
鋭利で苛烈で、それなのに切なくなるほど真摯な眼差しだった。
緋皇は立ち上がる。
障子を開け放つ。
高く昇った日輪の、目を射る輝きがさあっと差し込む。
踏み出した緋皇に、玻璃が慌てて声をかける。
「ちょっと、どこに。」
「翡蓮を死なせたら、おまえら殺すからな。」
緋皇は背を向けたまま言う。一気に温度が下がるような、凍てついた声音は、完全に本気だった。
玻璃が
「なっ…。」
と、空色の瞳を見開いた。
「まさか一人で行くつもり!?」
「てめーらなんか、足手まといだ。術力ろくに残ってねーくせに。」
「それは。」
玻璃が、く、と小さく呻いた。
緋皇の言う通りだった。
玻璃や瑠璃は、二級神術までやすやすと使いこなす緋皇や翡蓮とは、備える術力が違う。彼らが無理なく扱えるのは四級まで。それでも限度がある。
玻璃は、四級を連発した上に、無茶をして三級の封印氷棺を使ったので、消耗が激しい。それが回復しきっていない状態で、交代でとはいえ、翡蓮に浄化の神術をかけているので、術力が底をつきかけている。
三級神術を使っていない瑠璃は、玻璃よりはマシだが、それでも、万全の状態とはほど遠い。並の妖ならともかく、八岐大蛇の前では無力に等しい。
(オレが、本体倒して、元を断つ。)
それが翡蓮を助ける唯一の方法で、もうあまり時間がないことも緋皇はわかっている。
玻璃の「封印氷棺」は、そろそろ限界だ。
何も言えなくなった玻璃に、それ以上の言葉はかけず、緋皇は駆けて行った。
☆
朝晩は冷え込むが、真昼の日射しは熱を孕んでいる。それに晒されて、氷の棺はぽたぽたと水滴を落しながら溶け続けている。
脆く、薄くなった氷の下。
八岐大蛇か完全に復活を遂げていた。
緋皇が、憤怒の炎を燃やした瞳で、邪神を睨み据えた。
ひら、と緋皇の肩に舞い下りた紅葉の一葉。
緋皇の闘気が、バチッとそれを弾き、粉々に砕け散る。
八対の、鬼灯の双眸が、己の敵をとらえて、ギラギラと光り。
八岐大蛇が怒りに身を震わせたことで、ぎりぎり保たれていた氷の棺に亀裂が入る。
ピシイッ!
空気にひびを入れるような、乾いた炸裂音。それに続いて。
ガラガラガラガラッ!!
氷の棺を砕き割り、八岐大蛇が鎌首をもたげた。
「二級神術発動、烈火狂爆、狂咲!!」
最初から、全開。
炎が生んだ突風が、緋皇の銀髪を激しくなびかせる。
火の玉が、四方八方から八岐大蛇へ向かう。
八岐大蛇は、クワッと、人など一呑みにできるあぎとを開き、瘴気の塊を吐く。
どす黒い瘴気と、真紅に燃える火球。
ぶつかり合って、爆発し、相殺する。
緋皇は、火球を打ち続けながら、八岐大蛇が瘴気を吐き出す速さと、その量を見極める。
瘴気を上回る速さと量で、「烈火狂爆」を発動させること自体は可能だと。しかし、術力がもつか。
(出し惜しみしてる場合じゃねーけどな。)
刹那、よぎったのは翡蓮の寝顔。
緋皇が、烈火狂爆を強化する。
バババババババッ!!
突然降り注ぐ量が増え、さらに避ける隙もなくぶつかってきた火球に、八岐大蛇の七つの首が動く。
中心へと。
その身を盾にし、一つの首を守る。
(やっぱり、あの首を守るのか。)
緋皇が紅の目をすがめた。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇の掌中に、刀身が燃え盛る刀が生まれる。緋皇は、それをグッと握りしめ、八岐大蛇に向かって走り出す。
火の玉が飛び交う中を。
自ら発動した神術であっても、当たれば確実に焼け死ぬ。
緋皇は、飛んでくる火球を、刀で弾いて突き進む。常ならば、風の神術で守ってくれる翡蓮はいない。
八岐大蛇は、身を挺して一つの頭を守りつつ、火球を瘴気で撃ち落しているが、火の玉の数が多すぎる上に、次々と襲ってくるので、さばききれない。
緋皇は、その間に、八岐大蛇の胴体に辿り着く。七つの頭が守る、中心の首の真下。
七つの首が、緋皇の意図に気づいたか。
緋皇目がけて大量の瘴気を吐き出すのと。
緋皇が、炎の刀を中心の首に突き刺して、飛び下りるのが同時。
普通の刀なら、大蛇の鱗に弾かれ、貫くどころか傷一つつけられなかっただろう。龍神の炎が燃える刀だからこそ、蛇神の肉を燃やしながらその奥に刺さった。そして、その炎は肉の奥で燃え続け、次第に頭の方へと上って行く。
八岐大蛇は、身の毛のよだつような咆哮を上げ、瘴気をまき散らした。
真昼なのに、一気に夜のとばりが落ちたよう。視界が真っ黒に染まる瘴気。極限まで凝縮した濃度の。
「っ!!」
緋皇は、八岐大蛇から飛び下りた直後に駆けて、素早くその巨躯から離れていた。しかし、それでも、四方八方、広範囲に放たれた瘴気がかすめた。
「三級神術発動、清焔浄化!」
浄化の神術を自分にかけたが。
(くそっ…祓いきれねえっ…。)
並の妖とは違うと痛感する。かすめただけで、しかも、ほんの一瞬で、全身に回り、肉どころか骨にまで染み込んだ猛毒。
翡蓮の不在を、強く感じる。今まで、緋皇が窮地に陥ることのないように、翡蓮がずっと守ってくれていたことを。翡蓮自身の身を犠牲にして。
視界が揺れるのは、足元がふらつくせいか、眩暈か。
(だが、再生の要は潰した。)
炎刀閃光は三級だが、内部に打ち込んだ分、威力は大きい。紅龍の聖なる炎は、邪神の身を焼き清めていく。
刀から発し、燃え上がる炎は、ついに、頂点、頭部にまで達していた。
黒く焼け焦げ、ぼろぼろと崩れ落ちる首。
緋皇は、ギリッと歯を噛みしめた。
珊瑚色の唇を厳しく引き結び、ふらつく頭を無理やり上げる。
(これで、残りの首は、復活しない。)
烈火狂爆を広範囲に、しかも最大火力で放ち続けたので、術力がかなり削られている。緋皇の術力の総量は、候補生の中では群を抜いているが、無尽蔵ではない。
それに加えて、瘴気が身を蝕んでいる。八岐大蛇を倒して元を断てば、自然と消えるはずだが、この状態で、どこまでもつか。
七つの首が、ぎろっと緋皇を睥睨した。
全く同時に、七つのあぎとが開く。地獄への扉のように。深淵が。
躊躇う間はなかった。
「二級神術発動、紅蓮焦土!!」
天から灼熱の塊が落ちる。
太陽が落ちたかのような閃光と、大地を揺るがす衝撃。
爆発的に燃え広がり、全てを蹂躙し、灰燼に帰す。
無慈悲にして苛烈なる、神の裁き。
翡蓮の「風皇息吹」を欠いている分、緋皇の残り全ての術力を結集させざるをえなかった。
ゴウゴウと燃える炎。
高熱が生み出す突風。
巻き上げられた粉塵。
視界を覆う漆黒の煙。
肉が焼ける不快な臭。
緋皇は、肩で息をしながら、それらが薄れていくのを待つ。
ここまで消耗したことは、数えるほどしかない。
ぽたぽたと、汗がこめかみから頬を伝い落ちる。
膝が崩れそうなのを、気力でもたせ、緋皇が睨み据える先で。
粉塵や煙が残っているせいで、紗がかかっているように見にくいが、それでも、黒く焼け焦げた頭がぼろぼろと崩れていくのが確認できる。
一つ、二つと落ちていく蛇の頭。その数を六まで数えたところで、緋皇は舌打ちする。
八岐大蛇の最期の首。
無傷とは言わない。あちこち焼け爛れながらも、シュルシュルッと素早い動きで緋皇に迫る。胴体もゆるやかにうねりながら近づいて来る。
濁った鬼灯の瞳は、血走って、憎悪と殺意にぎらついている。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇が、炎の刀を呼ぶ。心なしか、火の勢いが常よりも弱い。緋皇は唇をかみしめた。
(くそっ。何で一つだけ残った?首はどれも同じ場所にあった。「紅蓮焦土」の炎が届かなかったはずがねえのに!)
シャアッと、蛇のあぎとが開き、二つに分かれた舌が嘲笑うように揺れる。
吐き出された瘴気を、緋皇は炎の刀で切り裂く。
(他の頭が庇った?復活の要の頭とは別だろ?)
その思考をもう少し進められていたなら、気づけただろう。
だが、そんな余裕はなかった。
八岐大蛇は、次々と瘴気を吐き出す。うねうねと、すべるように首を動かしながら。
目の前に迫る瘴気を防ぐだけで精いっぱいだった。
それでも。
戦いを積み重ねて研ぎ澄まされた勘か。
緋皇は、うなじに、ピリッと何かが奔った気がして、反射的に首を回した。
背後にあったのは。
鬼灯の眼。
(首がもう一つだと!?)
回り込まれた訳ではない。
八岐大蛇の最期の首は眼前にある。
思考が真っ白になった瞬間。
「三級神術発動、風翼飛翔!!」
緋皇の背に、風の翼が広がり。
あっという間に上空に引き上げられた。
☆
緋皇が一瞬前まで立っていた大地が、どす黒い瘴気に溶かされ、どろどろに崩れていく。
間一髪だった。
「大丈夫か、緋皇!」
と、のぞきこんでくるのは。
緋皇と同じように、風の翼を羽ばたかせた翡蓮。
緋皇は、呆然と翡蓮を見返す。
「…翡蓮…。」
まったく緋皇らしくない、おそるおそる、という様子で呼びかけてくる。緋皇は、名前しか呼ばなかったが、翡蓮は緋皇の言いたいことくらいわかる。安心させるように、微笑んで、力強く頷いた。
「もう大丈夫だ。瘴気はまだ少し残っているけど、十分戦えるし、八岐大蛇を倒せば、それも消える。」
緋皇が泣きそうな顔になる。
そんな、あからさまにホッとした緋皇の顔を、翡蓮は初めて見た気がする。
いつもより素直で、幼くて。偉そうで傲慢な威勢の良さがないと、緋皇は急に稚くなる。
思わず状況を忘れそうになって、翡蓮は(そんな場合じゃなかった。)と、慌てて気を引き締める。
下には、上空の「敵」を威嚇するように、二つの首を伸ばしてくる、八岐大蛇。
中心の首さえ残っていれば、他は復活できるから、その首を庇ったのだと思っていた。しかし、中心の首を潰しても、再生が可能だった。
翡蓮が口を開いた。
「どの首でも良かったってことみたいだな。」
庇うのは、どの首でもよかったのだ。どの首でも、一つ残っていれば、再生が可能。中心の首さえ潰せばいいという判断が、誤り。そのせいで窮地に陥った。実際には、全ての首が均等だった。
翡蓮は、緋皇の様子をうかがう。
(相当消耗してる。早く休ませないと。)
もう限界だ。
手負いで封印されていたとはいえ、相手は邪神。たった一人で、ここまで戦い、八岐大蛇の力を削ったのは、奇蹟に近い。
残った首は二つ。
ボコボコッと、水面が煮え立つのにも似た、不気味な音がしている。
他の首も復活しようとしている。
(勝機は今しかない。)
翡蓮は、すうっと、瘴気に穢されていない、上空の空気を吸い込んだ。
真昼の日輪にあたためられた、秋の空気は乾いて、澄んでいる。
体中を、清涼な風が吹き渡るのを想像し。
翡蓮は、純白の小袖を翻し、空中に図形を描く。
「二級神術発動、風皇息吹、禊!!」
ザアアアアアアアアアッ!!
駆け抜けたのは、風の神たる、翠龍の息吹。
全てを清め、浄化する。
一切の不浄を、圧倒的な聖性で、消滅させていく。
八岐大蛇の二つの首が、目に見えないほどに小さく切り刻まれ、消えていく。その瘴気ごと。
<おのれ。ここまで消耗していなければ、人ごときに。>
<なぜだ。先に贄を捧げて頼んで来たのは、貴様らだろう、人の子よ。我は、喰らった贄の分の恵はもたらしたではないか。>
その瘴気の一片すら消える直前。
風に乗ってかすかに聞こえたのは、怨嗟というより、純粋な問いだった。
翡蓮は、「風翼飛翔」を解き、地上に舞い下りる。
八岐大蛇のいた場所に向かって、膝をつき、頭を下げた。
名残の風が、翡蓮の金髪を揺らして吹き過ぎた。
☆
翡蓮は、ゆっくりと立ち上がった。
「風翼飛翔」を操って、緋皇を地上に下ろしてから、神術を解く。
緋皇は、「風翼飛翔」に支えられていただけだったらしい。ぐらっと崩れたその体を、翡蓮は慌てて両腕に抱えた。
だが、緋皇は完全に力が抜けていたようで、支えきれなかった。引きずられる形で、翡蓮も一緒に座り込んでしまう。
「緋皇、大丈夫か?」
八岐大蛇が消滅した瞬間、翡蓮の中に残っていた瘴気は完全に消えて、体が一気に楽になった。
(緋皇も同じはずだけど、緋皇は限界まで神術を使って消耗が激しいから、それで。)
心配になった翡蓮だが。
「え、緋皇!?」
と、限界まで翠の目を見開いて完全に動きが止まった。
緋皇の真紅の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちたから。
白い頬を伝って、次々と雫が流れ落ち、翡蓮の首筋や、小袖の胸に弾ける。
涙が、熱い。
声を出したくないのか、緋皇は、歯を喰いしばって泣いている。
翡蓮は、呆然とそれを見つめてしまい、ハッと我に返った。
「緋皇、どうしたんだよ!?どっか痛いのか?」
おろおろと、翡蓮が緋皇の背中をさすると。
「…怖かったんだよ!」
予想外の言葉が緋皇の口から飛び出して、翡蓮はますます混乱した。
(怖い?緋皇が、怖いって。)
「え?え?」
「おまえが死ぬかと思ったら、すげえ怖かった!!」
感情の全てを吐き出すように、ぶつけるように、緋皇は全身で叫んだ。
「ちくしょう、オレは今まで、怖いものなんか、何もなかったのに!おまえのせいだ!責任とれよ、馬鹿野郎!」
翡蓮は、胸がいっぱいになって、自分も泣きそうになる。
ここで泣いたら駄目な気がして、翡蓮は力いっぱい緋皇を抱きしめた。
「ごめん、ごめん、緋皇。心配かけてごめん。もう、こんなことにならないように、もっと強くなるから!」
「…もっと強くならなきゃいけねーのは、オレの方だろ。」
緋皇が、拳で涙を拭う。
その目に在るのは、決意と覚悟。
泣いたせいなのか、照れているのか、顔が赤い。耳まで朱に染まった緋皇を見て、翡蓮の鼓動が速くなった。
どくどくと脈打つ。心の臓が、痛いほどに。
「どうしよう。オレ、今、緋皇のことすごく好きだ。」
緋皇が、拗ねたように珊瑚色の唇を尖らせた。
「今まで好きじゃなかったのかよ?」
「ずっと好きだったよ!!でも、今、自分でも怖いくらい好きになった。」
(もし、もしも緋皇と一緒にいられなくなったら、オレは。)
急に不安になって、翡蓮は、緋皇の真紅の双眸をのぞきこむ。
「緋皇、オレたち、ずっと友達だよな…?ずっと、一緒にいられるよな…?」
「当たり前だろ!!」
緋皇が、電光石火の速さで返した。
「おまえはオレのものだ。だから、オレもおまえのものだ、翡蓮。」
一生な、と緋皇が不敵に笑い、翡蓮は深く重く頷いた。
☆
神官候補生の少年たちが去った湖のほとりに、ふわりと降り立つ白い影がある。
桜重ねの狩衣をまとった、美貌の異形。
艶やかな黒髪を風に遊ばせ、優艶に冷酷に、それでいて、遊戯に熱中する子どものような無邪気さで笑う。
「生きたいと願う贄の欲望、人を犠牲にしてでも、豊かな暮らしを望む村人の欲望。どちらもそれなりに美味だったのに。もう味わえないのは残念。」
歌うように軽やかに、美鬼は言う。
「せっかく、百年前、巫女を唆して、この仕組みを整えたっていうのに。」
その身を犠牲にすれば、村は救われると。それが水神を堕とすことになり、その後、百年に渡って、人身御供を差し出さねばならなくなるとは知らず、高潔な巫女は、蛇神に喰らわれた。
「まあ、いいか。」
と、飽きた玩具に見向きもしなくなった子どものように、あっさりと言う。
「なかなか面白いモノが見られたし、仕掛けは済んだ。さあ、ボクに見せて。紅の御子、そして、翠の御子。絆ゆえに狂う、キミたちの姿を。」
終幕
おまえと離れたら、オレは狂う。
緋皇が泣くなんて、思ったこともなかった。
心ごと守ると、決意したばかりだったのに。
オレが自分を犠牲にして緋皇を庇えば、緋皇は苦しむって、わかっていたのに。
でも、力がなければ、オレは何度も同じことをくり返して、緋皇は自分を責めるだろう。
神官候補生として仕事をする以上、オレたちに、猶予なんかなかったんだ。
強くならなきゃ。今すぐに。
オレは絶対に、強くなるから。
ずっと、おまえと一緒にいるために。
オレは、もう一度緋皇を抱きしめる。
「なんだよ、翡蓮。もう大丈夫だっつーの。」
緋皇は、泣いたことを心配されていると思ったのか、そんなことを言うけれど、オレの好きにさせてくれた。
オレは目を閉じる。
緋皇の熱。緋皇の香。
ずっとこうしていたかった。
終
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彼女はヴェルドに仮死毒を渡し、こう告げた。
「死んで、私の影になれ」
彼女は知っていた。
この国が三年後に滅ぶこと。誰が裏切り者か。
そして——ヴェルドこそが、国を救うための唯一の「切り札」であることを。
これは、滅びの未来を知る孤独な王女と、一度死んで生まれ変わった騎士が、裏から国を救う「共犯」の物語。
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