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第四幕&終幕
「おまえが泣いてんのに、オレが幸せなわけねーだろ!!」~最強の魔法使い師弟5~
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第四幕
目覚める直前に見た悪夢は、おそらく虫の知らせ。
案の定、飛び起きたフェレトの隣に、彼の弟子はいない。
フェレトが部屋に張った結界は破られていない。
フェレトがディアスにかけた魔法も、問題なく機能している。
それが示す事実は、ディアスは自分の意志で出て行ったということ。
ディアスが部屋から出る物音で、気配に聡いフェレトが起きなかったのは。
(あいつ、寝ているオレに<黒幻夢>かけやがったな。)
フェレトが掛布をはねのけて立ち上がったとき、ひらりと、蝶の羽根のように紙片が舞う。
拾い上げると、一目で読み終わる、短い文面だった。
几帳面で丁寧で、けれど少しだけ癖のある、見慣れたディアスの筆跡。
『フェレトさま
約束を守れなくなりました。
ディスパテル・オルコス』
フェレトの形の良い唇が歪む。
フェレト自身がウルカヌスにあてた別れの手紙と、その短さはよく似ている。
フェレトは、ぐしゃりと手紙を握りつぶした。
ディスパテル・オルコス。
それが、ディアスの、オルコス王国の第二王子としての名か。五年前、元の名を捨てた時に、かけ離れた名前では、とっさに反応できないと考えたのか。当時、たった十歳だったくせに、小賢しく頭が回る。
「ディスパテル・オルコスなんて、知らねえよ。」
たとえ、ディアスが十年前に出会った王子ではなかったとしても、フェレトのディアスへの想いは変わらない。
ディアス自身が言ったのだ。
『フェレトさまに、今のオレを認めてほしかった。』
と。
フェレトの弟子は、ディアス・パレル。
だから、フェレトは、こんな戯言を、受け入れる気は毛頭無い。
紺碧の双眸が、冷ややかに眇められる。
完璧に整った美貌は、激情を宿すと凄絶に冴えわたる。
見た者がいれば、誰もが怖気づいただろう。
「オレを舐めた真似するとどうなるか教えてやるよ、ディアス。」
☆
ディアスには、フェレトの魔法がかかった状態だ。自分の魔力だから、たどるのはたやすい。
フェレトは、昨日案内された大広間の扉を開ける。ディアスのいる場所は、その先だった。通り抜けようとした時。
「貴公をこの先に行かせるわけにはいかぬ。」
夜闇を切り取ったかのような、艶やかな漆黒の髪をサラリとなびかせて、大剣を背負った美丈夫が立ち塞がる。
フェレトは、カサルが思わずたじろぐほどの、凍てつく声を放った。
「失せろ。」
「っ…。そうはいかぬ。主から、貴公を第二王子の元へは行かせるなと厳命されている。貴公らにも事情があろうが、こちらも仕事だ。我が誇りにかけて、命を違えるわけにはいかぬ。」
ふだんのフェレトなら、カサルの信条に、それなりの敬意を払っただろう。しかし、今のフェレトは、いとも容易く切り捨てる。
「悪ぃが、余裕がねーんだよ、今のオレは。」
サファイアの瞳には、その視線で捉えた相手を震え上がらせる怒気がある。
「命が惜しくねーなら、かかってきな。」
ザッと、フェレトの全身から放たれた烈風。
それが、戦闘開始を告げる合図。
「噛み殺せ、<翠嵐獣>!!」
最初から、全開。
全てを切り裂く暴風をまとった、獰猛な獣が、カサルに襲い掛かる。
「防げ、<金剛壁>!!」
カサルの前に築かれた、光の壁に、<翠嵐獣>が激突する。
最強の防御魔法であるはずの<金剛壁>だが、暴風そのもので構築された有翼獅子の前に、轟音とともに砕け散る。しかし、<翠嵐獣>も相殺されて空気に溶ける。
しかし、その前にフェレトは新たな魔法を放っている。
「天地を切り裂け、<緑風牙>!弾けろ、<翠風弾>!」
牙を剥くのは、無数の、凶暴な風の狼。翠風弾の爆発が、その背を押す形になる。スピードを増して、突っ込んでくる。
「無へと帰れ、<暗黒闇>!!」
闇が顕現した。
凝縮し、濃縮した、密度の濃い、純粋なる黒。
のしかかってくるように重く、空間ごと呑みこんでいく、質量ある漆黒。
一瞬のうちに、無数の風の狼をその腸に収め、それらを生み出したフェレト本人を襲う。フェレトは闇に触れられる前に、新たな魔法を放つ。
「弾けろ、<翠風弾>!連撃!!」
風が爆発する。誘爆するように、次々と暴風の連鎖が起こる。凄まじい爆音が轟き、大広間の壁が、床が、天井が、木端微塵に砕け散る。舞い上がる粉塵が、視界を遮る。耳も眼も、使い物にならなくなるほどの破壊をまき散らす。
しかし、<翠風弾>では、数を頼みにぶつけたところで、<暗黒闇>の侵食は防げない。
「見誤ったな、<風の賢者>ともあろう者が情けない。無駄に魔力を消費したか。」
優位に立ったはずのカサルが、逆に気分を害したように嘆く。手ごたえの無さを不満に思うのは、そのまま高い実力の裏返しだ。
フェレトを絡め取ろうと伸びる漆黒。
「大地を抉れ、<翡翠嵐>!」
ドンッ!!
大穴の開いた天井。澄んだ蒼天がのぞく。
その天空から突き刺さる、狂風。
あらゆる物を巻き込み、粉砕して突き進む。
それでも、<翡翠嵐>の破壊力は、<暗黒闇>と対等ではない。しかし、先に<翠風弾>の爆撃を受けていた<暗黒闇>は、その勢いを減じる。
そこを見逃すフェレトではない。一気に畳み掛ける。
「一切を彼方へ弾け、<碧颱風>!!」
ねっとりと重い闇が、ようやく蹴散らされ、細切れにされ、四方八方に舞い散った。
「見事だ。」
と、カサルはむしろ晴れやかに賛辞する。
「しかし、大分消耗しているな?」
と、からかうように、自らが操る闇と同じ色の双眸で値踏みする。
カサルの視線の先、フェレトは、肩で大きく息をしていた。ポタ、とこめかみから汗が伝う。
しかし、その蒼穹の瞳の鋭さは、全く損なわれていない。ぎらぎらと、狂おしいほどに輝いて、眼前の敵を貫く。
カサルは、ふ、と微笑した。
「闘うことを恐れず、しかし、そこに呑まれず。貴公の魂は気高く強い。そして、実は思慮深い。疑問に思っているのだろう?貴公以上の大技を使った我が、ほとんど疲れを見せぬことに。」
カサルが背中の大剣を抜いた。
ざっと、大きく広がる長い漆黒の髪。
「楽しみだ。絶望を知ってもなお、貴公の魂が折れぬことを願うぞ。」
カサルが、長剣を一閃する。まるで力を込めていない、息さえ整えずに振るわれた剣。
「!?」
フェレトが目を剥く。
軽々と振り回せるような重量の剣ではないはずだった。持っているだけで腕が震えるほどのー。
人間に可能な動きではない。
すぐにそれは証明される。
大剣から放たれたのは、漆黒の闇。
闇の刃が、フェレトを直撃する。
「吹き荒れよ、<緑風刃>!」
とっさには、それしか発動できなかった。しかし、風の刃は、闇の刃にあっさりと折られる。
ザンッ!!
フェレトの胸を、横薙に一閃する。
鮮血が飛び散った。
まずい、と直感した。焼けるような痛み。噴水のように噴き出し、滝のように流れ落ちる血潮。足元に広がる血溜まり。
ツ、と唇からも一筋の赤。胸元に零れ落ちる。
激痛と貧血に、意識が遠のきかける。
「治せ、<白癒光>!」
フェレトは、傷口に、きつく掌を押し当て、叫ぶ。ボウッと、乳白色の光が、見る間に傷を塞いでいくが。
それを見守ってくれる敵などいない。
ザンッ!!サンッ!!ザンッ!!
カサルが放つ、新たな斬撃。迫り来る、ぬばたまの刃。
フェレトは、後方に跳びながら、魔法を放つ。
「防げ、<金剛壁>!!」
間一髪で完成した、絶対防御の厚い壁が、キンッと、闇の刃を弾き飛ばす。
ギリギリだった。
「ふむ。たいしたものだ。後ろに跳んでいなかったら、間に合わなかっただろう。体が勝手に最適な動きを選び取る。命がけの闘いによって染みついた経験か、天賦の才か。その両方か。」
カサルは、かすかに瞠目している。
「実にすばらしい。噂以上だ。」
次第に、興奮がせり上がってくる。
「殺すには惜しい人間だ。」
「てめえ…!」
フェレトが、獣のように低く唸る。
闇を凝らせた、黒い刃。
それは、詠唱なしで放たれた。
フェレトに致命傷に近い傷を与えたにも関わらず、あの力には、魔法としての名前がない。
フェレトの紺碧の瞳が、険しさを増す。
「やっぱり、魔族か。」
「薄々気づいていたようだな。偽りの名を告げた非礼を詫びよう。我が名は、マモン。」
さらりと告げた、その名が示すものは。
「強欲の魔王、か。」
フェレトが低い声で正体を言い当てる。道理で強いはずだぜ、と呟くが、その目には怯んだ色は全くない。
爛々と、ギラギラと、双眸には、蒼白い炎が燃え立つ。
相手が誰であろうと、今のフェレトは、絶対に勝つ。
「良い目だ。」
カサルが、熱に浮かされたように呟く。酒に酔ったような目で。
「愉しめそうだ、最後まで。」
長剣を、頭上に掲げる。やあっ、と裂帛の気合いとともに。全身全霊で。
ザンッ!!
振り下ろす!!
空間そのものを断絶するかのような斬撃の前に、<金剛壁>が呆気なく砕け散る!!
きらきらと虹色に光りながら、四方八方へと舞い飛ぶ破片。
光の乱反射が、視界を埋め尽くす。
光以外、何も見えなくなった、その奥から。
「天に昇れ、<碧風竜>!!」
大広間を埋め尽くすほどの巨大な竜巻が、マモンに襲い掛かる!!
激しく渦を巻く、風の形の兵器。
光の乱舞で一瞬視界を覆われたマモンは、反応が遅れる。
「ふんっ!」
しかし、とっさに大剣で受ける。
ピシイイイッと、ひびが入ったが、マモン自身は無傷。しかし、その面は、驚愕に彩られていた。
その視線の先で、フェレトがガクリと膝をつく。
「この剣を損なうとは、つくづく予想を裏切ってくれる…しかし、流石に力を使い果たしたか。」
ゆっくりと、近づいて来る。
フェレトの首筋、触れる直前で、大剣の切っ先を止めた。
マモンを睨み据える青い瞳は、鏡のように揺らがない。
マモンの方にこそ、かすかな迷いがある。
「殺すには惜しい。しかし。」
「吹き荒れよ、<緑風刃>。」
蒼天を翔ける風のような、澄みきった少年の声が響いた。
斬、と。
至近距離で。
それこそ、マモンの影に潜むように。ぴったりと背後に迫っていた少年が、炸裂させた風の斬撃。
<碧嵐獄>には到底及ばない魔法だが、0距離で、しかも完全に油断している状態ならば、確実に仕留められる。
マモンの背中から、胴を深く、一直線に切り裂いた。
バシャッと、漆黒の血が流れ落ちる。スコールのように、激しく床を穿つ。
「な…に…?」
ごぽっと、血を吐きながら、首だけをわずかに巡らせて背後を見る。
十五、六歳の少年が立っていた。
唇を引き結び、無情な眼差しで、マモンの視線をはね返す。
その双眸は、鮮やかな瑠璃。
ここまで美しい青は滅多にないのに、直感的に知っている目だと思う。
マモンは、ゆっくりと視線を戻した。それだけの動きに、激痛が伴う。
「そう…か…これは、貴公自身…。しかし、いつの間に…。」
ハッと、流れ落ちる血と同じ、黒曜石の双眸が見開かれる。
「そうか…<翠風弾>の爆音と粉塵に紛れて…。あの時には、既に我が正体を見抜いておったか。」
闇雲に無駄打ちした挙句、<暗黒闇>を防げず終わったわけではなかった。魔法具を発動するための目くらましだ。
「<暗黒闇>は、禁呪に準じる大技だぜ。人間には。」
フェレトは、ゆっくりと立ち上がる。長いマントが優雅に揺れた。
<碧嵐獄>と同等の大技だ。使える者は、ほんの一握り。そんな魔法使いがいるなら、名を知られていないはずがないのだ。
「なるほど。軽率だったな…。これは一本とられた、と言うのだろうな…。」
欺かれたにも関わらず、強欲の魔王は、卑怯と罵ることもない。むしろ、満足そうに目を細める。死に至る激痛の中で、その表情は不思議と清々しい。
フェレトは、不思議そうに瞬いた。
「強欲、つーわりには、自分の命にすら執着がねーな。」
マモンは笑う。厳めしい印象の、渋い美貌にはそぐわない、子どものような笑顔だった。
「ありとあらゆる物を手に入れてきた。金銀財宝も集め尽くした。もう飽きたわ。この世に二つとない宝も、手に入れた瞬間につまらぬガラクタに変わる。」
人間では想像すらできない、長い長い時間の果て。
「我が行きついた最後の欲は、戦うことよ。しかし、我にかなう敵に、ここ数百年、見えたことはない。…貴公との勝負は面白かった。」
思い残すことはない、と言いたげな、晴れやかな笑み。
「そうか。」
と、フェレトが静かに頷く。
「噛み殺せ、<翠嵐獣>。」
有翼獅子の形で吹き抜けた、一陣の風が、強欲の魔王に止めを刺した。
フェレトが、耳朶のピアスに触れる。
朽ちていくマモンの背後に立つ少年の姿が、すうっと薄れて消えた。否、本体に戻った。
フェレトが今つけているピアスは、分身を生み出す魔法具だ。
試作品とは言え、機能の面では、数時間、分身を保てる。しかし、今は余分な魔力を消費できるほど余裕がない。
何故、魔王が人間のふりをして、オルコス王国にいたのか。単に、次々と魔王を屠ってきたフェレトを狙っていただけなのか、もっと他に裏があるのか。そうだとしたら、今の状態で動くのは危険だ。
けれど、全て承知の上で、それでもフェレトは、彼の弟子のいる場所へ向かう。
深緑のマントが翻った。
☆
「キミの師匠はすごいねー。ボクが用意した最高の刺客だったんだけど、倒されちゃったよー。」
と、語るのは、騎士の格好から、王族の衣装に着替えたキュクロプスだ。派手な色合いの、上着の丈の長い宮廷服。その下のシャツの袖には大仰なフリル。王族の正装をすると、本来の美貌が匂い立つ。
「困った困った。どうしよう。もうすぐここに来ちゃうよー。」
言葉とは裏腹に、キュクロプスの口調は軽薄そのものだ。せいぜい、チェスやカードで不利になった、という程度の物言いだ。
こういう態度ゆえに、両手の数ほどいる前王の子、現王の兄弟の中でも、「道化者」「痴れ者」という評価で見下されているのだが…。
(全部、演技だったわけか。)
と、ディアスは胸の内だけで吐き捨てた。キュクロプスを、『あの王弟殿下、油断ならねー。あれで全部手札を見せたとは思えねーんだよな。』と評したフェレトの目は確かだった。
ディアスは、表面上は眉一つ動かすことなく、凍てついた無表情で言い放つ。
「来ても問題ないでしょう。追い返しますよ、叔父上。」
「できるのかなー?大好きな師匠を前にしたら、キミの覚悟とか決意なんて、すーぐに崩れちゃいそーだけどー。」
キュクロプスは、淡い水色の瞳を三日月の形に歪めて訊いてくる。
「ねえ、ディスパテル王子殿下?」
「見くびるな。」
鞭打つ声音は、氷の響き。
「フェレトさまのためなら、オレは自分の心くらい殺せる。」
紫水晶の瞳に迷いはなく、狂気もない。
全てが凍てつき死に絶えた、虚無の静謐。
☆
時間は、しばし、巻き戻る。
フェレトとともに分け入った山で見つけた、大量の骸。フェレトに、『生存者探して、<白癒光>かけろ!』と指示され、ディアスは吐き気がする血臭に絶えて、まだ息のある人間を探した。
口元に手をかざし、脈を計り、既に命が尽きていることを確かめるたびに、目の前が暗くなっていく。まだ温もりが残っていても、手遅れなのだと思い知らされるたびに。それでも、必死で次の人間に手を伸ばした。
それが魔法使いの役割であり、何より、フェレトに任された使命だから。
最後の一人には、かすかだが、息があった。急いで<白癒光>をかけ、傷を塞ぐ。ただ、豪奢な宮廷服は血塗れで、大量に出血したことは明らかだった。傷が塞がっても、血液がもどるわけではない。
だから、フェレトに『生存者は?』と訊かれ、います!一名!<白癒光>はかけましたが、このままでは時間の問題です。』と答えた。
フェレトに、『そいつ連れてここを離れろ!』と命じられ、躊躇わなかったと言えば嘘になる。だから、返事が一瞬遅れた。
見ず知らずの人間の命を助けるより、フェレトの隣で戦いたい。
それがディアスの本音。
けれど、ディアスはフェレトの弟子として、誇れる選択をした。無辜の民を守るのが、魔法使いだと、フェレトがずっと、その背中で語ってきたことだ。
そして、瀕死の人間を連れてーディアスは自分の腕の力では抱えられないとわかっているので、彼にも<碧風翼>をかけたー王宮へ向かった最中、ディアスはそこに気づく余裕が生まれた。
(宮廷服?)
ディアスが助け出したのは、十七、八ほどの少年だった。山にいたのだから、自分たちと同じように、依頼を受けた魔法使いだと思っていた。事実、骸は、魔法使い組合の制服を着ていたり、タリスマンやアミュレットを身に着けていたりした。しかし、この少年は。
(魔法使いじゃないのか?)
だとしたら、この少年はなぜ、魔族がうろつく山にいたのか。そもそも、この少年は何者なのか。
べったりと血がつき、固まってしまった髪の色は、色あせたような、くすんだ金。最近どこかで、と記憶を探ると、すぐに思い当たる。そう言えば、どことなく、あの男に似ている。
この少年に会ったことなどほんの数回、言葉を交わした記憶はない。もし、想像が当たっているとするなら、
(ずいぶんと皮肉だ。)
とは思う。しかし、特に感慨はないし、恨みもなかった。
むしろ、感謝しているかもしれない。この少年がいなかったら、ディアスはただ一人の王子だった。妾腹とはいえ、唯一の王子が簡単に城を抜け出せたはずがない。捨て置かれた身ゆえに、可能だったこと。
(ずっとこの国にいたら、オレはフェレトさまの弟子になれなかった。)
いずれにせよ、この少年が誰であろうとも、ディアスはフェレトに任された使命を果たす。
ディアスが跳ね橋まで来ると、城壁塔に詰めていた騎士が寄って来る。山から戻って来た魔法使いを出迎える役目なのだろう。ちょうどいいことに、まだ騎士の格好をしていたキュクロプスだった。ふだんから、こうして城の中を自由に徘徊しているのだろうか。道楽なのか趣味なのか、何か目的があるのか、行動に謎しかない王弟殿下だが、この場合は助かった。
キュクロプスなら、確実にこの少年の顔を知っている。
「おかえりー。どーだったー?」
と、呑気な声をかけてくるが、ディアスが<碧風翼>を解いて横たえた少年の姿を目にして凍りつく。
「また悪い癖が…。」
と、苦々しく呟く。
(やっぱりか。)
と、ディアスは確信した。
「早く医師に。王太子ですよね?」
ディアスの異母兄。表向きは、現王の唯一の子であり、オルコスの第一王位継承者。
☆
幸い、王太子は一命を取り留めた。
部屋でフェレトを待っていたディアスは、やって来たキュクロプスから聞いた。
単純に良かったなと思う。フェレトに任された使命は果たせた。
戻って来たフェレトに『おまえが連れて行った怪我人は。』と問われ、事務的に、事実のみを告げた。真実ではなく。
ディアスは、この件はこれで終わりだと思っていたのだ。王太子が山の中にいた理由も、よくよく考えれば、魔族を見てみたいとか、自分も宝探しをしたいとか、そんな理由で魔法使いを引きつれて行ったのだろう。ディアスが王子としてこの国で過ごしていたころから、周囲に甘やかされて育ったせいで、我が儘放題だったと思い出す。会うことはなくても、噂は伝わる。特に、ディアスは王宮で生き抜くために、情報はかき集めていた。
学友として王宮に上がっている貴族の子弟に、特に理由もなく暴力を振るう。閉じ込める。珍しい物を持っていれば取り上げる。出された食事が気に入らないと、床に皿を叩きつけて作り直させることなど日常茶飯事。勉強全般を嫌い、「教え方が悪い。」と教師を次々クビにする…。
子どもの頃の性格は矯正されないどころか、横暴さに拍車がかかっているらしく。
「まったく、困った王太子サマだよ。魔法使いたちに護衛をさせて、山に入ったんだ。ホント軽率っていくかー問題しか起こさないんだよねー。あんなのが王になったらオルコスの未来はお先真っ暗だよー。」
と、キュクロプスがぼやいていた。
この時は、そんなキュクロプスの愚痴など、ディアスは聞き流していた。
生まれ故郷だが、オルコス王国の現在も未来も、ディアスにはどうでもいいことだった。
しかし、戻ってきたフェレトが眠りに就いている間に、再び部屋を訪れたキュクロプスはー。
今までと何一つ変わらない、道化の笑みを浮かべ、しかし今までとは明らかに異なる怜悧さをのぞかせて告げた。
「王太子殿下は、容体が急変して、死んだよ。これはキミにとって僥倖なのかな?ディスパテル王子殿下。」
ディアスはフェレトが眠っていることを確かめ、迷わずキュクロプスを部屋から連れ出す。
キュクロプスの目を見れば、誤魔化しても無駄なのは、明らかだった。
☆
キミさー、そんなに目立つ美貌なのに、気づかれないって本気で思ってたワケ?ああ、気づかれてもスルーされるって思ってたのかな?確かに、今も昔も、側妃が産んだ第二王子なんて、邪魔なだけで何の価値もないもんねー。
でもさ、この状況じゃ、キミの素性を見逃すことなんてできないよー。
だって、キミには動機がある。
王太子を殺す動機が。
ああ、キミの心情なんか、どーでもいいのさ。
客観的に、どう見えるか。
問題なのは、ただそれだけ。
まず第一に、恨み。
そして第二に、王位継承権。
陛下の子は、王太子以外にはキミだけだ。
キミは頭の良い子だったから、忘れたなんて言わせない。オルコスでは、たとえ妾腹だろうと、王の兄弟より、子どもの方が継承順位が高い。
王太子が死んで、キミが第二王子として名乗りを上げれば、キミには王位が手に入る。
だから、キミの意志なんか聞いてないってばー。
周囲にどう見えるかっていう話。
今、この国は財宝のおかげで、信じられないくらい財力が上がった。今のオルコスの王位には価値がある。
ああ、勘違いしないでほしいんだ。
ボクはべつに、キミを王太子暗殺の犯人に仕立て上げようなんて思っちゃいない。
その逆さ。
ボクはねー、キミがこの国の王になればいいと思ってるんだよ。
☆
キュクロプスの私室らしい、豪華な調度品の鎮座する部屋。人払いがなされているのか、召使も護衛もいない。
ディアスは、この上なく冷ややかに、キュクロプスを眺めた。
「オレは、オルコスの王位なんて全く興味がない。だいたい、王位継承者は掃いて捨てるほどいるだろう。」
「そう!でもロクなやつがいないんだよねー。王太子と似たり寄ったり。」
キュクロプスは、辛辣だった。
「あのねーボクはこれでも、オルコスの王族として、この国の安寧と発展を願ってるワケ。でも、残りの王位継承者の誰が王になっても、国を潰すだけだよ。」
「だったら、あんたが王になればいい。」
ディアスは、この無意味な問答をさっさと切り上げたかった。キュクロプス以上に辛辣な口調になる。
「さっきも言ったよー。キミのが王位継承順は上。それにね、キミ、ボクよりずーっと頭がいいじゃない。その美貌も、魔法の才能も、民に人気が出るよー。建国の英雄の再来だ。今、オルコスには、かつてない財力という武器がある。うまく使えば他国に侵略して領土を広げることだって可能だ。ゆくゆくは、大国と肩を並べ。」
「断る。」
有無を言わせずはねつける。
完璧な拒絶。
ディアスにとって、この戯言を聞いているのは時間の浪費以外の何物でも無い。とっとと踵を返して歩き出した。
だが、ドアノブに手を伸ばす前に、キュクロプスが素早く回り込んでくる。
「いい加減に。」
「だったらキミには、王太子暗殺の罪を負ってもらう。」
ディアスは、一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。次の瞬間、沸騰するように怒りが湧く。
「ふざけるな!!そんな冤罪が。」
「まかり通るところでしょ、王宮は。」
にんまりと笑うキュクロプスは、明らかにまとう雰囲気を変えていた。水色の瞳の奥から、冷酷な光が射しこむ。それは、人を単なる道具として扱い、使い捨てても、何ら良心に呵責を感じない者の目だった。
「王族のボクが一言言えば、そうなる。ただの魔法使いの子どもの言うことなんて、誰も耳を貸さない。妾腹の王子として育ったキミには、身分の差ってものが身に沁みてるでしょー?」
ディアスは、キュクロプスを睨み据える。
少女のような可憐な美貌は、怒気を孕むと冷たく冴えわたる。
冷徹なほどの冷静さで返した。
「オレは、<星の塔>の魔法使いだ。<星の塔>が、おまえたちに屈するとでも?」
キュクロプスは、全く動揺しなかった。
「世界有数の魔法使い組合、<星の塔>か。確かに、王侯貴族にさえ膝を折らせるね、あそこは。でも、キミは素性を隠してるんでしょ?それを密告したら、キミは<星の塔>からも追われるよ。だって、客観的に見れば、動機は十分。キミが王太子を恨んでいないはずがないし、王位簒奪ってのも説得力がある。所属する魔法使いが王族を殺したなんて、<星の塔>の顔に泥を塗る行為だ。威信にかけて、地の果てまでも追ってくるよ。もちろん師匠である<風の賢者>も監督不行き届きで罪に問われるだろうねー。せめて、キミがホントにただの、一魔法使いだったら、また話は変わっただろうけど。だって、ほら、オルコス王家と関わりがないなら、動機もないってことだもん。」
キュクロプスは、盤面からディアスの駒を一つ一つ奪うように、追い詰めていく。
それでも、ディアスは毅然と顔を上げている。
紫水晶の瞳に宿る光は、燦然と眩いままだ。
「フェレトさまは。」
「そうだねー。<風の賢者>は、キミを信じてくれるだろうねー。そして、守ってくれる。オルコス王家からも、<星の塔>からも。彼は、懐に入れたものを、絶対に見捨てはしない。彼なら、たとえ、世界中から追われても、キミを守り抜く力がある。キミはそれがわかっているから、そんなに堂々としていられるんだよねー。で、キミは。」
キュクロプスの唇が、残忍な笑みを刷いた。
不可視の毒をまき散らすように、呪うように。
「<風の賢者>の一生を、自分に縛りつけるつもり?生涯、自分のためだけに生きろと?」
「っ!!」
世界が反転した。
ディアスは、がん、と鈍器で頭を殴られたような衝撃に、膝をついていた。
一生、安住の地を持たず、追われ続ける。
フェレトは、ウルカヌスにも、<光の家>の子どもたちにも、二度と会えない。
そういうことなのだ。
一つの王家を、そして世界中に根を張る<星の塔>を敵に回すということは。
フェレトは、きっとディアスを選んでくれる。
似たような状況に陥ったことはある。<光の賢者>の殺害容疑をかけられたとき、フェレトはディアスに言ってくれた。『弟子一人守れねえような賢者の位なんざ、こっちから捨ててやるぜ!』と。
あのとき、ディアスは素直に喜んだ。
けれど、今のディアスは、その浅はかさを知っている。
あれから、ディアス自身も<星の塔>で依頼をこなし、フェレトと共に様々な事件に関わって、経験を積み重ねた。
ディアスを選んだら、フェレトは、<風の賢者>として救えるはずの人間を、救えなくなる。
フェレトが積み上げてきた全てと、未来を、ディアスに捧げるということ。
それは、ディアスが、心の奥底に封じ込めた本音であり、剥きだしの欲望。
体の芯が蕩けるほどに甘美な誘惑であり…それゆえに、ディアスは、それが禁忌だと知っている。
自分の強欲さくらい、理解しているのだ。
(このままじゃ、オレは、自分の欲望のままに、フェレトさまを喰い尽くす。)
風は、自由だからこそ、風なのだ。囲い込み、束縛すれば、それはもう風ではない。
ディアスは、無意識に左の耳朶に…そこに光るピアスに触れる。縋るような手つきで。
胸の奥が軋みをあげる。
心が砕け落ちる音が、どこか遠くで響いている。
☆
そして、現在。
ディアスは、目を閉じて壁に寄りかかり、近づくフェレトの足音を聞いている。
王宮の、奥まった一室は、かつて第二王子だったときに与えられていた部屋。しかし、運び込まれた調度品は、当時とは比べ物にならないほど金がかかっている。
「最後の逢瀬に、ボクは邪魔でしょ?」と、キュクロプスは出て行った。部屋の中には、ディアスしかいない。
(フェレトさま。)
昨夜のことを思い出す。
眠るフェレトを、ただじっと見つめていた。
目に焼き付けるように。
フェレトが起きなければ、一晩、そうしていたかもしれない。
何度、あの手に頭を撫でてもらっただろう。長い指も桜色の爪も、芸術品のように綺麗だけど、大きな掌はいつもあたたかい。血の通った人間の肌。
何度、あの腕に抱き上げてもらっただろう。ディアスを軽々と抱き上げるたくましい腕の中が、いつの間にか世界で一番安心できる場所になった。急に視界が高くなっても、不思議なくらい恐怖はなくて。
何度、あの唇で、名前を呼んでもらっただろう。
名前なんて、どうでも良かった。元の名をそのまま使っていては支障が出るし、大幅に変えれば、とっさに反応できない。だから、適当に少しだけ変えた。ただそれだけの名前だった。
けれど、今はディアスがいい。
フェレトが何度も何度も呼んでくれた名前だから。
低く艶やかな、体の奥まで響く美声で呼ばれる自分の名前が、いつしか、こんなに大切なものになっていた。
そして、まぶたで隠れて見えなかった、長い金の睫毛に囲まれた、蒼天の瞳。
海より深く、空より澄んで。吸い込まれそうな至高の青。どんな高価なサファイアも、フェレトの瞳の輝きの前ではかすんでしまう。
いつだって、生き生きと颯爽と、明るく眩しくディアスを照らす。
何度、あの瞳に映してもらっただろう。
(今日で最後だ。)
聞き慣れたフェレトの足音が止まった。
ディアスは壁から離れて、まっすぐに立つ。
☆
バタンと音をたてて後ろ手に扉を閉め、フェレトが入って来る。
ディアスは声を上げそうになったのを無理やり呑みこむ。
フェレトの制服は血塗れだった。
胸元を開けて、素肌をのぞかせているので、そこに真一文字に刻まれた傷口が見える。<白癒光>で塞いではいるが、相当の深手なのは見るだけでわかる。
フェレトはディアスを一瞥し、唇の片端だけで薄く笑った。
声を荒げたわけではない。むしろ抑揚のない声だったが、空気の温度を下げるような凄みがあった。
「ずいぶん、ふざけたカッコしてんじゃねーか。」
「本来の姿です。オレは、ディスパテル・オルコスに、もどります。」
ディアスはにこりと優雅に微笑む。完璧に計算し尽して作った笑顔は、身にまとうのが見慣れない宮廷服のせいもあって、ディアスを別人のように見せている。
金糸銀糸で、びっしりと花の刺繍が施された丈の長い上着。その下のシャツのレースも、花のモチーフを緻密かつ洗練された手法で編み上げている。これ一着で庶民の家なら建つだろう。そんな王子の正装をさらりと着こなし、ディアスは涼しげに、華やかに微笑んでいる。
「それで、おまえは平気か?」
フェレトは、理由も説明も求めなかった。
ディアスを捕えたフェレトの瞳は、さざ波一つたたない、深く澄んだ湖のようだった。鏡のように、真実を映し出す。
虚偽も欺瞞も、あらゆる嘘を見透かして、心の最奥をさらけ出させる…無理やりにでも暴き立てる凶暴さがある。
ディアスは、丸裸で絡め取られた気分だった。
気取られないように、かすかに息を呑み、浮かべた笑みを崩さないことに全力を注ぐ。
「はい。オレが自分で選んだことです。」
それは、真実。
(オレは、フェレトさまにー。)
「…ならいい。元気でな、ディアス。」
フェレトが踵を返した。翻る深緑のマントに、ディアスは手を伸ばしそうになる。必死で押さえつけた。
「フェレトさまも。」
フェレトの大きな背中が、ドアの向こうへ消える。
ディアスの目の前で、ドアが音もなく閉まった。
☆
ディアスは、必死で数を数える。
(…九十五、九十六、九十七…。)
(まだだ。まだ耐えろ。)
フェレトが、この部屋から完全に離れるまで。声が届かなくなるまで。
(…百。)
膝を折る。
「――――――――!!」
言葉にならない叫びが、珊瑚色の唇から迸る。
ぽたぽたと、握った拳に涙が落ちる。
溢れて、止まらない。決壊したように。熱くて塩辛い。
ディアスの左手が、震えながら耳朶を探す。探り当てたピアス。
ねだって、譲ってもらった、フェレトのお下がり。今、ディアスを支えてくれる物はこれだけだった。
「ごめんなさい。」も「ありがとうございました。」も言えなかった。そんな資格はなかった。
導かれ、助けられ、守られ、救われ、慈しまれ、惜しみなく降り注ぐ慈雨のような愛情をもらっておいて、結局は何一つ返せない。
『大人になったら、一諸に酒呑もうぜ。』そんな、ささいな約束すら、果たすことができない。
ディアスの震える唇が、こらえきれなくなったように、その名を紡いだ。
「…フェレトさまっ…。」
「何だ?」
え、とディアスは、呆けたように顔上げる。
涙が頬に弾ける。
幻聴だと、そう思ったのに。
いつもと何も変わりなく、ディアスの正面にフェレトがいる。膝をついて、ディアスを見下ろしている。
フェレトは、呆れたように、フンと鼻で笑う。
「全然平気じゃねーじゃん、おまえ。」
「どうして。」
フェレトは、出て行ったはずだった。
夢の中にいるかのように、ディアスは頼りなげに呟く。
「<幻白光>は、おまえの専売特許じゃねえよ。」
ディアスは、ハッとした。
フェレトが出て行ったとき、扉の閉まる音はしなかった。入って来た時は、音がしたのに。
<幻白光>は、光を操る魔法。視覚にしか作用しない。おそらくフェレトは、部屋に入る前に呪文を唱えておいて、時間差で発動させたのだろう。
ディアスは、まだ呆然としたまま、かすれた声で言う。
「オレを騙したんですか。」
「悪いな。オレは、おまえのためなら手段は選ばねえよ。」
フェレトの腕が伸びる。避ける暇は無かった。胸倉をつかまれ、思い切り引き寄せられる。
鼻先が触れる距離で。
「説明しな、ディアス。なんで、こんなトチ狂ったこと言い出しやがった?」
「っ!狂ってなんかいません!!」
間近に迫る青い瞳に、何もかもを預けてしまいたくなる誘惑に、必死で抗い、ディアスは叫ぶ。
「オレは、フェレトさまには幸せでいてほしいから!!」
それを聞いたフェレトの瞳が、すうっと眇められた。
怖気をふるうほどの美貌。
ディアスがハッと身構える。
冷水を…氷水を浴びせられたように、肌が粟立った。
「あ…。」
怖い。
身を引きたくても、胸倉をつかんだフェレトの腕の力は強くて、否、それ以前に体中が呪縛されたように強張って。
パンッ、と甲高い炸裂音がした。
痛みよりも、熱さが先に来て。
頬を張られたのだと気づいたのは、数秒たってからだった。
「今までおまえがやらかしてきたことの中で、今回のが一番頭にきたぜ。」
拳じゃないだけ有り難く思え、と奈落の底から響くような低い声で言い添える。
「おまえが何も言わねーから、事情はさっぱりだ。だけどな。」
静かに、深く、フェレトは激昂していた。今まで何度も叱られたことはある。だけど、逆鱗に触れたと感じたのは初めてで。
「おまえが泣いてんのに、オレが幸せなわけねーだろ!!」
ディアスは、雷に打たれたような衝撃に硬直した。
数秒後、呪縛が解けたように、フェレトの首筋に腕を回して縋りつく。
「ごめんなさい!ごめんなさい、フェレトさま!!」
フェレトは、泣きじゃくるディアスを抱き留めて、抱きしめて
「ホント、おまえから目ェ離すとロクなことがねーわ。」
と、笑った。
☆
ディアスは、フェレトの胸で泣きじゃくった。
感情が飽和して限界を迎えたような泣きっぷりだった。幼児でもこんなに全身で泣かないだろうというくらいの。
泣き止んでも、目の奥が熱をもってじんじんと痛む。腫れぼったくなったまぶたを閉じると、睫毛に残っていた最後の雫が零れ落ちた。
フェレトに
「美少年が台無しだぞ。顔洗え。」
と笑われて、腕を引いて立たせられる。フェレトが、水差しから盥に水を注ぐのを、ぼーっと見ていたら、
「ちょっとは自分で動け。頭からぶっかけられたくねーだろ。」
と、盥の前に押しやられた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった顔を洗うと、幾分、すっきりした。ディアスが顔を洗っている間に、部屋を漁って見つけたらしく、
「冷やしとけ。」
と、濡れたタオルを渡される。至れり尽くせりだ。フェレトも、ディアスがドロドロにした胸元を、別のタオルで拭いている。
ディアスが渡されたタオルは、氷属性の魔法がかかっているようで、ただの濡れタオルではない清涼感がある。それなのに、一向に顔から熱が引かないのは、羞恥で顔が火照っているせいか。
(いくつなんだオレは。あんなに泣くか普通。)
ディアスの心情などわかりきっているらしく、フェレトが苦笑した気配があって。
慈しむように、頭を撫でられたらもう駄目だった。
目元にタオルを当てたまま、フェレトの胸に額をつける。
そのまま、自己嫌悪でフェレトの胸から顔が上げられなくなった。
「ディアス、そのままでいいから、何があったか言え。」
と、促す声も、いつもより柔らかくて、小さな子を宥めているようだ。ディアスは、いたたまれない思いで、それでも、離れている間のことを語る。
いつもよりも散漫だったり言葉が足りなかったりして、多少フェレトが補う必要があったディアスの説明だが、フェレトは概ね理解した。そして、砕けた笑みで、気負いなく言った。
「こういう時は、素直に甘えろ。おまえのためなら、オレは世界を敵に回してやるよ。」
「!!…っだって。」
と、反論しかけたディアスを遮り、フェレトがはんっと鼻先で笑う。
「おまえは、誰かの言いなりになるような、聞き分けのいいやつじゃねえだろ。師匠の言うこともまともに聞かねーくせに。」
「それはどういう意味ですか!」
と、ディアスが食ってかかる。
いつものやりとりになったところで、フェレトの中に、ふっと疑問が浮上した。思考に余裕が生まれた、ということか。
ディアスは、フェレトのことになると、冷静さを失う。
人の心の一番弱いところを突いて、追い詰めていくそのやり方。
正常な判断力を奪い、それしかないのだと、暗示をかけていく。
それは、まるで…。
「ディアス、キュクロプスは。」
と、フェレトが言いかけたとき。
バキィッッ!!
部屋の扉が吹っ飛んだ。
細かな木片が飛び散る。
瞬時に戦闘態勢を整えるフェレト。
ディアスも、反射的にフェレトに倣う。闘いが、体に馴染んできつつある。
扉を大破させて、部屋に踏みこんで来たのは、
「<風の賢者>は戦闘バカって思ってたけど、頭も切れるじゃん。ムカつくー。バラされる前に自分で言うよ。」
亜麻色の髪をなびかせ、二人の前に舞い下りて来たキュクロプス。否…。
「ボクは、ベルフェゴール。怠惰の魔王だよー。」
間延びした、呑気な口調は、キュクロプスを名乗っていたときと変わらない。
けれど、空気の色さえ塗り替えるような、胸の悪くなる邪悪さが滲みだしている。
隠していた本性が。
「ハッ。どーりで、山ン中にいた方は、妙に手ごたえがねーと思ったぜ。」
引っかかっていたことだった。不完全な<碧嵐獄>で倒せたのは、やはり幸運などではなく。
「一体、どれだけ捨石にしてやがる。」
「それは誤解だよー。」
と、笑うキュクロプスの姿が揺らぐ。
瞬くひとつの間に、キュクロプスの姿は消えていた。代わりに現れたのは、萌える若葉の色彩を髪と瞳に持つ、絶世の美貌。
その瞳は、果てない深淵。
覗き込めば、あっという間に、悪徳と背徳の世界に引きずり込まれそうな、負の魅惑に満ちている。
見間違えるはずもなく、それはフェレトが山中で対峙したベルフェゴールの姿。
「キミと戦ったのも、ボク自身。まあ、分身みたいな?ずるいとか言わないでよー。<風の賢者>も、似たようなの使って、マモンを倒したじゃなーい。」
手品の仕掛けでも見せびらかすような気軽さ。実際、魔王にとってはたやすいこと。人間が、魔法や魔法具を使ってできることは、上位種である彼らにも可能。
フェレトは、厳しくベルフェゴールを見据えて、問う。半ば以上、答えのわかっている問いに、声が険しくなる。
「キュクロプス本人はどうした。」
ベルフェゴールが化けていたのなら、本物のキュクロプスは。
「殺してすり替わったに決まってるじゃーん。王族って便利なんだよねー。ほら、ボクは怠惰の魔王だから、あんまり自分で働きたくなくてー。でも、人一人殺すくらいなら、ま、労働のうちに入らないし?後は、バカ王とかバカ王太子とか、口先三寸で操って、キミたちを招く舞台を整えたってわけ。」
ディアスが、怒りのあまり蒼ざめる。
魔族が人の心を持たないのは百も承知だが、こんなやつにいいように操られた自分自身に一番腹が立つ。
瞋恚の炎が、紫眼に燃え、涙の残滓ごと思考が煮え滾る。
「でも、折角整えた舞台も台無しー。ボクが自分で動かなきゃいけないなんて、最悪だよー。せいぜい、派手に巻き添えにしてやんないと、気が済まないなー。」
ベルフェゴールは、朱色の唇に指を二本立てる。
フェレトが悟った。瞬きにも満たない刹那の、電光石火の思考。
「ディアス、伏せろっ!!」
とっさに展開できる魔法で防げる、生半可な魔力ではなかった。そして、フェレトの魔力は残り僅か。
フェレトは、ディアスに飛びついて覆いかぶさる。
魔法使いが、自らの体を盾にするのは、最後の手段だ。
「フェレトさま!?」
ピイイイイイイイイイイッッ!!
甲高い指笛が、ディアスの悲鳴に重なる。
バシャンッ!!
と、大量の水が降り注ぐ。こんな山奥なのに、大津波が襲ったかのような。
それが、王宮の天井を突き破るまで一秒にも満たない。
豪雨。
ジュウウウウウウッ!!
その雫の一滴一滴が、肉を溶かして骨まで至る毒の水。
強酸をかけられたように、フェレトの体から白い煙が上がる。
フェレトは、きつく唇をかみしめて、うめき声ひとつ上げなかった。凄まじい精神力だが、こめかみから脂汗が滴り落ちる。唇を噛み切ったのか、鮮血の紅い珠が散る。
「フェレトさま!!」
絶叫したディアスの上から、フェレトはまだどかない。ぐずぐずとその肉が解けていく。強酸のような雨はまだ降り注いでいる。
ディアスがフェレトに白い手をかざす。
「治せ、<白癒。」
フェレトが、かろうじて無事な右手で、ディアスの手首をつかんで止めた。
「いい。自分でやる。おまえは、魔力を温存しろ。」
「ふざけないでください!!」
ディアスは、ギッと、突き刺す視線でフェレトをにらむ。つかまれた手を振り解こうとしたが、想像を絶する苦痛に耐えているくせに、フェレトの力は全く緩まない。
フェレトは、空いている左手をディアスにかざす。
エメラルドグリーンの光が、ディアスを優しく包んだ。フェレトはそれを見届けて、ディアスの上からどく。
毒の雨は、ディアスには届かない。不可視の力が弾いた。
「オレのことはいいですから!!」
ディアスは飛び起きて、フェレトに喰ってかかる。
「よくねーよ。ディアス、おまえがベルフェゴールを倒すんだからな。」
ディアスは、これ以上ないほど、アメジストの両目を見開いた。
呼吸すら忘れて、フェレトを見つめている。
「今のオレより、おまえの方が強い。それに、この雨もなんとかしねーと不味いだろ。」
王宮のあちこちから、悲鳴と怒号が響いて来る。
ベルフェゴールの放った強酸の津波は、王宮の広範囲の屋根を溶かしたのだろう。
雨は降り注ぐ。人の皮膚を、肉を、骨を溶かして。
そして、ベルフェゴールは、いつの間にか、姿を消している。
ディアスの白い頬が紅潮する。
菫の双眸が、暁よりも眩く輝く。
フェレトはニヤリと笑って見せる。
「オレもあいつには腸煮えくり返ってるが、いちばん許せねーのは、おまえだろ?」
青と紫の視線が、強く絡む。
「おまえを虚仮にしたヤツには、おまえが地獄を見せてやれ。」
それは、フェレトがディアスを本当の意味で認めた瞬間だった。
「はい!!」
ディアスが満面の笑みで答える。
ディアスは振り向かずに走り出した。
☆
駆けていく弟子の背中を見送り、フェレトが
「治せ、」
と、言いかけたとき。
フェレトの詠唱より先に、その身を乳白色の光が包む。
これだけは譲れません、と言うディアスの声が聞こえた気がする。
経験を積んだ魔法使いなら、対象とある程度距離があっても魔法を発動できる。
ふ、とフェレトの口角が上がる。
(生意気なことしやがる。)
「弟子にばっか働かせるわけにはいかねーな。」
と、フェレトの両目に不屈の光が宿る。
「押し流し、清め祓え、<蒼天泣>!!」
スコール。
天から滝が落ちてきたかのよう。
激しく地を穿つ、峻烈な雨だが、それは不浄を清める聖水だ。
ベルフェゴールの降らした毒の雨を洗い流し、傷口も癒す慈雨。
ただ、ベルフェゴールも毒の雨を止めていない以上、ここから先は根競べだ。
既に強欲の魔王を倒して疲弊しているフェレトの魔力が、どこまでもつか。
(後は頼むぜ、ディアス。)
任せてください、と胸を張るディアスがフェレトの眼裏に浮かんだ。
☆
ベルフェゴールは、尖塔の上に立ち、つまらなそうに下界を眺めていた。
毒の雨が押し流されていく様を。
城壁に立つディアスを見つけると、
「やっぱり来たねー。」
と、表面上は朗らかに笑う。ただし、その黄緑の瞳はゾッとするほど冷酷な光を宿している。
「あーあ、ホントにつまんなーい。ぐずぐずに溶けていく人間を見たら気が晴れるかなーって思ってたんだけどー、キミの師匠に防がれちゃってるんだよねー。どーしよっかなー。」
ふわり、といったん高度を上げたかと思うと、ベルフェゴールは城壁に立つディアスのところまで突っ込んでくる。
油断なく構えていたディアスは、さっと距離を取る。雨に濡れない白金の髪が、ざっと靡いた。
ディアスの正面に立ったベルフェゴールは、ポンッとわざとらしく手を叩いた。
「ああ、そーだ。ここでキミを惨たらしく殺せばいーのかー。そーしたら、<風の賢者>は悔しがるよねー怒るよねー泣くのかなー?ボク、あーゆー、何事にも屈しない、みたいなカオした人間が苦しむ姿にそそられるんだよねー。」
その笑みには、人間には直視し難い、闇の深淵から響いてくるような不気味さがある。
「キミの、魔族にも負けないくらいの綺麗な顔を、ドッロドロに溶かしちゃおうかー?頭蓋骨だけにするより、肉とかずるってめくれてる方が気持ち悪さ倍増でいーよねー。あ、手足はバラバラに切り離してー、指は手も足も一本ずつ魔獣の餌にしてあげるー。可愛い弟子が魔獣に食われるところを、キミの師匠に見せてあげたいなー。」
原初の恐怖を煽るような。
二十歳ほどの見た目だが、昆虫の足や羽根を千切って遊ぶ、道理のわかっていない幼児のようだ。
しかし、ディアスは呑まれることなく、ベルフェゴールを見据えている。
崩れない、揺らがない、昂然とした眼差し。
恐れるものなど、何も無いと、高らかに宣言し。
(フェレトさまが、オレを信じてくれた。)
だから、ディアスはまっすぐ立てる。
ベルフェゴールは、ディアスの眼を見て、興が削がれたようにため息をついた。
「やっぱ、駄目か。だから、引き裂いておきたくて、この怠惰の魔王が、信条に反して結構働いたっていうのにー。」
上手くいかない盤面を投げ出す子どものように。
ディアスが、かすかに眉根を寄せる。
ベルフェゴールは、それに気づいて少しだけ愉しそうになる。人の苦しみこそが、蜜の味なのだ。
そこでようやく、ディアスも理解した。
なぜ、ベルフェゴールが、こんなまわりくどく、手の込んだ罠を張ったのか。
「引き離されるのが、死ぬより辛い。人間には、ごく稀に、そういう絆が生まれるんだよねー。地獄の苦しみを味わいながらのたうち回って生きるのを見る方が、嬲り殺すより愉しいから、ホントはそっちの方がよかったのになー。」
気に入った菓子が売り切れていて、じゃあ、しょうがないからそっち、とでも言うような、羽毛のように軽い声音をかき消すように、ディアスが叫ぶ。
「穿て、<青雹弾>!!」
巨大な氷塊が降り注ぐ。人間なら一瞬で押しつぶし、圧死させる質量。
次々と尖塔に、城壁に落ちて、石でできたそれらを崩落させていく。
ベルフェゴールは危うげなく空中に避ける。
怠惰の魔王を、射殺しそうな眼で睨みつけ、ディアスは吠えた。
「貴様は、絶対にオレが倒す!!」
「できるわけないじゃん!!」
ピイッ!
激しい雨音を引き裂く指笛。
バシャッァァァァ!!
鉄砲水のようにな勢いで、毒の波がディアスに叩き付けられる。
「吹雪け、<蒼雪乱>!!」
ディアスが放った雪嵐が、強酸の水を凍てつかせる。荒れ狂う吹雪をまとった美貌の少年は、雪の精霊のように麗しく、おとぎ話から抜け出してきたように幻想的だ。
しかし、水の方が強い!!
「葬り去れ、<青氷棺>!!」
ディアスが、氷の棺を盾として展開し、ようやく毒水を止める。
ピイッ!
その間に、ベルフェゴールは再度、指笛を鳴らしている。
再び迫る毒の水。
「突き刺せ、<青氷槍>!!」
空気中の水分が、流れ落ちる雨が、凍結する。瞬時に伸びた氷の槍は、毒の水を散らして突き進む。
ディアスの前に到達する前に、毒の水は槍によって左右に分かたれるが、同時に槍も力を使い果たして溶けていく。
「ふーん。」
と、ベルフェゴールはわずかに感心したように、同時に面白くなさそうに眉を上げた。
「なーるほど。全っ然、本気出してはいないけどー、ボクの力を相殺するなんて、そこそこやるんだねー。」
相変わらず空中に浮いたまま、見下してくる。
「でもさー、そろそろ、体、重くなってるんじゃなーい?そのために、さっきからずーっと、無駄話してたんだけどねー。」
「!?」
獲物を前に、舌なめずりをする表情。
「ボクは、キミたちがこの国に来てからずううううっっと、微量の毒をキミの周囲にまき散らしていたんだよー。もちろん、今この瞬間もねー。ボクが操る毒は、水だけじゃないんだなー。」
のんびりと、聞きようによっては間延びしてさえ聞こえる口調で、ベルフェゴールは残忍な手口を披露する。
「ボクの毒は、無色透明、臭いもない。何ら自覚症状もないまま、ゆっくりとキミの体を蝕んでいく。そして、ある一定量に達したら…」
ふふ、とベルフェゴールは愉悦の笑みに恍惚さを滲ませた。
「キミの体は末端から腐っていく。あまーいあまーいにおいを放ちながらね。最後まで、意識を失うことはないよ。キミは、自分の心臓が、最後の鼓動を打つその時まで、全身が崩れる苦痛を感じながら息絶えるのさ。」
唇と眼を三日月の形に歪めて勝ち誇るベルフェゴールに対し。
ディアスの珊瑚珠の唇が、ゆっくりと弧を描く。見惚れるほどの優美さで。
悠然としたその笑みに、ベルフェゴールは、珍しく真顔になった。
(何だ…?恐怖のあまり、狂った…?違う、そういう笑いじゃない…。)
ごうごうと降り注ぐ、雨の音だけがその場を満たす。
ベルフェゴールは、唐突に気づいた。
(おかしい。もう既に毒が回りきる時間は過ぎている。)
こんなに細く、華奢な体が、魔王の猛毒に耐えられるはずが。
「よくやく気づいたか。」
魔王に対して上から目線、という芸当をあっさりやってのけるディアスの笑みに、強気な色が広がっていく。
「フェレトさまは、この国に入った時から、オレに<緑凪祓>をかけていてくれる。もちろん、今、この瞬間も。」
凪。
それは、静止。一切の邪悪は活動を封じられる。
<緑凪祓>は、あらゆる毒も穢れも、一瞬で浄化する。ディアスの周囲は、極上の清浄さを保っている。浄化の魔法の中でも高位に位置し、消費する魔力もけして少なくはない。並の魔法使いなら、数時間が限度。
フェレトは、毒の雨まで弾けるレベルに、ディアスにかけていた<緑凪祓>を強化した。既に発動していた魔法に手を加えるだけだったから、あの場で詠唱は不要だったのだ。
ディアスが別れを告げた時でさえ、フェレトは魔法を解かなかった。
「そんなっ…。」
ベルフェゴールの余裕が、初めて崩れた。
「キミたちがこの国に来てから、どれだけ経っている!?その間、眠っている時でさえも、高位魔法を常時展開させるなんて、人間にできるはずが。」
ディアスが、ベルフェゴールの言葉を遮った。誇らしげに胸を張る。
「それができるのが、オレの師匠だ!!」
「っ!!」
ベルフェゴールが気圧された。魔王にとっては、多少、ゲームが不利になったという程度のことだったはず。それなのに動揺したのは、ディアス気迫ゆえ。
そして、ディアスはその隙を…千載一遇のチャンスを見逃さない。
一か八かの大技。
けれど、勝算はある。
氷属性の魔法で、この場を冷やした。何より、今、この場には、フェレトが降らせている、聖なる慈雨が無限にある。
本来は広範囲に作用する魔法。それを、極小の場に凝縮させる。
「全てを氷に閉ざして、世界を止めよ、<藍氷界>!!」
バキン!!
一瞬で氷結した。
ベルフェゴールを閉じ込めて。
ディアスの魔力が、一気に枯渇する。
「くっ…。」
意識が飛びそうだ。耐えきれず膝をつきかけ、何とか踏み止まる。
封じられた氷の中で、ベルフェゴールはまだもがいている。
(破られる…!)
ディアスは手を伸ばす。
自分の<藍氷界>が完璧からはほど遠いことはわかっている。維持と強化に全力を注がなければ。破壊されたら後が。
その瞬間、風を切って、天を翔けてくる黄金。
(え?)
す、と。
ディアスの手に、重なる手。
ディアスと同じくらいの…正確には少し大きい。当然、大人の手ではなく。
それなのに
「フェレトさま!!」
と、ディアスは呼ぶ。
<碧風翼>の風の羽根を背中に広げ、勝気な瞳に笑みを閃かせて頷くのは、十五、六の少年だ。
太陽を覆い隠す暗雲の中でさえも、眩く輝き闇を照らす金の髪。晴れ渡る蒼穹の瞳。
左の耳朶のピアスがきらりと光る。
「吹雪け、<蒼雪乱>!!」
フェレトの手から、極寒の冷気が放たれた。
「支えてやる。もうちょっと踏ん張れ。」
「はいっ!!」
ディアスが最後の力をふり絞る。
カッと、冷気が収束する。
ベルフェゴールは、その命ごと、完全に凍りついた。
☆
雨が止んだ。
正確には、ベルフェゴールが死んで、猛毒の雨が止んだので、フェレトも魔法を解除したのだ。
「っ。」
ディアスはがくんと倒れそうになり
「おっと。」
と、フェレトに支えられる。
「大丈夫か、ディアス。」
「…結局最後はフェレトさまでしたね…。」
フェレトに抱えられたまま、ディアスがちょっと悔しそうだ。
フェレトが吹きだす。
「魔王を一人で倒せたら、いろいろすっ飛ばして賢者になれるぜ。」
と、腹を抱えて大笑いだ。
いつもよりも高い声で、いつもと同じように屈託なく笑っていたが、ふいにその笑みを止めた。
「使いすぎたか。もともと試作品だしな。」
何を、とディアスが問う前に。
パキッと小さな儚い音がして、フェレトのピアスが砕け散る。魔道具に負荷がかかりすぎたのだ。
同時にふっと、フェレトの姿がかき消え、支えられていたディアスはよろめく。
☆
ディアスが、体を引きずるようにして、部屋にもどる。
天井が吹き飛び、壁も床も家具もあちことが融解し、さらに水浸しになっている城内はひどい有様だった。皆、右往左往していたが、ディアスはそれらには目もくれず
「フェレトさま!!」
と、部屋に飛びこむ。
少年の姿のフェレトが消えたのは、魔道具が限界だったせいで、フェレト自身には何も起きていないとわかっているのだが、自分の眼で見るまでは安心できなかった。
フェレトは、壁にもたれて立っていた。座り込まないところが意地なのか。流石に疲労が濃い顔をしているが、飛びこんで来たディアスに笑いかける余裕はある。
「やったじゃねえか、ディアス。」
と、迎えられ、ディアスが安堵のあまり崩れ落ちそうになるところを、先程と同じように受け止められる。
体格が違うので、当然、少年の姿のフェレトより、その腕は力強い。
「…へえ。」
と、フェレトがディアスの顔をのぞきこむ。
長い指であごを捕えられ、上向かされた。
至近距離で、まじまじと見られて、ディアスはドキリと息を詰める。
「まだまだガキだと思ってたが、漢の顔になったじゃねーか。」
「フェレトさまっ…。」
胸が詰まって、鼻の奥がツンとする。
もう一生分くらい、さっき泣いたはずなのに。
ディアスにとって、フェレトの存在はあまりにも大きい。
たった一言、フェレトに褒めてもらえただけで、こんなに嬉しい。誇らしい。
ここで泣きだしたら、「今日のおまえは泣き過ぎだ。」と笑われそうで、ディアスは、こみ上げてくるものを必死で呑みこんだ。
「そのうちフェレトさまを追い越しますから。」
肩をそびやかして言う。
「相当牛乳飲まねーとダメだな、それは。」
フェレトがしれっと返す。
「背丈の話じゃありません!!」
一瞬で涙が蒸発したディアスだった。
終幕
ディアスが朝から変だ。
食事の支度には慣れてきたはずなのに、目玉焼きを真っ黒焦げにするわ、スープにどかどかと香辛料を放り込んで激辛にするわ。見かねて、今日の食事当番は代わってやった。
朝食の最中も、上の空でぼーっとしていたかと思うと、何か言いたげに、こっちをじーっと見てくる。
「何だ?」
と訊くと、慌てて立ち上がった拍子に、紅茶のカップをひっくり返し、
「な、なんでもないです!!」
と叫ぶ。
(悩み多きお年頃ってやつかあ?)
とは思う。師匠としては、相談に乗ってやるべきなんだろうが、今はそれどころじゃねえ。
オレは、書類に走らせていたペンを一旦止めた。
「ディアス、おまえ調子悪いんなら、手伝わなくていいから寝とけ。」
と声をかけると、びくっと細い肩を震わせた。
「調子悪くなんてないです!それに、フェレトさまに任せていたら、期限に間に合いませんよ。」
生意気を言う。悔しいが事実だ。
オルコス王国での仕事は、かなり…というか前代未聞の被害が出た。なにしろ城が半壊だからな。べつに、オレが好き好んで破壊したわけじゃねーが、「仕方なかった」と証明する書類がいるんだ。これが。でもって、そーゆー書類はえてしてやたらと面倒だ。ついでに、締切は明日だったりする。
この辺り、宮仕えは辛い。
書類仕事はディアスに押し付け…もとい任せときゃ間違いはねーんだが、今日は頼みのディアスがてんで使い物にならない。熱でもあるのかと額に手を当ててみたが、そういうわけでもない。本人も「元気です。」と言い張るが、それにしちゃ、やたらと書き間違えるは、インク瓶を倒すは、散々な状態だ。
オレが話しかけると、悪化するので、しばらくディアスは放っておいて、書類に取り組む。
(えーと、魔王の攻撃を防ぐためにやむなく高位魔法で反撃せざるを得ない状況で…でいいのか?っとに何でこう回りくどい言い回しを。こっから先はどう書くんだ?どっかに文例あったか?)
席を立って、本棚へ向かう。
ここは、書斎というか、仕事部屋というか、歴代の<風の賢者>が使ってきた「執務室」なので、資料は豊富だ。壁一面をその手の本が埋め尽くしている。
滅多に開かないマニュアルは、埃をかぶっていた。払ってぺらぺらめくっていると、やっぱり視線を感じる。
本から目を上げると、バチッと音がしそうなほど見事に視線が合った。
ディアスも前例を当たろうとしていたのか、オレから少し離れた本棚の前で固まっている。
オレは、パタンと本を閉じて棚に戻し、大股でディアスに歩み寄る。ディアスは反射的に逃げかけたが、本棚に手をついて退路を塞いでやった。
「言いたいことがあるならはっきり言いやがれ。ただでさえ捗らねーのに、気になって集中できねーだろうが。」
身長差を利用して、上から圧をかける。
「今度は何した?」
こいつは、繊細な見た目を裏切って、ふてぶてしいし、しれっと無茶をする。ここまで挙動不審になるなら、よっぽどのことをしでかしたんだろう。
「反省してるならオレが何とかしてやるから言ってみろ。今正直に言うなら、怒らねーから。」
白状しろと迫ると、ディアスは
「違います!!フェレトさまはオレを何だと思ってるんですか!!」
と、毛を逆立てた猫みたいに叫んだ。
「おまえ、今まで結構シャレにならねーことしてるぞ。<時の記憶>の特別閲覧室に司書騙して入り込んだり、魔族召喚したりしただろーが。」
「うっ…。それは、そうですけど…。」
と、ディアスが呻く。事実だからな。
「でもっ、今日はそういうのじゃなくてっ…あの…。」
「…。」
無言で見下ろす眼に力を込めると、ディアスが大きく深呼吸した。観念して、ようやく吐く気になったらしい。
制服のポケットから、箱を取り出す。ディアスの手にもすっぽり収まる、小さな薄い箱だ。そんなところに忍ばせておけるくらいだから、当然か。
オレに向かって差し出した。
「あの、これ…。」
受け取ればいいらしい。
コトリと、ごく小さな音をたてて、小箱はオレの手に移る。触れあったディアスの指先が震えていた。
真っ白な箱に、真夏の海みたいな、真っ青なリボンがかかっている。
「開けていいのか?」
ディアスは無言でこっくりと頷く。
シュルッとリボンを解いて、箱を開ける。
コロンと鎮座していたのは、金色のピアスだった。
ディアスに渡したのと同じような、シンプルな金のリング。ただし、中央に小指の爪の半分ほどの石が光っている。
「ヴァイオレット・サファイアか。」
サファイアの中でも貴重な石のはずだ。ディアスにも<星の塔>から給料は出ているが、結構散財したな。
いや、今問題なのは、そこじゃねーな。
「えーと。」
と、オレは箱とディアスを交互に見た。
「おまえ、これを渡したくて朝からそわそわしてたのか?」
ボッと音が聞こえそうなほど、ディアスが一瞬で真っ赤になった。耳まで赤い。もとの色が白いからな。
「だって、初めてなんですよ、贈り物って!」
早口でまくしたてる。
「どうやって渡すのが正しいのか、どこにも載ってないし。フェレトさまのピアスはオレがもらったし、分身作る魔法具は壊れたし、だから、それで。」
「ありがとな。」
ごく自然に声が出た。胸の奥に、暖かいものが広がっていく。体の末端まで。
「大事にする。」
ディアスの顔が、パッと輝いた。
花が咲くように笑う。明けの明星が輝く暁の空の瞳だ。
急に、ハッと我に返った顔をして
「この部屋暑いですね。」
と言い出す。それはおまえの体温が上がってるからだろーが。
「風入れましょう、風。」
と、ディアスはいきなり窓を開け放つ。
「おい待て!」
さあっと吹き込んだ風に、散乱する書類。オレが慌てて片手でかき集めると(片手は箱で塞がっている)
「ご、ごめんなさい!!」
慌てて窓を閉めて、ディアスが駆け寄ってくる。オレの隣にかがんで、舞い散った書類に手を伸ばす。
一瞬の風は、涼気を含んで、夏の残滓を散らしていった。
「もう秋だな。」
「はい。」
と、答えるディアス。
願わくば、巡る季節を、これからもおまえと共に。
終
目覚める直前に見た悪夢は、おそらく虫の知らせ。
案の定、飛び起きたフェレトの隣に、彼の弟子はいない。
フェレトが部屋に張った結界は破られていない。
フェレトがディアスにかけた魔法も、問題なく機能している。
それが示す事実は、ディアスは自分の意志で出て行ったということ。
ディアスが部屋から出る物音で、気配に聡いフェレトが起きなかったのは。
(あいつ、寝ているオレに<黒幻夢>かけやがったな。)
フェレトが掛布をはねのけて立ち上がったとき、ひらりと、蝶の羽根のように紙片が舞う。
拾い上げると、一目で読み終わる、短い文面だった。
几帳面で丁寧で、けれど少しだけ癖のある、見慣れたディアスの筆跡。
『フェレトさま
約束を守れなくなりました。
ディスパテル・オルコス』
フェレトの形の良い唇が歪む。
フェレト自身がウルカヌスにあてた別れの手紙と、その短さはよく似ている。
フェレトは、ぐしゃりと手紙を握りつぶした。
ディスパテル・オルコス。
それが、ディアスの、オルコス王国の第二王子としての名か。五年前、元の名を捨てた時に、かけ離れた名前では、とっさに反応できないと考えたのか。当時、たった十歳だったくせに、小賢しく頭が回る。
「ディスパテル・オルコスなんて、知らねえよ。」
たとえ、ディアスが十年前に出会った王子ではなかったとしても、フェレトのディアスへの想いは変わらない。
ディアス自身が言ったのだ。
『フェレトさまに、今のオレを認めてほしかった。』
と。
フェレトの弟子は、ディアス・パレル。
だから、フェレトは、こんな戯言を、受け入れる気は毛頭無い。
紺碧の双眸が、冷ややかに眇められる。
完璧に整った美貌は、激情を宿すと凄絶に冴えわたる。
見た者がいれば、誰もが怖気づいただろう。
「オレを舐めた真似するとどうなるか教えてやるよ、ディアス。」
☆
ディアスには、フェレトの魔法がかかった状態だ。自分の魔力だから、たどるのはたやすい。
フェレトは、昨日案内された大広間の扉を開ける。ディアスのいる場所は、その先だった。通り抜けようとした時。
「貴公をこの先に行かせるわけにはいかぬ。」
夜闇を切り取ったかのような、艶やかな漆黒の髪をサラリとなびかせて、大剣を背負った美丈夫が立ち塞がる。
フェレトは、カサルが思わずたじろぐほどの、凍てつく声を放った。
「失せろ。」
「っ…。そうはいかぬ。主から、貴公を第二王子の元へは行かせるなと厳命されている。貴公らにも事情があろうが、こちらも仕事だ。我が誇りにかけて、命を違えるわけにはいかぬ。」
ふだんのフェレトなら、カサルの信条に、それなりの敬意を払っただろう。しかし、今のフェレトは、いとも容易く切り捨てる。
「悪ぃが、余裕がねーんだよ、今のオレは。」
サファイアの瞳には、その視線で捉えた相手を震え上がらせる怒気がある。
「命が惜しくねーなら、かかってきな。」
ザッと、フェレトの全身から放たれた烈風。
それが、戦闘開始を告げる合図。
「噛み殺せ、<翠嵐獣>!!」
最初から、全開。
全てを切り裂く暴風をまとった、獰猛な獣が、カサルに襲い掛かる。
「防げ、<金剛壁>!!」
カサルの前に築かれた、光の壁に、<翠嵐獣>が激突する。
最強の防御魔法であるはずの<金剛壁>だが、暴風そのもので構築された有翼獅子の前に、轟音とともに砕け散る。しかし、<翠嵐獣>も相殺されて空気に溶ける。
しかし、その前にフェレトは新たな魔法を放っている。
「天地を切り裂け、<緑風牙>!弾けろ、<翠風弾>!」
牙を剥くのは、無数の、凶暴な風の狼。翠風弾の爆発が、その背を押す形になる。スピードを増して、突っ込んでくる。
「無へと帰れ、<暗黒闇>!!」
闇が顕現した。
凝縮し、濃縮した、密度の濃い、純粋なる黒。
のしかかってくるように重く、空間ごと呑みこんでいく、質量ある漆黒。
一瞬のうちに、無数の風の狼をその腸に収め、それらを生み出したフェレト本人を襲う。フェレトは闇に触れられる前に、新たな魔法を放つ。
「弾けろ、<翠風弾>!連撃!!」
風が爆発する。誘爆するように、次々と暴風の連鎖が起こる。凄まじい爆音が轟き、大広間の壁が、床が、天井が、木端微塵に砕け散る。舞い上がる粉塵が、視界を遮る。耳も眼も、使い物にならなくなるほどの破壊をまき散らす。
しかし、<翠風弾>では、数を頼みにぶつけたところで、<暗黒闇>の侵食は防げない。
「見誤ったな、<風の賢者>ともあろう者が情けない。無駄に魔力を消費したか。」
優位に立ったはずのカサルが、逆に気分を害したように嘆く。手ごたえの無さを不満に思うのは、そのまま高い実力の裏返しだ。
フェレトを絡め取ろうと伸びる漆黒。
「大地を抉れ、<翡翠嵐>!」
ドンッ!!
大穴の開いた天井。澄んだ蒼天がのぞく。
その天空から突き刺さる、狂風。
あらゆる物を巻き込み、粉砕して突き進む。
それでも、<翡翠嵐>の破壊力は、<暗黒闇>と対等ではない。しかし、先に<翠風弾>の爆撃を受けていた<暗黒闇>は、その勢いを減じる。
そこを見逃すフェレトではない。一気に畳み掛ける。
「一切を彼方へ弾け、<碧颱風>!!」
ねっとりと重い闇が、ようやく蹴散らされ、細切れにされ、四方八方に舞い散った。
「見事だ。」
と、カサルはむしろ晴れやかに賛辞する。
「しかし、大分消耗しているな?」
と、からかうように、自らが操る闇と同じ色の双眸で値踏みする。
カサルの視線の先、フェレトは、肩で大きく息をしていた。ポタ、とこめかみから汗が伝う。
しかし、その蒼穹の瞳の鋭さは、全く損なわれていない。ぎらぎらと、狂おしいほどに輝いて、眼前の敵を貫く。
カサルは、ふ、と微笑した。
「闘うことを恐れず、しかし、そこに呑まれず。貴公の魂は気高く強い。そして、実は思慮深い。疑問に思っているのだろう?貴公以上の大技を使った我が、ほとんど疲れを見せぬことに。」
カサルが背中の大剣を抜いた。
ざっと、大きく広がる長い漆黒の髪。
「楽しみだ。絶望を知ってもなお、貴公の魂が折れぬことを願うぞ。」
カサルが、長剣を一閃する。まるで力を込めていない、息さえ整えずに振るわれた剣。
「!?」
フェレトが目を剥く。
軽々と振り回せるような重量の剣ではないはずだった。持っているだけで腕が震えるほどのー。
人間に可能な動きではない。
すぐにそれは証明される。
大剣から放たれたのは、漆黒の闇。
闇の刃が、フェレトを直撃する。
「吹き荒れよ、<緑風刃>!」
とっさには、それしか発動できなかった。しかし、風の刃は、闇の刃にあっさりと折られる。
ザンッ!!
フェレトの胸を、横薙に一閃する。
鮮血が飛び散った。
まずい、と直感した。焼けるような痛み。噴水のように噴き出し、滝のように流れ落ちる血潮。足元に広がる血溜まり。
ツ、と唇からも一筋の赤。胸元に零れ落ちる。
激痛と貧血に、意識が遠のきかける。
「治せ、<白癒光>!」
フェレトは、傷口に、きつく掌を押し当て、叫ぶ。ボウッと、乳白色の光が、見る間に傷を塞いでいくが。
それを見守ってくれる敵などいない。
ザンッ!!サンッ!!ザンッ!!
カサルが放つ、新たな斬撃。迫り来る、ぬばたまの刃。
フェレトは、後方に跳びながら、魔法を放つ。
「防げ、<金剛壁>!!」
間一髪で完成した、絶対防御の厚い壁が、キンッと、闇の刃を弾き飛ばす。
ギリギリだった。
「ふむ。たいしたものだ。後ろに跳んでいなかったら、間に合わなかっただろう。体が勝手に最適な動きを選び取る。命がけの闘いによって染みついた経験か、天賦の才か。その両方か。」
カサルは、かすかに瞠目している。
「実にすばらしい。噂以上だ。」
次第に、興奮がせり上がってくる。
「殺すには惜しい人間だ。」
「てめえ…!」
フェレトが、獣のように低く唸る。
闇を凝らせた、黒い刃。
それは、詠唱なしで放たれた。
フェレトに致命傷に近い傷を与えたにも関わらず、あの力には、魔法としての名前がない。
フェレトの紺碧の瞳が、険しさを増す。
「やっぱり、魔族か。」
「薄々気づいていたようだな。偽りの名を告げた非礼を詫びよう。我が名は、マモン。」
さらりと告げた、その名が示すものは。
「強欲の魔王、か。」
フェレトが低い声で正体を言い当てる。道理で強いはずだぜ、と呟くが、その目には怯んだ色は全くない。
爛々と、ギラギラと、双眸には、蒼白い炎が燃え立つ。
相手が誰であろうと、今のフェレトは、絶対に勝つ。
「良い目だ。」
カサルが、熱に浮かされたように呟く。酒に酔ったような目で。
「愉しめそうだ、最後まで。」
長剣を、頭上に掲げる。やあっ、と裂帛の気合いとともに。全身全霊で。
ザンッ!!
振り下ろす!!
空間そのものを断絶するかのような斬撃の前に、<金剛壁>が呆気なく砕け散る!!
きらきらと虹色に光りながら、四方八方へと舞い飛ぶ破片。
光の乱反射が、視界を埋め尽くす。
光以外、何も見えなくなった、その奥から。
「天に昇れ、<碧風竜>!!」
大広間を埋め尽くすほどの巨大な竜巻が、マモンに襲い掛かる!!
激しく渦を巻く、風の形の兵器。
光の乱舞で一瞬視界を覆われたマモンは、反応が遅れる。
「ふんっ!」
しかし、とっさに大剣で受ける。
ピシイイイッと、ひびが入ったが、マモン自身は無傷。しかし、その面は、驚愕に彩られていた。
その視線の先で、フェレトがガクリと膝をつく。
「この剣を損なうとは、つくづく予想を裏切ってくれる…しかし、流石に力を使い果たしたか。」
ゆっくりと、近づいて来る。
フェレトの首筋、触れる直前で、大剣の切っ先を止めた。
マモンを睨み据える青い瞳は、鏡のように揺らがない。
マモンの方にこそ、かすかな迷いがある。
「殺すには惜しい。しかし。」
「吹き荒れよ、<緑風刃>。」
蒼天を翔ける風のような、澄みきった少年の声が響いた。
斬、と。
至近距離で。
それこそ、マモンの影に潜むように。ぴったりと背後に迫っていた少年が、炸裂させた風の斬撃。
<碧嵐獄>には到底及ばない魔法だが、0距離で、しかも完全に油断している状態ならば、確実に仕留められる。
マモンの背中から、胴を深く、一直線に切り裂いた。
バシャッと、漆黒の血が流れ落ちる。スコールのように、激しく床を穿つ。
「な…に…?」
ごぽっと、血を吐きながら、首だけをわずかに巡らせて背後を見る。
十五、六歳の少年が立っていた。
唇を引き結び、無情な眼差しで、マモンの視線をはね返す。
その双眸は、鮮やかな瑠璃。
ここまで美しい青は滅多にないのに、直感的に知っている目だと思う。
マモンは、ゆっくりと視線を戻した。それだけの動きに、激痛が伴う。
「そう…か…これは、貴公自身…。しかし、いつの間に…。」
ハッと、流れ落ちる血と同じ、黒曜石の双眸が見開かれる。
「そうか…<翠風弾>の爆音と粉塵に紛れて…。あの時には、既に我が正体を見抜いておったか。」
闇雲に無駄打ちした挙句、<暗黒闇>を防げず終わったわけではなかった。魔法具を発動するための目くらましだ。
「<暗黒闇>は、禁呪に準じる大技だぜ。人間には。」
フェレトは、ゆっくりと立ち上がる。長いマントが優雅に揺れた。
<碧嵐獄>と同等の大技だ。使える者は、ほんの一握り。そんな魔法使いがいるなら、名を知られていないはずがないのだ。
「なるほど。軽率だったな…。これは一本とられた、と言うのだろうな…。」
欺かれたにも関わらず、強欲の魔王は、卑怯と罵ることもない。むしろ、満足そうに目を細める。死に至る激痛の中で、その表情は不思議と清々しい。
フェレトは、不思議そうに瞬いた。
「強欲、つーわりには、自分の命にすら執着がねーな。」
マモンは笑う。厳めしい印象の、渋い美貌にはそぐわない、子どものような笑顔だった。
「ありとあらゆる物を手に入れてきた。金銀財宝も集め尽くした。もう飽きたわ。この世に二つとない宝も、手に入れた瞬間につまらぬガラクタに変わる。」
人間では想像すらできない、長い長い時間の果て。
「我が行きついた最後の欲は、戦うことよ。しかし、我にかなう敵に、ここ数百年、見えたことはない。…貴公との勝負は面白かった。」
思い残すことはない、と言いたげな、晴れやかな笑み。
「そうか。」
と、フェレトが静かに頷く。
「噛み殺せ、<翠嵐獣>。」
有翼獅子の形で吹き抜けた、一陣の風が、強欲の魔王に止めを刺した。
フェレトが、耳朶のピアスに触れる。
朽ちていくマモンの背後に立つ少年の姿が、すうっと薄れて消えた。否、本体に戻った。
フェレトが今つけているピアスは、分身を生み出す魔法具だ。
試作品とは言え、機能の面では、数時間、分身を保てる。しかし、今は余分な魔力を消費できるほど余裕がない。
何故、魔王が人間のふりをして、オルコス王国にいたのか。単に、次々と魔王を屠ってきたフェレトを狙っていただけなのか、もっと他に裏があるのか。そうだとしたら、今の状態で動くのは危険だ。
けれど、全て承知の上で、それでもフェレトは、彼の弟子のいる場所へ向かう。
深緑のマントが翻った。
☆
「キミの師匠はすごいねー。ボクが用意した最高の刺客だったんだけど、倒されちゃったよー。」
と、語るのは、騎士の格好から、王族の衣装に着替えたキュクロプスだ。派手な色合いの、上着の丈の長い宮廷服。その下のシャツの袖には大仰なフリル。王族の正装をすると、本来の美貌が匂い立つ。
「困った困った。どうしよう。もうすぐここに来ちゃうよー。」
言葉とは裏腹に、キュクロプスの口調は軽薄そのものだ。せいぜい、チェスやカードで不利になった、という程度の物言いだ。
こういう態度ゆえに、両手の数ほどいる前王の子、現王の兄弟の中でも、「道化者」「痴れ者」という評価で見下されているのだが…。
(全部、演技だったわけか。)
と、ディアスは胸の内だけで吐き捨てた。キュクロプスを、『あの王弟殿下、油断ならねー。あれで全部手札を見せたとは思えねーんだよな。』と評したフェレトの目は確かだった。
ディアスは、表面上は眉一つ動かすことなく、凍てついた無表情で言い放つ。
「来ても問題ないでしょう。追い返しますよ、叔父上。」
「できるのかなー?大好きな師匠を前にしたら、キミの覚悟とか決意なんて、すーぐに崩れちゃいそーだけどー。」
キュクロプスは、淡い水色の瞳を三日月の形に歪めて訊いてくる。
「ねえ、ディスパテル王子殿下?」
「見くびるな。」
鞭打つ声音は、氷の響き。
「フェレトさまのためなら、オレは自分の心くらい殺せる。」
紫水晶の瞳に迷いはなく、狂気もない。
全てが凍てつき死に絶えた、虚無の静謐。
☆
時間は、しばし、巻き戻る。
フェレトとともに分け入った山で見つけた、大量の骸。フェレトに、『生存者探して、<白癒光>かけろ!』と指示され、ディアスは吐き気がする血臭に絶えて、まだ息のある人間を探した。
口元に手をかざし、脈を計り、既に命が尽きていることを確かめるたびに、目の前が暗くなっていく。まだ温もりが残っていても、手遅れなのだと思い知らされるたびに。それでも、必死で次の人間に手を伸ばした。
それが魔法使いの役割であり、何より、フェレトに任された使命だから。
最後の一人には、かすかだが、息があった。急いで<白癒光>をかけ、傷を塞ぐ。ただ、豪奢な宮廷服は血塗れで、大量に出血したことは明らかだった。傷が塞がっても、血液がもどるわけではない。
だから、フェレトに『生存者は?』と訊かれ、います!一名!<白癒光>はかけましたが、このままでは時間の問題です。』と答えた。
フェレトに、『そいつ連れてここを離れろ!』と命じられ、躊躇わなかったと言えば嘘になる。だから、返事が一瞬遅れた。
見ず知らずの人間の命を助けるより、フェレトの隣で戦いたい。
それがディアスの本音。
けれど、ディアスはフェレトの弟子として、誇れる選択をした。無辜の民を守るのが、魔法使いだと、フェレトがずっと、その背中で語ってきたことだ。
そして、瀕死の人間を連れてーディアスは自分の腕の力では抱えられないとわかっているので、彼にも<碧風翼>をかけたー王宮へ向かった最中、ディアスはそこに気づく余裕が生まれた。
(宮廷服?)
ディアスが助け出したのは、十七、八ほどの少年だった。山にいたのだから、自分たちと同じように、依頼を受けた魔法使いだと思っていた。事実、骸は、魔法使い組合の制服を着ていたり、タリスマンやアミュレットを身に着けていたりした。しかし、この少年は。
(魔法使いじゃないのか?)
だとしたら、この少年はなぜ、魔族がうろつく山にいたのか。そもそも、この少年は何者なのか。
べったりと血がつき、固まってしまった髪の色は、色あせたような、くすんだ金。最近どこかで、と記憶を探ると、すぐに思い当たる。そう言えば、どことなく、あの男に似ている。
この少年に会ったことなどほんの数回、言葉を交わした記憶はない。もし、想像が当たっているとするなら、
(ずいぶんと皮肉だ。)
とは思う。しかし、特に感慨はないし、恨みもなかった。
むしろ、感謝しているかもしれない。この少年がいなかったら、ディアスはただ一人の王子だった。妾腹とはいえ、唯一の王子が簡単に城を抜け出せたはずがない。捨て置かれた身ゆえに、可能だったこと。
(ずっとこの国にいたら、オレはフェレトさまの弟子になれなかった。)
いずれにせよ、この少年が誰であろうとも、ディアスはフェレトに任された使命を果たす。
ディアスが跳ね橋まで来ると、城壁塔に詰めていた騎士が寄って来る。山から戻って来た魔法使いを出迎える役目なのだろう。ちょうどいいことに、まだ騎士の格好をしていたキュクロプスだった。ふだんから、こうして城の中を自由に徘徊しているのだろうか。道楽なのか趣味なのか、何か目的があるのか、行動に謎しかない王弟殿下だが、この場合は助かった。
キュクロプスなら、確実にこの少年の顔を知っている。
「おかえりー。どーだったー?」
と、呑気な声をかけてくるが、ディアスが<碧風翼>を解いて横たえた少年の姿を目にして凍りつく。
「また悪い癖が…。」
と、苦々しく呟く。
(やっぱりか。)
と、ディアスは確信した。
「早く医師に。王太子ですよね?」
ディアスの異母兄。表向きは、現王の唯一の子であり、オルコスの第一王位継承者。
☆
幸い、王太子は一命を取り留めた。
部屋でフェレトを待っていたディアスは、やって来たキュクロプスから聞いた。
単純に良かったなと思う。フェレトに任された使命は果たせた。
戻って来たフェレトに『おまえが連れて行った怪我人は。』と問われ、事務的に、事実のみを告げた。真実ではなく。
ディアスは、この件はこれで終わりだと思っていたのだ。王太子が山の中にいた理由も、よくよく考えれば、魔族を見てみたいとか、自分も宝探しをしたいとか、そんな理由で魔法使いを引きつれて行ったのだろう。ディアスが王子としてこの国で過ごしていたころから、周囲に甘やかされて育ったせいで、我が儘放題だったと思い出す。会うことはなくても、噂は伝わる。特に、ディアスは王宮で生き抜くために、情報はかき集めていた。
学友として王宮に上がっている貴族の子弟に、特に理由もなく暴力を振るう。閉じ込める。珍しい物を持っていれば取り上げる。出された食事が気に入らないと、床に皿を叩きつけて作り直させることなど日常茶飯事。勉強全般を嫌い、「教え方が悪い。」と教師を次々クビにする…。
子どもの頃の性格は矯正されないどころか、横暴さに拍車がかかっているらしく。
「まったく、困った王太子サマだよ。魔法使いたちに護衛をさせて、山に入ったんだ。ホント軽率っていくかー問題しか起こさないんだよねー。あんなのが王になったらオルコスの未来はお先真っ暗だよー。」
と、キュクロプスがぼやいていた。
この時は、そんなキュクロプスの愚痴など、ディアスは聞き流していた。
生まれ故郷だが、オルコス王国の現在も未来も、ディアスにはどうでもいいことだった。
しかし、戻ってきたフェレトが眠りに就いている間に、再び部屋を訪れたキュクロプスはー。
今までと何一つ変わらない、道化の笑みを浮かべ、しかし今までとは明らかに異なる怜悧さをのぞかせて告げた。
「王太子殿下は、容体が急変して、死んだよ。これはキミにとって僥倖なのかな?ディスパテル王子殿下。」
ディアスはフェレトが眠っていることを確かめ、迷わずキュクロプスを部屋から連れ出す。
キュクロプスの目を見れば、誤魔化しても無駄なのは、明らかだった。
☆
キミさー、そんなに目立つ美貌なのに、気づかれないって本気で思ってたワケ?ああ、気づかれてもスルーされるって思ってたのかな?確かに、今も昔も、側妃が産んだ第二王子なんて、邪魔なだけで何の価値もないもんねー。
でもさ、この状況じゃ、キミの素性を見逃すことなんてできないよー。
だって、キミには動機がある。
王太子を殺す動機が。
ああ、キミの心情なんか、どーでもいいのさ。
客観的に、どう見えるか。
問題なのは、ただそれだけ。
まず第一に、恨み。
そして第二に、王位継承権。
陛下の子は、王太子以外にはキミだけだ。
キミは頭の良い子だったから、忘れたなんて言わせない。オルコスでは、たとえ妾腹だろうと、王の兄弟より、子どもの方が継承順位が高い。
王太子が死んで、キミが第二王子として名乗りを上げれば、キミには王位が手に入る。
だから、キミの意志なんか聞いてないってばー。
周囲にどう見えるかっていう話。
今、この国は財宝のおかげで、信じられないくらい財力が上がった。今のオルコスの王位には価値がある。
ああ、勘違いしないでほしいんだ。
ボクはべつに、キミを王太子暗殺の犯人に仕立て上げようなんて思っちゃいない。
その逆さ。
ボクはねー、キミがこの国の王になればいいと思ってるんだよ。
☆
キュクロプスの私室らしい、豪華な調度品の鎮座する部屋。人払いがなされているのか、召使も護衛もいない。
ディアスは、この上なく冷ややかに、キュクロプスを眺めた。
「オレは、オルコスの王位なんて全く興味がない。だいたい、王位継承者は掃いて捨てるほどいるだろう。」
「そう!でもロクなやつがいないんだよねー。王太子と似たり寄ったり。」
キュクロプスは、辛辣だった。
「あのねーボクはこれでも、オルコスの王族として、この国の安寧と発展を願ってるワケ。でも、残りの王位継承者の誰が王になっても、国を潰すだけだよ。」
「だったら、あんたが王になればいい。」
ディアスは、この無意味な問答をさっさと切り上げたかった。キュクロプス以上に辛辣な口調になる。
「さっきも言ったよー。キミのが王位継承順は上。それにね、キミ、ボクよりずーっと頭がいいじゃない。その美貌も、魔法の才能も、民に人気が出るよー。建国の英雄の再来だ。今、オルコスには、かつてない財力という武器がある。うまく使えば他国に侵略して領土を広げることだって可能だ。ゆくゆくは、大国と肩を並べ。」
「断る。」
有無を言わせずはねつける。
完璧な拒絶。
ディアスにとって、この戯言を聞いているのは時間の浪費以外の何物でも無い。とっとと踵を返して歩き出した。
だが、ドアノブに手を伸ばす前に、キュクロプスが素早く回り込んでくる。
「いい加減に。」
「だったらキミには、王太子暗殺の罪を負ってもらう。」
ディアスは、一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。次の瞬間、沸騰するように怒りが湧く。
「ふざけるな!!そんな冤罪が。」
「まかり通るところでしょ、王宮は。」
にんまりと笑うキュクロプスは、明らかにまとう雰囲気を変えていた。水色の瞳の奥から、冷酷な光が射しこむ。それは、人を単なる道具として扱い、使い捨てても、何ら良心に呵責を感じない者の目だった。
「王族のボクが一言言えば、そうなる。ただの魔法使いの子どもの言うことなんて、誰も耳を貸さない。妾腹の王子として育ったキミには、身分の差ってものが身に沁みてるでしょー?」
ディアスは、キュクロプスを睨み据える。
少女のような可憐な美貌は、怒気を孕むと冷たく冴えわたる。
冷徹なほどの冷静さで返した。
「オレは、<星の塔>の魔法使いだ。<星の塔>が、おまえたちに屈するとでも?」
キュクロプスは、全く動揺しなかった。
「世界有数の魔法使い組合、<星の塔>か。確かに、王侯貴族にさえ膝を折らせるね、あそこは。でも、キミは素性を隠してるんでしょ?それを密告したら、キミは<星の塔>からも追われるよ。だって、客観的に見れば、動機は十分。キミが王太子を恨んでいないはずがないし、王位簒奪ってのも説得力がある。所属する魔法使いが王族を殺したなんて、<星の塔>の顔に泥を塗る行為だ。威信にかけて、地の果てまでも追ってくるよ。もちろん師匠である<風の賢者>も監督不行き届きで罪に問われるだろうねー。せめて、キミがホントにただの、一魔法使いだったら、また話は変わっただろうけど。だって、ほら、オルコス王家と関わりがないなら、動機もないってことだもん。」
キュクロプスは、盤面からディアスの駒を一つ一つ奪うように、追い詰めていく。
それでも、ディアスは毅然と顔を上げている。
紫水晶の瞳に宿る光は、燦然と眩いままだ。
「フェレトさまは。」
「そうだねー。<風の賢者>は、キミを信じてくれるだろうねー。そして、守ってくれる。オルコス王家からも、<星の塔>からも。彼は、懐に入れたものを、絶対に見捨てはしない。彼なら、たとえ、世界中から追われても、キミを守り抜く力がある。キミはそれがわかっているから、そんなに堂々としていられるんだよねー。で、キミは。」
キュクロプスの唇が、残忍な笑みを刷いた。
不可視の毒をまき散らすように、呪うように。
「<風の賢者>の一生を、自分に縛りつけるつもり?生涯、自分のためだけに生きろと?」
「っ!!」
世界が反転した。
ディアスは、がん、と鈍器で頭を殴られたような衝撃に、膝をついていた。
一生、安住の地を持たず、追われ続ける。
フェレトは、ウルカヌスにも、<光の家>の子どもたちにも、二度と会えない。
そういうことなのだ。
一つの王家を、そして世界中に根を張る<星の塔>を敵に回すということは。
フェレトは、きっとディアスを選んでくれる。
似たような状況に陥ったことはある。<光の賢者>の殺害容疑をかけられたとき、フェレトはディアスに言ってくれた。『弟子一人守れねえような賢者の位なんざ、こっちから捨ててやるぜ!』と。
あのとき、ディアスは素直に喜んだ。
けれど、今のディアスは、その浅はかさを知っている。
あれから、ディアス自身も<星の塔>で依頼をこなし、フェレトと共に様々な事件に関わって、経験を積み重ねた。
ディアスを選んだら、フェレトは、<風の賢者>として救えるはずの人間を、救えなくなる。
フェレトが積み上げてきた全てと、未来を、ディアスに捧げるということ。
それは、ディアスが、心の奥底に封じ込めた本音であり、剥きだしの欲望。
体の芯が蕩けるほどに甘美な誘惑であり…それゆえに、ディアスは、それが禁忌だと知っている。
自分の強欲さくらい、理解しているのだ。
(このままじゃ、オレは、自分の欲望のままに、フェレトさまを喰い尽くす。)
風は、自由だからこそ、風なのだ。囲い込み、束縛すれば、それはもう風ではない。
ディアスは、無意識に左の耳朶に…そこに光るピアスに触れる。縋るような手つきで。
胸の奥が軋みをあげる。
心が砕け落ちる音が、どこか遠くで響いている。
☆
そして、現在。
ディアスは、目を閉じて壁に寄りかかり、近づくフェレトの足音を聞いている。
王宮の、奥まった一室は、かつて第二王子だったときに与えられていた部屋。しかし、運び込まれた調度品は、当時とは比べ物にならないほど金がかかっている。
「最後の逢瀬に、ボクは邪魔でしょ?」と、キュクロプスは出て行った。部屋の中には、ディアスしかいない。
(フェレトさま。)
昨夜のことを思い出す。
眠るフェレトを、ただじっと見つめていた。
目に焼き付けるように。
フェレトが起きなければ、一晩、そうしていたかもしれない。
何度、あの手に頭を撫でてもらっただろう。長い指も桜色の爪も、芸術品のように綺麗だけど、大きな掌はいつもあたたかい。血の通った人間の肌。
何度、あの腕に抱き上げてもらっただろう。ディアスを軽々と抱き上げるたくましい腕の中が、いつの間にか世界で一番安心できる場所になった。急に視界が高くなっても、不思議なくらい恐怖はなくて。
何度、あの唇で、名前を呼んでもらっただろう。
名前なんて、どうでも良かった。元の名をそのまま使っていては支障が出るし、大幅に変えれば、とっさに反応できない。だから、適当に少しだけ変えた。ただそれだけの名前だった。
けれど、今はディアスがいい。
フェレトが何度も何度も呼んでくれた名前だから。
低く艶やかな、体の奥まで響く美声で呼ばれる自分の名前が、いつしか、こんなに大切なものになっていた。
そして、まぶたで隠れて見えなかった、長い金の睫毛に囲まれた、蒼天の瞳。
海より深く、空より澄んで。吸い込まれそうな至高の青。どんな高価なサファイアも、フェレトの瞳の輝きの前ではかすんでしまう。
いつだって、生き生きと颯爽と、明るく眩しくディアスを照らす。
何度、あの瞳に映してもらっただろう。
(今日で最後だ。)
聞き慣れたフェレトの足音が止まった。
ディアスは壁から離れて、まっすぐに立つ。
☆
バタンと音をたてて後ろ手に扉を閉め、フェレトが入って来る。
ディアスは声を上げそうになったのを無理やり呑みこむ。
フェレトの制服は血塗れだった。
胸元を開けて、素肌をのぞかせているので、そこに真一文字に刻まれた傷口が見える。<白癒光>で塞いではいるが、相当の深手なのは見るだけでわかる。
フェレトはディアスを一瞥し、唇の片端だけで薄く笑った。
声を荒げたわけではない。むしろ抑揚のない声だったが、空気の温度を下げるような凄みがあった。
「ずいぶん、ふざけたカッコしてんじゃねーか。」
「本来の姿です。オレは、ディスパテル・オルコスに、もどります。」
ディアスはにこりと優雅に微笑む。完璧に計算し尽して作った笑顔は、身にまとうのが見慣れない宮廷服のせいもあって、ディアスを別人のように見せている。
金糸銀糸で、びっしりと花の刺繍が施された丈の長い上着。その下のシャツのレースも、花のモチーフを緻密かつ洗練された手法で編み上げている。これ一着で庶民の家なら建つだろう。そんな王子の正装をさらりと着こなし、ディアスは涼しげに、華やかに微笑んでいる。
「それで、おまえは平気か?」
フェレトは、理由も説明も求めなかった。
ディアスを捕えたフェレトの瞳は、さざ波一つたたない、深く澄んだ湖のようだった。鏡のように、真実を映し出す。
虚偽も欺瞞も、あらゆる嘘を見透かして、心の最奥をさらけ出させる…無理やりにでも暴き立てる凶暴さがある。
ディアスは、丸裸で絡め取られた気分だった。
気取られないように、かすかに息を呑み、浮かべた笑みを崩さないことに全力を注ぐ。
「はい。オレが自分で選んだことです。」
それは、真実。
(オレは、フェレトさまにー。)
「…ならいい。元気でな、ディアス。」
フェレトが踵を返した。翻る深緑のマントに、ディアスは手を伸ばしそうになる。必死で押さえつけた。
「フェレトさまも。」
フェレトの大きな背中が、ドアの向こうへ消える。
ディアスの目の前で、ドアが音もなく閉まった。
☆
ディアスは、必死で数を数える。
(…九十五、九十六、九十七…。)
(まだだ。まだ耐えろ。)
フェレトが、この部屋から完全に離れるまで。声が届かなくなるまで。
(…百。)
膝を折る。
「――――――――!!」
言葉にならない叫びが、珊瑚色の唇から迸る。
ぽたぽたと、握った拳に涙が落ちる。
溢れて、止まらない。決壊したように。熱くて塩辛い。
ディアスの左手が、震えながら耳朶を探す。探り当てたピアス。
ねだって、譲ってもらった、フェレトのお下がり。今、ディアスを支えてくれる物はこれだけだった。
「ごめんなさい。」も「ありがとうございました。」も言えなかった。そんな資格はなかった。
導かれ、助けられ、守られ、救われ、慈しまれ、惜しみなく降り注ぐ慈雨のような愛情をもらっておいて、結局は何一つ返せない。
『大人になったら、一諸に酒呑もうぜ。』そんな、ささいな約束すら、果たすことができない。
ディアスの震える唇が、こらえきれなくなったように、その名を紡いだ。
「…フェレトさまっ…。」
「何だ?」
え、とディアスは、呆けたように顔上げる。
涙が頬に弾ける。
幻聴だと、そう思ったのに。
いつもと何も変わりなく、ディアスの正面にフェレトがいる。膝をついて、ディアスを見下ろしている。
フェレトは、呆れたように、フンと鼻で笑う。
「全然平気じゃねーじゃん、おまえ。」
「どうして。」
フェレトは、出て行ったはずだった。
夢の中にいるかのように、ディアスは頼りなげに呟く。
「<幻白光>は、おまえの専売特許じゃねえよ。」
ディアスは、ハッとした。
フェレトが出て行ったとき、扉の閉まる音はしなかった。入って来た時は、音がしたのに。
<幻白光>は、光を操る魔法。視覚にしか作用しない。おそらくフェレトは、部屋に入る前に呪文を唱えておいて、時間差で発動させたのだろう。
ディアスは、まだ呆然としたまま、かすれた声で言う。
「オレを騙したんですか。」
「悪いな。オレは、おまえのためなら手段は選ばねえよ。」
フェレトの腕が伸びる。避ける暇は無かった。胸倉をつかまれ、思い切り引き寄せられる。
鼻先が触れる距離で。
「説明しな、ディアス。なんで、こんなトチ狂ったこと言い出しやがった?」
「っ!狂ってなんかいません!!」
間近に迫る青い瞳に、何もかもを預けてしまいたくなる誘惑に、必死で抗い、ディアスは叫ぶ。
「オレは、フェレトさまには幸せでいてほしいから!!」
それを聞いたフェレトの瞳が、すうっと眇められた。
怖気をふるうほどの美貌。
ディアスがハッと身構える。
冷水を…氷水を浴びせられたように、肌が粟立った。
「あ…。」
怖い。
身を引きたくても、胸倉をつかんだフェレトの腕の力は強くて、否、それ以前に体中が呪縛されたように強張って。
パンッ、と甲高い炸裂音がした。
痛みよりも、熱さが先に来て。
頬を張られたのだと気づいたのは、数秒たってからだった。
「今までおまえがやらかしてきたことの中で、今回のが一番頭にきたぜ。」
拳じゃないだけ有り難く思え、と奈落の底から響くような低い声で言い添える。
「おまえが何も言わねーから、事情はさっぱりだ。だけどな。」
静かに、深く、フェレトは激昂していた。今まで何度も叱られたことはある。だけど、逆鱗に触れたと感じたのは初めてで。
「おまえが泣いてんのに、オレが幸せなわけねーだろ!!」
ディアスは、雷に打たれたような衝撃に硬直した。
数秒後、呪縛が解けたように、フェレトの首筋に腕を回して縋りつく。
「ごめんなさい!ごめんなさい、フェレトさま!!」
フェレトは、泣きじゃくるディアスを抱き留めて、抱きしめて
「ホント、おまえから目ェ離すとロクなことがねーわ。」
と、笑った。
☆
ディアスは、フェレトの胸で泣きじゃくった。
感情が飽和して限界を迎えたような泣きっぷりだった。幼児でもこんなに全身で泣かないだろうというくらいの。
泣き止んでも、目の奥が熱をもってじんじんと痛む。腫れぼったくなったまぶたを閉じると、睫毛に残っていた最後の雫が零れ落ちた。
フェレトに
「美少年が台無しだぞ。顔洗え。」
と笑われて、腕を引いて立たせられる。フェレトが、水差しから盥に水を注ぐのを、ぼーっと見ていたら、
「ちょっとは自分で動け。頭からぶっかけられたくねーだろ。」
と、盥の前に押しやられた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった顔を洗うと、幾分、すっきりした。ディアスが顔を洗っている間に、部屋を漁って見つけたらしく、
「冷やしとけ。」
と、濡れたタオルを渡される。至れり尽くせりだ。フェレトも、ディアスがドロドロにした胸元を、別のタオルで拭いている。
ディアスが渡されたタオルは、氷属性の魔法がかかっているようで、ただの濡れタオルではない清涼感がある。それなのに、一向に顔から熱が引かないのは、羞恥で顔が火照っているせいか。
(いくつなんだオレは。あんなに泣くか普通。)
ディアスの心情などわかりきっているらしく、フェレトが苦笑した気配があって。
慈しむように、頭を撫でられたらもう駄目だった。
目元にタオルを当てたまま、フェレトの胸に額をつける。
そのまま、自己嫌悪でフェレトの胸から顔が上げられなくなった。
「ディアス、そのままでいいから、何があったか言え。」
と、促す声も、いつもより柔らかくて、小さな子を宥めているようだ。ディアスは、いたたまれない思いで、それでも、離れている間のことを語る。
いつもよりも散漫だったり言葉が足りなかったりして、多少フェレトが補う必要があったディアスの説明だが、フェレトは概ね理解した。そして、砕けた笑みで、気負いなく言った。
「こういう時は、素直に甘えろ。おまえのためなら、オレは世界を敵に回してやるよ。」
「!!…っだって。」
と、反論しかけたディアスを遮り、フェレトがはんっと鼻先で笑う。
「おまえは、誰かの言いなりになるような、聞き分けのいいやつじゃねえだろ。師匠の言うこともまともに聞かねーくせに。」
「それはどういう意味ですか!」
と、ディアスが食ってかかる。
いつものやりとりになったところで、フェレトの中に、ふっと疑問が浮上した。思考に余裕が生まれた、ということか。
ディアスは、フェレトのことになると、冷静さを失う。
人の心の一番弱いところを突いて、追い詰めていくそのやり方。
正常な判断力を奪い、それしかないのだと、暗示をかけていく。
それは、まるで…。
「ディアス、キュクロプスは。」
と、フェレトが言いかけたとき。
バキィッッ!!
部屋の扉が吹っ飛んだ。
細かな木片が飛び散る。
瞬時に戦闘態勢を整えるフェレト。
ディアスも、反射的にフェレトに倣う。闘いが、体に馴染んできつつある。
扉を大破させて、部屋に踏みこんで来たのは、
「<風の賢者>は戦闘バカって思ってたけど、頭も切れるじゃん。ムカつくー。バラされる前に自分で言うよ。」
亜麻色の髪をなびかせ、二人の前に舞い下りて来たキュクロプス。否…。
「ボクは、ベルフェゴール。怠惰の魔王だよー。」
間延びした、呑気な口調は、キュクロプスを名乗っていたときと変わらない。
けれど、空気の色さえ塗り替えるような、胸の悪くなる邪悪さが滲みだしている。
隠していた本性が。
「ハッ。どーりで、山ン中にいた方は、妙に手ごたえがねーと思ったぜ。」
引っかかっていたことだった。不完全な<碧嵐獄>で倒せたのは、やはり幸運などではなく。
「一体、どれだけ捨石にしてやがる。」
「それは誤解だよー。」
と、笑うキュクロプスの姿が揺らぐ。
瞬くひとつの間に、キュクロプスの姿は消えていた。代わりに現れたのは、萌える若葉の色彩を髪と瞳に持つ、絶世の美貌。
その瞳は、果てない深淵。
覗き込めば、あっという間に、悪徳と背徳の世界に引きずり込まれそうな、負の魅惑に満ちている。
見間違えるはずもなく、それはフェレトが山中で対峙したベルフェゴールの姿。
「キミと戦ったのも、ボク自身。まあ、分身みたいな?ずるいとか言わないでよー。<風の賢者>も、似たようなの使って、マモンを倒したじゃなーい。」
手品の仕掛けでも見せびらかすような気軽さ。実際、魔王にとってはたやすいこと。人間が、魔法や魔法具を使ってできることは、上位種である彼らにも可能。
フェレトは、厳しくベルフェゴールを見据えて、問う。半ば以上、答えのわかっている問いに、声が険しくなる。
「キュクロプス本人はどうした。」
ベルフェゴールが化けていたのなら、本物のキュクロプスは。
「殺してすり替わったに決まってるじゃーん。王族って便利なんだよねー。ほら、ボクは怠惰の魔王だから、あんまり自分で働きたくなくてー。でも、人一人殺すくらいなら、ま、労働のうちに入らないし?後は、バカ王とかバカ王太子とか、口先三寸で操って、キミたちを招く舞台を整えたってわけ。」
ディアスが、怒りのあまり蒼ざめる。
魔族が人の心を持たないのは百も承知だが、こんなやつにいいように操られた自分自身に一番腹が立つ。
瞋恚の炎が、紫眼に燃え、涙の残滓ごと思考が煮え滾る。
「でも、折角整えた舞台も台無しー。ボクが自分で動かなきゃいけないなんて、最悪だよー。せいぜい、派手に巻き添えにしてやんないと、気が済まないなー。」
ベルフェゴールは、朱色の唇に指を二本立てる。
フェレトが悟った。瞬きにも満たない刹那の、電光石火の思考。
「ディアス、伏せろっ!!」
とっさに展開できる魔法で防げる、生半可な魔力ではなかった。そして、フェレトの魔力は残り僅か。
フェレトは、ディアスに飛びついて覆いかぶさる。
魔法使いが、自らの体を盾にするのは、最後の手段だ。
「フェレトさま!?」
ピイイイイイイイイイイッッ!!
甲高い指笛が、ディアスの悲鳴に重なる。
バシャンッ!!
と、大量の水が降り注ぐ。こんな山奥なのに、大津波が襲ったかのような。
それが、王宮の天井を突き破るまで一秒にも満たない。
豪雨。
ジュウウウウウウッ!!
その雫の一滴一滴が、肉を溶かして骨まで至る毒の水。
強酸をかけられたように、フェレトの体から白い煙が上がる。
フェレトは、きつく唇をかみしめて、うめき声ひとつ上げなかった。凄まじい精神力だが、こめかみから脂汗が滴り落ちる。唇を噛み切ったのか、鮮血の紅い珠が散る。
「フェレトさま!!」
絶叫したディアスの上から、フェレトはまだどかない。ぐずぐずとその肉が解けていく。強酸のような雨はまだ降り注いでいる。
ディアスがフェレトに白い手をかざす。
「治せ、<白癒。」
フェレトが、かろうじて無事な右手で、ディアスの手首をつかんで止めた。
「いい。自分でやる。おまえは、魔力を温存しろ。」
「ふざけないでください!!」
ディアスは、ギッと、突き刺す視線でフェレトをにらむ。つかまれた手を振り解こうとしたが、想像を絶する苦痛に耐えているくせに、フェレトの力は全く緩まない。
フェレトは、空いている左手をディアスにかざす。
エメラルドグリーンの光が、ディアスを優しく包んだ。フェレトはそれを見届けて、ディアスの上からどく。
毒の雨は、ディアスには届かない。不可視の力が弾いた。
「オレのことはいいですから!!」
ディアスは飛び起きて、フェレトに喰ってかかる。
「よくねーよ。ディアス、おまえがベルフェゴールを倒すんだからな。」
ディアスは、これ以上ないほど、アメジストの両目を見開いた。
呼吸すら忘れて、フェレトを見つめている。
「今のオレより、おまえの方が強い。それに、この雨もなんとかしねーと不味いだろ。」
王宮のあちこちから、悲鳴と怒号が響いて来る。
ベルフェゴールの放った強酸の津波は、王宮の広範囲の屋根を溶かしたのだろう。
雨は降り注ぐ。人の皮膚を、肉を、骨を溶かして。
そして、ベルフェゴールは、いつの間にか、姿を消している。
ディアスの白い頬が紅潮する。
菫の双眸が、暁よりも眩く輝く。
フェレトはニヤリと笑って見せる。
「オレもあいつには腸煮えくり返ってるが、いちばん許せねーのは、おまえだろ?」
青と紫の視線が、強く絡む。
「おまえを虚仮にしたヤツには、おまえが地獄を見せてやれ。」
それは、フェレトがディアスを本当の意味で認めた瞬間だった。
「はい!!」
ディアスが満面の笑みで答える。
ディアスは振り向かずに走り出した。
☆
駆けていく弟子の背中を見送り、フェレトが
「治せ、」
と、言いかけたとき。
フェレトの詠唱より先に、その身を乳白色の光が包む。
これだけは譲れません、と言うディアスの声が聞こえた気がする。
経験を積んだ魔法使いなら、対象とある程度距離があっても魔法を発動できる。
ふ、とフェレトの口角が上がる。
(生意気なことしやがる。)
「弟子にばっか働かせるわけにはいかねーな。」
と、フェレトの両目に不屈の光が宿る。
「押し流し、清め祓え、<蒼天泣>!!」
スコール。
天から滝が落ちてきたかのよう。
激しく地を穿つ、峻烈な雨だが、それは不浄を清める聖水だ。
ベルフェゴールの降らした毒の雨を洗い流し、傷口も癒す慈雨。
ただ、ベルフェゴールも毒の雨を止めていない以上、ここから先は根競べだ。
既に強欲の魔王を倒して疲弊しているフェレトの魔力が、どこまでもつか。
(後は頼むぜ、ディアス。)
任せてください、と胸を張るディアスがフェレトの眼裏に浮かんだ。
☆
ベルフェゴールは、尖塔の上に立ち、つまらなそうに下界を眺めていた。
毒の雨が押し流されていく様を。
城壁に立つディアスを見つけると、
「やっぱり来たねー。」
と、表面上は朗らかに笑う。ただし、その黄緑の瞳はゾッとするほど冷酷な光を宿している。
「あーあ、ホントにつまんなーい。ぐずぐずに溶けていく人間を見たら気が晴れるかなーって思ってたんだけどー、キミの師匠に防がれちゃってるんだよねー。どーしよっかなー。」
ふわり、といったん高度を上げたかと思うと、ベルフェゴールは城壁に立つディアスのところまで突っ込んでくる。
油断なく構えていたディアスは、さっと距離を取る。雨に濡れない白金の髪が、ざっと靡いた。
ディアスの正面に立ったベルフェゴールは、ポンッとわざとらしく手を叩いた。
「ああ、そーだ。ここでキミを惨たらしく殺せばいーのかー。そーしたら、<風の賢者>は悔しがるよねー怒るよねー泣くのかなー?ボク、あーゆー、何事にも屈しない、みたいなカオした人間が苦しむ姿にそそられるんだよねー。」
その笑みには、人間には直視し難い、闇の深淵から響いてくるような不気味さがある。
「キミの、魔族にも負けないくらいの綺麗な顔を、ドッロドロに溶かしちゃおうかー?頭蓋骨だけにするより、肉とかずるってめくれてる方が気持ち悪さ倍増でいーよねー。あ、手足はバラバラに切り離してー、指は手も足も一本ずつ魔獣の餌にしてあげるー。可愛い弟子が魔獣に食われるところを、キミの師匠に見せてあげたいなー。」
原初の恐怖を煽るような。
二十歳ほどの見た目だが、昆虫の足や羽根を千切って遊ぶ、道理のわかっていない幼児のようだ。
しかし、ディアスは呑まれることなく、ベルフェゴールを見据えている。
崩れない、揺らがない、昂然とした眼差し。
恐れるものなど、何も無いと、高らかに宣言し。
(フェレトさまが、オレを信じてくれた。)
だから、ディアスはまっすぐ立てる。
ベルフェゴールは、ディアスの眼を見て、興が削がれたようにため息をついた。
「やっぱ、駄目か。だから、引き裂いておきたくて、この怠惰の魔王が、信条に反して結構働いたっていうのにー。」
上手くいかない盤面を投げ出す子どものように。
ディアスが、かすかに眉根を寄せる。
ベルフェゴールは、それに気づいて少しだけ愉しそうになる。人の苦しみこそが、蜜の味なのだ。
そこでようやく、ディアスも理解した。
なぜ、ベルフェゴールが、こんなまわりくどく、手の込んだ罠を張ったのか。
「引き離されるのが、死ぬより辛い。人間には、ごく稀に、そういう絆が生まれるんだよねー。地獄の苦しみを味わいながらのたうち回って生きるのを見る方が、嬲り殺すより愉しいから、ホントはそっちの方がよかったのになー。」
気に入った菓子が売り切れていて、じゃあ、しょうがないからそっち、とでも言うような、羽毛のように軽い声音をかき消すように、ディアスが叫ぶ。
「穿て、<青雹弾>!!」
巨大な氷塊が降り注ぐ。人間なら一瞬で押しつぶし、圧死させる質量。
次々と尖塔に、城壁に落ちて、石でできたそれらを崩落させていく。
ベルフェゴールは危うげなく空中に避ける。
怠惰の魔王を、射殺しそうな眼で睨みつけ、ディアスは吠えた。
「貴様は、絶対にオレが倒す!!」
「できるわけないじゃん!!」
ピイッ!
激しい雨音を引き裂く指笛。
バシャッァァァァ!!
鉄砲水のようにな勢いで、毒の波がディアスに叩き付けられる。
「吹雪け、<蒼雪乱>!!」
ディアスが放った雪嵐が、強酸の水を凍てつかせる。荒れ狂う吹雪をまとった美貌の少年は、雪の精霊のように麗しく、おとぎ話から抜け出してきたように幻想的だ。
しかし、水の方が強い!!
「葬り去れ、<青氷棺>!!」
ディアスが、氷の棺を盾として展開し、ようやく毒水を止める。
ピイッ!
その間に、ベルフェゴールは再度、指笛を鳴らしている。
再び迫る毒の水。
「突き刺せ、<青氷槍>!!」
空気中の水分が、流れ落ちる雨が、凍結する。瞬時に伸びた氷の槍は、毒の水を散らして突き進む。
ディアスの前に到達する前に、毒の水は槍によって左右に分かたれるが、同時に槍も力を使い果たして溶けていく。
「ふーん。」
と、ベルフェゴールはわずかに感心したように、同時に面白くなさそうに眉を上げた。
「なーるほど。全っ然、本気出してはいないけどー、ボクの力を相殺するなんて、そこそこやるんだねー。」
相変わらず空中に浮いたまま、見下してくる。
「でもさー、そろそろ、体、重くなってるんじゃなーい?そのために、さっきからずーっと、無駄話してたんだけどねー。」
「!?」
獲物を前に、舌なめずりをする表情。
「ボクは、キミたちがこの国に来てからずううううっっと、微量の毒をキミの周囲にまき散らしていたんだよー。もちろん、今この瞬間もねー。ボクが操る毒は、水だけじゃないんだなー。」
のんびりと、聞きようによっては間延びしてさえ聞こえる口調で、ベルフェゴールは残忍な手口を披露する。
「ボクの毒は、無色透明、臭いもない。何ら自覚症状もないまま、ゆっくりとキミの体を蝕んでいく。そして、ある一定量に達したら…」
ふふ、とベルフェゴールは愉悦の笑みに恍惚さを滲ませた。
「キミの体は末端から腐っていく。あまーいあまーいにおいを放ちながらね。最後まで、意識を失うことはないよ。キミは、自分の心臓が、最後の鼓動を打つその時まで、全身が崩れる苦痛を感じながら息絶えるのさ。」
唇と眼を三日月の形に歪めて勝ち誇るベルフェゴールに対し。
ディアスの珊瑚珠の唇が、ゆっくりと弧を描く。見惚れるほどの優美さで。
悠然としたその笑みに、ベルフェゴールは、珍しく真顔になった。
(何だ…?恐怖のあまり、狂った…?違う、そういう笑いじゃない…。)
ごうごうと降り注ぐ、雨の音だけがその場を満たす。
ベルフェゴールは、唐突に気づいた。
(おかしい。もう既に毒が回りきる時間は過ぎている。)
こんなに細く、華奢な体が、魔王の猛毒に耐えられるはずが。
「よくやく気づいたか。」
魔王に対して上から目線、という芸当をあっさりやってのけるディアスの笑みに、強気な色が広がっていく。
「フェレトさまは、この国に入った時から、オレに<緑凪祓>をかけていてくれる。もちろん、今、この瞬間も。」
凪。
それは、静止。一切の邪悪は活動を封じられる。
<緑凪祓>は、あらゆる毒も穢れも、一瞬で浄化する。ディアスの周囲は、極上の清浄さを保っている。浄化の魔法の中でも高位に位置し、消費する魔力もけして少なくはない。並の魔法使いなら、数時間が限度。
フェレトは、毒の雨まで弾けるレベルに、ディアスにかけていた<緑凪祓>を強化した。既に発動していた魔法に手を加えるだけだったから、あの場で詠唱は不要だったのだ。
ディアスが別れを告げた時でさえ、フェレトは魔法を解かなかった。
「そんなっ…。」
ベルフェゴールの余裕が、初めて崩れた。
「キミたちがこの国に来てから、どれだけ経っている!?その間、眠っている時でさえも、高位魔法を常時展開させるなんて、人間にできるはずが。」
ディアスが、ベルフェゴールの言葉を遮った。誇らしげに胸を張る。
「それができるのが、オレの師匠だ!!」
「っ!!」
ベルフェゴールが気圧された。魔王にとっては、多少、ゲームが不利になったという程度のことだったはず。それなのに動揺したのは、ディアス気迫ゆえ。
そして、ディアスはその隙を…千載一遇のチャンスを見逃さない。
一か八かの大技。
けれど、勝算はある。
氷属性の魔法で、この場を冷やした。何より、今、この場には、フェレトが降らせている、聖なる慈雨が無限にある。
本来は広範囲に作用する魔法。それを、極小の場に凝縮させる。
「全てを氷に閉ざして、世界を止めよ、<藍氷界>!!」
バキン!!
一瞬で氷結した。
ベルフェゴールを閉じ込めて。
ディアスの魔力が、一気に枯渇する。
「くっ…。」
意識が飛びそうだ。耐えきれず膝をつきかけ、何とか踏み止まる。
封じられた氷の中で、ベルフェゴールはまだもがいている。
(破られる…!)
ディアスは手を伸ばす。
自分の<藍氷界>が完璧からはほど遠いことはわかっている。維持と強化に全力を注がなければ。破壊されたら後が。
その瞬間、風を切って、天を翔けてくる黄金。
(え?)
す、と。
ディアスの手に、重なる手。
ディアスと同じくらいの…正確には少し大きい。当然、大人の手ではなく。
それなのに
「フェレトさま!!」
と、ディアスは呼ぶ。
<碧風翼>の風の羽根を背中に広げ、勝気な瞳に笑みを閃かせて頷くのは、十五、六の少年だ。
太陽を覆い隠す暗雲の中でさえも、眩く輝き闇を照らす金の髪。晴れ渡る蒼穹の瞳。
左の耳朶のピアスがきらりと光る。
「吹雪け、<蒼雪乱>!!」
フェレトの手から、極寒の冷気が放たれた。
「支えてやる。もうちょっと踏ん張れ。」
「はいっ!!」
ディアスが最後の力をふり絞る。
カッと、冷気が収束する。
ベルフェゴールは、その命ごと、完全に凍りついた。
☆
雨が止んだ。
正確には、ベルフェゴールが死んで、猛毒の雨が止んだので、フェレトも魔法を解除したのだ。
「っ。」
ディアスはがくんと倒れそうになり
「おっと。」
と、フェレトに支えられる。
「大丈夫か、ディアス。」
「…結局最後はフェレトさまでしたね…。」
フェレトに抱えられたまま、ディアスがちょっと悔しそうだ。
フェレトが吹きだす。
「魔王を一人で倒せたら、いろいろすっ飛ばして賢者になれるぜ。」
と、腹を抱えて大笑いだ。
いつもよりも高い声で、いつもと同じように屈託なく笑っていたが、ふいにその笑みを止めた。
「使いすぎたか。もともと試作品だしな。」
何を、とディアスが問う前に。
パキッと小さな儚い音がして、フェレトのピアスが砕け散る。魔道具に負荷がかかりすぎたのだ。
同時にふっと、フェレトの姿がかき消え、支えられていたディアスはよろめく。
☆
ディアスが、体を引きずるようにして、部屋にもどる。
天井が吹き飛び、壁も床も家具もあちことが融解し、さらに水浸しになっている城内はひどい有様だった。皆、右往左往していたが、ディアスはそれらには目もくれず
「フェレトさま!!」
と、部屋に飛びこむ。
少年の姿のフェレトが消えたのは、魔道具が限界だったせいで、フェレト自身には何も起きていないとわかっているのだが、自分の眼で見るまでは安心できなかった。
フェレトは、壁にもたれて立っていた。座り込まないところが意地なのか。流石に疲労が濃い顔をしているが、飛びこんで来たディアスに笑いかける余裕はある。
「やったじゃねえか、ディアス。」
と、迎えられ、ディアスが安堵のあまり崩れ落ちそうになるところを、先程と同じように受け止められる。
体格が違うので、当然、少年の姿のフェレトより、その腕は力強い。
「…へえ。」
と、フェレトがディアスの顔をのぞきこむ。
長い指であごを捕えられ、上向かされた。
至近距離で、まじまじと見られて、ディアスはドキリと息を詰める。
「まだまだガキだと思ってたが、漢の顔になったじゃねーか。」
「フェレトさまっ…。」
胸が詰まって、鼻の奥がツンとする。
もう一生分くらい、さっき泣いたはずなのに。
ディアスにとって、フェレトの存在はあまりにも大きい。
たった一言、フェレトに褒めてもらえただけで、こんなに嬉しい。誇らしい。
ここで泣きだしたら、「今日のおまえは泣き過ぎだ。」と笑われそうで、ディアスは、こみ上げてくるものを必死で呑みこんだ。
「そのうちフェレトさまを追い越しますから。」
肩をそびやかして言う。
「相当牛乳飲まねーとダメだな、それは。」
フェレトがしれっと返す。
「背丈の話じゃありません!!」
一瞬で涙が蒸発したディアスだった。
終幕
ディアスが朝から変だ。
食事の支度には慣れてきたはずなのに、目玉焼きを真っ黒焦げにするわ、スープにどかどかと香辛料を放り込んで激辛にするわ。見かねて、今日の食事当番は代わってやった。
朝食の最中も、上の空でぼーっとしていたかと思うと、何か言いたげに、こっちをじーっと見てくる。
「何だ?」
と訊くと、慌てて立ち上がった拍子に、紅茶のカップをひっくり返し、
「な、なんでもないです!!」
と叫ぶ。
(悩み多きお年頃ってやつかあ?)
とは思う。師匠としては、相談に乗ってやるべきなんだろうが、今はそれどころじゃねえ。
オレは、書類に走らせていたペンを一旦止めた。
「ディアス、おまえ調子悪いんなら、手伝わなくていいから寝とけ。」
と声をかけると、びくっと細い肩を震わせた。
「調子悪くなんてないです!それに、フェレトさまに任せていたら、期限に間に合いませんよ。」
生意気を言う。悔しいが事実だ。
オルコス王国での仕事は、かなり…というか前代未聞の被害が出た。なにしろ城が半壊だからな。べつに、オレが好き好んで破壊したわけじゃねーが、「仕方なかった」と証明する書類がいるんだ。これが。でもって、そーゆー書類はえてしてやたらと面倒だ。ついでに、締切は明日だったりする。
この辺り、宮仕えは辛い。
書類仕事はディアスに押し付け…もとい任せときゃ間違いはねーんだが、今日は頼みのディアスがてんで使い物にならない。熱でもあるのかと額に手を当ててみたが、そういうわけでもない。本人も「元気です。」と言い張るが、それにしちゃ、やたらと書き間違えるは、インク瓶を倒すは、散々な状態だ。
オレが話しかけると、悪化するので、しばらくディアスは放っておいて、書類に取り組む。
(えーと、魔王の攻撃を防ぐためにやむなく高位魔法で反撃せざるを得ない状況で…でいいのか?っとに何でこう回りくどい言い回しを。こっから先はどう書くんだ?どっかに文例あったか?)
席を立って、本棚へ向かう。
ここは、書斎というか、仕事部屋というか、歴代の<風の賢者>が使ってきた「執務室」なので、資料は豊富だ。壁一面をその手の本が埋め尽くしている。
滅多に開かないマニュアルは、埃をかぶっていた。払ってぺらぺらめくっていると、やっぱり視線を感じる。
本から目を上げると、バチッと音がしそうなほど見事に視線が合った。
ディアスも前例を当たろうとしていたのか、オレから少し離れた本棚の前で固まっている。
オレは、パタンと本を閉じて棚に戻し、大股でディアスに歩み寄る。ディアスは反射的に逃げかけたが、本棚に手をついて退路を塞いでやった。
「言いたいことがあるならはっきり言いやがれ。ただでさえ捗らねーのに、気になって集中できねーだろうが。」
身長差を利用して、上から圧をかける。
「今度は何した?」
こいつは、繊細な見た目を裏切って、ふてぶてしいし、しれっと無茶をする。ここまで挙動不審になるなら、よっぽどのことをしでかしたんだろう。
「反省してるならオレが何とかしてやるから言ってみろ。今正直に言うなら、怒らねーから。」
白状しろと迫ると、ディアスは
「違います!!フェレトさまはオレを何だと思ってるんですか!!」
と、毛を逆立てた猫みたいに叫んだ。
「おまえ、今まで結構シャレにならねーことしてるぞ。<時の記憶>の特別閲覧室に司書騙して入り込んだり、魔族召喚したりしただろーが。」
「うっ…。それは、そうですけど…。」
と、ディアスが呻く。事実だからな。
「でもっ、今日はそういうのじゃなくてっ…あの…。」
「…。」
無言で見下ろす眼に力を込めると、ディアスが大きく深呼吸した。観念して、ようやく吐く気になったらしい。
制服のポケットから、箱を取り出す。ディアスの手にもすっぽり収まる、小さな薄い箱だ。そんなところに忍ばせておけるくらいだから、当然か。
オレに向かって差し出した。
「あの、これ…。」
受け取ればいいらしい。
コトリと、ごく小さな音をたてて、小箱はオレの手に移る。触れあったディアスの指先が震えていた。
真っ白な箱に、真夏の海みたいな、真っ青なリボンがかかっている。
「開けていいのか?」
ディアスは無言でこっくりと頷く。
シュルッとリボンを解いて、箱を開ける。
コロンと鎮座していたのは、金色のピアスだった。
ディアスに渡したのと同じような、シンプルな金のリング。ただし、中央に小指の爪の半分ほどの石が光っている。
「ヴァイオレット・サファイアか。」
サファイアの中でも貴重な石のはずだ。ディアスにも<星の塔>から給料は出ているが、結構散財したな。
いや、今問題なのは、そこじゃねーな。
「えーと。」
と、オレは箱とディアスを交互に見た。
「おまえ、これを渡したくて朝からそわそわしてたのか?」
ボッと音が聞こえそうなほど、ディアスが一瞬で真っ赤になった。耳まで赤い。もとの色が白いからな。
「だって、初めてなんですよ、贈り物って!」
早口でまくしたてる。
「どうやって渡すのが正しいのか、どこにも載ってないし。フェレトさまのピアスはオレがもらったし、分身作る魔法具は壊れたし、だから、それで。」
「ありがとな。」
ごく自然に声が出た。胸の奥に、暖かいものが広がっていく。体の末端まで。
「大事にする。」
ディアスの顔が、パッと輝いた。
花が咲くように笑う。明けの明星が輝く暁の空の瞳だ。
急に、ハッと我に返った顔をして
「この部屋暑いですね。」
と言い出す。それはおまえの体温が上がってるからだろーが。
「風入れましょう、風。」
と、ディアスはいきなり窓を開け放つ。
「おい待て!」
さあっと吹き込んだ風に、散乱する書類。オレが慌てて片手でかき集めると(片手は箱で塞がっている)
「ご、ごめんなさい!!」
慌てて窓を閉めて、ディアスが駆け寄ってくる。オレの隣にかがんで、舞い散った書類に手を伸ばす。
一瞬の風は、涼気を含んで、夏の残滓を散らしていった。
「もう秋だな。」
「はい。」
と、答えるディアス。
願わくば、巡る季節を、これからもおまえと共に。
終
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