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序幕&第一幕
「もう二度と放してやらねーから、覚悟しな。」~龍神少年~
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序幕
あの日からずっと、おまえを待ち続けている。
オレがあいつに出会ったのは、七つの誕生日を迎える少し前。夏の盛りの午後。
その日、父上に連れられて、初めて鳳凰城に上がった。
オレが若君の「学友」候補に選ばれて、若君と顔合わせをするために。道中、父上は、難しい顔で黙りこくっていた。もともと、あまり口数が多いとは言えない父上だけど、この日は表情も暗い気がして心配になった。
父上に、「若君さまは、どんな子ですか?」と聞いてみると、ますます難しい顔になって、「…会ってみればわかる。…くれぐれも、失礼のないように。」という答えが返ってきた。
うちは、武家とは言っても、本来なら若君の「学友」になれるような身分じゃない。そういうのは、御三家や、地方の一国を治める大名の子息の役割のはずだ。だから、何か事情があるんだろうなということは、六つのオレにも察せられた。
城内に入ると、父上とは別の部屋に通される。案内してくれたおじいさんは、身に着けている着物から、かなり身分の高い武家の人だとわかった。若君の世話係だと名乗ったおじいさんにも、聞いてみる。
「若君さまは、どんな方ですか?」
「…。」
おじいさんは、父上以上に深刻な表情になってしまった。ごほん、と咳払いをしてから。
「きみは、学習院で優秀な成績を収めている上に、友人も多いそうだね。誰にでも好かれ、頼りにされる、皆のまとめ役だと聞いている。若君は難しいところがあるお方だが…きみならうまくやっていけると信じているよ。」
「はい。微力ながら尽力します。」
と、答えてみたものの。オレはちょっと不安になった。若君さまは、一体、どんな子なんだ?
☆
蝉の鳴く声がわんわんと耳の奥にまで反響する。
障子が開け放たれて、広い庭が見渡せる。大木が何本も枝を伸ばしているから、蝉も多いんだろう。
うちの屋敷なんか、この中庭にすっぽり収まってしまう。一体、この城はどれくらい広いんだろう。
若君は、いっこうに現れないし、案内してくれたおじいさんも、いなくなってしまったし、だだっ広い座敷に一人きり。
日射しはぎらぎら眩しいけれど、緑陰から渡ってくる風は涼しくて気持ちいい。でも、退屈だ。お茶もお菓子もたくさん出されて、もうお腹いっぱいだ。
きょろきょろ見回すと、座敷の隅に文机があって、数冊、本が乗っている。
(どうしよう。読んでもいいのかな?)
若君の物だったら、勝手に触ったら怒られるかもしれない。でも、ひまだし。読んだことない本だから、どんな本かすごく気になる。
(よし。怒られたらちゃんと謝ろう。)
迷ったのは一瞬だった。父上や学習院の師範からは、「おまえは、ふだん慎重なのに、時々大胆になるな。」とよく言われるオレの性分。
読み出したら、すごく面白かった。龍神国を作った、七龍について書かれている本で、それぞれの龍の性格や特性について、くわしく書かれている。
(いいなあ。若君はこんなに面白い本をいつも読んでいるんだ。)
と、思ったとき。
「おまえ、それ、おもしろい?」
急に横から声がかかって。
「わあ!」
と、オレは飛びあがってしまった。心の臓がばくばくしている。
集中していたせいか、気配を消して近づかれたのか、すぐ隣にいたのに、全然気が付かなかった。
いつの間にかオレの隣にいたのは、オレと同い年くらいの少年だった。
真っ先に目が行くのは、その、大きな瞳。
いたずらっぽい笑みをたたえて、きらきら光っている。当時のオレが、猫みたい、と思ったのは、気まぐれで自由で、気に入らなければ見向きもしない意地悪さを、一瞬で読み取ったせいだろうか。
髪もふわふわの猫っ毛で、触ったら気持ちよさそうだ。
小袖に袴というオレと大差ない格好だったけれど、生地や仕立ては全く違う。この一着で、オレの家なんか、一月は食べていけそうな。
「失礼しました。若君さまですね。オレは。」
「あ、いいや。おまえの名前なんか聞いても意味ねーし。」
心の臓をなだめつつ、切り出したオレに、若君はいともあっさり言い放った。
「オレは学友なんかいらねーから、帰れ。じゃあな。」
くるり、と背を向けた若君の前に、オレは急いで回り込んだ。
「待ってください!勝手に本を読んだのは謝ります。だから。」
「本なんかいいって。欲しいなら持って帰れよ。どーせ、オレは読まねーし。」
「え?読まないんですか?もったいない。おもしろいのに。」
突っ込むところ、そこなのか、と今のオレは、当時のオレに言いたい。挙句、続く言葉が。
「よかったら、オレが読み上げますよ。聞いているだけでも、絶対、おもしろいですから。」
と、言ったのは、学習院ではまだすらすら文字が読めない友人もいて、よく読み聞かせてあげていたせいで、べつに若君を馬鹿にする気はなかった。
だが。
「うるせーな。」
と、言った若君の声が冷たかった。オレは、びく、と自分の肩が震えたのを感じた。
「オレは、オレに指図するやつが大っ嫌いなんだよ!どいつもこいつも、礼儀とか勉強とか本っ当にうるせえ!」
ぎら、と鋭さを増して輝く若君の目。
あの時は、わからなかったから、オレは自分の考えを押し付けてしまった。今なら、あいつの抱えていたものの重さが少しは察せられるのだけれど。
「若君さまは、いずれ将軍になる、日嗣の君ですから、礼儀作法も勉強も必要だと思います。オレもお手伝いしますから、いっしょにがんばりましょう。」
若君は、大きな目をすがめて、オレを見た。
冷ややかな、凍てついた眼差し。
真夏の空気の中なのに、背筋が寒くなったのを、覚えている。
「おまえみたいなやつが、オレは一番嫌いだ。」
ずきり、と胸が痛んで。オレは、凍りついたように、ただ若君を見返した。
「いいこと教えてやろうか?」
と、若君が、オレに一歩近づく。
後ずさりそうになって、オレは必死で踏みとどまった。引いたら負けだと思った。
若君は、オレの肩に手をかけて、耳元でささやく。
「オレが、おまえに何かされたって言えば、それが嘘でも、おまえも、おまえの親も、首がとぶんだよ。」
「!」
ぷつんっと。
頭の中で、何かが切れる音がして。
気が付いたら、甲高い音がした。
右の掌が真っ赤で。
若君の白い頬に、オレの掌の痕が、くっきり残っている。
「おまえ!」
若君が叫ぶのと同時に。
「オレも、おまえが大っ嫌いだ!嘘をついて人を陥れるなんて最低だ!何もしてなくても殺されるっていうなら、本当に何かしてやる!!」
後は、取っ組み合いの喧嘩になった。
いっぱい叩いたし、蹴ったし、かみつかれたり、引っかかれたりもした。
気が付いたら、若君がオレの肩を押さえこんで、上からオレをのぞきこんでいた。
若君の荒い息がオレの前髪にかかっている。
オレも、ぜいぜいと肩で息をしていた。
「若君さま。」
「なんだよ。」
呼んだら普通に答えてくれて、なんだが嬉しくなった。
「オレは殺されても当然ですけど、父上や母上は何も悪くない。だから。」
「おまえってホントいいコなんだな。」
若君がすごく嫌そうな顔になった。
「あれ嘘。」
「うそお?」
「オレは信用されてねーから、オレが何言ったって、おまえが罰受けることなんかねーよ。」
ぷい、と顔を背けた若君の横顔がなんだかさびしそうだった。そのまま、オレの上からどく。
オレは起き上がって。
「手当てしましょう、若君さま。薬箱は…、あ、その前に洗わないといけないですね。水は。」
「おまえ、それやめろ。」
と、若君が遮った。
「それって、どれですか?」
「だから、そのしゃべり方。ふつうに言えよ。さっきみたいに。」
オレは、ちょっと赤くなった。
「さっきは…。でも、若君さまに。」
「コウ。」
と、いきなり言われたそれが、名前だとわかるまでに、少し時間がかかった。
「コウさま?」
「だから、コウでいいんだよ。おまえは?」
「レンで…レン。」
若君…コウが、にっと笑った。
(わあ。)
と、オレは思わず笑っていた。
コウが笑うと、すごく嬉しくなる。光が射したみたいに、眩しくて。
「レン、遊ぼうぜ。」
とコウが言って、オレたちはその後、夜まで遊び倒した。
コウは、木登りも剣術も、オレと同じくらい上手かった。学習院では、同い年のやつに負けたことなんかなかったから、オレはすごくびっくりして、ちょっと悔しくて、でもとっても楽しかった。
コウの世話係だというおじいさんが途中でやって来て、オレとコウが遊んでいる姿を見て、涙を流して喜んでいた。
豪勢な夕飯もご馳走になって、コウと一緒にお風呂に入って、同じ布団で寝た。
お風呂は、コウにかみつかれたり引っかかれたりしたところが沁みてちょっと痛かったけど、二人で泳ぐ競争をしているうちに、痛いのも忘れてしまった。
「なあ、レン。もう寝たか?」
隣から声がかかって、オレは目を開けた。
「起きてるよ。コウ、ねむれない?」
コウが、ぱたんとこっちに横向きになる。
「だれかといっしょに寝るの、初めてだから、なんかわくわくする。」
闇の中でも、大きな瞳が輝いているのが見える。
(そっか。日嗣の君だと、小さい頃から一人で寝るのか…。)
なんだか、ちょっと寂しい気がした。それって、母上に子守唄を歌ってもらったり、寒い夜に父上にくっついたりしたことがないってことだから。弟に蹴っ飛ばされないのはいいことかもしれないけど、でも、蹴っ飛ばされても、一人で寝るより、オレは弟たちと一緒に寝たい。
だから、オレは、薄い夏掛けの下でコウの手をぎゅっと握った。
コウは、どうしてオレがそんなことをしたのか不思議だったみたいで、きょとんと首をかしげた。
それから、いいこと思いついた、みたいな、いたずらっぽい笑顔で聞いた。
「今度、おまえの家、行っていいか?」
「いいけど、狭いし、贅沢なものなんて何もないぞ。」
「おまえがいればいいんだよ。」
コウがきっぱり言う。
オレはすごく嬉しくなって、
「うん。待ってる。」
と、頷いて、一度、コウの手を離す。そして、小指を出した。
「約束。」
「は?なんだそれ?」
と、コウは首をかしげて、オレの小指を見た。これは、庶民の風習だったらしい。
オレは、コウの小指に、自分の小指を絡めた。
「約束するときは、こういう風にするんだよ。指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。」
「すげえ物騒だな。」
コウが驚いている。本当に針を千本呑むんだと思ったらしい。意外と素直なところがあってかわいい。
「約束破らなかったらいいんだよ。」
オレが笑って言うと、コウも笑った。
「やぶんねーよ。絶対、おまえに会いに行くから、待ってろ。」
「うん、待ってる。…おやすみ、コウ。」
「おやすみ、レン。」
そのまま、指切りしたまま、オレたちは眠った。
朝が来て、オレは城を下がって。
それから一度も、コウはオレに会いに来てはくれない。
果たされない約束を、オレは今でも待っている。
あの日からずっと、おまえを待ち続けている。
第一幕
龍神国は、七柱の龍神によって創造され、守護されている国である。
炎と太陽を支配する紅龍。
光と安らぎを司る橙龍。
大地に実りを約束する黄龍。
風を統べ、嵐を起こす翠龍。
天空と氷雪を操る青龍。
海と水の象徴である藍龍。
雷光と雷鳴を呼ぶ紫龍。
龍神の力を使い、人々は邪悪を打ち払う。
その技を、神術、それを操る者を神官と呼ぶ。
神官の中でも、特別に龍の加護を受ける者は、証として瞳にその色彩を宿す。
☆
夜の闇は、のしかかるように重い。
ただ暗いだけではなく、胸が悪くなるような濁った気配が満ちている。
瘴気、と呼ばれるもの。
そしてそれは、刀を握る男から発せられていた。
刀は二本差しで、着物の仕立ても上等だ。それなりの身分の武家だろう。
しかし、目の焦点は合わず、構えもなっていない。ただ闇雲に刀を振り回している。
周囲に人がいたら大惨事間違いないが、この辺りの住人の避難は済んでいるのでその心配はない。
物陰に隠れて男を見ているのは、四人の少年だけだ。
年の頃は、皆、十二、三。格好もそろっている。純白の小袖に、浅葱の袴。そして、黒目黒髪の人々が多い龍神国には珍しい、鮮やかな色彩の髪や目をしていることから、神官候補生だと知れる。
男をひた、と見据え、
「瘴気を発しているのは、あの男じゃない。妖刀だ。付喪神だな。」
凛と澄んだ声でそう断じたのは、一目で、容姿の華やかさに目を奪われる、美貌の少年だった。
綺麗な弧を描く双眸は、翡翠の色。まっすぐな髪は、赤みがかった金色。きめの細かい、透き通るように白い肌。
まっすぐ前を見据え、ぴんと背筋を伸ばす姿からは、意志の強さや、性根の清らかさが感じられる。吹き過ぎる風のような、冷涼な空気をまとう。
「そんなの、どっちでもいいっつーの。さっさと片付けるぜ。」
どうでもいいと、投げやりに答えたのは、こちらも整った顔立ちの少年だった。しかし、受ける印象は正反対。
猫を思わせる大きな瞳は、紅玉の色。癖が強く、波打つ髪は銀色。肌は白いが、やや病的な蒼白さ。
勝気そうだが、それは我を通す類の強引さだろうと思わせる、人を喰った笑み。斜に構えた立ち姿は、荒んだ気配を漂わせている。
「緋皇。」
と、金髪の少年が、たしなめるように呼んで、言い聞かせる。
「あの男は、妖刀に操られているだけだ。傷つけないように細心の注意を。」
「うっせーよ、翡蓮。まとめてぶっとばしゃいいだろ。妖刀に乗っ取られるやつなんざ自業自得だ。」
冷たく吐き捨てる緋皇に、翡蓮が
「そんなことを許すわけにはいかない。」
静かに、けれど、一歩も譲らずに、きっぱりと告げた。
「翡蓮の言う通りだよ。ほんっと、おまえって自分勝手っていうか、無茶苦茶だよね。」
「神官候補生の自覚が足りないよ。連帯責任になるんだから、やめてよね。」
そう言った声は、どちらも、硝子が触れ合うような、透明な響きだった。似ている声、似ている口調。それを紡いだ彼らは、容姿も瓜二つ。双子、もしくは年子の兄弟か。
緋皇や翡蓮は美貌と評するのがふさわしいが、この二人は愛らしくて可憐だ。
二人とも、肩につかない程度の長さの黒髪に、青い瞳をしている。瞳の色の濃淡だけが、二人を区別する唯一の手がかり。空の水色と、海の青藍。
「玻璃、瑠璃。言いすぎだ。」
と、翡蓮が二人をたしなめる。薄青の瞳の玻璃と、群青の瞳の瑠璃が
「「はあい。」」
と声をそろえて返事をする。翡蓮に対しては素直だが、緋皇への不満は全く減じておらず、緋皇に向ける眼差しは冷ややかだ。
しかし、緋皇は、玻璃と瑠璃の非難など、歯牙にもかけない。視線すら向けなかった。
この小隊のまとめ役である翡蓮には頭が痛いが、今は事態の収拾を優先させなければならない。翡蓮は、素早く作戦を練り上げ、指示を出す。
「玻璃、瑠璃。あの男の足止めと浄化を頼む。」
玻璃は氷雪を、瑠璃は水を操ることができる。どちらも、浄化に適した力だ。
「わかった。」
「でも、あそこまで瘴気が濃いと、完全には無理だよ。」
「ああ。後はオレが、あの男と刀を引きはがすから、緋皇は刀を頼む。」
素直な玻璃、瑠璃と違って、緋皇は返事もしない。けれど、翡蓮は緋皇を信じて任せる。
翡蓮は、すうっと息を吸いこみ、告げる。
「始めるぞ。」
少年たちの空気が、ぴんと張り詰めた。
☆
ひそんでいた物陰から、一斉に飛びだす。
瑠璃が、人差し指と中指を立てた「刀印」で、空中に図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、清水流祓!」
図形から、大量の水が噴き出す。澄んだ水が、月光に煌めきながら、まっすぐ男に向かう。
その直後に、玻璃が瑠璃と同じように図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、凍結氷華!」
図形から、純白の吹雪が吹き荒れる。
瑠璃が呼んだ大量の水に、玻璃が生み出した吹雪がぶつかり、水は一瞬で凍結した。
男を氷の中に閉じ込めて。
瑠璃と玻璃が、同時に翡蓮を見た。
翡蓮がそれに頷き返すと、二人は嬉しそうに笑う。瑠璃と玻璃の連携は見事だった。緋皇は、翡蓮たちを、つまらなそうに眺め、ふん、と鼻を鳴らす。
男ごと妖刀を、浄化の力を持つ氷に封じたため、瘴気は薄れだしている。
「よし、このまましばらく待って、後はオレが。」
翡蓮の言葉を遮って
「まどろっこしいんだよ!」
緋皇が前に出る。
「緋皇!?まだだめだ、浄化が!」
翡蓮が伸ばした手は届かない。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇の描いた図形から、一振りの刀が出現する。
刃が、燃え盛る炎をまとい、周囲を真昼のように照らし出す。
緋皇はそれをつかみ取り、男の前に飛びだす。
緋皇が、刃を一閃する。
氷が、炎の刀で切り裂かれる。
緋皇の真紅の目が、ぎらりと輝いた。
危険な輝き。
緋皇が好戦的な笑みに、唇をつり上げる。
「緋皇!!」
翡蓮の叫びは届かない。
男が、妖刀を大きく振りかぶる。
緋皇の方が速い。
電光石火の身のこなしで、緋皇は妖刀を弾き飛ばした。
妖刀が宙を舞う。
想定外の事態でも、翡蓮は適切に動く。
「三級神術発動、玉風乱刃!」
疾風が吹き荒れた。
風の刃が、妖刀を叩き折る。
四方八方から襲う風の刃が、妖刀を粉々に打ち砕いた。
妖刀は、細かな破片となって地に落ち、翡蓮は小さく息をつく。
緋皇は、それを横目で見て、醒めた笑みを浮かべる。
緋皇の手の中から、炎の刀が消え失せる。
玻璃と瑠璃も、(緋皇のせいで)予定とは変わったが、妖刀は壊したので、肩の力を抜く。
弛緩した空気が漂いだしたところで。
翡蓮が、ハッと顔を上げた。
(瘴気!)
薄れたはずの瘴気が、再び濃度を増していた。
男の近くにいる緋皇に向かって、翡蓮は声を張り上げる。
「緋皇、下がれ!何かおかしい!」
「うるせえ!オレに指図すんな!」
緋皇が叫び返したとき。
男の手が腰に伸びた。
目は変わらず虚ろなまま。
男が、脇差を引き抜くのと、翡蓮が跳躍するのが同時。
神術を発動させる時間は無かった。
翡蓮が、緋皇を突き飛ばす。
血飛沫が飛んだ。
ピッと、緋皇の頬に、真紅の珠。
脇差に切り裂かれた翡蓮の血。
翡蓮が、崩れ落ちるように膝をつく。
「「翡蓮!」」
玻璃と瑠璃が叫ぶ。
翡蓮は、胸から腹までを、一直線に切り裂かれていた。
真っ赤に染まった白い小袖の胸を押さえ、翡蓮は緋皇を見上げる。
「緋皇、脇差を…。」
「チッ!」
緋皇は、ぎりっと奥歯をかみしめ、男に、否、もう一本の妖刀に向き直る。
「三級神術発動、劫火狂獣!」
真紅の劫火が、燃え盛る狼と化して、妖刀に襲い掛かる。
そのあぎとに、妖刀をくわえ込む。
ごうごうと音をたてて燃え上がる。
妖刀は、炎獄の中に溶けて燃え尽きた。
緋皇が、銀髪を揺らして翡蓮を振り返る。
けれど、凍りついたように動けない。
「翡蓮、しっかりして!」
「すぐに、神殿にもどろう!」
玻璃が、翡蓮に止血を始め、瑠璃が翡蓮を支えていた。
☆
起きているのか眠っているのか、翡蓮は、自分でもよくわからなかった。水中を漂うような、浅いまどろみ。半覚醒の。
(でも…たぶん、ゆめだな…。)
緋皇が、じっとこっちを見ているから。
いつもは、視線さえ、あまり向けてはくれないから。
あの紅玉の瞳が、まっすぐに自分を見てくれると、翡蓮はそれだけでうれしい。
「緋皇…?」
声になったのかは、わからない。
緋皇は、珊瑚色の唇を固く引き結んで、何も答えてくれない。
翡蓮の意識が、ゆっくりと遠のいて行く。
夢も見ない、深い眠りに。
意識が完全に落ちる直前。
指先に、あたたかい何かが触れた気がした。
☆
翡蓮が目を開けたとき、視界に飛びこんで来たのが、見慣れた自室の天井ではなかったので、数瞬、戸惑って瞬きを繰り返す。
(ここは…医務室か。)
それに気づき、昨夜の出来事が甦る。
(そうか、オレは、斬られて…。)
小袖の下に、布が巻いてある。
「ああ、よかった。気が付きましたか。」
柔らかな、春の日だまりを思わせる声音。布団の傍らに坐していた青年が、安堵したように笑いかけてくる。
日射しを浴びて金褐色に光る、亜麻色の長い髪。双眸は、混じり気の無い黄金。
白い小袖は翡蓮たちと同じだが、袴の色は違う。翡蓮たち神官候補生は浅葱だが、れっきとした神官である彼の袴は藍色だ。年の頃は二十代前半か半ばほどに見える。
清楚な美女と見まごうような、優しげな美貌の青年だ。
「琥珀教官。」
青年の名を呼んで身を起こそうとした翡蓮を、琥珀は片手で制した。
「そのままで。負担にならないよう、手短に済ませます。」
「いえ、大丈夫です。」
胸から腹にかけて、ずきりと痛みは走ったが、耐えられないほどではなかった。気丈に半身を起こそうとする翡蓮を、琥珀は
「<宝珠>翡蓮。」
と、役職つきで呼んだ。
「はい。」
「もっと自分を大切になさい。<宝珠>は、候補生たちのまとめ役であり、手本であり、要。貴方の復帰が遅れれば、損失は大きいのですよ。」
琥珀の声は変わらず穏やかだったが、有無を言わせぬ響きがある。たおやかな乙女のような外見を裏切って、指導が厳しいことで有名な教官だ。
翡蓮は素直に頷き、起こしかけた半身をもどす。
「はい。申し訳ありません。では、このままで失礼します。」
「ええ。それで、貴方の怪我ですが、玻璃と瑠璃からの報告では、緋皇が貴方の指示を無視したせいだということですが…。」
琥珀は、玻璃と瑠璃の報告をそのまま告げる。自分勝手で、しょっちゅう作戦を無視しで単独行動に走る緋皇を、玻璃と瑠璃は毛嫌いしている。
しかし、言動が幼く見える二人だが、仕事の報告に私情を挟むようなことはない。昨夜起きたことを、正確かつ客観的に琥珀に伝えていた。
むしろ、私情を挟んでしまうのは、翡蓮の方だ。
「間違いありませんか。」
「いえ、脇差も妖刀となっていることを気づけなかったオレにも責任があります。緋皇だけのせいでは。」
「ですが、緋皇が勝手に動かなければ、脇差も浄化されていたでしょう。違いますか。」
武家の男を窒息させるつもりはなかったので、闇雲に浄化を長引かせる気はなかったが、緋皇が動くのは早すぎた。
「…それは。ですが、最終的に脇差を調伏したのは緋皇です。緋皇の力は、オレたちの中でも抜きんでている。神殿には、絶対に必要です。どうか、寛大な処置を。」
必死で言い募る翡蓮に、琥珀はかすかなため息をついた。
「確かに、緋皇の力は私たちも認めるところです。ですが。」
琥珀は、無情なほどにきっぱりと告げる。
「いくら力があっても、誰とも共に戦えぬ者は、神官にはなれません。」
翡蓮は、まるで、自分自身が断罪されたように蒼白になった。怪我を負った原因が緋皇にあるというのに、恨む気は全くないようだった。
「緋皇は、今、どこに。」
琥珀は、気の毒そうに、目を伏せた。
「懲罰房に。」
☆
懲罰房の中は、真夏とは思えないほどひんやりとしていた。
龍神国各地に点在する神殿の総本山、正神殿は、その周囲を森に囲まれている。むしろ、森の中心を切り開いて建てられているという方が正しい。
深い森は、真夏でも冷涼だ。空気は澄んでおり、爽やかな水気を含んでいる。神気が満ちていると語る者もいる。
懲罰房は、正神殿の片隅に存在しているので、すぐそばまで森が迫っている。日差しがほとんど遮られているのが、温度が上がりすぎない理由の一つだが。
神官や神官候補生が入れられる牢である性質上、神術が使えないように結界が張られており、それが温度や湿度を一定に保つ役割も果たしている。
緋皇は、近づいてくる足音に顔を上げた。食事が運ばれてくる時間ではない。
何より、馴染んだ気配だった。
足音は、いつもの軽やかさが幾分損なわれているが、数日前、大量に出血するほどの怪我を負ったのだから無理もない。むしろ、数日しか経っていないのに歩き回っていいのか。
「緋皇、元気か?」
と、格子越しに呼びかけてくるのは、予想通り、翡蓮だった。
緋皇は、そっぽを向いたまま答えない。
翡蓮は、しょうがないなあとでも言いたげに苦笑する。
横目でしか視界に入れていない緋皇にも、それだけで、薄暗い懲罰房の中が明るく華やいだのを感じる。
単に容姿が整っているだけではなく、身にまとう気が、常に清々しく眩しいのだ。歪みなくまっすぐな気性を映しているように。
緋皇は、そんな翡蓮の姿を見るたびに、無性に腹が立つ。
いつだって正しくあろうとする。好きで神官候補生になったわけでもないだろうに、与えられた役割を完璧に果たそうとする。
押し付けられたこの立場を、受け入れる気が無い緋皇には、理解ができない。
「様子を見に来るのが遅くなって悪い。動くなって、琥珀教官や玻璃たちに止められてて。それほどひどい怪我じゃないんだけど。おまえ、近くにいたからわかってると思うけど、とっさに後ろに跳んだんだ。だから。」
「馬鹿じゃねえの。」
無視しようと思っていたのに、緋皇は、気が付いたら吐き捨てていた。
「様子見に来る義務なんかねーだろ。ほっとけっつーの。」
苛立ちが、声音に無数の棘をまとわせる。
しかし、翡蓮は
「あ、やっとこっち向いた。」
と、むしろ嬉しそうに笑う。翠玉の瞳を輝かせて。
「だって心配じゃないか。おまえ、懲罰房で、いつまでも大人しくしてそうにないし。明日には出られるから、あと少し我慢してろよ。」
「…。」
緋皇が真紅の目をすがめた。
翡蓮は、緋皇たちが所属する小隊の隊長というだけではなく、十から十五歳の神官候補生たちのまとめ役、<宝珠>だ。単に神術が強いだけでは、<宝珠>には選ばれない。他の模範となる行い、皆に慕われる資質、そういったものが重要だ。<宝珠>を務めた神官候補生は、いずれ、全神官の頂点に立つ<龍王>になることがほぼ約束されている。
文字通り、<宝珠>は、神官候補生の中の至宝。数日で釈放は、命令違反の挙句に、翡蓮に怪我を負わせた緋皇の処分としては軽い。
「おまえ、なんか余計なことしただろ。」
それを、ありがたいとも申し訳ないとも、全く思っていない口調で、緋皇は言う。
予想通りなので、翡蓮は気にしない。
「だって、一人で寝起きするの寂しいじゃないか。」
「はっ。だったら、誰かんとこ行けよ。おまえなら、誰にだって歓迎されるだろ。」
嘲る笑みで言い捨てる緋皇。
翡蓮の顔に、影が差す。
「緋皇、オレは。」
言いかけたとき、鐘の音が響いた。次の講義が近いことを知らせる予鈴だ。
何かを振り切るように、翡蓮は首を振る。赤みがかった金色の髪が揺れて、光を零す。
「じゃあ、オレは行くけど、本当に、あと少し、大人しく待っているんだぞ。」
小さい子を相手にしているように言い聞かせ、翡蓮は去っていく。
カタン…と出入り口の扉が閉まる音がする。
緋皇は、翡蓮が立ち去ってから、じっと何もない空間をにらんでいた。
傷口からあふれる鮮血のような、目を射るほどに鮮やかな赤い双眸に、荒んだ光が閃く。
気に入らなかった。翡蓮の何もかもが。
そもそも、翡蓮が怪我をしたのは、緋皇のせいだ。責めて、謝罪を求めるのが当然だろう。
なぜ、いつまでもあんなに澄んだ目を向けてくる?
どうして、変わらずに笑いかける?
「<宝珠>としての責任感かよ。ご苦労なこったな。」
緋皇は、銀髪を揺らして立ち上がった。
「誰が、おまえの言う通りにするかってーの。」
刀印を結び、叫ぶ。
「二級神術発動、業火炸裂!」
常ならば、すぐに図形から爆炎が飛びだし、周囲を瞬時に焼き尽くす神術だが、図形は沈黙している。
「チッ。」
と、緋皇は舌打ちする。
何かが引っかかって、術の発動を邪魔している。
懲罰房に張られた結界だ。
「だったら、オレの力にこの結界がどこまで保つか、試してやる。」
緋皇は、凶悪な笑みを浮かべた。
懲罰房が、真紅の炎に包まれて焼け落ちたのは、四半刻ほど後のことだった。
あの日からずっと、おまえを待ち続けている。
オレがあいつに出会ったのは、七つの誕生日を迎える少し前。夏の盛りの午後。
その日、父上に連れられて、初めて鳳凰城に上がった。
オレが若君の「学友」候補に選ばれて、若君と顔合わせをするために。道中、父上は、難しい顔で黙りこくっていた。もともと、あまり口数が多いとは言えない父上だけど、この日は表情も暗い気がして心配になった。
父上に、「若君さまは、どんな子ですか?」と聞いてみると、ますます難しい顔になって、「…会ってみればわかる。…くれぐれも、失礼のないように。」という答えが返ってきた。
うちは、武家とは言っても、本来なら若君の「学友」になれるような身分じゃない。そういうのは、御三家や、地方の一国を治める大名の子息の役割のはずだ。だから、何か事情があるんだろうなということは、六つのオレにも察せられた。
城内に入ると、父上とは別の部屋に通される。案内してくれたおじいさんは、身に着けている着物から、かなり身分の高い武家の人だとわかった。若君の世話係だと名乗ったおじいさんにも、聞いてみる。
「若君さまは、どんな方ですか?」
「…。」
おじいさんは、父上以上に深刻な表情になってしまった。ごほん、と咳払いをしてから。
「きみは、学習院で優秀な成績を収めている上に、友人も多いそうだね。誰にでも好かれ、頼りにされる、皆のまとめ役だと聞いている。若君は難しいところがあるお方だが…きみならうまくやっていけると信じているよ。」
「はい。微力ながら尽力します。」
と、答えてみたものの。オレはちょっと不安になった。若君さまは、一体、どんな子なんだ?
☆
蝉の鳴く声がわんわんと耳の奥にまで反響する。
障子が開け放たれて、広い庭が見渡せる。大木が何本も枝を伸ばしているから、蝉も多いんだろう。
うちの屋敷なんか、この中庭にすっぽり収まってしまう。一体、この城はどれくらい広いんだろう。
若君は、いっこうに現れないし、案内してくれたおじいさんも、いなくなってしまったし、だだっ広い座敷に一人きり。
日射しはぎらぎら眩しいけれど、緑陰から渡ってくる風は涼しくて気持ちいい。でも、退屈だ。お茶もお菓子もたくさん出されて、もうお腹いっぱいだ。
きょろきょろ見回すと、座敷の隅に文机があって、数冊、本が乗っている。
(どうしよう。読んでもいいのかな?)
若君の物だったら、勝手に触ったら怒られるかもしれない。でも、ひまだし。読んだことない本だから、どんな本かすごく気になる。
(よし。怒られたらちゃんと謝ろう。)
迷ったのは一瞬だった。父上や学習院の師範からは、「おまえは、ふだん慎重なのに、時々大胆になるな。」とよく言われるオレの性分。
読み出したら、すごく面白かった。龍神国を作った、七龍について書かれている本で、それぞれの龍の性格や特性について、くわしく書かれている。
(いいなあ。若君はこんなに面白い本をいつも読んでいるんだ。)
と、思ったとき。
「おまえ、それ、おもしろい?」
急に横から声がかかって。
「わあ!」
と、オレは飛びあがってしまった。心の臓がばくばくしている。
集中していたせいか、気配を消して近づかれたのか、すぐ隣にいたのに、全然気が付かなかった。
いつの間にかオレの隣にいたのは、オレと同い年くらいの少年だった。
真っ先に目が行くのは、その、大きな瞳。
いたずらっぽい笑みをたたえて、きらきら光っている。当時のオレが、猫みたい、と思ったのは、気まぐれで自由で、気に入らなければ見向きもしない意地悪さを、一瞬で読み取ったせいだろうか。
髪もふわふわの猫っ毛で、触ったら気持ちよさそうだ。
小袖に袴というオレと大差ない格好だったけれど、生地や仕立ては全く違う。この一着で、オレの家なんか、一月は食べていけそうな。
「失礼しました。若君さまですね。オレは。」
「あ、いいや。おまえの名前なんか聞いても意味ねーし。」
心の臓をなだめつつ、切り出したオレに、若君はいともあっさり言い放った。
「オレは学友なんかいらねーから、帰れ。じゃあな。」
くるり、と背を向けた若君の前に、オレは急いで回り込んだ。
「待ってください!勝手に本を読んだのは謝ります。だから。」
「本なんかいいって。欲しいなら持って帰れよ。どーせ、オレは読まねーし。」
「え?読まないんですか?もったいない。おもしろいのに。」
突っ込むところ、そこなのか、と今のオレは、当時のオレに言いたい。挙句、続く言葉が。
「よかったら、オレが読み上げますよ。聞いているだけでも、絶対、おもしろいですから。」
と、言ったのは、学習院ではまだすらすら文字が読めない友人もいて、よく読み聞かせてあげていたせいで、べつに若君を馬鹿にする気はなかった。
だが。
「うるせーな。」
と、言った若君の声が冷たかった。オレは、びく、と自分の肩が震えたのを感じた。
「オレは、オレに指図するやつが大っ嫌いなんだよ!どいつもこいつも、礼儀とか勉強とか本っ当にうるせえ!」
ぎら、と鋭さを増して輝く若君の目。
あの時は、わからなかったから、オレは自分の考えを押し付けてしまった。今なら、あいつの抱えていたものの重さが少しは察せられるのだけれど。
「若君さまは、いずれ将軍になる、日嗣の君ですから、礼儀作法も勉強も必要だと思います。オレもお手伝いしますから、いっしょにがんばりましょう。」
若君は、大きな目をすがめて、オレを見た。
冷ややかな、凍てついた眼差し。
真夏の空気の中なのに、背筋が寒くなったのを、覚えている。
「おまえみたいなやつが、オレは一番嫌いだ。」
ずきり、と胸が痛んで。オレは、凍りついたように、ただ若君を見返した。
「いいこと教えてやろうか?」
と、若君が、オレに一歩近づく。
後ずさりそうになって、オレは必死で踏みとどまった。引いたら負けだと思った。
若君は、オレの肩に手をかけて、耳元でささやく。
「オレが、おまえに何かされたって言えば、それが嘘でも、おまえも、おまえの親も、首がとぶんだよ。」
「!」
ぷつんっと。
頭の中で、何かが切れる音がして。
気が付いたら、甲高い音がした。
右の掌が真っ赤で。
若君の白い頬に、オレの掌の痕が、くっきり残っている。
「おまえ!」
若君が叫ぶのと同時に。
「オレも、おまえが大っ嫌いだ!嘘をついて人を陥れるなんて最低だ!何もしてなくても殺されるっていうなら、本当に何かしてやる!!」
後は、取っ組み合いの喧嘩になった。
いっぱい叩いたし、蹴ったし、かみつかれたり、引っかかれたりもした。
気が付いたら、若君がオレの肩を押さえこんで、上からオレをのぞきこんでいた。
若君の荒い息がオレの前髪にかかっている。
オレも、ぜいぜいと肩で息をしていた。
「若君さま。」
「なんだよ。」
呼んだら普通に答えてくれて、なんだが嬉しくなった。
「オレは殺されても当然ですけど、父上や母上は何も悪くない。だから。」
「おまえってホントいいコなんだな。」
若君がすごく嫌そうな顔になった。
「あれ嘘。」
「うそお?」
「オレは信用されてねーから、オレが何言ったって、おまえが罰受けることなんかねーよ。」
ぷい、と顔を背けた若君の横顔がなんだかさびしそうだった。そのまま、オレの上からどく。
オレは起き上がって。
「手当てしましょう、若君さま。薬箱は…、あ、その前に洗わないといけないですね。水は。」
「おまえ、それやめろ。」
と、若君が遮った。
「それって、どれですか?」
「だから、そのしゃべり方。ふつうに言えよ。さっきみたいに。」
オレは、ちょっと赤くなった。
「さっきは…。でも、若君さまに。」
「コウ。」
と、いきなり言われたそれが、名前だとわかるまでに、少し時間がかかった。
「コウさま?」
「だから、コウでいいんだよ。おまえは?」
「レンで…レン。」
若君…コウが、にっと笑った。
(わあ。)
と、オレは思わず笑っていた。
コウが笑うと、すごく嬉しくなる。光が射したみたいに、眩しくて。
「レン、遊ぼうぜ。」
とコウが言って、オレたちはその後、夜まで遊び倒した。
コウは、木登りも剣術も、オレと同じくらい上手かった。学習院では、同い年のやつに負けたことなんかなかったから、オレはすごくびっくりして、ちょっと悔しくて、でもとっても楽しかった。
コウの世話係だというおじいさんが途中でやって来て、オレとコウが遊んでいる姿を見て、涙を流して喜んでいた。
豪勢な夕飯もご馳走になって、コウと一緒にお風呂に入って、同じ布団で寝た。
お風呂は、コウにかみつかれたり引っかかれたりしたところが沁みてちょっと痛かったけど、二人で泳ぐ競争をしているうちに、痛いのも忘れてしまった。
「なあ、レン。もう寝たか?」
隣から声がかかって、オレは目を開けた。
「起きてるよ。コウ、ねむれない?」
コウが、ぱたんとこっちに横向きになる。
「だれかといっしょに寝るの、初めてだから、なんかわくわくする。」
闇の中でも、大きな瞳が輝いているのが見える。
(そっか。日嗣の君だと、小さい頃から一人で寝るのか…。)
なんだか、ちょっと寂しい気がした。それって、母上に子守唄を歌ってもらったり、寒い夜に父上にくっついたりしたことがないってことだから。弟に蹴っ飛ばされないのはいいことかもしれないけど、でも、蹴っ飛ばされても、一人で寝るより、オレは弟たちと一緒に寝たい。
だから、オレは、薄い夏掛けの下でコウの手をぎゅっと握った。
コウは、どうしてオレがそんなことをしたのか不思議だったみたいで、きょとんと首をかしげた。
それから、いいこと思いついた、みたいな、いたずらっぽい笑顔で聞いた。
「今度、おまえの家、行っていいか?」
「いいけど、狭いし、贅沢なものなんて何もないぞ。」
「おまえがいればいいんだよ。」
コウがきっぱり言う。
オレはすごく嬉しくなって、
「うん。待ってる。」
と、頷いて、一度、コウの手を離す。そして、小指を出した。
「約束。」
「は?なんだそれ?」
と、コウは首をかしげて、オレの小指を見た。これは、庶民の風習だったらしい。
オレは、コウの小指に、自分の小指を絡めた。
「約束するときは、こういう風にするんだよ。指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。」
「すげえ物騒だな。」
コウが驚いている。本当に針を千本呑むんだと思ったらしい。意外と素直なところがあってかわいい。
「約束破らなかったらいいんだよ。」
オレが笑って言うと、コウも笑った。
「やぶんねーよ。絶対、おまえに会いに行くから、待ってろ。」
「うん、待ってる。…おやすみ、コウ。」
「おやすみ、レン。」
そのまま、指切りしたまま、オレたちは眠った。
朝が来て、オレは城を下がって。
それから一度も、コウはオレに会いに来てはくれない。
果たされない約束を、オレは今でも待っている。
あの日からずっと、おまえを待ち続けている。
第一幕
龍神国は、七柱の龍神によって創造され、守護されている国である。
炎と太陽を支配する紅龍。
光と安らぎを司る橙龍。
大地に実りを約束する黄龍。
風を統べ、嵐を起こす翠龍。
天空と氷雪を操る青龍。
海と水の象徴である藍龍。
雷光と雷鳴を呼ぶ紫龍。
龍神の力を使い、人々は邪悪を打ち払う。
その技を、神術、それを操る者を神官と呼ぶ。
神官の中でも、特別に龍の加護を受ける者は、証として瞳にその色彩を宿す。
☆
夜の闇は、のしかかるように重い。
ただ暗いだけではなく、胸が悪くなるような濁った気配が満ちている。
瘴気、と呼ばれるもの。
そしてそれは、刀を握る男から発せられていた。
刀は二本差しで、着物の仕立ても上等だ。それなりの身分の武家だろう。
しかし、目の焦点は合わず、構えもなっていない。ただ闇雲に刀を振り回している。
周囲に人がいたら大惨事間違いないが、この辺りの住人の避難は済んでいるのでその心配はない。
物陰に隠れて男を見ているのは、四人の少年だけだ。
年の頃は、皆、十二、三。格好もそろっている。純白の小袖に、浅葱の袴。そして、黒目黒髪の人々が多い龍神国には珍しい、鮮やかな色彩の髪や目をしていることから、神官候補生だと知れる。
男をひた、と見据え、
「瘴気を発しているのは、あの男じゃない。妖刀だ。付喪神だな。」
凛と澄んだ声でそう断じたのは、一目で、容姿の華やかさに目を奪われる、美貌の少年だった。
綺麗な弧を描く双眸は、翡翠の色。まっすぐな髪は、赤みがかった金色。きめの細かい、透き通るように白い肌。
まっすぐ前を見据え、ぴんと背筋を伸ばす姿からは、意志の強さや、性根の清らかさが感じられる。吹き過ぎる風のような、冷涼な空気をまとう。
「そんなの、どっちでもいいっつーの。さっさと片付けるぜ。」
どうでもいいと、投げやりに答えたのは、こちらも整った顔立ちの少年だった。しかし、受ける印象は正反対。
猫を思わせる大きな瞳は、紅玉の色。癖が強く、波打つ髪は銀色。肌は白いが、やや病的な蒼白さ。
勝気そうだが、それは我を通す類の強引さだろうと思わせる、人を喰った笑み。斜に構えた立ち姿は、荒んだ気配を漂わせている。
「緋皇。」
と、金髪の少年が、たしなめるように呼んで、言い聞かせる。
「あの男は、妖刀に操られているだけだ。傷つけないように細心の注意を。」
「うっせーよ、翡蓮。まとめてぶっとばしゃいいだろ。妖刀に乗っ取られるやつなんざ自業自得だ。」
冷たく吐き捨てる緋皇に、翡蓮が
「そんなことを許すわけにはいかない。」
静かに、けれど、一歩も譲らずに、きっぱりと告げた。
「翡蓮の言う通りだよ。ほんっと、おまえって自分勝手っていうか、無茶苦茶だよね。」
「神官候補生の自覚が足りないよ。連帯責任になるんだから、やめてよね。」
そう言った声は、どちらも、硝子が触れ合うような、透明な響きだった。似ている声、似ている口調。それを紡いだ彼らは、容姿も瓜二つ。双子、もしくは年子の兄弟か。
緋皇や翡蓮は美貌と評するのがふさわしいが、この二人は愛らしくて可憐だ。
二人とも、肩につかない程度の長さの黒髪に、青い瞳をしている。瞳の色の濃淡だけが、二人を区別する唯一の手がかり。空の水色と、海の青藍。
「玻璃、瑠璃。言いすぎだ。」
と、翡蓮が二人をたしなめる。薄青の瞳の玻璃と、群青の瞳の瑠璃が
「「はあい。」」
と声をそろえて返事をする。翡蓮に対しては素直だが、緋皇への不満は全く減じておらず、緋皇に向ける眼差しは冷ややかだ。
しかし、緋皇は、玻璃と瑠璃の非難など、歯牙にもかけない。視線すら向けなかった。
この小隊のまとめ役である翡蓮には頭が痛いが、今は事態の収拾を優先させなければならない。翡蓮は、素早く作戦を練り上げ、指示を出す。
「玻璃、瑠璃。あの男の足止めと浄化を頼む。」
玻璃は氷雪を、瑠璃は水を操ることができる。どちらも、浄化に適した力だ。
「わかった。」
「でも、あそこまで瘴気が濃いと、完全には無理だよ。」
「ああ。後はオレが、あの男と刀を引きはがすから、緋皇は刀を頼む。」
素直な玻璃、瑠璃と違って、緋皇は返事もしない。けれど、翡蓮は緋皇を信じて任せる。
翡蓮は、すうっと息を吸いこみ、告げる。
「始めるぞ。」
少年たちの空気が、ぴんと張り詰めた。
☆
ひそんでいた物陰から、一斉に飛びだす。
瑠璃が、人差し指と中指を立てた「刀印」で、空中に図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、清水流祓!」
図形から、大量の水が噴き出す。澄んだ水が、月光に煌めきながら、まっすぐ男に向かう。
その直後に、玻璃が瑠璃と同じように図形を描きながら叫ぶ。
「四級神術発動、凍結氷華!」
図形から、純白の吹雪が吹き荒れる。
瑠璃が呼んだ大量の水に、玻璃が生み出した吹雪がぶつかり、水は一瞬で凍結した。
男を氷の中に閉じ込めて。
瑠璃と玻璃が、同時に翡蓮を見た。
翡蓮がそれに頷き返すと、二人は嬉しそうに笑う。瑠璃と玻璃の連携は見事だった。緋皇は、翡蓮たちを、つまらなそうに眺め、ふん、と鼻を鳴らす。
男ごと妖刀を、浄化の力を持つ氷に封じたため、瘴気は薄れだしている。
「よし、このまましばらく待って、後はオレが。」
翡蓮の言葉を遮って
「まどろっこしいんだよ!」
緋皇が前に出る。
「緋皇!?まだだめだ、浄化が!」
翡蓮が伸ばした手は届かない。
「三級神術発動、炎刀閃光!」
緋皇の描いた図形から、一振りの刀が出現する。
刃が、燃え盛る炎をまとい、周囲を真昼のように照らし出す。
緋皇はそれをつかみ取り、男の前に飛びだす。
緋皇が、刃を一閃する。
氷が、炎の刀で切り裂かれる。
緋皇の真紅の目が、ぎらりと輝いた。
危険な輝き。
緋皇が好戦的な笑みに、唇をつり上げる。
「緋皇!!」
翡蓮の叫びは届かない。
男が、妖刀を大きく振りかぶる。
緋皇の方が速い。
電光石火の身のこなしで、緋皇は妖刀を弾き飛ばした。
妖刀が宙を舞う。
想定外の事態でも、翡蓮は適切に動く。
「三級神術発動、玉風乱刃!」
疾風が吹き荒れた。
風の刃が、妖刀を叩き折る。
四方八方から襲う風の刃が、妖刀を粉々に打ち砕いた。
妖刀は、細かな破片となって地に落ち、翡蓮は小さく息をつく。
緋皇は、それを横目で見て、醒めた笑みを浮かべる。
緋皇の手の中から、炎の刀が消え失せる。
玻璃と瑠璃も、(緋皇のせいで)予定とは変わったが、妖刀は壊したので、肩の力を抜く。
弛緩した空気が漂いだしたところで。
翡蓮が、ハッと顔を上げた。
(瘴気!)
薄れたはずの瘴気が、再び濃度を増していた。
男の近くにいる緋皇に向かって、翡蓮は声を張り上げる。
「緋皇、下がれ!何かおかしい!」
「うるせえ!オレに指図すんな!」
緋皇が叫び返したとき。
男の手が腰に伸びた。
目は変わらず虚ろなまま。
男が、脇差を引き抜くのと、翡蓮が跳躍するのが同時。
神術を発動させる時間は無かった。
翡蓮が、緋皇を突き飛ばす。
血飛沫が飛んだ。
ピッと、緋皇の頬に、真紅の珠。
脇差に切り裂かれた翡蓮の血。
翡蓮が、崩れ落ちるように膝をつく。
「「翡蓮!」」
玻璃と瑠璃が叫ぶ。
翡蓮は、胸から腹までを、一直線に切り裂かれていた。
真っ赤に染まった白い小袖の胸を押さえ、翡蓮は緋皇を見上げる。
「緋皇、脇差を…。」
「チッ!」
緋皇は、ぎりっと奥歯をかみしめ、男に、否、もう一本の妖刀に向き直る。
「三級神術発動、劫火狂獣!」
真紅の劫火が、燃え盛る狼と化して、妖刀に襲い掛かる。
そのあぎとに、妖刀をくわえ込む。
ごうごうと音をたてて燃え上がる。
妖刀は、炎獄の中に溶けて燃え尽きた。
緋皇が、銀髪を揺らして翡蓮を振り返る。
けれど、凍りついたように動けない。
「翡蓮、しっかりして!」
「すぐに、神殿にもどろう!」
玻璃が、翡蓮に止血を始め、瑠璃が翡蓮を支えていた。
☆
起きているのか眠っているのか、翡蓮は、自分でもよくわからなかった。水中を漂うような、浅いまどろみ。半覚醒の。
(でも…たぶん、ゆめだな…。)
緋皇が、じっとこっちを見ているから。
いつもは、視線さえ、あまり向けてはくれないから。
あの紅玉の瞳が、まっすぐに自分を見てくれると、翡蓮はそれだけでうれしい。
「緋皇…?」
声になったのかは、わからない。
緋皇は、珊瑚色の唇を固く引き結んで、何も答えてくれない。
翡蓮の意識が、ゆっくりと遠のいて行く。
夢も見ない、深い眠りに。
意識が完全に落ちる直前。
指先に、あたたかい何かが触れた気がした。
☆
翡蓮が目を開けたとき、視界に飛びこんで来たのが、見慣れた自室の天井ではなかったので、数瞬、戸惑って瞬きを繰り返す。
(ここは…医務室か。)
それに気づき、昨夜の出来事が甦る。
(そうか、オレは、斬られて…。)
小袖の下に、布が巻いてある。
「ああ、よかった。気が付きましたか。」
柔らかな、春の日だまりを思わせる声音。布団の傍らに坐していた青年が、安堵したように笑いかけてくる。
日射しを浴びて金褐色に光る、亜麻色の長い髪。双眸は、混じり気の無い黄金。
白い小袖は翡蓮たちと同じだが、袴の色は違う。翡蓮たち神官候補生は浅葱だが、れっきとした神官である彼の袴は藍色だ。年の頃は二十代前半か半ばほどに見える。
清楚な美女と見まごうような、優しげな美貌の青年だ。
「琥珀教官。」
青年の名を呼んで身を起こそうとした翡蓮を、琥珀は片手で制した。
「そのままで。負担にならないよう、手短に済ませます。」
「いえ、大丈夫です。」
胸から腹にかけて、ずきりと痛みは走ったが、耐えられないほどではなかった。気丈に半身を起こそうとする翡蓮を、琥珀は
「<宝珠>翡蓮。」
と、役職つきで呼んだ。
「はい。」
「もっと自分を大切になさい。<宝珠>は、候補生たちのまとめ役であり、手本であり、要。貴方の復帰が遅れれば、損失は大きいのですよ。」
琥珀の声は変わらず穏やかだったが、有無を言わせぬ響きがある。たおやかな乙女のような外見を裏切って、指導が厳しいことで有名な教官だ。
翡蓮は素直に頷き、起こしかけた半身をもどす。
「はい。申し訳ありません。では、このままで失礼します。」
「ええ。それで、貴方の怪我ですが、玻璃と瑠璃からの報告では、緋皇が貴方の指示を無視したせいだということですが…。」
琥珀は、玻璃と瑠璃の報告をそのまま告げる。自分勝手で、しょっちゅう作戦を無視しで単独行動に走る緋皇を、玻璃と瑠璃は毛嫌いしている。
しかし、言動が幼く見える二人だが、仕事の報告に私情を挟むようなことはない。昨夜起きたことを、正確かつ客観的に琥珀に伝えていた。
むしろ、私情を挟んでしまうのは、翡蓮の方だ。
「間違いありませんか。」
「いえ、脇差も妖刀となっていることを気づけなかったオレにも責任があります。緋皇だけのせいでは。」
「ですが、緋皇が勝手に動かなければ、脇差も浄化されていたでしょう。違いますか。」
武家の男を窒息させるつもりはなかったので、闇雲に浄化を長引かせる気はなかったが、緋皇が動くのは早すぎた。
「…それは。ですが、最終的に脇差を調伏したのは緋皇です。緋皇の力は、オレたちの中でも抜きんでている。神殿には、絶対に必要です。どうか、寛大な処置を。」
必死で言い募る翡蓮に、琥珀はかすかなため息をついた。
「確かに、緋皇の力は私たちも認めるところです。ですが。」
琥珀は、無情なほどにきっぱりと告げる。
「いくら力があっても、誰とも共に戦えぬ者は、神官にはなれません。」
翡蓮は、まるで、自分自身が断罪されたように蒼白になった。怪我を負った原因が緋皇にあるというのに、恨む気は全くないようだった。
「緋皇は、今、どこに。」
琥珀は、気の毒そうに、目を伏せた。
「懲罰房に。」
☆
懲罰房の中は、真夏とは思えないほどひんやりとしていた。
龍神国各地に点在する神殿の総本山、正神殿は、その周囲を森に囲まれている。むしろ、森の中心を切り開いて建てられているという方が正しい。
深い森は、真夏でも冷涼だ。空気は澄んでおり、爽やかな水気を含んでいる。神気が満ちていると語る者もいる。
懲罰房は、正神殿の片隅に存在しているので、すぐそばまで森が迫っている。日差しがほとんど遮られているのが、温度が上がりすぎない理由の一つだが。
神官や神官候補生が入れられる牢である性質上、神術が使えないように結界が張られており、それが温度や湿度を一定に保つ役割も果たしている。
緋皇は、近づいてくる足音に顔を上げた。食事が運ばれてくる時間ではない。
何より、馴染んだ気配だった。
足音は、いつもの軽やかさが幾分損なわれているが、数日前、大量に出血するほどの怪我を負ったのだから無理もない。むしろ、数日しか経っていないのに歩き回っていいのか。
「緋皇、元気か?」
と、格子越しに呼びかけてくるのは、予想通り、翡蓮だった。
緋皇は、そっぽを向いたまま答えない。
翡蓮は、しょうがないなあとでも言いたげに苦笑する。
横目でしか視界に入れていない緋皇にも、それだけで、薄暗い懲罰房の中が明るく華やいだのを感じる。
単に容姿が整っているだけではなく、身にまとう気が、常に清々しく眩しいのだ。歪みなくまっすぐな気性を映しているように。
緋皇は、そんな翡蓮の姿を見るたびに、無性に腹が立つ。
いつだって正しくあろうとする。好きで神官候補生になったわけでもないだろうに、与えられた役割を完璧に果たそうとする。
押し付けられたこの立場を、受け入れる気が無い緋皇には、理解ができない。
「様子を見に来るのが遅くなって悪い。動くなって、琥珀教官や玻璃たちに止められてて。それほどひどい怪我じゃないんだけど。おまえ、近くにいたからわかってると思うけど、とっさに後ろに跳んだんだ。だから。」
「馬鹿じゃねえの。」
無視しようと思っていたのに、緋皇は、気が付いたら吐き捨てていた。
「様子見に来る義務なんかねーだろ。ほっとけっつーの。」
苛立ちが、声音に無数の棘をまとわせる。
しかし、翡蓮は
「あ、やっとこっち向いた。」
と、むしろ嬉しそうに笑う。翠玉の瞳を輝かせて。
「だって心配じゃないか。おまえ、懲罰房で、いつまでも大人しくしてそうにないし。明日には出られるから、あと少し我慢してろよ。」
「…。」
緋皇が真紅の目をすがめた。
翡蓮は、緋皇たちが所属する小隊の隊長というだけではなく、十から十五歳の神官候補生たちのまとめ役、<宝珠>だ。単に神術が強いだけでは、<宝珠>には選ばれない。他の模範となる行い、皆に慕われる資質、そういったものが重要だ。<宝珠>を務めた神官候補生は、いずれ、全神官の頂点に立つ<龍王>になることがほぼ約束されている。
文字通り、<宝珠>は、神官候補生の中の至宝。数日で釈放は、命令違反の挙句に、翡蓮に怪我を負わせた緋皇の処分としては軽い。
「おまえ、なんか余計なことしただろ。」
それを、ありがたいとも申し訳ないとも、全く思っていない口調で、緋皇は言う。
予想通りなので、翡蓮は気にしない。
「だって、一人で寝起きするの寂しいじゃないか。」
「はっ。だったら、誰かんとこ行けよ。おまえなら、誰にだって歓迎されるだろ。」
嘲る笑みで言い捨てる緋皇。
翡蓮の顔に、影が差す。
「緋皇、オレは。」
言いかけたとき、鐘の音が響いた。次の講義が近いことを知らせる予鈴だ。
何かを振り切るように、翡蓮は首を振る。赤みがかった金色の髪が揺れて、光を零す。
「じゃあ、オレは行くけど、本当に、あと少し、大人しく待っているんだぞ。」
小さい子を相手にしているように言い聞かせ、翡蓮は去っていく。
カタン…と出入り口の扉が閉まる音がする。
緋皇は、翡蓮が立ち去ってから、じっと何もない空間をにらんでいた。
傷口からあふれる鮮血のような、目を射るほどに鮮やかな赤い双眸に、荒んだ光が閃く。
気に入らなかった。翡蓮の何もかもが。
そもそも、翡蓮が怪我をしたのは、緋皇のせいだ。責めて、謝罪を求めるのが当然だろう。
なぜ、いつまでもあんなに澄んだ目を向けてくる?
どうして、変わらずに笑いかける?
「<宝珠>としての責任感かよ。ご苦労なこったな。」
緋皇は、銀髪を揺らして立ち上がった。
「誰が、おまえの言う通りにするかってーの。」
刀印を結び、叫ぶ。
「二級神術発動、業火炸裂!」
常ならば、すぐに図形から爆炎が飛びだし、周囲を瞬時に焼き尽くす神術だが、図形は沈黙している。
「チッ。」
と、緋皇は舌打ちする。
何かが引っかかって、術の発動を邪魔している。
懲罰房に張られた結界だ。
「だったら、オレの力にこの結界がどこまで保つか、試してやる。」
緋皇は、凶悪な笑みを浮かべた。
懲罰房が、真紅の炎に包まれて焼け落ちたのは、四半刻ほど後のことだった。
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ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
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※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
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