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■第一章 小鳥は啼く
第二話 竜門の鯉
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「しかし、竜門を登る鯉がまさか人間のことだったとはな」
助けてくれた陽翔が歩きながら私をちらりと見て言うが、何のことやら。話が見えない。
この庭園に『竜門』などという場所は存在しないのだ。離宮に『門』と呼ばれるものは四つだけ――正門である『西門』と、それ以外の裏門として使われる『東門』、『南門』、『北門』だけである。それを私が知るのはもう少し後のことだ。
「水難の相も当たりましたね。陽翔様、私はお着替えを取って参ります」
「ああ、頼む。お前の替えでいいぞ、蒯正」
一緒にやってきた陽翔の従者らしき人物の名は蒯正と言うらしい。主とは違って飾り気のない容姿で、大柄ながらも温厚そうな人物に見える。声も見た目より一オクターブ高く柔らかい。
「いけません、陽翔様。離宮で公卿(貴族)がそのような身分違いのことをなさっては、あらぬ疑いをかけられるやもしれません。それにこれから尚侍にお会いになるのでしたら、やはり正装でなくては」
「そうだな、地位も色々と面倒臭いか。わかった。では、着替えを取ってきてくれ」
「はい。それとそちらの――ええと、あなたの名は?」
蒯正が遠慮がちに私の名を聞く。
「あ、はい、坂本玲奈です」
私は名前を言ったが、二人はきょとんとした顔になった。
「……坂本? そのような官職があったであろうか?」
「いいえ、ございません」
「いえ、官職じゃなくて名字なのですが」
「名字! 名字だと! 聞いたか、蒯正、一介の下女が家の名を言い出したぞ!」
「いけませんよ。ここでは身分を偽れば死罪もあるのです」
仰天したように陽翔が大声で言い、蒯正が難しい顔で私を諭すように言う。
死罪……って死刑!?
「ええっ!?」
「まあいいではないか。今のはちょっとウケたぞ。ククク、お前は今日から坂本を名乗るが良い」
いや、本名なんだけどね?
でも、ここでそんなことを言おうものなら、凄く面倒なことになりそうだ。
私が困っていると蒯正が肩をすくめた。
「仕方ないですね。後で私が調べておきます。服の色が茶ですので、下女で間違いないでしょうけど」
「そうだな。ま、それまでは坂本のレイレイで良かろう」
「陽翔様、いけません、ただのレイレイです」
私の名前は今この瞬間、レイレイに決定したようです。
なんだかパンダみたいで可愛らしい名前だなーと思ったら、こちらでは本名の韻を重ねて幼名とするのだとか。
「クックックッ、名前が多くて、レイレイちゃんは随分と高貴な御方らしいな。プフ」
ああもう、バカにされた! 絶対バカにしてる!
「陽翔様、高官相手に緊張しただけの不慣れな子供を、そのように茶化すものではありませんよ。ではレイレイの着替えも持って参ります」
「おお、そうだな、それがいい」
「ありがとうございます」
着替えはありがたい。寒風に吹かれて私の体は震えが止まらなくなっていた。
「レイレイ、早く服を脱げ。そんなに震えていては風邪を引くぞ」
まだ蒯正さんが着替えを持ってきてくれていないのに、脱げとは、ここで裸になれと?
文句を言ってやろうかとも思ったけれど、相手は正五位(何だかよく分からないが)の高官だそうだし、この世界は身分にうるさい様子。
仕方なく私は遠慮がちに抗議した。
「いえ、男の人の前ではちょっと……」
「んん? ふん、まだ子供の癖に、生意気な」
陽翔がややあきれたように私を見て言うが、大人だもの。でも、この体、少し背も低くなっているようだし、動いても疲れがない。ひょっとして若返ってる?
夢……にしては周囲の建物がリアルすぎ。いったいここはどこですか。
日本ではなさそう。中世っぽい東洋風の建物で、言葉はなぜか通じてるんだよなぁ。
「あの、ここはいったい……どこなのでしょう?」
「おい、しっかりしろ、レイレイ。ここは離宮、つまりは後宮だ。お前は帝に仕えるためにここにいる。どうせ税の払えぬ村から出てきたのであろう」
後宮……確か、やんごとなき御方が跡継ぎを作るために夜ごと頑張る場所で、愛人がいっぱい住んでいるという場所ではなかったか。
そう、ハーレムというヤツだ。
えええええ……。
途方に暮れた私の体を、心の底まで冷える風が撫でていく。「もうここから帰れないよ」という声がどこからか聞こえた気がした。
ど、どうしよう。
あまりの現実に、私は、ただただ震えてしまう。
「そんなに寒いなら、これでも飲んでおけ。温まるぞ」
ひょうたんを渡された。蓋を抜いて一口飲んでみるが……
「うっ、ゲホッ、ゲホッ」
やたらと強い酒だった。喉がカーッと熱くなり、火を噴きそうだ。
「フフ、熱くなっただろう」
「うう、喉が焼ける。なんでこんな強い酒を……」
「祓いと清めのためだ」
なるほど、飲み物としてではなく儀礼用と消毒用というわけか。しかし、そんな物を飲ませるなんてちょっと酷くないですか。ニヤニヤと笑ってるし。
「もういいです」
とても飲めないので酒を突き返したが、その時――私は中庭を急いで走る者を見かけ、不穏なものを感じた。
その女官は建物に隠れるように小走りで移動している。
だが、走り方が女性のそれではない。いや、ここの女官のものではないと言ったほうが正しいだろう。
さきほど私に意地悪した女官『従五位の才女』と同じ服装なのだが、しゃなりしゃなりと歩き、口もとに手をやって笑うようなあの仕草とはかけ離れていた。
私にはわかる。
そいつは偽物だ。
助けてくれた陽翔が歩きながら私をちらりと見て言うが、何のことやら。話が見えない。
この庭園に『竜門』などという場所は存在しないのだ。離宮に『門』と呼ばれるものは四つだけ――正門である『西門』と、それ以外の裏門として使われる『東門』、『南門』、『北門』だけである。それを私が知るのはもう少し後のことだ。
「水難の相も当たりましたね。陽翔様、私はお着替えを取って参ります」
「ああ、頼む。お前の替えでいいぞ、蒯正」
一緒にやってきた陽翔の従者らしき人物の名は蒯正と言うらしい。主とは違って飾り気のない容姿で、大柄ながらも温厚そうな人物に見える。声も見た目より一オクターブ高く柔らかい。
「いけません、陽翔様。離宮で公卿(貴族)がそのような身分違いのことをなさっては、あらぬ疑いをかけられるやもしれません。それにこれから尚侍にお会いになるのでしたら、やはり正装でなくては」
「そうだな、地位も色々と面倒臭いか。わかった。では、着替えを取ってきてくれ」
「はい。それとそちらの――ええと、あなたの名は?」
蒯正が遠慮がちに私の名を聞く。
「あ、はい、坂本玲奈です」
私は名前を言ったが、二人はきょとんとした顔になった。
「……坂本? そのような官職があったであろうか?」
「いいえ、ございません」
「いえ、官職じゃなくて名字なのですが」
「名字! 名字だと! 聞いたか、蒯正、一介の下女が家の名を言い出したぞ!」
「いけませんよ。ここでは身分を偽れば死罪もあるのです」
仰天したように陽翔が大声で言い、蒯正が難しい顔で私を諭すように言う。
死罪……って死刑!?
「ええっ!?」
「まあいいではないか。今のはちょっとウケたぞ。ククク、お前は今日から坂本を名乗るが良い」
いや、本名なんだけどね?
でも、ここでそんなことを言おうものなら、凄く面倒なことになりそうだ。
私が困っていると蒯正が肩をすくめた。
「仕方ないですね。後で私が調べておきます。服の色が茶ですので、下女で間違いないでしょうけど」
「そうだな。ま、それまでは坂本のレイレイで良かろう」
「陽翔様、いけません、ただのレイレイです」
私の名前は今この瞬間、レイレイに決定したようです。
なんだかパンダみたいで可愛らしい名前だなーと思ったら、こちらでは本名の韻を重ねて幼名とするのだとか。
「クックックッ、名前が多くて、レイレイちゃんは随分と高貴な御方らしいな。プフ」
ああもう、バカにされた! 絶対バカにしてる!
「陽翔様、高官相手に緊張しただけの不慣れな子供を、そのように茶化すものではありませんよ。ではレイレイの着替えも持って参ります」
「おお、そうだな、それがいい」
「ありがとうございます」
着替えはありがたい。寒風に吹かれて私の体は震えが止まらなくなっていた。
「レイレイ、早く服を脱げ。そんなに震えていては風邪を引くぞ」
まだ蒯正さんが着替えを持ってきてくれていないのに、脱げとは、ここで裸になれと?
文句を言ってやろうかとも思ったけれど、相手は正五位(何だかよく分からないが)の高官だそうだし、この世界は身分にうるさい様子。
仕方なく私は遠慮がちに抗議した。
「いえ、男の人の前ではちょっと……」
「んん? ふん、まだ子供の癖に、生意気な」
陽翔がややあきれたように私を見て言うが、大人だもの。でも、この体、少し背も低くなっているようだし、動いても疲れがない。ひょっとして若返ってる?
夢……にしては周囲の建物がリアルすぎ。いったいここはどこですか。
日本ではなさそう。中世っぽい東洋風の建物で、言葉はなぜか通じてるんだよなぁ。
「あの、ここはいったい……どこなのでしょう?」
「おい、しっかりしろ、レイレイ。ここは離宮、つまりは後宮だ。お前は帝に仕えるためにここにいる。どうせ税の払えぬ村から出てきたのであろう」
後宮……確か、やんごとなき御方が跡継ぎを作るために夜ごと頑張る場所で、愛人がいっぱい住んでいるという場所ではなかったか。
そう、ハーレムというヤツだ。
えええええ……。
途方に暮れた私の体を、心の底まで冷える風が撫でていく。「もうここから帰れないよ」という声がどこからか聞こえた気がした。
ど、どうしよう。
あまりの現実に、私は、ただただ震えてしまう。
「そんなに寒いなら、これでも飲んでおけ。温まるぞ」
ひょうたんを渡された。蓋を抜いて一口飲んでみるが……
「うっ、ゲホッ、ゲホッ」
やたらと強い酒だった。喉がカーッと熱くなり、火を噴きそうだ。
「フフ、熱くなっただろう」
「うう、喉が焼ける。なんでこんな強い酒を……」
「祓いと清めのためだ」
なるほど、飲み物としてではなく儀礼用と消毒用というわけか。しかし、そんな物を飲ませるなんてちょっと酷くないですか。ニヤニヤと笑ってるし。
「もういいです」
とても飲めないので酒を突き返したが、その時――私は中庭を急いで走る者を見かけ、不穏なものを感じた。
その女官は建物に隠れるように小走りで移動している。
だが、走り方が女性のそれではない。いや、ここの女官のものではないと言ったほうが正しいだろう。
さきほど私に意地悪した女官『従五位の才女』と同じ服装なのだが、しゃなりしゃなりと歩き、口もとに手をやって笑うようなあの仕草とはかけ離れていた。
私にはわかる。
そいつは偽物だ。
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