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■第一章 小鳥は啼く 

第三話 妖魔

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 建物の裏を隠れるように走っている女官は――

 異質な人物による女装である。
 
 肩の肉の付き方や腰の骨格も違う。何より骨張った太い指が決定的だ。
 他の人間の目をごまかせても、この女体だけを描き続けて十数年、百合漫画好きの私の目はごまかせませんよ!

「陽翔様、あの男を」

 私は視線で指し示す。

「男? 女官ではないのか」

「いいえ、あの機敏で力強い走りっぷり、綺麗なフォーム、専門のトレーニングを受けた者の走りです。体つきも違います」

「む、言われてみれば。何が目的かは知らんが、これはすぐにでも捕まえたほうが良さそうだ。ああ、くそ、俺の剣を置いてきてしまった。こんな時に……!」

 陽翔が悪態をつくがそれは仕方がない。
 
 なにせここはやんごとなき御方が訪れる禁裏である。特別な者しか帯剣を許されない場所だろう。だが、あの不審者は密かに剣を隠し持っているかもしれない。今から武器を取りに行っていては間に合わないし、助けを呼ぶ前に逃げられてしまうか。

 ここは……

 何か武器になるようなものさえあれば。
 
 私は周囲を見回したが、ちょうど琴を重そうに抱えて運んでいる官吏がいた。

「陽翔様、あれを武器代わりにしてください。重いということはかなり丈夫なはずですから」

「わかった! おい、それを貸せ」

「な、何を」

 琴を強引に奪った陽翔が凄い速さで女装男を追いかけていく。まるで疾風のよう。

「ちっ、気づかれたか! 死ね!」

 女装男が振り向くと、懐から隠し刀を抜いて陽翔に斬りかかる。
 やはり私の思ったとおりだった。

「甘い!」

 しかし、陽翔はそれをひらりとかわすと、琴を思い切り振り回して女装男を殴る。

「ぐあっ!」

 バインッと、耳障りな不協和音と共に、女装の曲者がその場にひっくり返った。

「お見事!」

 そう叫んだ私はこれで決着が付いた――と喜んだのだが、しかし、そうではなかった。

「むっ、これは!」

 男の剣を拾い上げた陽翔が警戒する。
 破れ始めていた。ひっくり返った女装男の服が内側からである。
 
「な、何あれ……」
 
 うごめくモノ。
 中から異形の足が何本も突き出してくるのが見えてしまった。
 それは瞬く間に巨大な蜘蛛の形へと変化していく。

「くそっ、バカな……! こんな場所に妖魔が入り込めただと!?」

 こんなもの、私は初めて見た。
 後で聞いたが、妖魔とはこの世界に救う化け物の総称で、人をよく襲うそうだ。しかし、彼らがいるのは深い山の中や戦場であって、このような人里などではない。
 さすがの陽翔も驚きの表情を隠さず、一歩後ろに下がる。

 すると――人よりも大きな大蜘蛛はこちらに向かって突進してきた。

 ほえっ!? どうして! 私のほうへ? 陽翔のところに行ってよ!

「妖魔だッ! 妖魔が出たぞ! 兵を連れてこい! おい、何をしている、逃げろ! レイレイ!」

 そ、そうだった。
 怯えていた私は振り向いて一目散に駆け出すが、服が濡れていて思うように走れない。
 逃げないと。

「妖魔め! 俺が相手だ!」

 後ろで陽翔が大蜘蛛に斬りかかったようだが、勇気あるわぁ。私が彼の立場なら、間違いなく逃げてるね。

 だが、武芸に長けた様子の陽翔もさすがにこの大きな蜘蛛は手に余るようで、化け物の動きは一向に止まらない。

「レイレイッ、右に跳べ!」

 後ろから聞こえたその声に、私は迷わず右に飛び込む。

 すると加速をつけた大蜘蛛が後ろから、たった今私が駆けていた方向へ突っ込み、石橋を粉砕した。凄まじい力だ。

 命はかろうじて助かったわけだが、その橋を渡ろうとしていた私はこれ以上進めなくなってしまった。そして後ろには大蜘蛛がいる。

 もう逃げ場は無い。

 万事休す――

「水に飛び込め! レイレイ!」

 嫌だ。もう水の中には飛び込みたくない。だいたいここで飛び込んだところで、あの蜘蛛に追われてはあっというまに私は喰われてしまうだろう。

 それよりも何か――何か使えるものはないか。
 あたりを見回すが、何も落ちてはいない。せいぜい橋の破片くらいのものだが、それをナイフ代わりにしたところで、こちらに勝ち目はないのだ。

 風が吹く。それに乗って、むせ返るほどの腐臭が漂ってくる。それは妖魔の臭いか、それとも私自身の明日の臭いか――。

 だが、臭いで私はひらめいていた。

「酒を! 陽翔様、清めの酒を!」

「おお、これがあったな! 化け物! 喜べ、お前には高級すぎる上等な酒をたっぷりとくれてやろう!」

 陽翔が懐から酒の入ったひょうたんを出し、それを景気よく振りかけると、思ったとおり妖魔はその清めの酒を嫌がり、下がって暴れだした。しゅうしゅうと白い煙さえ上がっている。

「効いたぞ! だが、チッ、もっと持ってくれば良かった」

「まだです、陽翔様。強い酒には火を」

 酒豪の私でもやべえと思うほどのアルコール度数だ。なら燃えるに決まってる。燃えないかもしれないけれど、命が懸かれば何だって試すべきだろう。

「むっ、わかった!」

 陽翔が建物の方へ戻っていくが、あいにくと彼は火種を持っていなかったようだ。せめてこの時代にもマッチやライターがあれば良かったのに。

 キチキチと暴れていた蜘蛛がやや落ち着きを取り戻し、私のほうを向いた。
 なぜだろう。
 
 この化け物は最初から私を狙っているようにも見えるが……ここにはお綺麗な女官達がたくさんいるのだから、何も端女と小馬鹿にされる女官の雑用係を選ばなくても良さそうなものではないか。陽翔様のほうが絶対に美味しいよ?

 来る! ――そう感じて、私は横に飛んだ。
 水の中に再び落ちる。

 そこから必死に泳ごうとするが、ダメだ、やはりこの服では泳げない。というか、なぜ脱がなかったし? 私のバカ。

 しくじった……。

 私がすべてを諦めかけた時、だが、後ろから蜘蛛が飛び込んでこないことに気がついた。

「こいつ、水を恐れてるの?」

 忌々しそうにこちらに近づきながらも、飛び込まない蜘蛛。ならばと、私は橋の欄干を掴んで、そのまま水の中で陽翔を待つ。

「待たせたな! レイレイ!」

「陽翔様!」

 陽翔が放り投げた燭台――その炎が風に煽られ小さくなる。
 私はただ祈った。必死に。
 どうか、消えないで――

 するとどうだろう。ロウソクの炎は急に勢いを増し、一気に蜘蛛に飛び火して、激しく燃え上がったではないか。

「何をした、レイレイ、術か?」

「いいえ、アルコールは揮発きはつ性だからですよ」

 私は微笑んで言う。

「んん?」

 言葉の意味は陽翔には伝わらなかったようだが、それは些細な問題だろう。あっという間に蜘蛛は燃え尽きてしまったのだ。
 生き残った私と彼はお互いに笑い合った。

 それから離宮がてんやわんやの大騒ぎとなり……着替えそびれてしまった私は酷い風邪を引いたのであった……くしゅん!
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