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45話
しおりを挟む勝手口から外へと、脱兎のごとく飛び出た。
湿気を含んだひんやりとした風が頬の熱を奪うように吹く。
それにも拘わらず、私の頬は尋常ではないほど熱が籠っていて、治まる気配をみせない。
脈打つ心音が煩く、握り締める指先は彼の舌の感触が鮮明に残っていた。
意識しすぎているせいなのか、それは呪いのようになかなか消えない。
ニルヌの一件で私は自分の気持ちに気づいてしまっている。
シンティオは私に懐いてくれているけど、あれは毎日餌を与え続けたことによって培われた条件反射。既に彼の脳内では私=白パンをくれる人間という構造が出来上がっている。
昔飼っていた犬のパトラッシーは好物の餌があると手や頬を舐めて要求してきた。やたらと彼が舐めて来る理由もきっとそれと同じ。
だから私が一々舞い上がるのは間違っている。ついでに私が竜を好きになっているなんてどうかしている。世も末。
それにしてもシンティオのとろりとした幸せな表情は教会の大理石彫刻ごとく典麗だった。平生ですら端正な顔立ちだといのに。さっきのは反則だ。
ダメダメ。このままではシンティオに良いように使われるだけだ。
しっかりして私! 失いかけている爬虫類嫌いの誇りを取り戻して!
決意を新たにしていると、目の端に黒い影が映った。
「なーにしてるんだい?」
酒焼けした濁声に反応して目を向ければ、強面の老婆が杖をつきながら覚束無い足取りでこちらにやって来る。転んでしまわないように私は直ぐに駆け寄ると、肩を貸した。
「サンおばさん……うわっ、酒くさっ! またどこかで沢山飲んできたの?」
彼女から吐かれた息が顔に掛かり、堪らず顔を顰める。
ひっく、としゃくりで返事をしたサンおばさんはイッヒッヒ、と不気味な声で笑った。
「アタシに掛かりゃ、あんな青二才から金を巻き上げるなんざチョロいもんさ」
「嗚呼、また賭け事で何人か負かしたんだ。あんまりやり過ぎると恨まれるから程々にしてよ」
「金は巻き上げてないよ。ちょいと良い酒を奢ってもらっただけさ。あとほれ、ルナに土産……」
遺言のようにそれだけ言うと、サンおばさんは地面に崩れ落ちた。手から離れた杖がカランと音を立てて地面に倒れる。
程なくして豪快なイビキが聞こえ、彼女が寝入ってしまったことが分かった。
杖を握っていない反対の手には、私に渡そうとした土産とやらがまだ握られている――麦束だ。
私はそれを受け取って杖を拾い上げると、直ぐにシンティオを呼んだ。
「相変わらずサンドラは酒と賭博が好きだな」
肩を竦めたシンティオは彼女をおんぶすると二階の客間へと運ぶ。
階段を登る度、反ってしまっている木材が軋んで悲鳴を上げ、おまけに地鳴りのようなイビキが響く。
あまりの騒音に休んでいたはずのニコラが部屋から顔を出した。
扉の隙間からは絶え間なくアンスさんのイビキも聞こえてきて、眠れていないことが分かった。サンおばさんのイビキが追加されるとなると、流石に限界だろう。
「良かったら下で眠らない? 寝る前に何かリラックスできる飲み物も出すよ」
「ええ、そうさせて下さい」
私が提案すれば疲れた様子のニコラは素直に頷いた。
三人で階段を降りて台所へ移動すると、蜂蜜レモンを振舞った。
ニコラは口に含むと唸った。
「美味しい! 蜂蜜が甘くてとても美味しいです」
顔を綻ばせるニコラは年相応の少年のようで。普段冷静で大人びた発言をする彼もまだ子供なのだと思った。
余計なお世話かもしれないがニコラのには蜂蜜を多めに入れてある。蜂蜜には疲労回復と安眠に効果的な成分が含まれているから、きっとこの後はぐっすり眠れるだろう。私は目を細めて自分のカップに口をつけた。
シンティオも蜂蜜レモンが気に入ったようで真っ先に飲み干してしまった。
空になったカップをテーブルに置いたところで口を開く。
「ところで、サンドラの土産とは一体何だったのだ?」
私は棚の上に置いていた麦束を皆が囲っているテーブルの上に置いた。
灯に照らされる麦束は黄金色に輝いている。しかし麦穂に目をやった途端、私は戦慄いた。
黄金とは別に黒い麦穂が混じっている。
ニコラも口元に手を当てると青褪める。
「この麦、悪魔の爪がある。ニコラ、この領に今までそんなことあった?」
「まさか。我が領の麦に悪魔の爪が宿ったことは一度もありませんよ」
悪魔の爪。原因が何か分からないけど、これが宿った麦を食べると手足が黒ずみ、炎で炙られたような激しい痛みを伴って、患部は壊死する。最悪の場合、精神までもが錯乱して救えない状況になるのだ。
数年前に他領で流行り、多くの人が亡くなったと聞く。そんな地獄がこの領でも起きようとしている。
シンティオは寸の間、何のことか分からないといった表情をしていたが、麦束を見た途端眉を上げた。
「ふむ、これは毒麦だな。悪魔の爪などと仰々しい呼び名で何か分からんかった。原因は麦に寄生する菌によるものだ。食べれば中毒症状を起こす」
「え、これって菌が原因!? じゃ、じゃあ人が罹った時の治療法は知ってる?」
シンティオは目を伏せて首を横に振った。
「残念だが特効薬はない。万が一罹ったら転地療養するしか他ないだろうな」
竜の知恵を借りようと思った矢先に当てが外れてしまった。
転地療養なんてお金がある人は良いけれど、無い人には無理な話だ。加えて老人や子供となれば療養地に辿り着くまで体力が持つかどうか。
何か手はないかと逡巡しても不安ばかりが心に溜まっていく。
結局、解決策なんてどう考えても見つからない八方塞がりの状況に陥ってしまった。
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