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五章
束の間の安息
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「えーと、人参と玉ねぎとジャガイモと、あと……」
家から数百メートルほど離れた場所に位置する、近所のスーパー。
そこの食料品売り場で、俺たちは夕飯の材料を買い揃えていた。
彼女と一緒に、このスーパーに来るのは久しぶりだった。みらいが俺の家に越してきて間もないころは、よく一緒にこの店まで来て、二人で夕食のメニューなどを相談しながら店内を練り歩いたものだが、いつの間にかそれは彼女だけの役割となってしまっていた。
慣れた手つきで、みらいはカートの買い物籠に次々と食材を放り込んでいく。
「今日は何にするんだ?」
少し罪悪感を抱きながら、俺は横を歩く彼女に訊ねた。
「カレーかな。作るの簡単だし。好きだし」
半額シールの付いた牛肉のパックを手に取りながら、彼女は答えた。
「あー、カレーか。久しぶりだな……」
「そうそう。この頃、作ってなかったからね」
「……でもさ、お前の作るカレーって、ちょっと辛すぎないか?」
「えー、普通だよ。中辛だよ。それにカレーは辛くないと美味しくないんだから。あの程度で辛いなんて、ユウ君お子ちゃまだなあ」
ぷくく、とみらいは口に手を当て、小馬鹿にするように笑ってくる。
「いやいや。中辛は十分辛いだろ」
昔から、辛い料理があまり得意ではなかった俺は反論する。
「そんなことないよ。平均的な辛さだよ」
「平均的か……?」
「そうだよ」
「いや、でもさ―――」
「なーに? 嫌なの?」
まだ何か言おうとする俺のことを、みらいは半眼で睨んできた。
「い、いえ……何でもないです……」
見えない威圧感に押され、俺はすごすごと引き下がる。
気のせいだろうか。先ほどから、俺に対する当たりが少しだけ強い気がする。まあ、思い当たる節は色々とあるのだが……。
「わかればよろしい。ほら、早くいくよ」
そう言うとみらいは、怪我をしていない方の、俺の手を取った。
「わ、わかったから、引っ張るなよ」
「だめだよ。こうしてないと、ユウ君迷子になるでしょ」
「なるわけないだろ! 一体、俺を幾つだと思ってるんだ」
「そう? だってユウ君、昔コンビニで迷子になったことあったし……」
「いつの話だよ。俺にはそんな記憶ないぞ」
「あれ? 違ったっけ?」
「違う。断じて違う。どこの世界に、コンビニで迷子になる奴がいるんだ?」
「んー、まあ、いいじゃん。それより買い物、買い物」
グイグイグイ―――彼女は俺の手を引っ張ってくる。
「ああ、もう。わかったから」
俺は諦めて彼女に従った。
こういう強引な性格は昔から変わっていない。少しは人の話も聞いてほしいものである。
しかし今は、そんな彼女の強引さが心地がよかった。
「……ユウ君、何か良いことでもあったの?」
そんな風に少し感慨に耽っていると、みらいが振り返り、不思議そうに俺の顔を覗きこんできた。
「え、なんで……?」
「だって、何か嬉しそうな顔してるから」
「そ、そうか?」
俺は、自分の顔をペタペタと触ってみる。無意識の内に感情がこぼれてしまっていたのだろうか。
「……ま、何でもいいや。私も嬉しいし」
「ん? 何でお前が嬉しいんだ?」
「そりゃあ、ユウ君が嬉しいなら私も嬉しいよ」
ニコリと、春の花がほころぶような笑顔を向けてくる。
一瞬だが、そんな彼女の笑顔に、俺は魅了されてしまいそうになった。
「……それはよかったな」
勘付かれないよう、俺はあさっての方向に顔を向けて、そっけない返事を返す。
しかし、さすがは幼馴染。
俺の心の中などお見通しだったようで、
「あーユウ君照れてるー」
今度はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、俺の脇腹を指で突いてきた。
「いや、照れてねーよ」
身をよじりながら俺は言い返す。
「えー絶対照れてるよ」
ふにふにふにふに―――
「うっせー! 照れてねっつーの!」
「うわっ、ユウ君が怒った」
こっわーいと言いながら、みらいがカートと共に小走りで逃げていく。
「あっ、待てこら!」
俺は彼女の背中を追いかけた。
夕方のタイムセールを狙った買い物客で溢れ返る店の中を、俺たちは餓鬼のように走り回った。
身体が軽かった。
みらいと一連の事件は無関係―――その事実が、今の俺の心をクリアにしていた。
偶にぶつかった主婦からの冷たい視線も気にならなかった。
幸せなひと時だった。
# # #
店を出る頃には、日は沈んでしまっていた。時刻は既に七時を回っており、頭上に広がる夏空には、大小様々な星が散りばめられている。
「あーあー。すっかり遅くなっちゃったよ」
膨らんだ買い物袋を、右手に提げたみらいが隣でぼやいた。
「うるせー、お前のせいだろ」
あの後、俺たちはほぼ鬼ごっこ状態となってしまい、息を切らせながら店の中を駆け回った。そして十分ほどの追いかけっこの末、みらいが缶詰の商品棚にカートごと激突するという形で幕を閉じた。
大惨事だった。
その後、俺とみらいは二人仲良く、店の裏の事務室へと連行され、そこで店長らしき初老の男性に、こってりと絞られた。大人の男性が怒るとこんなにも怖いのかと、しみじみと実感させられた瞬間だった。
しかし不服なことに、何故か怒られたのは俺だけだった。直接的な被害を与えたのは、みらいの方だったのだが、女の子だからという理由で大目に見られたのだろうか。だとするなら俺も可愛らしい美少女に生まれ変わりたい。男女平等だと叫んでおきながら、こんなところで差別を喰らわせる社会に断固抗議してやりたかった。まあ、彼女と一緒に走り回ってしまった俺にも、もちろん責任はあるのだが……。
そんなこんなで、俺たちはこんな時間に、トボトボと帰路を辿る羽目になっているのだ。
「別に、店の中を走ったらダメなんて法律ないのにね」
「法律じゃなくてマナーだな。俺たちが最低限守るべきマナーだよ」
「堅苦しいよ。もっと自由に生きるべきだよ」
「お前が自由過ぎるんだよ」
「そんなことないよ。私だって色々不自由してるよ」
「例えば?」
「………布団に潜り込んだだけで、ユウ君に怒られること、とか?」
「当たり前だろ。誰だって怒るに決まってる。そんなことを、不自由とは言わねーんだよ」
「なんでだよー。別にいいじゃんかー」
みらいがむくれる。
そんなどうでもいい会話をしているうちに、俺の家が見えてきた。
しかし、
「……ん? 誰だあれ……?」
家の門の前に人らしき影が見えて、俺は思わず立ち止まった。
「えっ? 何?」
彼女もつられて立ち止まり、俺の視線の先を追う。
「ほんとだ。誰だろ……?」
みらいも不思議そうに呟いた。
この辺りは街灯も少ないため、夜になると辺りはほぼ真暗な状態だ。そのためここからでは、相手の顔を認識することは難しい。
俺たちはしばらく、その人影を観察していた。しかし、そいつは一向にその場所から動こうとする気配を見せない。
いつまでもそうしているわけにいかなかったので、不審者という言葉を頭の隅に置きながら、俺たちはその人影に近づいていった。
するとその人影は、近づいてくる俺たちの気配に気付くや否や、
「先ほどぶりですね。時坂優」
聞き覚えのある声を発した。
「えっ、お前―――」
俺は目を見張る。
人影の正体は―――さよだった。
「こんな所で何してんだよ」
先ほど別れたばかりの彼女が、何故ここにいるのかわからなかった。
「何か考え事があったんじゃないのか?」
「はい。ですがそれについてはもう済ませてきました」
さらりと彼女が言った。
「そんなにすぐ終わることだったら、やっぱり俺たちと一緒に帰ればよかったじゃないか」
「……そうですね。すみません。ですが、あなたたちもどこかに寄っていたのではないですか?」
みらいが提げていた、買い物袋を見ながらさよが言った。
「いや、まあそうなんだけど……。てかそれより、何でここにいるんだよ」
「……あなたに、少し頼みたいことがあったのです」
「頼みたいこと……?」
「はい」
さよが真っ直ぐに俺の目を見てきた。
そして、
「申し訳ありませんが今晩、あなたの家に泊めていただきたいのです」
「……………はい?」
衝撃的なことを口にした。
家から数百メートルほど離れた場所に位置する、近所のスーパー。
そこの食料品売り場で、俺たちは夕飯の材料を買い揃えていた。
彼女と一緒に、このスーパーに来るのは久しぶりだった。みらいが俺の家に越してきて間もないころは、よく一緒にこの店まで来て、二人で夕食のメニューなどを相談しながら店内を練り歩いたものだが、いつの間にかそれは彼女だけの役割となってしまっていた。
慣れた手つきで、みらいはカートの買い物籠に次々と食材を放り込んでいく。
「今日は何にするんだ?」
少し罪悪感を抱きながら、俺は横を歩く彼女に訊ねた。
「カレーかな。作るの簡単だし。好きだし」
半額シールの付いた牛肉のパックを手に取りながら、彼女は答えた。
「あー、カレーか。久しぶりだな……」
「そうそう。この頃、作ってなかったからね」
「……でもさ、お前の作るカレーって、ちょっと辛すぎないか?」
「えー、普通だよ。中辛だよ。それにカレーは辛くないと美味しくないんだから。あの程度で辛いなんて、ユウ君お子ちゃまだなあ」
ぷくく、とみらいは口に手を当て、小馬鹿にするように笑ってくる。
「いやいや。中辛は十分辛いだろ」
昔から、辛い料理があまり得意ではなかった俺は反論する。
「そんなことないよ。平均的な辛さだよ」
「平均的か……?」
「そうだよ」
「いや、でもさ―――」
「なーに? 嫌なの?」
まだ何か言おうとする俺のことを、みらいは半眼で睨んできた。
「い、いえ……何でもないです……」
見えない威圧感に押され、俺はすごすごと引き下がる。
気のせいだろうか。先ほどから、俺に対する当たりが少しだけ強い気がする。まあ、思い当たる節は色々とあるのだが……。
「わかればよろしい。ほら、早くいくよ」
そう言うとみらいは、怪我をしていない方の、俺の手を取った。
「わ、わかったから、引っ張るなよ」
「だめだよ。こうしてないと、ユウ君迷子になるでしょ」
「なるわけないだろ! 一体、俺を幾つだと思ってるんだ」
「そう? だってユウ君、昔コンビニで迷子になったことあったし……」
「いつの話だよ。俺にはそんな記憶ないぞ」
「あれ? 違ったっけ?」
「違う。断じて違う。どこの世界に、コンビニで迷子になる奴がいるんだ?」
「んー、まあ、いいじゃん。それより買い物、買い物」
グイグイグイ―――彼女は俺の手を引っ張ってくる。
「ああ、もう。わかったから」
俺は諦めて彼女に従った。
こういう強引な性格は昔から変わっていない。少しは人の話も聞いてほしいものである。
しかし今は、そんな彼女の強引さが心地がよかった。
「……ユウ君、何か良いことでもあったの?」
そんな風に少し感慨に耽っていると、みらいが振り返り、不思議そうに俺の顔を覗きこんできた。
「え、なんで……?」
「だって、何か嬉しそうな顔してるから」
「そ、そうか?」
俺は、自分の顔をペタペタと触ってみる。無意識の内に感情がこぼれてしまっていたのだろうか。
「……ま、何でもいいや。私も嬉しいし」
「ん? 何でお前が嬉しいんだ?」
「そりゃあ、ユウ君が嬉しいなら私も嬉しいよ」
ニコリと、春の花がほころぶような笑顔を向けてくる。
一瞬だが、そんな彼女の笑顔に、俺は魅了されてしまいそうになった。
「……それはよかったな」
勘付かれないよう、俺はあさっての方向に顔を向けて、そっけない返事を返す。
しかし、さすがは幼馴染。
俺の心の中などお見通しだったようで、
「あーユウ君照れてるー」
今度はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、俺の脇腹を指で突いてきた。
「いや、照れてねーよ」
身をよじりながら俺は言い返す。
「えー絶対照れてるよ」
ふにふにふにふに―――
「うっせー! 照れてねっつーの!」
「うわっ、ユウ君が怒った」
こっわーいと言いながら、みらいがカートと共に小走りで逃げていく。
「あっ、待てこら!」
俺は彼女の背中を追いかけた。
夕方のタイムセールを狙った買い物客で溢れ返る店の中を、俺たちは餓鬼のように走り回った。
身体が軽かった。
みらいと一連の事件は無関係―――その事実が、今の俺の心をクリアにしていた。
偶にぶつかった主婦からの冷たい視線も気にならなかった。
幸せなひと時だった。
# # #
店を出る頃には、日は沈んでしまっていた。時刻は既に七時を回っており、頭上に広がる夏空には、大小様々な星が散りばめられている。
「あーあー。すっかり遅くなっちゃったよ」
膨らんだ買い物袋を、右手に提げたみらいが隣でぼやいた。
「うるせー、お前のせいだろ」
あの後、俺たちはほぼ鬼ごっこ状態となってしまい、息を切らせながら店の中を駆け回った。そして十分ほどの追いかけっこの末、みらいが缶詰の商品棚にカートごと激突するという形で幕を閉じた。
大惨事だった。
その後、俺とみらいは二人仲良く、店の裏の事務室へと連行され、そこで店長らしき初老の男性に、こってりと絞られた。大人の男性が怒るとこんなにも怖いのかと、しみじみと実感させられた瞬間だった。
しかし不服なことに、何故か怒られたのは俺だけだった。直接的な被害を与えたのは、みらいの方だったのだが、女の子だからという理由で大目に見られたのだろうか。だとするなら俺も可愛らしい美少女に生まれ変わりたい。男女平等だと叫んでおきながら、こんなところで差別を喰らわせる社会に断固抗議してやりたかった。まあ、彼女と一緒に走り回ってしまった俺にも、もちろん責任はあるのだが……。
そんなこんなで、俺たちはこんな時間に、トボトボと帰路を辿る羽目になっているのだ。
「別に、店の中を走ったらダメなんて法律ないのにね」
「法律じゃなくてマナーだな。俺たちが最低限守るべきマナーだよ」
「堅苦しいよ。もっと自由に生きるべきだよ」
「お前が自由過ぎるんだよ」
「そんなことないよ。私だって色々不自由してるよ」
「例えば?」
「………布団に潜り込んだだけで、ユウ君に怒られること、とか?」
「当たり前だろ。誰だって怒るに決まってる。そんなことを、不自由とは言わねーんだよ」
「なんでだよー。別にいいじゃんかー」
みらいがむくれる。
そんなどうでもいい会話をしているうちに、俺の家が見えてきた。
しかし、
「……ん? 誰だあれ……?」
家の門の前に人らしき影が見えて、俺は思わず立ち止まった。
「えっ? 何?」
彼女もつられて立ち止まり、俺の視線の先を追う。
「ほんとだ。誰だろ……?」
みらいも不思議そうに呟いた。
この辺りは街灯も少ないため、夜になると辺りはほぼ真暗な状態だ。そのためここからでは、相手の顔を認識することは難しい。
俺たちはしばらく、その人影を観察していた。しかし、そいつは一向にその場所から動こうとする気配を見せない。
いつまでもそうしているわけにいかなかったので、不審者という言葉を頭の隅に置きながら、俺たちはその人影に近づいていった。
するとその人影は、近づいてくる俺たちの気配に気付くや否や、
「先ほどぶりですね。時坂優」
聞き覚えのある声を発した。
「えっ、お前―――」
俺は目を見張る。
人影の正体は―――さよだった。
「こんな所で何してんだよ」
先ほど別れたばかりの彼女が、何故ここにいるのかわからなかった。
「何か考え事があったんじゃないのか?」
「はい。ですがそれについてはもう済ませてきました」
さらりと彼女が言った。
「そんなにすぐ終わることだったら、やっぱり俺たちと一緒に帰ればよかったじゃないか」
「……そうですね。すみません。ですが、あなたたちもどこかに寄っていたのではないですか?」
みらいが提げていた、買い物袋を見ながらさよが言った。
「いや、まあそうなんだけど……。てかそれより、何でここにいるんだよ」
「……あなたに、少し頼みたいことがあったのです」
「頼みたいこと……?」
「はい」
さよが真っ直ぐに俺の目を見てきた。
そして、
「申し訳ありませんが今晩、あなたの家に泊めていただきたいのです」
「……………はい?」
衝撃的なことを口にした。
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