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六章
彼女の訪問①
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「すみません、みらいさん。突然押し掛けてしまって」
テーブルの椅子に腰かけながら、さよがみらいに頭を下げた。
「全然大丈夫ですよ。神崎さん、晩御飯はもう済ませましたか?」
「いえ、まだですけど……」
「私たち、今日はカレーなんですけど、よかったら一緒にどうですか? 材料なら少し余分に買ってあるんで、大丈夫ですよ」
「……はい。それならお言葉に甘えて……」
「わかりました」
制服の上からさっさとエプロンを装着したみらいは、既にキッチンで夕飯の準備に取り掛かっている。
「でも、鍵を無くして家に入れなかったなんて、大変でしたね」
水洗いしたジャガイモの皮をピーラで剥きながら、みらいが言った。
あの後、さよに詳しい事情を訊いたところ、どうやら彼女は自分の家の鍵をどこかでなくしてしまったようなのだ。両親は仕事の都合で明日の朝まで帰って来られず、期せずして、自分の家から閉め出される形となってしまったらしい。
だから、仕方なしに俺の家へ来たと言うのだが、
「他に当てなかったのかよ。わざわざ俺の家じゃなくても……」
彼女の向かいに座っていた俺は、嘆息混じりにそう言った。
一泊くらいなら、女友達の所にでも泊めてもらえばいいのにと思った。
「……すみません。私には、そのような親しい友人はいないものですから……」
さよが少し俯きながら言った。
「あ、いや……別にいいんだけどさ」
何だか触れてはいけない部分に触れてしまった気がして、俺は慌てて引き下がる。
「ユウ君。神崎さんイジメちゃだめだよ」
台所から、みらいが割って入ってきた。
「いや、別にイジメたつもりは……」
「こんなに可愛い人が、お家に泊まりに来てくれるなんて幸せじゃん。感謝しないと」
「感謝って……何で俺がこいつに感謝しなくちゃいけないんだよ……」
「ていうかユウ君、神崎さんと随分仲がいいんだね。先輩なのにため口だし、それに下の名前で呼んでるし……今日初めて会ったんじゃないの?」
みらいが不思議そうに首を傾げてきた。
「あ、いや、それはだな……」
どう説明したものかと、俺は慌てて考え始める。
さよと初めて会ったのは、俺が興味本位で立ち寄った一件目の火事の現場だ。そこで彼女はその土地に掛けられた呪いについて調べていた。
しかし、そこから話し始めてしまうと、彼女の能力についても色々と説明しなければならないし、何より、俺がこれまでずっと事件に首を突っ込んできたことが、みらいにばれてしまう。先ほど釘を刺されたばかりなのに、その事実を自ら露呈させてしまうことは正直避けたかった。
俺がうーんと唸っていると、
「何でもありませんよ。彼と顔を合わせたのは今日が初めてです。ただ単に、彼が無礼で馴れ馴れしいだけですよ」
さよが淡白な口調でそう答えた。
「いや、さよ。それは流石に―――」
「黙っていてください。時坂優」
訂正しようとする俺の言葉を、さよの静かな声音が遮った。
途端、がちんと歯と歯がかち合う音がして、俺の口が強制的に閉じられる。
なっ、言霊―――⁉
むぐぐっ、と俺は必死に口を開こうとしたが、無駄だった。まるで唇同士を接着剤で接合されたように、俺の口は少しも開いてくれなかった。
「でも、それならどうしてユウ君のお家を知っていたんですか? お一人でここまで来られたんですよね?」
「家の場所については知りませんでした。ですから、彼の知人に案内してもらったのです。彼の家に用事があるから場所を教えてほしいとお願いすると、その人は快く了承してくれましたよ」
「そう……だったんですか……」
微妙に納得のいかないような顔で、みらいが頷く。
だが、俺はそれを聞きながら嘘だと思った。事件の調査のため、隣の中学校へ赴いた日の帰り道、彼女はうなだれる俺をこの家まで送ってくれた。恐らく、俺の家への道のりは、その時に覚えたものだろう。
何故、彼女は俺たちの関係を隠そうとするのだろうか。みらいへの疑いが晴れた今、特に隠しておくような理由はないように思える。まあ、俺にとっては好都合なのだが……。
口をモゴモゴとさせながら、俺がそんなことを考えていると、
「何かよくわからないけど、ちょっとおもしろいね」
ふふっと、突然みらいが小さく笑った。
何が、と訊き返そうとしたがそれは叶わなかった。
「あはは。ユウ君、なにモゴモゴしてるの。変な顔」
みらいが俺の顔を指さして笑う。言い返そうとして、俺はさらに口をモゴモゴさせてしまう。
穏やかな空気が部屋の中に流れていた。
そんな空気に浸っているうちに、俺は細かいことなど、どうでもよくなってきた。俺は考えることを放棄した。
そういえば、この空間に三人もの人間が集まるのは、初音がいた頃以来かもしれない。
口を閉ざされた格好のまま、俺はなんだか懐かしい感覚に浸っていた。
# # #
最後の一口を水で流し込むと、俺は大きく息を吐いた
「何か……今日のやつは一段と辛くなかったか」
ようやく空になった容器を前に、俺は隣に座っていたみらいを、軽く睨んだ。
「えー、普通だよ。いつも通りだよ」
だが彼女は平然とした顔で言う。
彼女の器は、とっくの昔に空になっていた。
「神崎さんも、そう思いますよね?」
みらいがさよに同意を求めた。
「……そうですね。とても美味でした。ご馳走様です」
ハンカチで口元を拭いながら、さよは言った。
だが彼女も食べ終わるタイミングは、俺とほぼ同じだった。それに今、彼女はグラスに入った水をごくごくと喉の奥に流し込んでいる。
絶対にやせ我慢していると思った。
「ほら! 神崎さんも美味しかったって言ってるじゃない。ユウ君だけだよ。そんな格好悪い文句言ってるの」
我が意を得たりといった顔で、みらいが俺を窘めてくる。
「はいはい。すいませんね」
適当に謝りながら、俺はグラスに残っていた、本日三杯目の水を一気に飲み干す。
胃の中はもうたぷたぷだった。
「わかればよろしい。それじゃあ洗い物済ませちゃうから、食器片づけるね」
みらいがガタリと席を立つ。
「洗い物くらいは私が担当しますよ。こうしてご馳走になってしまったわけですし」
そこで、さよが後片付け役を申し出た。
「大丈夫ですよ。神崎さんはお客さんなんですから、ゆっくり休んでいてください」
「しかし―――」
「大丈夫ですって。それより神崎さん、先にお風呂入ってきてください。もう沸いていると思いますので」
俺たちの食器を回収しながら、みらいが言った。
「……そう、ですか。では、すみませんがよろしくお願いします。お風呂の場所はどちらでしょうか」
「あ、この部屋のすぐ隣です。わからなければまた聞いてください」
「わかりました。ありがとうございます」
「後で、着替え用のパジャマ、用意しておきますね」
「……何から何まですみません」
軽く頭を下げると、さよは静かに部屋を出て行った。
この上ない開放感に満たされながら、俺は廊下に出た。水で満たされていたお腹はかなり改善したように思える。これだから、辛いものは余り好きじゃないのだ……。
まあ、作ってもらっている手前、あまり偉そうなことは言えないのだが……。
手を洗うために、俺は洗面台へと向かった。だがその途中、俺はあることに気が付いて洗面台へと続く扉の前で立ち止まる。
どうしたものかと逡巡する。
この家では、洗面台と浴室は隣接する構造となっている。二つを隔てる仕切りはない。その一方の浴室を、今現在はさよが使用しているはずだ。シャワーの断続的な音が微かに聞こえてくることから間違いない。
もし俺が手を洗っている最中に彼女が浴室から出てきてしまうようなことがあれば、俺たちは鉢合わせすることになってしまう。
そんなことになれば、ただでは済まないだろう。
彼女お得意の言霊で、いつかのような恥ずかしい格好をさせられるかもしれないし、もしかしたら、もっと酷い目に遭わされるかもしれない。それだけは、何としてでも避けなければならなかった。
しかし、さよが上がってくるまでこうして待っているわけにもかない。どうしたものか……。
……しばらく悩んだ末、俺はガラリと目の前の扉を開けた。さよが入浴したのはつい数十分前のことだ。すぐに済ませれば大丈夫だろうと思った。
勢いよく水栓レバーを上げ、指の包帯に気を付けながら、俺は固形石鹸を掌にこすりつけていく。
しかし次の瞬間、俺は現実というものが、如何に無慈悲でかつ残酷なものであるかということを強く思い知らされた。
水栓レバーを下ろすと同時に、後ろの浴室扉がガラリと開いたのだ。
そんな馬鹿なという驚きから、俺は思わず振り向いてしまった。
すると、真っ白な湯気に包まれたさよが、浴室の中からゆっくりと出てくるところだった。
「ふう。さっぱりし―――」
しかし、洗面台の前で固まっていた俺と目が合うと、そんな彼女の言葉はふつりと途切れた。
「………」
「………」
シーンと音がしそうなほどの静寂が流れる。
まずい。何か言わないと―――
背中に一筋の汗が伝った。
しかし、
「何をしているのですか」
先に沈黙を破ったのは彼女だった。
さよは自分の裸体をバスタオルで隠すこともなく、とても落ち着いた声音で俺にそう訊ねてきた。
「いや、その……ちょっと、手を洗いたくて―――」
「手? ああ。手を切り落とされたいというわけですか。せっかく治療したのに残念です」
だが彼女の目には、はっきりとした殺気の色が滲んでいた。
「わ、わざとじゃないんだ。本当に―――」
「わざとでなければ、他人の裸を見ても許されるのですか?」
さよがゆっくりとこちらへ近づいて来る。艶やかな彼女の黒髪からポタポタと水が滴り落ちた。
「いや、そうじゃないけど、俺も、まさかこんなことになるとは―――」
必死で言い訳をするも、俺の目は自然と彼女の裸体に釘付けになってしまう。
白いリボンを外した彼女の姿は―――いつもよりも少し大人びて見えた。
ほんのりと上気し、朱みの掛かった彼女の頬。その頬に、濡れた黒髪が張り付いて、身体全体から艶めかしい雰囲気が醸し出されている。小柄な体格だが、胸部はちょうどいいくらいに発達しており、頭の先からつま先まで、実に優美な曲線を描いていた。
魅惑的な彼女の姿に、俺は思わず見惚れてしまう。
しかし、
「……なにを黙ってるんですか? 何とか言ったらどうなんですか?」
押し殺したような彼女の声で、俺はハッと我に返った。
いつの間にか彼女の姿は、俺のすぐ目の前にまで迫っていた。
漆黒の双眸が、穴を開けるような威圧感を持って、俺の顔を覗きこんでいる。
「……時坂優」
厳かな口調で、さよが俺の名前を呼んだ。
「な、なんでしょうか……」
「……何か言い残したいことはありますか」
絶望が広がる。
「見逃してほし―――」
「残念ですがそれはできません」
言い終わる前に撥ねられた。
「と、とりあえず、向こうで話し合お―――」
「それも無理です」
取りつく島もなかった。
どうやら今の彼女に、俺を赦すという選択はないらしい。
逃れられない運命を俺は悟った。
観念して、俺はゆっくりと目を閉じる。
「時坂優」
瞼の向こうで、さよが再び俺の名を呼ぶ。
「……はい」
「飛べ」
刹那、俺の身体は勢いよく宙を舞い、廊下の壁に叩き付けられた。
テーブルの椅子に腰かけながら、さよがみらいに頭を下げた。
「全然大丈夫ですよ。神崎さん、晩御飯はもう済ませましたか?」
「いえ、まだですけど……」
「私たち、今日はカレーなんですけど、よかったら一緒にどうですか? 材料なら少し余分に買ってあるんで、大丈夫ですよ」
「……はい。それならお言葉に甘えて……」
「わかりました」
制服の上からさっさとエプロンを装着したみらいは、既にキッチンで夕飯の準備に取り掛かっている。
「でも、鍵を無くして家に入れなかったなんて、大変でしたね」
水洗いしたジャガイモの皮をピーラで剥きながら、みらいが言った。
あの後、さよに詳しい事情を訊いたところ、どうやら彼女は自分の家の鍵をどこかでなくしてしまったようなのだ。両親は仕事の都合で明日の朝まで帰って来られず、期せずして、自分の家から閉め出される形となってしまったらしい。
だから、仕方なしに俺の家へ来たと言うのだが、
「他に当てなかったのかよ。わざわざ俺の家じゃなくても……」
彼女の向かいに座っていた俺は、嘆息混じりにそう言った。
一泊くらいなら、女友達の所にでも泊めてもらえばいいのにと思った。
「……すみません。私には、そのような親しい友人はいないものですから……」
さよが少し俯きながら言った。
「あ、いや……別にいいんだけどさ」
何だか触れてはいけない部分に触れてしまった気がして、俺は慌てて引き下がる。
「ユウ君。神崎さんイジメちゃだめだよ」
台所から、みらいが割って入ってきた。
「いや、別にイジメたつもりは……」
「こんなに可愛い人が、お家に泊まりに来てくれるなんて幸せじゃん。感謝しないと」
「感謝って……何で俺がこいつに感謝しなくちゃいけないんだよ……」
「ていうかユウ君、神崎さんと随分仲がいいんだね。先輩なのにため口だし、それに下の名前で呼んでるし……今日初めて会ったんじゃないの?」
みらいが不思議そうに首を傾げてきた。
「あ、いや、それはだな……」
どう説明したものかと、俺は慌てて考え始める。
さよと初めて会ったのは、俺が興味本位で立ち寄った一件目の火事の現場だ。そこで彼女はその土地に掛けられた呪いについて調べていた。
しかし、そこから話し始めてしまうと、彼女の能力についても色々と説明しなければならないし、何より、俺がこれまでずっと事件に首を突っ込んできたことが、みらいにばれてしまう。先ほど釘を刺されたばかりなのに、その事実を自ら露呈させてしまうことは正直避けたかった。
俺がうーんと唸っていると、
「何でもありませんよ。彼と顔を合わせたのは今日が初めてです。ただ単に、彼が無礼で馴れ馴れしいだけですよ」
さよが淡白な口調でそう答えた。
「いや、さよ。それは流石に―――」
「黙っていてください。時坂優」
訂正しようとする俺の言葉を、さよの静かな声音が遮った。
途端、がちんと歯と歯がかち合う音がして、俺の口が強制的に閉じられる。
なっ、言霊―――⁉
むぐぐっ、と俺は必死に口を開こうとしたが、無駄だった。まるで唇同士を接着剤で接合されたように、俺の口は少しも開いてくれなかった。
「でも、それならどうしてユウ君のお家を知っていたんですか? お一人でここまで来られたんですよね?」
「家の場所については知りませんでした。ですから、彼の知人に案内してもらったのです。彼の家に用事があるから場所を教えてほしいとお願いすると、その人は快く了承してくれましたよ」
「そう……だったんですか……」
微妙に納得のいかないような顔で、みらいが頷く。
だが、俺はそれを聞きながら嘘だと思った。事件の調査のため、隣の中学校へ赴いた日の帰り道、彼女はうなだれる俺をこの家まで送ってくれた。恐らく、俺の家への道のりは、その時に覚えたものだろう。
何故、彼女は俺たちの関係を隠そうとするのだろうか。みらいへの疑いが晴れた今、特に隠しておくような理由はないように思える。まあ、俺にとっては好都合なのだが……。
口をモゴモゴとさせながら、俺がそんなことを考えていると、
「何かよくわからないけど、ちょっとおもしろいね」
ふふっと、突然みらいが小さく笑った。
何が、と訊き返そうとしたがそれは叶わなかった。
「あはは。ユウ君、なにモゴモゴしてるの。変な顔」
みらいが俺の顔を指さして笑う。言い返そうとして、俺はさらに口をモゴモゴさせてしまう。
穏やかな空気が部屋の中に流れていた。
そんな空気に浸っているうちに、俺は細かいことなど、どうでもよくなってきた。俺は考えることを放棄した。
そういえば、この空間に三人もの人間が集まるのは、初音がいた頃以来かもしれない。
口を閉ざされた格好のまま、俺はなんだか懐かしい感覚に浸っていた。
# # #
最後の一口を水で流し込むと、俺は大きく息を吐いた
「何か……今日のやつは一段と辛くなかったか」
ようやく空になった容器を前に、俺は隣に座っていたみらいを、軽く睨んだ。
「えー、普通だよ。いつも通りだよ」
だが彼女は平然とした顔で言う。
彼女の器は、とっくの昔に空になっていた。
「神崎さんも、そう思いますよね?」
みらいがさよに同意を求めた。
「……そうですね。とても美味でした。ご馳走様です」
ハンカチで口元を拭いながら、さよは言った。
だが彼女も食べ終わるタイミングは、俺とほぼ同じだった。それに今、彼女はグラスに入った水をごくごくと喉の奥に流し込んでいる。
絶対にやせ我慢していると思った。
「ほら! 神崎さんも美味しかったって言ってるじゃない。ユウ君だけだよ。そんな格好悪い文句言ってるの」
我が意を得たりといった顔で、みらいが俺を窘めてくる。
「はいはい。すいませんね」
適当に謝りながら、俺はグラスに残っていた、本日三杯目の水を一気に飲み干す。
胃の中はもうたぷたぷだった。
「わかればよろしい。それじゃあ洗い物済ませちゃうから、食器片づけるね」
みらいがガタリと席を立つ。
「洗い物くらいは私が担当しますよ。こうしてご馳走になってしまったわけですし」
そこで、さよが後片付け役を申し出た。
「大丈夫ですよ。神崎さんはお客さんなんですから、ゆっくり休んでいてください」
「しかし―――」
「大丈夫ですって。それより神崎さん、先にお風呂入ってきてください。もう沸いていると思いますので」
俺たちの食器を回収しながら、みらいが言った。
「……そう、ですか。では、すみませんがよろしくお願いします。お風呂の場所はどちらでしょうか」
「あ、この部屋のすぐ隣です。わからなければまた聞いてください」
「わかりました。ありがとうございます」
「後で、着替え用のパジャマ、用意しておきますね」
「……何から何まですみません」
軽く頭を下げると、さよは静かに部屋を出て行った。
この上ない開放感に満たされながら、俺は廊下に出た。水で満たされていたお腹はかなり改善したように思える。これだから、辛いものは余り好きじゃないのだ……。
まあ、作ってもらっている手前、あまり偉そうなことは言えないのだが……。
手を洗うために、俺は洗面台へと向かった。だがその途中、俺はあることに気が付いて洗面台へと続く扉の前で立ち止まる。
どうしたものかと逡巡する。
この家では、洗面台と浴室は隣接する構造となっている。二つを隔てる仕切りはない。その一方の浴室を、今現在はさよが使用しているはずだ。シャワーの断続的な音が微かに聞こえてくることから間違いない。
もし俺が手を洗っている最中に彼女が浴室から出てきてしまうようなことがあれば、俺たちは鉢合わせすることになってしまう。
そんなことになれば、ただでは済まないだろう。
彼女お得意の言霊で、いつかのような恥ずかしい格好をさせられるかもしれないし、もしかしたら、もっと酷い目に遭わされるかもしれない。それだけは、何としてでも避けなければならなかった。
しかし、さよが上がってくるまでこうして待っているわけにもかない。どうしたものか……。
……しばらく悩んだ末、俺はガラリと目の前の扉を開けた。さよが入浴したのはつい数十分前のことだ。すぐに済ませれば大丈夫だろうと思った。
勢いよく水栓レバーを上げ、指の包帯に気を付けながら、俺は固形石鹸を掌にこすりつけていく。
しかし次の瞬間、俺は現実というものが、如何に無慈悲でかつ残酷なものであるかということを強く思い知らされた。
水栓レバーを下ろすと同時に、後ろの浴室扉がガラリと開いたのだ。
そんな馬鹿なという驚きから、俺は思わず振り向いてしまった。
すると、真っ白な湯気に包まれたさよが、浴室の中からゆっくりと出てくるところだった。
「ふう。さっぱりし―――」
しかし、洗面台の前で固まっていた俺と目が合うと、そんな彼女の言葉はふつりと途切れた。
「………」
「………」
シーンと音がしそうなほどの静寂が流れる。
まずい。何か言わないと―――
背中に一筋の汗が伝った。
しかし、
「何をしているのですか」
先に沈黙を破ったのは彼女だった。
さよは自分の裸体をバスタオルで隠すこともなく、とても落ち着いた声音で俺にそう訊ねてきた。
「いや、その……ちょっと、手を洗いたくて―――」
「手? ああ。手を切り落とされたいというわけですか。せっかく治療したのに残念です」
だが彼女の目には、はっきりとした殺気の色が滲んでいた。
「わ、わざとじゃないんだ。本当に―――」
「わざとでなければ、他人の裸を見ても許されるのですか?」
さよがゆっくりとこちらへ近づいて来る。艶やかな彼女の黒髪からポタポタと水が滴り落ちた。
「いや、そうじゃないけど、俺も、まさかこんなことになるとは―――」
必死で言い訳をするも、俺の目は自然と彼女の裸体に釘付けになってしまう。
白いリボンを外した彼女の姿は―――いつもよりも少し大人びて見えた。
ほんのりと上気し、朱みの掛かった彼女の頬。その頬に、濡れた黒髪が張り付いて、身体全体から艶めかしい雰囲気が醸し出されている。小柄な体格だが、胸部はちょうどいいくらいに発達しており、頭の先からつま先まで、実に優美な曲線を描いていた。
魅惑的な彼女の姿に、俺は思わず見惚れてしまう。
しかし、
「……なにを黙ってるんですか? 何とか言ったらどうなんですか?」
押し殺したような彼女の声で、俺はハッと我に返った。
いつの間にか彼女の姿は、俺のすぐ目の前にまで迫っていた。
漆黒の双眸が、穴を開けるような威圧感を持って、俺の顔を覗きこんでいる。
「……時坂優」
厳かな口調で、さよが俺の名前を呼んだ。
「な、なんでしょうか……」
「……何か言い残したいことはありますか」
絶望が広がる。
「見逃してほし―――」
「残念ですがそれはできません」
言い終わる前に撥ねられた。
「と、とりあえず、向こうで話し合お―――」
「それも無理です」
取りつく島もなかった。
どうやら今の彼女に、俺を赦すという選択はないらしい。
逃れられない運命を俺は悟った。
観念して、俺はゆっくりと目を閉じる。
「時坂優」
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