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六章
明かされる過去①
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ピーンポーン。
家のインターホンが鳴る。
あーい、と生返事を返しながら俺は玄関扉を開けた。
門扉の向こうには不機嫌そうに頬を膨らませた幼馴染のみらいが立っていた。
紺の制服に身を包み、首にピンクのマフラー、手にはふわふわの手袋をはめた彼女が、眉間にしわを寄せながら俺のことを睨み付けている。
おはよ、と俺が邪気のない挨拶をすると、
「もうっ、遅いユウ君! 遅刻するよ!」
むうと更に頬を膨らませながら、まだパジャマ姿だった俺のことを怒鳴りつけてきた。
「わ、悪い。今準備するから、ちょっと待っててくれ」
俺は大急ぎで、部屋へ続く階段を駆け上った。
季節は冬。一月の刺すような冷たい風を頬に受けながら、俺と彼女はいつものように通学路を歩いていた。雪こそ降ってはいないが、乾燥した空気のせいで肌がひび割れそうに痛い。
「もう、ユウ君! 私たちもう中学三年生だよ。最上級生なんだよ!」
「わかってるって。そう怒るなよ」
「わかってないよ! わかってたら、こうやって毎日急かされるようなことにはならないでしょ!」
「わかったわかった。次から気を付けるよ」
「もう、本当にわかってる?」
せかせかと、俺の前を歩いていたみらいが勢いよく振り返る。だがその反動で、彼女の首に巻かれていたピンクのマフラーがふわりと地面に舞い落ちた。
色白の彼女の首元が露わになる。
慌てて彼女は、そのマフラーを拾おうとしたが、その時、俺は彼女の首横に信じられないものを見つけた。
「おい! それどうしたんだよ!」
それはゴルフボールほどの、大きな赤黒い痣だった。
俺は、ほぼ反射的に彼女の肩を掴んでいた。
「えっ……あ、な、何でもないよ!」
俺が痣のことを指摘すると、彼女は慌ててマフラーを巻き直そうとした。
だが、
「待てよ、何でもないわけないだろ」
俺はマフラーを巻く彼女の手を掴んだ。
「ちょっと何するの⁉」
みらいはジタバタと暴れたが、俺はその手を離さない。それどころか、その掴んだ手をグイッと自分の方へと引き寄せた。
「きゃっ」
短い悲鳴を上げてみらいがよろめく。
彼女との距離が一気に縮まった。互いの白い吐息が絡まるほどの距離。
だが、そんなことには構わず、
「―――また、やられたのか」
俺はみらいの目を見ながら、低い声でそう訊ねた。
「な、何言ってるんだよ……。これは……ちょっと転んで―――」
みらいの目が泳ぐ。
「ちょっと転んだだけで、こんな痣になるわけないだろ! どうしてそんな嘘つくんだよ⁉」
「う、嘘じゃないよ……」
震える声で彼女は言った。そこからは、先ほどまで俺を叱責していたような威勢のよさは微塵も感じられない。
「嘘だ……。頼むから、いい加減本当のこと言ってくれよ」
懇願するように、俺は彼女に向かって頭を下げた。
しかし彼女は、か細い声でなおも否定し続ける。
「嘘じゃないよ……本当だよ……」
「……嘘だ。お前は嘘を吐いている」
「……吐いてないよ」
「……そんなに、あいつらのことが大切なのか。あいつらはお前の命よりも重い存在なのか」
「―――ッ」
彼女が息を呑む。
「あいつらは―――お前の親は最低だ。お前のことなんて、きっとこれっぽっちも想っちゃいない。ただ、都合の良い怒りのはけ口として、お前のことを利用してるだけなんだ」
我ながら酷いことを言ったと思う。だが、これくらい言わないと、今の彼女は俺の言葉なんて聞いてくれないと思った。
「わかるだろ。あいつらのためにお前が苦しむ必要はないんだ。だからもう嘘を吐く必要なんてないんだよ」
彼女の肩を揺すりながら俺は言った。
と、
「…………じゃないよ」
俯いた彼女の口が小さく動いた。
「え……?」
聞き取ることができず、俺は彼女の口元に耳を近づける。
と、その瞬間、
「―――ッ、嘘じゃないよ!」
悲鳴にも似た彼女の叫び声が俺の鼓膜を貫いた。
弾かれたように俺は二、三歩後ろへよろめく。
「本当に転んだだけなの! 何でもないの!」
腹の底から振り絞るような声だった。
「それに、ユウ君には関係ないんだから放っておいてよっ!」
怒鳴るようにそう言うと、彼女はその場から走り去っていった。
「おい! 待てみらい!」
慌てて俺は呼び止めたが、彼女の姿は見る見るうちに小さくなっていき、やがて通りの向こうに見えなくなってしまった。
「……くそっ……なんでなんだよ」
誰もいない通学路で一人、俺は吐き捨てるように呟いた。
昔から、俺はみらいの両親が苦手だった。まだ中学校へ上がりたての頃、俺は一度だけ彼女の家に遊びに行ったことがある。学校の帰り道、今日家に遊びに来ないかと彼女から誘われたのだ。
……しかし、そこではまるでいい思い出は残らなかった。彼女には悪いが、正直もう二度と行きたくないと思ってしまった。彼女が悪いわけではない。家にいた彼女の両親の印象が、あまりにも最悪だったのだ。
特に父親の方はひどかった。仕事をしているのかしていないのかはわからないが、平日の夕方にも関わらず、赤い顔をしてリビングのソファにだらりと寝そべっていた。その光景は、今でも俺の脳裏に強く焼き付いている。ソファの下には何本ものビールの空き缶が転がっており、俺が来たことに気が付くと、ぶすっとした顔でこちらを一瞥し、チッと小さく舌打ちをしてきた。初対面にも関わらず、凄まじく感じの悪い人だと思った。
母親の方はこれまでに何度か顔を合わせたことがあった。父親よりかは幾分マシな印象ではあったが、それでも俺は彼女のことを好ましくは思っていなかった。
一見感じのよさそうな中年女性ではあるのだが、中身の方がヤバイ。感情の起伏が激しい人と言えばまだ聞こえがいい方で、要は自分勝手、傍若無人の極みのような人なのだ。何か自分の気に入らないことがあるとすぐにキレるし暴れまくる。所構わずだ。
特に、みらいが何かしでかした時の豹変ぶりは目を疑うレベルだった。
ある日の夕方、少し服を汚して帰ってきただけなのに、彼女はみらいを二時間も外に放置したことがあった。その時はまだ春先だったから風邪を引く程度で済んだものの、もし真冬だったりすればそんなものでは済まなかっただろう。完全に躾の域を超えた、ただの暴力だった。
―――そして、その日もそれは起こった。
それは、みらいが俺に気を利かせ、自分の部屋へ飲み物を持っていこうとした時のことだった。
彼女は台所の食器棚から、グラスを二つ取り出そうとした。しかし、グラスが高い位置に置かれていたためか、彼女は誤って手を滑らせ、その内の一つを床に落っことしてしまったのだ。
ガシャンと派手な音を立てて、グラスが割れた。何やってんだよ、と俺は駆け寄ろうとした―――が、その時、
「――――――ッ‼」
黒板を思い切り爪で引っ掻いたような金切り声が、家中に響き渡った。
何事かと思い声のした方を見ると、まるで別人のように顔を真っ赤に歪ませた彼女の母親が、どすどすと廊下からこちらに迫ってくるところだった。
彼女は台所にいた俺たちの所にまで来ると、割れたグラスを足で蹴っ飛ばし、そして目の前に俺がいるにも関わらず、みらいの頬を思い切り平手でぶっ叩いた。
みらいの足が一瞬地面から離れる。
ガンと食器棚に頭をぶつけ、彼女は床に倒れ込んだ。
うぅ、と低いうめき声が倒れた彼女の口から漏れる。みらいはしばらく起き上がることができなかった。
しかし母親の方は、倒れた彼女のことを特に助けようともせず、まるで汚物でも見るかのように、じっとみらいを見下した後、
「片付けな」
とだけ言い残し、その場を後にしていった。
俺はその一部始終を、ぽかんと口を開けて見ていることしかできなかった。目の前で起きたことに、まるで現実味が持てなかったのだ。
しかし、涙目になって割れたグラスを片付け始める彼女の姿を見て、俺はようやくこれがこの家の実態なのだと理解した。
仕事もろくにせず酒に溺れ、リビングでだらしなく伸びている父親。
温厚そうな見た目とは裏腹に、突如ヒステリックに叫び喚き、挙句の果てには自分の娘に手を上げる母親。
こんな両親の元で、みらいはこれまで暮らしてきた。
そのことを、俺はこの時、初めて理解した。
その後、俺は当然みらいに事情を訊ねた。
あんなことが毎日続いているのか。なぜ今まで黙っていたのか。どうして誰かに相談しようとしなかったのか。
だがそのどれを訊ねても、彼女は曖昧に言葉を濁すだけで、はっきりとした答えは返してくれなかった。結局その日は、みらいに追い出されるようにして、俺は彼女の家を後にした。
しかしそれからも、俺はずっと彼女のことが心配だった。彼女は家の様子を中々自分からは話してくれないので、朝、俺を迎えに来てくれる彼女の表情がどことなく暗い時などには、それとなく探りを入れてみたりした。
しかし、無駄だった。
その話になると、彼女を包む空気は決まって鋭くなり、何を訊ねても返事をしなくなってしまうのだ。
何故かはわからない。だがそんな彼女に俺の方が先に折れてしまい、しばらくは様子を見るしかないと、一時は諦めかけた。
しかし、ここ最近になり、彼女の身体に妙な痣ができ始めるようになったのだ。
最初は膝の辺りにできた小さな痣だった。それだけでは俺も大して心配はしなかった。どこかにぶつけたのだろう程度にしか思わなかった。
しかし、それからというもの、日を追うごとに彼女の身体には痣が増え続けていった。腕、太もも、足首―――ありとあらゆる箇所に痣ができていった。
今は冬服のおかげで上手く隠れているが、あの服の下には今もきっと大小無数の痣が存在しているはずなのだ。
もうわかっていた。これは教育や躾の類からくる暴力などではない。度を超えた暴力―――いわゆる虐待なのだと。そこに娘を想う気持ちなどは微塵も存在しない。彼らは自分のつまらない人生の憂さ晴らしのために、みらいに八つ当たりしているだけなのだ。
そんな理不尽な境遇にいる彼女を、俺は何とかして救ってやりたかった。あの地獄のような家から解放してやりたかった。
しかし、そんな俺の想いとは真逆に、みらいは俺がいくら問いただしても、虐待の事実を認めようとはしてくれなかった。
親に脅されていて言えないのか、彼女自身が言いたくないのか―――そのどちらかはわからない。だが日に日に弱っていく彼女をただ見ているのは、胸が張り裂けそうな想いだった。
俺は自分の無力さが憎かった。何もできない自分にこの上なく腹が立った。
俺は彼女の笑顔が好きだ。太陽みたいに眩しいあの笑顔に、俺は幾度となく勇気づけられてきた。
だが、そんな彼女の笑顔を、俺はここしばらくの間見ていない。以前に比べ、彼女が笑顔を浮かべる回数は明らかに激減していた。
もう一度、俺は彼女の笑顔を見たいと思った。
心の底から、笑っている彼女の顔を見てみたい。
そのためにはまず、みらいに虐待の事実を認めて貰う必要がある。彼女が認めてくれないことには救い出すも何もないのだ。
家のインターホンが鳴る。
あーい、と生返事を返しながら俺は玄関扉を開けた。
門扉の向こうには不機嫌そうに頬を膨らませた幼馴染のみらいが立っていた。
紺の制服に身を包み、首にピンクのマフラー、手にはふわふわの手袋をはめた彼女が、眉間にしわを寄せながら俺のことを睨み付けている。
おはよ、と俺が邪気のない挨拶をすると、
「もうっ、遅いユウ君! 遅刻するよ!」
むうと更に頬を膨らませながら、まだパジャマ姿だった俺のことを怒鳴りつけてきた。
「わ、悪い。今準備するから、ちょっと待っててくれ」
俺は大急ぎで、部屋へ続く階段を駆け上った。
季節は冬。一月の刺すような冷たい風を頬に受けながら、俺と彼女はいつものように通学路を歩いていた。雪こそ降ってはいないが、乾燥した空気のせいで肌がひび割れそうに痛い。
「もう、ユウ君! 私たちもう中学三年生だよ。最上級生なんだよ!」
「わかってるって。そう怒るなよ」
「わかってないよ! わかってたら、こうやって毎日急かされるようなことにはならないでしょ!」
「わかったわかった。次から気を付けるよ」
「もう、本当にわかってる?」
せかせかと、俺の前を歩いていたみらいが勢いよく振り返る。だがその反動で、彼女の首に巻かれていたピンクのマフラーがふわりと地面に舞い落ちた。
色白の彼女の首元が露わになる。
慌てて彼女は、そのマフラーを拾おうとしたが、その時、俺は彼女の首横に信じられないものを見つけた。
「おい! それどうしたんだよ!」
それはゴルフボールほどの、大きな赤黒い痣だった。
俺は、ほぼ反射的に彼女の肩を掴んでいた。
「えっ……あ、な、何でもないよ!」
俺が痣のことを指摘すると、彼女は慌ててマフラーを巻き直そうとした。
だが、
「待てよ、何でもないわけないだろ」
俺はマフラーを巻く彼女の手を掴んだ。
「ちょっと何するの⁉」
みらいはジタバタと暴れたが、俺はその手を離さない。それどころか、その掴んだ手をグイッと自分の方へと引き寄せた。
「きゃっ」
短い悲鳴を上げてみらいがよろめく。
彼女との距離が一気に縮まった。互いの白い吐息が絡まるほどの距離。
だが、そんなことには構わず、
「―――また、やられたのか」
俺はみらいの目を見ながら、低い声でそう訊ねた。
「な、何言ってるんだよ……。これは……ちょっと転んで―――」
みらいの目が泳ぐ。
「ちょっと転んだだけで、こんな痣になるわけないだろ! どうしてそんな嘘つくんだよ⁉」
「う、嘘じゃないよ……」
震える声で彼女は言った。そこからは、先ほどまで俺を叱責していたような威勢のよさは微塵も感じられない。
「嘘だ……。頼むから、いい加減本当のこと言ってくれよ」
懇願するように、俺は彼女に向かって頭を下げた。
しかし彼女は、か細い声でなおも否定し続ける。
「嘘じゃないよ……本当だよ……」
「……嘘だ。お前は嘘を吐いている」
「……吐いてないよ」
「……そんなに、あいつらのことが大切なのか。あいつらはお前の命よりも重い存在なのか」
「―――ッ」
彼女が息を呑む。
「あいつらは―――お前の親は最低だ。お前のことなんて、きっとこれっぽっちも想っちゃいない。ただ、都合の良い怒りのはけ口として、お前のことを利用してるだけなんだ」
我ながら酷いことを言ったと思う。だが、これくらい言わないと、今の彼女は俺の言葉なんて聞いてくれないと思った。
「わかるだろ。あいつらのためにお前が苦しむ必要はないんだ。だからもう嘘を吐く必要なんてないんだよ」
彼女の肩を揺すりながら俺は言った。
と、
「…………じゃないよ」
俯いた彼女の口が小さく動いた。
「え……?」
聞き取ることができず、俺は彼女の口元に耳を近づける。
と、その瞬間、
「―――ッ、嘘じゃないよ!」
悲鳴にも似た彼女の叫び声が俺の鼓膜を貫いた。
弾かれたように俺は二、三歩後ろへよろめく。
「本当に転んだだけなの! 何でもないの!」
腹の底から振り絞るような声だった。
「それに、ユウ君には関係ないんだから放っておいてよっ!」
怒鳴るようにそう言うと、彼女はその場から走り去っていった。
「おい! 待てみらい!」
慌てて俺は呼び止めたが、彼女の姿は見る見るうちに小さくなっていき、やがて通りの向こうに見えなくなってしまった。
「……くそっ……なんでなんだよ」
誰もいない通学路で一人、俺は吐き捨てるように呟いた。
昔から、俺はみらいの両親が苦手だった。まだ中学校へ上がりたての頃、俺は一度だけ彼女の家に遊びに行ったことがある。学校の帰り道、今日家に遊びに来ないかと彼女から誘われたのだ。
……しかし、そこではまるでいい思い出は残らなかった。彼女には悪いが、正直もう二度と行きたくないと思ってしまった。彼女が悪いわけではない。家にいた彼女の両親の印象が、あまりにも最悪だったのだ。
特に父親の方はひどかった。仕事をしているのかしていないのかはわからないが、平日の夕方にも関わらず、赤い顔をしてリビングのソファにだらりと寝そべっていた。その光景は、今でも俺の脳裏に強く焼き付いている。ソファの下には何本ものビールの空き缶が転がっており、俺が来たことに気が付くと、ぶすっとした顔でこちらを一瞥し、チッと小さく舌打ちをしてきた。初対面にも関わらず、凄まじく感じの悪い人だと思った。
母親の方はこれまでに何度か顔を合わせたことがあった。父親よりかは幾分マシな印象ではあったが、それでも俺は彼女のことを好ましくは思っていなかった。
一見感じのよさそうな中年女性ではあるのだが、中身の方がヤバイ。感情の起伏が激しい人と言えばまだ聞こえがいい方で、要は自分勝手、傍若無人の極みのような人なのだ。何か自分の気に入らないことがあるとすぐにキレるし暴れまくる。所構わずだ。
特に、みらいが何かしでかした時の豹変ぶりは目を疑うレベルだった。
ある日の夕方、少し服を汚して帰ってきただけなのに、彼女はみらいを二時間も外に放置したことがあった。その時はまだ春先だったから風邪を引く程度で済んだものの、もし真冬だったりすればそんなものでは済まなかっただろう。完全に躾の域を超えた、ただの暴力だった。
―――そして、その日もそれは起こった。
それは、みらいが俺に気を利かせ、自分の部屋へ飲み物を持っていこうとした時のことだった。
彼女は台所の食器棚から、グラスを二つ取り出そうとした。しかし、グラスが高い位置に置かれていたためか、彼女は誤って手を滑らせ、その内の一つを床に落っことしてしまったのだ。
ガシャンと派手な音を立てて、グラスが割れた。何やってんだよ、と俺は駆け寄ろうとした―――が、その時、
「――――――ッ‼」
黒板を思い切り爪で引っ掻いたような金切り声が、家中に響き渡った。
何事かと思い声のした方を見ると、まるで別人のように顔を真っ赤に歪ませた彼女の母親が、どすどすと廊下からこちらに迫ってくるところだった。
彼女は台所にいた俺たちの所にまで来ると、割れたグラスを足で蹴っ飛ばし、そして目の前に俺がいるにも関わらず、みらいの頬を思い切り平手でぶっ叩いた。
みらいの足が一瞬地面から離れる。
ガンと食器棚に頭をぶつけ、彼女は床に倒れ込んだ。
うぅ、と低いうめき声が倒れた彼女の口から漏れる。みらいはしばらく起き上がることができなかった。
しかし母親の方は、倒れた彼女のことを特に助けようともせず、まるで汚物でも見るかのように、じっとみらいを見下した後、
「片付けな」
とだけ言い残し、その場を後にしていった。
俺はその一部始終を、ぽかんと口を開けて見ていることしかできなかった。目の前で起きたことに、まるで現実味が持てなかったのだ。
しかし、涙目になって割れたグラスを片付け始める彼女の姿を見て、俺はようやくこれがこの家の実態なのだと理解した。
仕事もろくにせず酒に溺れ、リビングでだらしなく伸びている父親。
温厚そうな見た目とは裏腹に、突如ヒステリックに叫び喚き、挙句の果てには自分の娘に手を上げる母親。
こんな両親の元で、みらいはこれまで暮らしてきた。
そのことを、俺はこの時、初めて理解した。
その後、俺は当然みらいに事情を訊ねた。
あんなことが毎日続いているのか。なぜ今まで黙っていたのか。どうして誰かに相談しようとしなかったのか。
だがそのどれを訊ねても、彼女は曖昧に言葉を濁すだけで、はっきりとした答えは返してくれなかった。結局その日は、みらいに追い出されるようにして、俺は彼女の家を後にした。
しかしそれからも、俺はずっと彼女のことが心配だった。彼女は家の様子を中々自分からは話してくれないので、朝、俺を迎えに来てくれる彼女の表情がどことなく暗い時などには、それとなく探りを入れてみたりした。
しかし、無駄だった。
その話になると、彼女を包む空気は決まって鋭くなり、何を訊ねても返事をしなくなってしまうのだ。
何故かはわからない。だがそんな彼女に俺の方が先に折れてしまい、しばらくは様子を見るしかないと、一時は諦めかけた。
しかし、ここ最近になり、彼女の身体に妙な痣ができ始めるようになったのだ。
最初は膝の辺りにできた小さな痣だった。それだけでは俺も大して心配はしなかった。どこかにぶつけたのだろう程度にしか思わなかった。
しかし、それからというもの、日を追うごとに彼女の身体には痣が増え続けていった。腕、太もも、足首―――ありとあらゆる箇所に痣ができていった。
今は冬服のおかげで上手く隠れているが、あの服の下には今もきっと大小無数の痣が存在しているはずなのだ。
もうわかっていた。これは教育や躾の類からくる暴力などではない。度を超えた暴力―――いわゆる虐待なのだと。そこに娘を想う気持ちなどは微塵も存在しない。彼らは自分のつまらない人生の憂さ晴らしのために、みらいに八つ当たりしているだけなのだ。
そんな理不尽な境遇にいる彼女を、俺は何とかして救ってやりたかった。あの地獄のような家から解放してやりたかった。
しかし、そんな俺の想いとは真逆に、みらいは俺がいくら問いただしても、虐待の事実を認めようとはしてくれなかった。
親に脅されていて言えないのか、彼女自身が言いたくないのか―――そのどちらかはわからない。だが日に日に弱っていく彼女をただ見ているのは、胸が張り裂けそうな想いだった。
俺は自分の無力さが憎かった。何もできない自分にこの上なく腹が立った。
俺は彼女の笑顔が好きだ。太陽みたいに眩しいあの笑顔に、俺は幾度となく勇気づけられてきた。
だが、そんな彼女の笑顔を、俺はここしばらくの間見ていない。以前に比べ、彼女が笑顔を浮かべる回数は明らかに激減していた。
もう一度、俺は彼女の笑顔を見たいと思った。
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