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七章

最後の戦い⑧

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 ―――チャリン。
 彼女が俺の腕の中から消えると同時に、何かが屋上の地面に落ちた。
 それは彼女がいつもカバンに付けていた、小さな熊のマスコットが付いたキーホルダだった。
 俺はそれを拾い上げると、ズボンのポケットの中にしまう。
 ―――静寂が訪れた。
 大小様々な光源が散りばめられた星空の下で、俺はただ呆然と座り込んでいた。
 目の前で起きたことに、未だ現実味が持てなかった。
 絶望と困惑で、身体が冷たくなっていくのを感じる。
「はは……ははは」
 自らを嘲るような冷たい笑いが動いた。自分の無力さが、何よりも腹立たしかった。
 俺は何をやってきたのだろうか―――
 事件を引っ掻き回し、命の危機に晒され、最後には大切な人を失って―――
 こんな結末が、俺が望んできたことだったのだろうか。
 わからない。
 もうすべてが、どうでもよくなっていた。
 このまま一思いに、消えてしまいたかった。
 ふと地面を見ると、ちょうど掌サイズの硝子片が一枚、落ちているのが見えた。どこかの窓ガラスでも割れたのかは知らないが、今はまるで俺のためにそこにあるように思えた。
 俺はそれを拾うと、エッジの部分をおもむろに自分の首筋に押し当てる。
 生まれ変わりなどは信じていないが、もしあるとするならば、今よりもましな世界に生まれ落ちたい―――
 そう願いながら、俺は静かにこの世を去ろうとした―――が、
「―――ダメだよ。お兄ちゃん」
 耳の底で囁かれるような甘い声が、俺を一気に現実へと引き戻した。
 はっと顔を上げると、いつの間にか初音が、俺の目の前に立っていた。
「お兄ちゃんは死んじゃダメ。まだ何も終わってないんだから」
 そう言うと、初音は俺の持っていたガラス片をひょいと奪うと、それを屋上の地面に投げ捨てた。
 パリンと小さな音を立てて、ガラス片は粉々に砕け散る。
「初音……」
 ふらふらと、俺は立ち上がる。
 『初音ちゃんのこと、お願いね』
 みらいが最期に遺した言葉。
 その言葉だけが、今の俺を辛うじて支えていた。彼女のおかげで、俺は自分を見失わずに済んでいた。
「初音。俺は、お前を―――」
 だが、そこから先は言えなかった。
 初音の冷たい人差し指が、ピトと俺の唇に当てられたからだ。
「まだ、ダメだよお兄ちゃん。すべては、そいつを殺してから」
 初音が、俺の後ろにいる復讐相手を指してそう言った。
 冷水を背中に流されたような悪寒が走った。頭から一気に血の気が失せていく。
「まだ……そんなこと、言ってるのか」
「そんなこと?」
 初音の片頬が一瞬、ピクっと痙攣したように動く。
「お兄ちゃんにとって、私がイジメられていたことは、そんなことなの?」
 冷たい声だった。
「そうじゃない! もう復讐なんてやめろって言ってるんだっ! あいつを殺したところでお前は救われない。俺だって全然嬉しくない! こんなことをしても、結局、誰も幸せになんてなれないんだ!」
 みらいの哀し気な顔が脳裏をよぎる。
「…………」
 俺に怒鳴られたことがショックだったのか、初音は俯き、黙り込んだ。
 俺は一瞬、初音が改心してくれたのかと思った。
 しかし、次に初音が放った言葉が、冷たく俺を突き放した。
「そんなの関係ないよ」
 孤独に縁取られた声だった。
「……お兄ちゃんが喜ばないことなんて、私が一番よくわかってる。でもこれは、私のためなの。お兄ちゃんが喜ぶとか悲しむとか、そんなことは関係ない。私は、あの四人を殺すって決めたの。もう一度全てをやり直そうって誓ったの。だから、二年間もあの暗い家の中で、一人ひっそりと暮らすことだってできた。今の私には、復讐こそが生き甲斐なんだよ」
 淡々とした口調だった。
 怒るわけでもなく、悲しむわけでもない。ただただ淡々と、まるで説明書でも読むみたいな口調だった。
 ダメだ。彼女に説得は通じない。
 直感的に俺はそう理解した。
 ぐっと、奥歯を噛みしめる。
「初音。お前は何がなんでも、そいつを殺すって言うんだな」
「そうだよ」
「最後の最後まで、復讐に身を燃やすって言うんだな」
「……そうだよ」
「そうか。わかった」
 俺は静かに頷く。そして、
「なら俺は、全力でそれを阻止させてもらう。お前をぶん殴ってでも止めてやる!」
 両手を大きく広げ、背後に彼女を庇う形をとった。
 途端、俺を見る初音の目が冷たいものに変わる。
「本気? 今のお兄ちゃんに何ができるっていうの? あの女だって、私には敵わなかったんだよ?」
 そう言われて、俺は初めて気が付いた。
 そういえば、さよはどうしたのだろうか。
 まさか―――
「お前……まさか、あいつを―――」
「―――ああ、大丈夫。殺してはいないから」
 くすすっと、初音が不気味な嗤い声を漏らす。
 ぞっとした。こんな風に嗤う初音を、俺はやはり見たことがなかった。
「さあ、お兄ちゃん。わかったでしょ。今のお兄ちゃんじゃ、私を止められない。だから大人しく、そこをどいてくれないかな?」
 悔しいが初音の言う通りだ。今の俺では、彼女を止めることはできないだろう。
 だけど、
「……だめだ」
 両手を広げた格好のまま、俺は動かなかった。
 初音に、これ以上罪を犯させるわけにはいかない。
「どうしても……?」
「ああ、どうしてもだ」
「……そっか。それじゃあ仕方ないね。少し痛いけど我慢してね」
 ぶわっと初音の髪が舞い上がる。
 途端―――
 前方からものすごい力を受けたかと思うと、俺の世界はぐるりと反転した。
 そして次の瞬間には、俺の身体は背中から激しく地面に叩きつけられていた。
「が……はっ……」
 衝撃で息ができない。
「ごめんね、お兄ちゃん」
 初音が、縛られている彼女に向かってゆっくりと歩きだす。
 く……そっ……!
 必死に起き上がろうとするが、俺の身体はピクリとも動かなかった。
「いやああああ! こないでえぇぇえ‼」
 近づいてくる初音の気配に気が付いたのか、彼女が狂ったように叫び始める。
 足を必死に動かして、ガタガタと椅子ごと後ろに下がろうとする。
「私が悪かった! 悪かったからっ‼ 謝るからっ‼ だから殺すのだけはやめてえ‼」
 暴れた拍子に目隠しがずり落ち、彼女の顔が露わになる。
 彼女の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「いい感じだね。私はあんたのそんな顔がずっと見たかったんだよ」
 ―――ガツン。
 椅子が屋上の端にぶつかった。
 この屋上にフェンスはない。少し強い力で彼女の頭でも突けば、簡単に下に落とすことができるだろう。
「よ……せ、初音。そんなことをしたら……」
 喘ぐような声で、俺は必死に初音を止めようとする。
 しかし、初音は俺の声には振り向きもせず、泣きじゃくる彼女に向かって歩を進め続ける。
 初音と彼女の距離は、残りわずか数メートル。このままいけば、本当に最悪な事態となる。
「大丈夫だよ。突き落すとかそんな簡単な方法じゃ殺してあげないから。せっかく最後の一人なんだもん。もっともっと叫び声を聞かせてよ。そしてずっとずっと後悔しながら死んでいく様を私に見せてよ」
 憎悪に満ちた低い声でそう言うと、初音はワンピースのポケットから、一本のサバイバルナイフを取り出した。
 ギラリと、ナイフの刃先が鈍く光る。
 それを認めた彼女は更に表情を強張らせた。
「いやあああああっ‼ ごめんなさい、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ‼ もうしません! だから命だけは! 命だけは―――‼」
 ぶんぶんと首を振り、ぼさぼさの髪を振り乱しながら、必死に赦しを請おうとする彼女。
 だが初音は、そんな彼女を何か汚いものでも見るかのように見下すと、暴れる彼女の茶髪を乱暴に掴んだ。
「うるさいなあ。私の人生めちゃくちゃにしといて、よくそんなことが言えるよね。殺されて当然だとは思わないの?」
 初音が、ナイフを振り上げる。
「最初はどこからがいい? 腕? 足? それともお腹かな? ねえ……どこから切り刻まれたいか、言ってみてよ!」
 空気を裂く音と共に、初音のナイフが振り下ろされる。
「いやああああああああっ‼」
「初音ええええええええっ‼」
 だが、
 ―――パンッ!
 乾いた音が屋上に響いた。
 カラン―――
 彼女の右肩に切っ先が触れる直前、初音の手からナイフが飛んでいた。
 ガクッと、崩れ落ちるように初音が膝を折る。
 何が起きたのか、一瞬よくわからなかった。
「何とか、間に合った、ようですね」
 不意に屋上の入口から声がした。
 はっとして、そちらを見る。
 そこには、苦しそうに肩で息をする、さよの姿があった。
 両手には、先ほど初音が屋上に投げ捨てた黒い拳銃が握られている。そしてその銃口は今、初音に向けられていた。
「さよ⁉ 無事だったのか⁉」
 だが声を上げると同時に、俺は思わず息を呑んだ。
 彼女の右足首から、大量の血が流れ出ていたからだ。
 それは彼女の白い靴下を真っ赤に染め上げ、ローファーをねっとりと濡らし、屋上の地面にいくつもの大きな斑点を作っていた。
 そんな怪我でよくここまでたどり着けたものだ―――。
「こ……の……」
 初音が苦悶の声を上げながら立ち上がる。彼女の右手からは、赤い鮮血が滴り落ちていた。
 どうやら初音がナイフを振り下ろす直前、さよが彼女の右手を、あの拳銃で撃ち抜いたようだった。
「この……死にぞこないがああああ‼」
 初音の黒髪が翻る。瞬間、
 さよの身体は勢いよく真横に吹っ飛び、ゴロゴロと屋上の地面を転がった。
「さよ⁉」
「……ぐ……かはっ……」
 出血する足首を押さえ、さよは背中を丸めて蹲る。
 もはや、彼女に初音を止める力は、残っていないように見えた。
 やはり、俺が初音を止めなければ―――!
 そう思い全身に力を入れるのだが、俺の身体はピクリとも動いてくれない。
「く……そっ!」
 必死に力を籠めるも、俺は指先一本すら、まともに動かすことができなかった。
「もういい……遊びはここまでだ」
 ゆらりと、初音の薄い影が屋上の地面に揺れる。
「そこで見てるといいよ。最高のフィナーレの瞬間を」
 落したナイフを拾い上げる。
「やめ、ろ……初音……」
「さあ、これで本当に終わりだ」
 初音が頭上にナイフを掲げる。
 銀色の刃先が、ぎらっと鈍く煌めいた。
「あの世で詫びろ。くそ女ぁぁぁあっ!」
 魂の叫びだった。
 彼女の首めがけて勢いよくナイフが振り下ろされる。
 終わったと思った。
 ―――しかし、
「……ぐ……ごふっ……!」
 ナイフの切っ先が彼女の首に突き刺さる寸前、初音の口から大量の飛沫が飛び散った。
 それは赤い、血の飛沫だった。
 がくっと彼女の膝が折れ、ナイフの軌道がずれる。
 彼女の首筋を掠めたナイフは初音の手から滑り落ち、カラン、カラン―――と屋上の床を跳ねた。
「………初、音?」
 何が起きたのか、よくわからなかった。
「……うぐ………うぅ………」
 初音の両手が震えている。
 暗闇に包まれた屋上に、彼女の嗚咽が低く響いていた。
 そして、
「う………うぅ―――ああああぁぁぁぁぁぁぁ‼」
 突如、嗚咽とも悲鳴ともつかない声を上げると、初音はその場に倒れ込んだ。
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