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七章

消えゆく命

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 ふっと、身体が嘘のように軽くなる。俺の身体は完全に自由となった。
 しかし俺は、突然の彼女の変化に呆然として、しばらく動けなかった。
「一体……何が……」
 ようやく手を付いて、ゆっくりと起き上がると、
「呪いを使った、代償ですよ」
 いつの間にか、俺のすぐ傍に立っていたさよが呟くようにそう言った。
 出血のためか、その顔はいつになく蒼白になっている。
「代償……?」
 足に力を籠め、俺は立ち上がる。
「人を呪わば穴二つ。人を呪い殺せば、自分もその呪いの代償を受けることになる。だから、墓穴が二つ必要となるのです」
「墓穴って……何だよ、それ」
「それが、呪いの代償です。呪いを用いた者は、必ずその報いを受けなければなりません。初音さんには今まさに、その報いが訪れているのですよ」
「そんな………⁉」
 愕然として、俺は初音を見る。
 彼女はうつぶせに倒れたまま、微動だにしていなかった。息もしていないのではないかと疑うくらい、彼女からは生気が感じられない。
「報いを受けたら……どうなるんだ?」
 恐る恐る、俺はさよに訊ねた。
「……これだけの力を使ったのです。放っておけば、確実に死ぬでしょうね」
「―――ッ、そんな―――⁉」
 次の瞬間、俺は反射的に彼女の胸ぐらを掴み上げていた。
「何か―――何かないのか⁉ 今のあいつを救う方法は―――⁉」
 答えろ、と俺は乱暴にさよの身体を揺すった。
 これ以上大切な人を失うのは御免だった。何が何でも、初音だけは助けてやりたかった。
 怒りと期待を込めた目で、俺はさよを睨みつける―――と、
「……一つだけ、方法があります」
 力ない声で彼女が言った。
「何だ⁉」
「初音さんが蟲毒の他に用いていた呪法は、恐らく厭魅呪詛と呼ばれる呪法です」
「えん……何だって?」
「厭魅呪詛です。藁人形を使用した呪法はご存知でしょう。原理はあれと同じです。つまり、初音さんは呪いの力を使用する際に、何らかの触媒―――撫物と呼ばれる触媒を使っているはずなのです」
「……ど、どういうことなんだ?」
 彼女の意図が掴めず、俺は聞き返す。
「撫物を用いた呪法には、ある特徴があります。呪いの代償がおとずれる際、その代償は必ずその撫物を介すという特徴です。ですので、その撫物を破壊し、代償の流れさえ妨ぐことができれば……」
 そこまで説明されれば、さすがの俺でも理解できた。
「―――初音を助けられる、ってわけか」
 さよが小さく頷く。
「ですので、早く初音さんの所へ―――」
「ああ、わかってるよ」
 彼女が言い終わらないうちに、俺は弾丸のように駆け出していた。
 思考は既に消し飛んでいた。
 初音を助けたい。
 その想いだけが、今の俺の身体を突き動かしていた。
 俺は途中で、初音が落としたナイフを拾い上げると、一気に彼女の元へと駆け寄った。
 泥だらけになった初音の身体を、俺は優しく抱き上げる。
 すると、
「……あ……う」
 微かに初音が目を開けた。
 よかった。まだ息がある。
 顔は真っ青を通り越して、既に土気色になっていたが、その目にはまだ光が宿っている。
「初音、大丈夫だ。今、助けてやるからな」
 俺は優しい声音で、初音に話しかける。彼女を安心させようとする。
 だが、
「あ……う、お兄ちゃ―――あああぁぁぁぁぁ‼」
 初音は再び、激しく悶絶し始めた。
 呪いが彼女の身体を蝕んでいるのだ。
「もう大丈夫だからな! 今度こそ俺が助けてやる‼」
 俺は、彼女のワンピースのポケットを両手で探った。
 撫物となるものが、どこかにあるはずだと思った。
 ……だが、左右のポケットどちらを調べても、それらしいものは見つからない。
 焦る。額に汗が滲み始める。
 次に俺は、彼女の身体を服の上からまさぐった。
 しかし、何かが手に当たるような感触はない。何も出てこない。
 頭に血が上る。呼吸が荒くなる。
 俺はもう一度、彼女の身体全体に目を走らせた。
 落ち着けと自分に命令する。絶対に何かあるはずだと自分に言い聞かせる。
 ―――と、その時、俺の目の端が、彼女の首に掛けられたネックレスを捉えた。
 いつか、俺が彼女にプレゼントしたネックレスだ。先端の輪っか部分に埋め込まれた青い宝石が、星明りを反射して不気味な光を放っている。
 これだと思った。これしかないと直感した。
 気付いた時には、俺はそのネックレスを彼女の首から引きちぎっていた。ブチッ、と鈍い音がしてチェーンの一部が弾け飛ぶ。
 俺はそのネックレスを、宝石が上になるようにして地面に置くと、先ほど拾ったナイフを両手に強く握り締め、頭上に高く掲げた。
 これで全てが終わる。初音は助かり、安らかな日常が戻ってくるんだ―――‼
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお‼」
 銀閃が虚空を切り裂き、
 バキィィィィッッッ―――‼
 切っ先が宝石を打ち砕いた。
 砕け散った宝石の欠片が、屋上の床を飛び跳ねる。
 …………。
 束の間の静寂………。
 しかし―――
「……あ……う―――あああぁぁぁぁぁぁぁあ‼」
 初音の煩悶するような声は治まらなかった。
 それどころか、先ほどよりも更に苦しそうに、初音は自分の胸を両手でガリガリと掻き毟りながら、地面をのた打ち回っている。
「な、なんでだよ……。どういうことだよ⁉」
 わけがわからず、俺の頭は真っ白になる。
 初音が身に着けていた物は、間違いなくこのネックレスだけだ。これが触媒に違いない。そして、その触媒は今確かに破壊した。
 なのにどうして初音は苦しみ続けているんだ。どうして終わらないんだ―――⁉
 救いを求めるように、俺はさよの方を見た。
 しかし彼女も、意味がわからないというように目を泳がせていた。
「どういう事なんだよ⁉ これを破壊すれば、初音は助かるんじゃなかったのかよ⁉」
「わ、私にも……わかりません。でも確かに撫物は破壊できたはず……」
 ずるずると右足を引きずりながら、さよがこちらに近づいて来る。
「でも……でも初音は―――」
 ごふごふ、と咳き込む音が聞こえた。
 見ると初音の口から、大量の鮮血が吐き出されていた。
「初音! しっかりしろ! 初音っ‼」
「……こんなはずじゃ………なかったんだけどね」
 うっすらと初音が笑みを浮かべた。
「―――ッ⁉ さよ! どうしたらいいんだ⁉ 初音を助けるには、どうしたらいいんだよっ―――⁉」
 俺は縋る思いでさよに訊ねた。
 もはや頼みの綱は彼女しか残っていなかった。
「…………」
 しかし彼女は、無言で先ほど俺が打ち砕いた宝石の欠片を拾い上げると―――次の瞬間―――その表情を凍らせた。
「……違う」
「え……?」
「違い、ます……これじゃありません」
「は⁉ 何言ってんだよ⁉」
「これは、撫物ではありません! ただの宝石です‼」
「ど、どういうことだよっ⁉ これじゃないって! じゃあ一体何が、そのナデモノなんだよっ⁉」
 訳がわからず、俺は彼女に怒鳴り散らした。
「………」
 さよはしばらく、黙ったまま初音を見下ろしていたが、
「………まさか―――」
 やがて何かに気付いたように、
 ビリッ、ビリビリィィィ―――‼
 突然、初音のワンピースを胸の辺りから破き始めた。
「お、おいさよ! こんな時に何やって―――」
 だが、初音の裸体が露わになった途端―――
 俺は、言葉を失った。
 俺がそこに見たもの―――それは、彼女の身体に刻まれた、無数の切り傷だった。
 鋭利な刃物で付けられたようなそれらは、どれもが皮膚の奥にまで達しているようで、中にはザクロのように赤肉をはみ出して、大きく腫れあがっているものもあった。
 傷口はどれも新しい。今なお流血しているものもある。
「何だよ……これ……」
 あまりの凄惨な光景に、俺は時間が止まったような感覚を覚えた。
「初音さん、あなたまさか―――」
 さよが目を剥く。
「―――自分の身体を、撫物として使ったのですか……?」
「……まあ、私には、あんたみたいな才能ないから……これくらいしないとね……」
 虚ろな声で初音が答えた。
「そんな―――そんなことが……」
 さよがペタンとその場に座り込む。
 その顔には、はっきりとした絶望の色が広がっていた。
「おい、さよ……どういう、ことだよ」
 状況についていけなかった俺は、言葉切れ切れに彼女に訊ねた。
 頭が混乱していた。
 さよがゆっくりと口を開く。
「……初音さんは、自らの身体を……撫物として使ったのです。この無数の傷跡が、何よりの証拠です」
「な、なんだよ……それ。じゃ、じゃあ、初音を救う方法は―――」
「……もう、ありません」
 ゴウッ―――
 一陣の風が屋上に吹き荒れた。
 その風は、俺の心の中にぽっかりと空いた穴に容赦なく流れ込んできた。
 絶望が、俺を支配した。
 しばらくの間、俺は瞬きすらできなかった。
 悪い夢でも見せられているかのようだった。
 こんな無慈悲で残酷な現実があるわけがない。夢であるならば覚めてほしい。
 そう願った。
 しかし、
「お兄……ちゃん……」
 そんなか細い声が、容赦なく俺に現実を突きつけてくる。逃げるなと俺の首根っこを捕らえてくる。
 俺は初音を見た。
 ヒューヒューと、喉を鳴らしながら、虚ろな目で初音は俺を見つめていた。
「………初音。大丈夫だからな。今、病院に連れて行ってやる」
 俺はシャツを脱ぐと、それを初音の上にかぶせてやる。
 まだ望みはあるはずだ。呪いに身体を蝕まれていようとも、彼女を助ける方法はまだ何かあるはずだ。
 彼女が生きている限り、俺はその望みを捨ててはならない。
 初音を抱えて、俺は立ち上がろうとした。
 だが、
「……やめてよ。こんな身体、これ以上人に見られなくないよ。それに、どうせ私はもう助からない」
 初音はそれを冷たく拒絶した。
「何言って―――」
「これはね、罰……なんだよ。卑怯な力を使って復讐しようとした罰。まあ、最後の一人は殺せなかったけどね」
 はは、と乾いた嗤いを漏らして、初音はあと一歩で仕留めそこなった獲物を見上げる。
 椅子に縛られた彼女は、がっくりと首を折り、腕をだらんと垂らして気絶していた。
「ほんと……最後の最後で……台無し、だよ……」
「……何でだよ」
「……え?」
「何でっ! こうなるんだよっ⁉ どうしてお前たちがこんな目に遭うんだっ⁉ 何にも悪いことしてないだろ! ただ平凡な毎日を望んだだけだろ‼ それなのに、どうしてこんな――――――‼」
 身を引き千切られるような叫び声が、腹の底から溢れ出た。
 瞼を焼くような熱い涙が初音の頬にぼたぼたと零れ落ちる。
 悔しくて哀しくて仕方がなかった。そして、こんな状況になっても何もできない自分が、何よりも情けなくて哀れだった。
 誰も救えなかった。何も得られなかった。
 罰を受けるのは彼女たちではない。俺の方だ。ずっと都合の良い日常に身を浸し、現実を直視しようとしてこなかった。辛い現実から目を背け続けてきた俺こそが、真に罰を受けなければならないのだ。
「……わからない……よ」
「……え……?」
 静寂に包まれた屋上。初音が静かに口を開いた。
「私にも……わからないよ……どうしてこんなことになったのか。どうして、復讐なんてしようと思ったのか……もう、思い出せない」
 初音が目を伏せる。
「でも、気付いた時には遅かった。既に取り返しのつかないことになってた。止めたいと思ったけど無理だった。自分の中で、黒い感情が止まらなくなってた。どうしようもなかったんだよ」
 彼女の中で、何かが崩れていく。
「うぅ、ぐすっ、うぅ……」
「……初音……?」
「こんな最後になるなら、やらなきゃ……よかった。こんな気持ちになるくらいなら、最初から、復讐なんてしなきゃよかった。結局全部、中途半端……私はもう、自分が何なのかすらわからない……。私は一体、何がしたかったんだよぉ……」
 泣いた。
 ……初めて彼女が泣いた。
 今まで、決して涙を見せなかった彼女が……。
 小さく肩を震わせながら、涙を流していた。
「ずっと寒くて暗くて……怖かった。この二年間ずっと、誰もいない部屋の中で一人、震えてた。早くお兄ちゃんに、迎えに来てほしかった」
 初音の目から、透明な雫がとめどなく溢れ続ける。
 だだっ広い屋上に、嗚咽の混じった彼女の声だけが響いていた。
 ……胸が、痛かった。
「……ごめん……ごめんな、初音。俺が―――俺が、もっとちゃんとお前のことをわかっていれば―――」
 初音を抱える腕に力を入れる。
 だがそこで、俺は絶句した。
 彼女の身体が、既に氷のように冷たくなっていたからだ。
「何で……お兄ちゃんが、謝ってるんだよ……。悪いのは………全部、わた―――ごふっ、げほ、ごほっ―――!」
 初音の口から勢いよく紅血が飛び散る。
 飛び散った血は俺の下着のシャツに付着し、眼に刺さるような赤黒い染みへと変化する。
 彼女の胸の動きが、徐々に浅くなっていくのがわかった。
「初音⁉ しっかりしろ! 初音っ‼」
 俺は彼女の名前を叫ぶ。
 すると初音はおもむろに首を動かし、屋上の地面に視線を移した。
 視線の先にあったのは、俺が先ほどナイフで宝石部分を打ち砕いたネックレスの残骸だった。
 そこにはもはや、かつてのような美しい輝きは残ってい。
 それを認めると、初音は哀しそうに目を細めた。
「あーあ……それ、お気に入り、だったのに、な……」
「……え?」
「でも、まあ……これで未練も、なくなる、かな……」
 独り言のように呟いた。
 そしてもう一度、げほっと大きな血の塊を吐き出すと、
「時間切れ、だね……。ごめ、んね……もっと、お話ししたいんだけど、限界みたい……」
 風に揺らめくような弱い命の灯りが、間もなく消えようとしている。
「やめろ……やめろやめろやめろっ! 認めない、認めないからなっ! 俺はこんな現実、絶対に認めないからなっ‼」
「あは、は、格好……悪いよ……お兄ちゃん……」
「頼む、やめてくれ……お前まで失ったら、俺はこの先、どうやって生きていけばいいんだ⁉」
 声が震えていた。
 彼女たちのいない世界で暮らしていける自信など、俺にはなかった。
「……ごめんね。でも……仕方ないんだよ。みらいには、悪いこと、したから……だから、私も、早く、行ってあげない、と……」
 語尾にはほとんど力が籠っていなかった。
「何ふざけたこと言ってんだ!」
「………ばいばい。お兄、ちゃん」
 初音が力なく微笑む。
 その笑顔が一瞬、二年前の彼女のものと重なった。
 途端、初音の目から急速に光が失われていく。
「おい、待てよ……。初音!」
 薄く開いていた、彼女の目が閉じられる。
「おい! 嘘だろ⁉ 初音‼ 目ぇ開けろっ‼」
「うるさいなぁ……お兄ちゃんは……」
「初音っ‼」
「そんなに……うるさく、されたら―――」
 ―――眠れないよ。
 最後に、そう呟いた気がした。
 スウっと、彼女の胸の動きがなくなる。
「…………初音? おい……初音っ―――‼」
 そしてそれっきり、彼女が俺の言葉に答えることはなかった。
 まるで憑き物が落ちたような穏やかな顔で、初音は眠るように、息を引きとっていた―――
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