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三章
初めての友達
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―――平日の早朝。曇天の空。
彼女の鍛錬を始めてから、早数週間が過ぎようとしていた。
月日で言えば数週間だが、彼女がこの神社を訪れるのは休日の内のどちらか一方なので、実際に鍛錬を行った日数としてはまだほんの数日ほどである。しかしそれでも、彼女は驚くべき速さで霊力の制御を習得していた。初めこそ危なっかしい場面も多かったが、今では、単純な言霊なら問題なく使用できるほどになっている。この調子でいけば、彼女が完全に霊力を制御できるようになるまでに、そう時間はかからないかもしれない。
そんなことに考えを巡らせながら、私は石畳をいつものように草帚で掃いていた。二か月ほど前まで、あれほど降り積もっていた桜の花びらは今ではもう全く見えない。そのことに少しだけ物寂しさを感じながら、私はおおよそ掃除する必要のない境内を一通り箒で掃き終えると、賽銭箱前で一旦手を止め、すぐ傍に置いてあった塵取りを手に取った。
だが、その塵取りを申し訳程度に集めた塵芥の横に置いた、ちょうどその時、
「すいません」
不意に後ろから声を掛けられた。
驚いて振り返ると、石畳三個分ほど先の所に一人の男が立っていた。
年齢としては四十代半ばくらいだろうか。身長は男性の割には少し低めで、食生活にだらしがないのかお腹の辺りがポッコリと前に張り出している。今日は陽も出ていないのに、男は何故か黒いキャップを目深に被っており、顔を半分以上隠していた。それが私の目には少々不気味に映った。
「……何か御用でしょうか」
塵取りと箒を地面に置きながら、私は男に訊ねた。
男は無言で、私の方まで歩いて来ると、
「これを」
と、何やら少し大きめの木箱を、両手で私に差し出してきた。
「……これは?」
よくわからなかったが、私は男からその箱を受け取った。予想していたよりも、その箱には重さがあった。
「開けても大丈夫ですか?」
私は訊ねたが、男は無言だった。
開けられたくないものなら拒否するだろうし、そもそも初対面の者に渡したりはしないだろう。沈黙を了承の意と受け取った私は、恐る恐るその箱の蓋を開けた。
「これは……」
中には小さな市松人形が一体、丁寧に納められていた。人形の周りには白い綿がぎっしりと詰められており、大きな衝撃からも身体が守られるようになっていた。
一目で高価な人形だとわかった。
艶やかな黒髪は肩のあたりで綺麗に切り揃えられており、身体には、見事な菊の花が施された朱色の着物が着せられている。胴の上からは、銀色の糸で花の刺繍が施された飴色の帯が巻かれており、雲の隙間から洩れる僅かな太陽光を受けてきらきらと光っていた。
ガラス細工で加工された瞳は不自然なくらいに澄んでおり、陶器でできた滑らかな肌は人間のそれと区別が付かないくらいに精巧にできていた。きっと大切な女の子のために真心込めて作られたものなのだろう。
「これは、一体どこで?」
見事な市松人形に目を奪われながら、私は男に訊ねた。
だが、男は私の質問には答えなかった。男は俯き、じっと自分の足元を凝視しているようだった。
やはり気味の悪い男だと思った。
私は、何とはなしにその市松人形の頬に手を触れてみた。
が、その瞬間、
「―――ッ⁉」
全身に鳥肌が立った。
足元から無数の虫が這いあがってくるような不快感に襲われ、思わず持っていたその箱を落としそうになった。
まさか、これは―――
睨むように、私は男を見た。
「撫物、ですか……?」
「…………」
男は相変わらず黙っている。
撫物。それは一般的に身の穢れを取り除くために用いる呪物のことを指す。形代や贖物などとも呼称され、祓いや祈祷を行う際に使用される物である。しかし稀に、この撫物を全く別の用途で使用する人間が存在する。呪詛―――つまり人を呪う道具として使用するのだ。
私は息を呑んで、箱に入れられた市松人形に視線を戻した。
この人形は明らかに後者の用途で用いられたものだ。指先が触れた瞬間にそれはわかった。先ほどまで端麗で美しいと思っていた人形が、今はとても不気味な物に映った。
「こんなもの、一体どこで……?」
私は再度、男に問うた。
だが、やはり男は、私の質問には答えずに、
「よろしくお願いします」
とだけ言って小さく頭を下げると、その体躯には似合わない素早い動きで踵を返し、さっさと境内から走り去ってしまった。後に残された私は、しばらく呆然とその場に佇んでいた。
―――数日後の休日。昼前。曇天の空。
私は美鈴さんと共に、いつもの鍛錬に励んでいた。
「かなり上達してきましたね」
一区切りついたところで私がそう言うと、彼女は破顔し、
「ありがとうございます」
と頭を下げてきた。
彼女の技術は着実に上達していた。以前のような霊力の暴走はもうほとんど起きていない。
「いつもすみません。お忙しい中付き合って頂いて……」
「いえ、休日はいつも時間を持て余していますから、気にしないでください」
「そうなんですか? お友達と遊びに行ったりはしないんですか?」
何気ないその質問に、私は一瞬言葉に詰まってしまった。
「……そう、ですね。あまりそういったことはないかもしれません」
視線を斜め下に落としながら、私はそう答えた。
嘘は吐いていない。しかし正確に答えるならば、遊びに行かないのではなく、一緒に遊びに行くような友達がいない、だ。
物心つく前から、私は人付き合いが苦手だった。小学校でも仲の良いクラスメイトは一人もいなかった。休み時間には読書、昼休みには一人で給食を終えた後に読書、放課後は誰よりも早くに教室を出て家に帰ってから読書。その習慣は中学に上がってからも変わらず、私は誰とも接点を持とうとはしなかった。人付き合い自体が面倒ということもあったし、私には兄の面倒を見なければならないという使命があったので、中学でも友達などを作っている暇はなかったのだ。
別にそれをコンプレックスに感じたことはない。だが今、目の前の彼女に訊ねられた時、何故か少し後ろめたさを感じてしまった自分に少し驚いていた。
「美鈴さんは……お友達が多そうですね」
無意識のうちに、私はそう呟いていた。
はっとして視線を上げると、彼女はキョトンとした顔で私を見ていた。
「す、すみません変なことを言って。忘れてください」
慌てて私がそう言うと、少ししてから彼女はにっこりと微笑んだ。
「私には、友達など一人もいませんよ」
「えっ?」
予想していなかったその言葉に、私は思わず声を上げた。
「それは、どういう……」
「そのままの意味です。私には、仲の良いお友達などは一人もいません」
「…………」
意外過ぎて言葉が見つからなかった。温和で礼儀正しく、おまけに容姿端麗な彼女ならば、間違いなく多くの人から慕われ、さぞかし沢山の友人に囲まれた学校生活を送っていると思い込んでいたのだ。
だがその理由にも、すぐに思い当たる所があった。
「……もしかして、それは美鈴さんの体質が関係しているんですか……?」
遠慮がちに私がそう訊ねると、彼女はまたにこりと微笑んだ。だがその笑顔はどこか寂しげだった。
「その通りです。憑依されやすいこの体質が原因で、クラスの人たちからは距離を置かれてしまいました」
「何か、トラブルでもあったんですか?」
「ええ、まあ色々……」
「……そうでしたか」
それ以上は何も訊けなかった。彼女の現状が、頭の中で過去の兄と重なった。
気丈に振る舞ってはいるが相当辛い経験もあったはずだ。謂れのない誹謗中傷を受けたり、覚えのない噂を立てられるようなこともあっただろう。周囲の人たちから白い目で見られ、身内からもひどい扱いを受けるようなこともあったかもしれない。
望んで得た体質でもなければ、好きでトラブルを起こしているわけでもない。それなのに、何故か異物として疎まれ社会の輪から排除されてしまう。そんな自分ではどうしようもない理不尽な現実に、よく今まで耐えてこられたものだ。
「あ、すみません。少し暗い話になってしまいましたね」
私が黙ってしまうと、彼女の方が慌てて謝罪をしてきた。
「いえ……美鈴さんも、色々と大変なんですね」
「大変というほどのことでは……もう慣れたので平気です」
にこりと、再び彼女が笑顔を作った。
ズキリと胸が痛んだ。
慣れるはずがない。彼女の顔を直視できなくて、私はまた視線を下に落とした。
しばらくの間、静寂が流れた。普段は気にも留めない家鳴りの音が、とても大きな音に聞こえた。
「私も……」
先に沈黙を破ったのは私の方だった。何故か、ほぼ無意識的に口を開いていた。
「私も実は、友人と呼べるような存在は一人もいないんです」
「えっ……?」
今度は彼女が声を上げる番だった。
「昔から人付き合いが苦手なんです。自分の感情を上手く表に出すことができなくて、何をしたら相手が喜ぶのかもよくわかりません」
「…………」
「おまけにこんな根暗な性格です。友人と呼べるような方は、今まで一人もできませんでした」
私は何を報告しているのだろう。こんな無意味で生産性のないことを言っても、彼女を困惑させてしまうだけなのに。
背中から変な汗が湧き出てくる。心なしか顔も熱い。これまで自分のことを他人に話したことがなかった私は、自分が今どんな心情でいるのかわからなかった。
「なので、その……美鈴さんは全く変じゃないといいますか……私のような人間もいますので、気にする必要はないといいますか……」
最後は消え入るような声と共に、私は口を閉ざした。
……再び沈黙が張り付く。
顔を上げることができず、私はひたすら床の木目を数える作業に徹した。どくどくと心臓が早鐘を打つ音が聞こえてくる。喉の奥にボールでも詰まったみたいに、息をするのが苦しかった。
しかし、
「ふふっ」
彼女の小さな笑い声で、私は顔を上げた。
彼女は右手を口元に当てて、くすくすと可愛らしい笑い声を漏らしていた。それは決して、嘲りや蔑みからくる嗤いなどではなかった。
「あ、すみません。失礼でしたよね」
私の視線に気が付くと、彼女は表情を正した。
「なんだか、さよさんがとても可愛らしく思えて、つい」
「可愛い……ですか」
今まで掛けられたことのないその言葉に、私は動揺した。
「さよさんは、とても思い遣り深い方なんですね」
「思い遣り深い……ですか」
これも言われたことがなかったので、私は更に困惑してしまった。
「私のような気味の悪い人間に、そのような言葉で慰めてくれたのは、さよさんが初めてです。ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
「いえ……そんな……私の方が、大概気味が悪いと思いますので……」
「でしたら私たち、お友達ですね」
「えっ?」
その言葉に、私は思わず間抜けな声を漏らして彼女を見た。
「似た者同士、良い関係を築けるかもしれません」
柔らかな笑顔を浮かべて、彼女は私を見つめていた。
私はどう反応して良いかわからず、目を泳がせた。
「あっ、すみません、似た者同士とか言ってしまって……不愉快でしたよね」
しまったというような顔をして、彼女はまた頭を下げた。
私は慌てて口を開く。
「い、いえ、不愉快というわけではないんですが……あの、その……私なんかが美鈴さんのお友達になっても良いのかと……」
「……えっ?」
彼女は目を丸くして私を見た。
「あ、その……普通友達というのは、同級生や同年代の方となるものではないんですか? 二つも年上の方と友達になるというのは、なんだか少し妙というか、おこがましいような気がするんですけど……」
友達というものを作ったことがなかった私は、その定義がよくわからなかった。しかし、学校でクラスメイトたちを見ていると、どうやら彼ら彼女らは、同学年の人を対象に友達を作っているようだった。そして、部活などで年が違う人と接する時には、先輩後輩という関係を持って付き合っていたように記憶している。
そのため、今回のように相手と年齢が異なっている場合には、それは友達ではなく、先輩後輩という関係になるのではないかと思ったのだ。
私が言い終えると、彼女はしばらく呆然としたように口を半開きにしていたが、
やがて、
「ふふっ」
また笑い声を漏らした。
今度は堪え切れなかったようで、彼女はお腹と口元の両方に手を当てながら、くっくっくっと押し殺したような声で笑っていた。耳たぶからぶら下がったイヤリングが、小刻みに揺れている。
「あ、あの……私、何か変なことでも言ってしまったでしょうか?」
彼女の反応に不安を覚えた私は、おずおずと彼女に訊ねた。
「す、すみません……さよさんが、あまりに、可愛いすぎて―――」
目元に浮いた涙を拭いながら彼女が言った。
「へっ?」
素っ頓狂な声が出た。
今の私の発言のどこに、可愛らしさがあったのだろうか。
「さよさんは、とても真面目な方なのですね」
笑い声を収めながら彼女が姿勢を正す。
「真面目……でしょうか?」
「はい、とても。ですが、そんなに堅苦しく考えなくても大丈夫ですよ。友達になるのに、年齢という隔たりはありませんから」
「……そういうもの……なのでしょうか?」
「はい。そういうものです」
にこりと彼女が微笑んだ。
なるほど。少なくとも私よりかは友達というものに詳しいであろう彼女がそう断言するならば、それは恐らくそういうものなのだろう。
どうやら私は、根本的な勘違いをしていたらしい。
「ですから、私とさよさんがお友達になっても、何も不思議なことはないんですよ?」
「…………」
「あ、もちろん、さよさんが嫌じゃなければの話ですが……」
「そんな、嫌というわけではなく……むしろ、ありがとうございます」
小さく頭を下げてから、私は自分の胸に手を当てた。
不思議な温かさがあった。今まで感じたことのない優しい温もりが、そこには宿っていた。
心地いい。
頬の筋肉が無性にムズムズとし、自然と顔がにやけてしまいそうになる。
もしかすると私は今、嬉しいのだろうか……?
「では、これからお友達として、よろしくお願いしますね」
彼女が私に手を差し伸べてきた。
握手、すればいいのだろうか。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
一瞬躊躇した後、私はその手を握った。想像していたよりも、彼女の手は小さかった。
なるほど。どうやら友達となった暁には握手を交わすらしい。今後のために、頭の片隅で覚えておこうと思った。
手を離すと、彼女は突然何かを思い出したように両手をパチンと鳴らした。
「そうでした。私、友達ができたら、まずはやってみたいことがあったんです」
「やってみたいこと、ですか?」
急な彼女の発言に、私は首を傾げた。
「さよさん。明日の午後、少しお時間を頂けますか?」
明日は休日だ。境内の掃除と昼食さえ終えてしまえば、夜までは特にやることがない。
「はい、予定は特にないですが……何かするんですか?」
私が訊ねると、彼女は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「お買い物デートです」
彼女の鍛錬を始めてから、早数週間が過ぎようとしていた。
月日で言えば数週間だが、彼女がこの神社を訪れるのは休日の内のどちらか一方なので、実際に鍛錬を行った日数としてはまだほんの数日ほどである。しかしそれでも、彼女は驚くべき速さで霊力の制御を習得していた。初めこそ危なっかしい場面も多かったが、今では、単純な言霊なら問題なく使用できるほどになっている。この調子でいけば、彼女が完全に霊力を制御できるようになるまでに、そう時間はかからないかもしれない。
そんなことに考えを巡らせながら、私は石畳をいつものように草帚で掃いていた。二か月ほど前まで、あれほど降り積もっていた桜の花びらは今ではもう全く見えない。そのことに少しだけ物寂しさを感じながら、私はおおよそ掃除する必要のない境内を一通り箒で掃き終えると、賽銭箱前で一旦手を止め、すぐ傍に置いてあった塵取りを手に取った。
だが、その塵取りを申し訳程度に集めた塵芥の横に置いた、ちょうどその時、
「すいません」
不意に後ろから声を掛けられた。
驚いて振り返ると、石畳三個分ほど先の所に一人の男が立っていた。
年齢としては四十代半ばくらいだろうか。身長は男性の割には少し低めで、食生活にだらしがないのかお腹の辺りがポッコリと前に張り出している。今日は陽も出ていないのに、男は何故か黒いキャップを目深に被っており、顔を半分以上隠していた。それが私の目には少々不気味に映った。
「……何か御用でしょうか」
塵取りと箒を地面に置きながら、私は男に訊ねた。
男は無言で、私の方まで歩いて来ると、
「これを」
と、何やら少し大きめの木箱を、両手で私に差し出してきた。
「……これは?」
よくわからなかったが、私は男からその箱を受け取った。予想していたよりも、その箱には重さがあった。
「開けても大丈夫ですか?」
私は訊ねたが、男は無言だった。
開けられたくないものなら拒否するだろうし、そもそも初対面の者に渡したりはしないだろう。沈黙を了承の意と受け取った私は、恐る恐るその箱の蓋を開けた。
「これは……」
中には小さな市松人形が一体、丁寧に納められていた。人形の周りには白い綿がぎっしりと詰められており、大きな衝撃からも身体が守られるようになっていた。
一目で高価な人形だとわかった。
艶やかな黒髪は肩のあたりで綺麗に切り揃えられており、身体には、見事な菊の花が施された朱色の着物が着せられている。胴の上からは、銀色の糸で花の刺繍が施された飴色の帯が巻かれており、雲の隙間から洩れる僅かな太陽光を受けてきらきらと光っていた。
ガラス細工で加工された瞳は不自然なくらいに澄んでおり、陶器でできた滑らかな肌は人間のそれと区別が付かないくらいに精巧にできていた。きっと大切な女の子のために真心込めて作られたものなのだろう。
「これは、一体どこで?」
見事な市松人形に目を奪われながら、私は男に訊ねた。
だが、男は私の質問には答えなかった。男は俯き、じっと自分の足元を凝視しているようだった。
やはり気味の悪い男だと思った。
私は、何とはなしにその市松人形の頬に手を触れてみた。
が、その瞬間、
「―――ッ⁉」
全身に鳥肌が立った。
足元から無数の虫が這いあがってくるような不快感に襲われ、思わず持っていたその箱を落としそうになった。
まさか、これは―――
睨むように、私は男を見た。
「撫物、ですか……?」
「…………」
男は相変わらず黙っている。
撫物。それは一般的に身の穢れを取り除くために用いる呪物のことを指す。形代や贖物などとも呼称され、祓いや祈祷を行う際に使用される物である。しかし稀に、この撫物を全く別の用途で使用する人間が存在する。呪詛―――つまり人を呪う道具として使用するのだ。
私は息を呑んで、箱に入れられた市松人形に視線を戻した。
この人形は明らかに後者の用途で用いられたものだ。指先が触れた瞬間にそれはわかった。先ほどまで端麗で美しいと思っていた人形が、今はとても不気味な物に映った。
「こんなもの、一体どこで……?」
私は再度、男に問うた。
だが、やはり男は、私の質問には答えずに、
「よろしくお願いします」
とだけ言って小さく頭を下げると、その体躯には似合わない素早い動きで踵を返し、さっさと境内から走り去ってしまった。後に残された私は、しばらく呆然とその場に佇んでいた。
―――数日後の休日。昼前。曇天の空。
私は美鈴さんと共に、いつもの鍛錬に励んでいた。
「かなり上達してきましたね」
一区切りついたところで私がそう言うと、彼女は破顔し、
「ありがとうございます」
と頭を下げてきた。
彼女の技術は着実に上達していた。以前のような霊力の暴走はもうほとんど起きていない。
「いつもすみません。お忙しい中付き合って頂いて……」
「いえ、休日はいつも時間を持て余していますから、気にしないでください」
「そうなんですか? お友達と遊びに行ったりはしないんですか?」
何気ないその質問に、私は一瞬言葉に詰まってしまった。
「……そう、ですね。あまりそういったことはないかもしれません」
視線を斜め下に落としながら、私はそう答えた。
嘘は吐いていない。しかし正確に答えるならば、遊びに行かないのではなく、一緒に遊びに行くような友達がいない、だ。
物心つく前から、私は人付き合いが苦手だった。小学校でも仲の良いクラスメイトは一人もいなかった。休み時間には読書、昼休みには一人で給食を終えた後に読書、放課後は誰よりも早くに教室を出て家に帰ってから読書。その習慣は中学に上がってからも変わらず、私は誰とも接点を持とうとはしなかった。人付き合い自体が面倒ということもあったし、私には兄の面倒を見なければならないという使命があったので、中学でも友達などを作っている暇はなかったのだ。
別にそれをコンプレックスに感じたことはない。だが今、目の前の彼女に訊ねられた時、何故か少し後ろめたさを感じてしまった自分に少し驚いていた。
「美鈴さんは……お友達が多そうですね」
無意識のうちに、私はそう呟いていた。
はっとして視線を上げると、彼女はキョトンとした顔で私を見ていた。
「す、すみません変なことを言って。忘れてください」
慌てて私がそう言うと、少ししてから彼女はにっこりと微笑んだ。
「私には、友達など一人もいませんよ」
「えっ?」
予想していなかったその言葉に、私は思わず声を上げた。
「それは、どういう……」
「そのままの意味です。私には、仲の良いお友達などは一人もいません」
「…………」
意外過ぎて言葉が見つからなかった。温和で礼儀正しく、おまけに容姿端麗な彼女ならば、間違いなく多くの人から慕われ、さぞかし沢山の友人に囲まれた学校生活を送っていると思い込んでいたのだ。
だがその理由にも、すぐに思い当たる所があった。
「……もしかして、それは美鈴さんの体質が関係しているんですか……?」
遠慮がちに私がそう訊ねると、彼女はまたにこりと微笑んだ。だがその笑顔はどこか寂しげだった。
「その通りです。憑依されやすいこの体質が原因で、クラスの人たちからは距離を置かれてしまいました」
「何か、トラブルでもあったんですか?」
「ええ、まあ色々……」
「……そうでしたか」
それ以上は何も訊けなかった。彼女の現状が、頭の中で過去の兄と重なった。
気丈に振る舞ってはいるが相当辛い経験もあったはずだ。謂れのない誹謗中傷を受けたり、覚えのない噂を立てられるようなこともあっただろう。周囲の人たちから白い目で見られ、身内からもひどい扱いを受けるようなこともあったかもしれない。
望んで得た体質でもなければ、好きでトラブルを起こしているわけでもない。それなのに、何故か異物として疎まれ社会の輪から排除されてしまう。そんな自分ではどうしようもない理不尽な現実に、よく今まで耐えてこられたものだ。
「あ、すみません。少し暗い話になってしまいましたね」
私が黙ってしまうと、彼女の方が慌てて謝罪をしてきた。
「いえ……美鈴さんも、色々と大変なんですね」
「大変というほどのことでは……もう慣れたので平気です」
にこりと、再び彼女が笑顔を作った。
ズキリと胸が痛んだ。
慣れるはずがない。彼女の顔を直視できなくて、私はまた視線を下に落とした。
しばらくの間、静寂が流れた。普段は気にも留めない家鳴りの音が、とても大きな音に聞こえた。
「私も……」
先に沈黙を破ったのは私の方だった。何故か、ほぼ無意識的に口を開いていた。
「私も実は、友人と呼べるような存在は一人もいないんです」
「えっ……?」
今度は彼女が声を上げる番だった。
「昔から人付き合いが苦手なんです。自分の感情を上手く表に出すことができなくて、何をしたら相手が喜ぶのかもよくわかりません」
「…………」
「おまけにこんな根暗な性格です。友人と呼べるような方は、今まで一人もできませんでした」
私は何を報告しているのだろう。こんな無意味で生産性のないことを言っても、彼女を困惑させてしまうだけなのに。
背中から変な汗が湧き出てくる。心なしか顔も熱い。これまで自分のことを他人に話したことがなかった私は、自分が今どんな心情でいるのかわからなかった。
「なので、その……美鈴さんは全く変じゃないといいますか……私のような人間もいますので、気にする必要はないといいますか……」
最後は消え入るような声と共に、私は口を閉ざした。
……再び沈黙が張り付く。
顔を上げることができず、私はひたすら床の木目を数える作業に徹した。どくどくと心臓が早鐘を打つ音が聞こえてくる。喉の奥にボールでも詰まったみたいに、息をするのが苦しかった。
しかし、
「ふふっ」
彼女の小さな笑い声で、私は顔を上げた。
彼女は右手を口元に当てて、くすくすと可愛らしい笑い声を漏らしていた。それは決して、嘲りや蔑みからくる嗤いなどではなかった。
「あ、すみません。失礼でしたよね」
私の視線に気が付くと、彼女は表情を正した。
「なんだか、さよさんがとても可愛らしく思えて、つい」
「可愛い……ですか」
今まで掛けられたことのないその言葉に、私は動揺した。
「さよさんは、とても思い遣り深い方なんですね」
「思い遣り深い……ですか」
これも言われたことがなかったので、私は更に困惑してしまった。
「私のような気味の悪い人間に、そのような言葉で慰めてくれたのは、さよさんが初めてです。ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
「いえ……そんな……私の方が、大概気味が悪いと思いますので……」
「でしたら私たち、お友達ですね」
「えっ?」
その言葉に、私は思わず間抜けな声を漏らして彼女を見た。
「似た者同士、良い関係を築けるかもしれません」
柔らかな笑顔を浮かべて、彼女は私を見つめていた。
私はどう反応して良いかわからず、目を泳がせた。
「あっ、すみません、似た者同士とか言ってしまって……不愉快でしたよね」
しまったというような顔をして、彼女はまた頭を下げた。
私は慌てて口を開く。
「い、いえ、不愉快というわけではないんですが……あの、その……私なんかが美鈴さんのお友達になっても良いのかと……」
「……えっ?」
彼女は目を丸くして私を見た。
「あ、その……普通友達というのは、同級生や同年代の方となるものではないんですか? 二つも年上の方と友達になるというのは、なんだか少し妙というか、おこがましいような気がするんですけど……」
友達というものを作ったことがなかった私は、その定義がよくわからなかった。しかし、学校でクラスメイトたちを見ていると、どうやら彼ら彼女らは、同学年の人を対象に友達を作っているようだった。そして、部活などで年が違う人と接する時には、先輩後輩という関係を持って付き合っていたように記憶している。
そのため、今回のように相手と年齢が異なっている場合には、それは友達ではなく、先輩後輩という関係になるのではないかと思ったのだ。
私が言い終えると、彼女はしばらく呆然としたように口を半開きにしていたが、
やがて、
「ふふっ」
また笑い声を漏らした。
今度は堪え切れなかったようで、彼女はお腹と口元の両方に手を当てながら、くっくっくっと押し殺したような声で笑っていた。耳たぶからぶら下がったイヤリングが、小刻みに揺れている。
「あ、あの……私、何か変なことでも言ってしまったでしょうか?」
彼女の反応に不安を覚えた私は、おずおずと彼女に訊ねた。
「す、すみません……さよさんが、あまりに、可愛いすぎて―――」
目元に浮いた涙を拭いながら彼女が言った。
「へっ?」
素っ頓狂な声が出た。
今の私の発言のどこに、可愛らしさがあったのだろうか。
「さよさんは、とても真面目な方なのですね」
笑い声を収めながら彼女が姿勢を正す。
「真面目……でしょうか?」
「はい、とても。ですが、そんなに堅苦しく考えなくても大丈夫ですよ。友達になるのに、年齢という隔たりはありませんから」
「……そういうもの……なのでしょうか?」
「はい。そういうものです」
にこりと彼女が微笑んだ。
なるほど。少なくとも私よりかは友達というものに詳しいであろう彼女がそう断言するならば、それは恐らくそういうものなのだろう。
どうやら私は、根本的な勘違いをしていたらしい。
「ですから、私とさよさんがお友達になっても、何も不思議なことはないんですよ?」
「…………」
「あ、もちろん、さよさんが嫌じゃなければの話ですが……」
「そんな、嫌というわけではなく……むしろ、ありがとうございます」
小さく頭を下げてから、私は自分の胸に手を当てた。
不思議な温かさがあった。今まで感じたことのない優しい温もりが、そこには宿っていた。
心地いい。
頬の筋肉が無性にムズムズとし、自然と顔がにやけてしまいそうになる。
もしかすると私は今、嬉しいのだろうか……?
「では、これからお友達として、よろしくお願いしますね」
彼女が私に手を差し伸べてきた。
握手、すればいいのだろうか。
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
一瞬躊躇した後、私はその手を握った。想像していたよりも、彼女の手は小さかった。
なるほど。どうやら友達となった暁には握手を交わすらしい。今後のために、頭の片隅で覚えておこうと思った。
手を離すと、彼女は突然何かを思い出したように両手をパチンと鳴らした。
「そうでした。私、友達ができたら、まずはやってみたいことがあったんです」
「やってみたいこと、ですか?」
急な彼女の発言に、私は首を傾げた。
「さよさん。明日の午後、少しお時間を頂けますか?」
明日は休日だ。境内の掃除と昼食さえ終えてしまえば、夜までは特にやることがない。
「はい、予定は特にないですが……何かするんですか?」
私が訊ねると、彼女は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「お買い物デートです」
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欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
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