呪縛 ~呪われた過去、消せない想い~

ひろ

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三章

招いた最悪

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 外は午前中よりも更に薄暗くなっていた。雨こそまだ降りだしていないが、ビュービューとぬるい風が吹き、杉の梢がざわざわと音を立てている。厚い雲に覆われた空には細い稲妻がぴりぴりと走り、腹の底に響くような雷鳴が時折ゴロゴロと轟いていた。
 本殿裏にあるお手洗いで用を済ませると、私は少し急ぎ足で小屋に向かった。
 じきに嵐になる……。現在進行形で悪化していく天候をその身で感じながら、私は確信していた。
 今日は早々に切り上げ、彼女を安全に家に帰してあげるべきだろう。
 途中、参道の石畳に目をやると、落ち葉や細かい枝が一面に散乱しているのが見えた。朝せっかく綺麗にしたのに、と私は少し残念な気持ちになった。
 木々の間から小屋の外形が見えた。小屋まであと数十メートル。
 ……が、その時、
「…………?」
 ふと、嫌な気配を感じた。
 私はピタリと立ち止まる。
 一瞬ではあるが、周りの空気がずっしりと重くなったような気配を感じたのだ。
 首を巡らし、辺りを見回す。だが誰もいない。何もない。何も感じない。奇妙な気配もさっぱり消えている。
 気のせいか……
 そう思い、再び歩を進めようとした。
 が、その刹那、
「――――――ッ⁉」
 ぞくりと私の背筋に悪寒が走った。
 全身の毛穴という毛穴が開き、頭の中でうるさいくらいに警鐘が鳴り響く。
 肌を刺すような冷気が足元から這い上がってきて、私は激しい吐き気に襲われた。
「かっ……はっ……!」
 私はたまらずに蹲った。
 息ができない。肺が握り潰されるみたいに痛い。顔が破裂しそうだ。
「ぐっ…………!」
 頭痛もひどい。視界が歪んで意識が朦朧としてくる。
 これは、呪詛―――⁉
 荒れ狂う意識の中で、私はそう確信した。
 この独特の嫌悪感と不快感、間違いない。誰かが私に呪いをかけている―――⁉
 しかし、一体だれが―――
 私は、自分に怨みを持ちそうな人物を頭の中で検索してみる。
 だが、誰一人として浮かんでこない。そもそも私は対人関係が極端に薄い。怨みを持たれるほど、人と関わってこなかったのだ。
 私は思考回路を変える。
 狙いが私でないとすると、まさか、目的は兄―――?
 認めたくはないが、兄のことをよく思わない人間は、この町に少なからず存在する。災厄の子と兄を忌み嫌い、町から追い出そうとした人間もいたはずだ。その中の誰かが、この呪詛を仕掛けている―――?
 しかし、だとしたら何故私に―――
 相手を間違えたのか、どちらでも良かったのか、それとも私を殺せば兄が哀しむとでも思ったのか―――
 そこまで考えが巡った時、どす黒い怒りが、胃の奥からふつふつと湧き上がってきた。
「……ふざけるな」
 自分でもゾッとするほどの低い声が漏れた。少しだけ身体が軽くなった。
 やっとの思いで手に入れた平穏な生活。ここまで来るのは、決して楽な道のりではなかった。
 全てを拒絶していた兄がようやく心を開いてくれた。以前では考えられないほどによく笑うようになってくれた。好きな人だってできた。私にも―――初めての友達ができた。
 これらは決して贅沢な幸せなどではない。誰にでも与えられるべき、当然の権利。
 ようやく手に入れたそんな平凡な幸福すら、私たちから奪おうというのか―――
「あああ……!」
 散っていく意識をかき集め、私は足に全神経を集中させながら立ち上がる。
 少しでも気を抜くと意識を持っていかれそうだったので、私は唇の端を強く噛み、痛みで意識を繋ぎ止めた。
「邪魔を……するなっ……!」
 今更なんだというのか。私たちが何をしたというのか。誰を傷つけたというのか。
「お前たちに……何がわかるっ……!」
 兄がどれほど苦しんできたか知っているか。親に捨てられた私たちの気持ちが理解できるのか。ここまで来るのに、一体どれほどの痛みを伴ったか、お前たちにわかるのかっ―――!
「……して……やる……」
 どろりとした憎悪が、私の中から溢れ出た。
「……殺して……やるっ!」
 感情をコントロールすることは、もはや不可能だった。どうにでもなれと思った。今なら殺人鬼になるのも、悪くないと思った。
 ありったけの霊力を身体に循環させて、呪詛の浸食を食い止める。
 虚空の一点を睨みつけ―――そして不敵な笑みを浮かべながら、私はその一言を発した。
「―――
 巡らせた霊力を一気に放出し、自らを蝕む呪詛を弾き返す。
 ―――呪詛返し。文字通り、掛けられた呪詛をそのまま相手に返す術だ。
 途端、私を犯していた不浄な力が消失する。吐き気も頭痛も消え、私の身体は完全に自由となった。
「がはっ……はあ、はあ……」
 倒れ込むようにして私は地面に両手を付いた。何度も深く息を吸い込んで呼吸を整える。
 額に浮いていた汗がぽたぽたと乾いた地面に落ち、目の前に小さな染みを作った。
 ―――間一髪だった。あと少し対処が遅れていれば、私の命の方が危うかった。
 頭に上っていた血液が、すうと下に落ちていく。相手はどうなっただろうかと考えたが、どうでも良いことだと思ったので、私はすぐにその思考を放棄した。
 息を整え終えると、私はふらつく足を押さえながら立ち上がった。
 とにかく一度、小屋に戻ろうと思った。念のため、今のことは後で兄に伝えておいた方が良いだろう。
 しかし、私が足を一歩前に踏み出した、その時、
「――――――!」
 小屋の方から悲鳴を超えた叫び声が聞こえてきた。すぐに彼女のものだとわかった。
 何事かと思い、私は絡まりそうになる足を必死に動かしながら小屋へと急いだ。
 扉を開け、中に入ると、
「なっ―――⁉」
 飛び込んできた光景に、私は言葉を失った。
 部屋の中で彼女が仰向けになって倒れていたのだ。
「どうしたんですか⁉ 何があったんですか⁉」
 靴のまま中に入り、私は彼女の身体を抱きかかえて揺さぶった。
 だが、彼女からの反応はない。まさかと思い、私は恐る恐る彼女の口元に手を近づけてみた。
「…………ッ⁉」
 彼女は息をしていなかった。
 馬鹿な―――
 信じられなくて彼女の首元に指を当ててみたが―――脈はなかった。彼女の心臓は動いていなかった。
「そんな、どうして…………」
 私は唖然とした。
 訳がわからなかった。私が目を離したこの短時間の間に、一体彼女に何があったというのか―――
 ふと目を動かすと、床に置かれていた彼女の鞄が視界に映った。だが、その鞄から飛び出している物を認めて、私は目を瞠った。
 それは先週、彼女と隣町に出掛けた際に、私が彼女にプレゼントしたあの本だった。
 もしかして―――
 とんでもない可能性が脳裏をよぎってきた。
 ほぼ反射的に、私は机の上に視線を移した。そこには市松人形の容れられた、あの木箱が置いてあるはずだった。しかしそこには、箱はあるものの肝心の中身が見当たらなかった。
 慌てて辺りを見回すと、それは彼女の足元に無造作に転がっていた。こちらを責めるみたいな真っ黒な瞳と目が合った。
「――――――ッ!」
 その瞬間、私は全てを悟った。と同時に、自らの犯した取り返しのつかない失態に絶望した。
 まさか、さっきの呪詛は―――
 先刻、私を襲った呪詛の感覚が鮮明に蘇ってくる。
 あの呪詛は彼女によるもの―――?
 その結論に辿り着いた時、私はまさに谷底に突き落とされたような感覚に襲われた。
 そんな、なんで、どうして―――
 真っ黒な絶望が私を侵食していく。
 彼女が私を呪詛した? 呪った?
 ……いや、違う。彼女がそんなことをするわけがない。彼女は、きっとこの人形を助けようとしただけだ。本で得た知識を使って、あの人形を浄化しようとしただけ……。
 でも……私は、釘を刺したはず。危ないからと、危険すぎるからと、理由もしっかりと説明して彼女を説得した、はず。……それでも、彼女の好奇心を抑えられなかった? 私の説明が足りなかった? もっと強く、言い聞かせるべきだった?
 ……いや、今大切なのはそんなことではない。考えるべきはそこではない。今、捉えるべきは、目の前の、この現実。そう、現実、この……現実……。
 私は倒れた彼女を見る。
 どういう経緯があったのかはわからない。だが……
 彼女の、霊力が、人形を通して、暴走して……それで、たまたま近くにいた私にそれが降り注いで、それを―――私は―――
「―――ッ」
 突如、津波のような吐気が胃の奥から押し上げてきた。
 両手で口を抑えたが封じ込めることができず、私は胃の内容物を思い切り床にぶちまけた。
「ゲホッ、ゴホッ、ゴホッ……!」
 激しくせき込んだ。
 胃液が喉の奥をヂクヂクと焼いて痛い。だがその痛みが、これは夢ではないことを無慈悲に教えてくれていた。
 私の、せい……?
 ドクンッ、と心臓が跳ねた。
 私が、彼女を殺した……?
 視界の端から、白い闇がじわじわと浸食してくる。身体中から嫌な汗が噴き出し、身に纏っていたワンピースがじっとりと湿気を含んでいくのを肌で感じた。
 何故……どうして……?
 私が霊力の扱いを教えたから? 私があの人形を受け取ったから? 私があんないい加減な本をプレゼントしてしまったから―――? 
 巨大な後悔の塊が、まるで砂嵐のようになって私を呑み込んでいく。白い闇が世界を覆いつくし、私の平衡感覚を奪った。
 私は倒れ込むようにして、彼女の身体に覆い被さった。
「……いや……」
 蚊の鳴くように細い声が漏れた。
 だがその時、
「今の悲鳴はなんだ?」
 低くて太い声音が私の鼓膜を震わせた。途端、私の身体は凍り付いた。今この瞬間だけは、一番聞きたくない声だった。
 目だけを動かして小屋の入口を見る。兄がそこに立っていた。
 兄は蒼白となった私の顔を見ると眉をひそめたが、その視線はすぐに私の下の彼女へと移された。
「おい、そこにいるのは美鈴か? こんな所で何をしている。帰ったんじゃなかったのか?」
 兄が小屋の中に入ってくる。
「だ、だめですっ‼」
 身体は動かなかったので、私はありったけの声量で叫んだ。
 しかし、
「おい、どうしたんだ美鈴。美鈴っ!」
 彼女の様子がおかしいと気付いた兄は、私の身体を乱暴に押し退け彼女を抱きかかえた。
「おい! どうしたんだ! 返事しろっ!」
 彼女の身体を揺さぶりながら兄が叫ぶ。
 だが彼女からの反応はない。
「おい! 美鈴! 美鈴‼」
 どれだけ呼び掛けても、彼女の身体はピクリとも動かない。腕をだらりと床に落とし、彼女は静かに目を閉じていた。
 身体を揺らされた衝撃で、彼女の耳に付いていたイヤリングの片方が、ことりと地面に落下した。
「……どういう……ことだ……」
 しばらくして、兄がゆっくりと彼女の身体を地面に下ろした。
「……これは……どういうことだ……さよ」
 ゆらゆらと兄が立ち上がる。
 その背中から、真っ黒な陽炎のようなものが立ち昇っているように見えて、私はひっと短い悲鳴を上げた。
「答えろっ! さよっ‼」
 逃げる間もなく、兄が私の胸倉を掴み上げてきた。
 その力は凄まじく、私の身体は簡単に宙へと持ち上げられてしまった。
「ぐっ……あっ……」
「何故ここに美鈴がいる⁉ どうして息をしていない⁉ ここで一体何があった⁉」
 兄の怒声が耳を劈く。私は思わず目を瞑る。
 焼けるように熱い兄の吐息が、止めどなく顔面に吹きかかってきた。
 もう絶望に次ぐ絶望だ。頭の中はぐちゃぐちゃでとても現実を受け入れきれない。こんな嘘みたいな現実を受け入れてしまえば、私の心は間違いなく壊れてしまうと思った。
 ……だから、私は考えることを止めた。心を殺した。
 感情を殺してしまえば楽だ。傷つくことも絶望することもない。それに、事実を客観的に捉えることができる。
 そうだ。これは私の得意分野ではないか。何も恐れることはない。目を開けて、ここで起こったことをそのまま兄に説明すればいいのだ。
 私はすうと息を吐き出し、ゆっくりと目を開ける。
 凪のように落ち着いた心で、兄の視線を受け止める。
 ―――が、その瞬間、私はまさに息をするのも忘れた。私の浅ましい覚悟は、木端微塵に砕け散った。
 ―――兄が泣いていた。
 赤く血走った兄の両目からは、まるで決壊したダムのように大量の涙が溢れ出ていた。
 泣いている兄を見るのは初めてだった。兄は決して人前では涙を見せない人だった。学校でイジメられていた時も、親に毒殺されかけた時も、親に捨てられたと知った時も、兄は涙を見せなかった。そこにはきっと、兄なりのプライドがあったのだろう。
 そんな兄が今、私の目の前で泣いている。真っ直ぐに私を睨みつけて、涙を流している。
 それが何を意味するかは、流石の私にも理解できた。一生償うことのできない罪を、私は背負ってしまったのだ。
 私は何も言えなかった。言葉を発せなかった。何を言っても意味がないと思った。
「何とか言えよっ!」
 ぐわんと身体が揺らされ、私の背中は壁に叩きつけられた。
「かはっ……ゲホッ……」
 口の中に鉄の味が広がる。
「言え! ここで何があった⁉」
 哀しみと怒りで充血した兄の双眸が、眼前に迫っている。
 せめてもと、私は実に陳腐でありふれた謝罪の言葉を口にした。
「……ごめん……なさい……」
 言った瞬間に後悔した。やはり言わなければよかったと思った。
「ごめん、なさい……ごめん、なさい……」
 だがそれ以外に言葉が見つからなかった。
「ふざ……けるなっ!」
 兄の怒号が胸の奥に突き刺さる。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 私は深く項垂れながら、謝罪の言葉を繰り返す。壊れた機械のように、赦しを請い続ける。
 だが、
 ―――バチンッ!
 突如、左頬に鋭い痛みが走った。視界がぐらりと反転する。
 殴られたとわかった時には、私は床に仰向けに倒れていた。
 染みだらけの天井が見える。そう言えば、この小屋もそろそろ修理が必要だったなと、私はこの状況にはまるでふさわしくないことを考えた。
「ふざけるなよ……」
「…………」
「なんなんだよ、これ……」
「…………」
「なんなんだよこれはっ!」
 悲鳴のような叫び声が、小屋の中にこだました。
「嘘だ……嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ―――」
 ガリガリガリガリガリ―――
 ぼさぼさの頭を、兄が両手で掻き毟っていた。
「違う……こんなのは違う……違う違う違う違う違う……」
 うわ言のように繰り返しながら、兄は掴んでいた髪の毛を一気に引きちぎった。
「兄さん……」
 私はよろよろと立ち上がり、兄に手を伸ばす。
 が、
っ!」
 兄が言霊を放った。
 直後、私の身体は嘘みたいに後方へと吹っ飛び、背中を激しく壁に打ち付けた。骨が軋む音を身体全体で聞きながら、私は力なく床に倒れ落ちる。
「ぐっ……げほっ……」
 咳き込むと同時に、目の前に大量の血しぶきが舞った。
 意識が朦朧とし、視界が霞んでくる。
「兄……さん……」
 息をするのも苦しかったが、それでも私は兄に手を伸ばした。何故そんなことをしたのかは、自分でもよくわからない。
 ぎょろりと、薄闇の中で大きな目玉が動いた。
 怒りと絶望とに満ちた双眼が、射殺さんばかりの視線で私を睨みつけてくる。
「なんなんだ」
「……兄、さん……」
「なんなんだ、お前は……!」
「…………」
「失せろっ! 死んだような目ぇしやがってっ!」
「…………ッ」
 その瞬間、私の視界に亀裂が走った。世界が灰色に染まる。
 全ての血液が一瞬で無くなったみたいに、私の身体は芯から急速に冷たくなっていった。
 ……伸ばしていた手を、私は力なく地面に落とした。
 ……終わりだ。
 激しい音を立てて、私の中で何かが崩れ去っていく。これまで必死に積み上げてきたものが、一瞬のうちにして瓦解していく。
「……いやだ……」
 残りカスみたいな抵抗の言葉が、血の味と共に喉の奥から洩れた。
「いやだ……いやだぁ……」
 泣く権利などないはずなのに、私の目からは大量の涙が溢れ出てくる。
 楽しかった日々は壊れ、虚無の暗闇へと消えていった。どんなに後悔したとしても、それはもう取り戻すことはできない。
 開いた小屋の扉から、冷たい冷気が流れ込んできた。それは私の身体を包み込み、どうしようもなく孤独な気持ちにさせた。世界に一人、取り残されたような気分になった。
 ……気が付くと、兄の姿はなかった。彼女の身体も消えていた。
 外では雨が降り始めていた。針のように細い雨粒が連なり、乾いた地面に湿気を含ませていく。
 パラパラと雨粒の弾ける音だけが、がらんとした小屋の中に虚しく響いていた。


 そして、彼女の死から六日後の朝―――兄は私の前から姿を消した。
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