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四章
本当の罪
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それから俺は、彼女たちと一緒に朝食を食べた。
前の席には初音、左横にはみらいが座っている。
部屋には、彼女たちの笑い声が響いている。柔らかな朝陽と爽やかな風が部屋に流れ込んできて、俺たちを優しく包み込んでくる。
昨日も俺はこうしていたはずなのに、胸の奥がどうしようもなく熱くて、中々食が進まなかった。当たり前の日常にこんなにも幸せを感じたことが、これまでにあっただろうか。
「お兄ちゃん、あのね―――」
初音が満面の笑みを浮かべながら俺に話しかけてくる。
「ああ」
他愛もない彼女の話に、俺は優しく相槌を打つ。
時偶みらいがバカみたいなことを言って、俺と初音が同時に突っ込みを入れる。
当たり前の幸せ。どこにでも存在する日常の一コマ。
だけどそんな日常が、今の俺にとっては何よりも大切だ。こんな時間がずっと続けばいい。他には何もいらない。何も望まない。この日常が保証されるのならば、俺は命以外なら何でも投げ捨てよう。
……本当に、夢のような時間だった。
しかし、そんな夢の時間は、みらいの驚愕した声によって唐突に終わりを迎えた。
「うっそ、もうこんな時間! 早くしないと遅刻しちゃうよ!」
彼女の声で部屋の時計を見ると、一限の開始まであと十五分ほどしかなかった。確かに、これはやばい。
「ほらユウ君! いつまでもパジャマのままいないで、早く着替えてきてよ! 置いていくよ!」
台所に食器を運びながら、みらいが俺を急かしてくる。
「ああ、わかった」
俺は残りのトーストを無理やり口の奥に押し込むと、急いで二階へと駆け上がった。
部屋で制服に着替え、鞄を持ち、一階に下りると、彼女たちは既に玄関に下りて俺を待っているところだった。
「悪い、待たせたな」
今から走れば、まだぎりぎり間に合う。
俺とみらいだけならともかく、初音を遅刻させるわけにはいかなかった。
俺は靴を履こうと、玄関に置いてある自分の靴に足を突っ込もうとした。
「…………?」
だがどうしたことだろうか。
足が前に進まない。上がり框から下に下りることができない。
まるで見えない壁に阻まれているように、俺は靴を履くことができなかった。
「どうしたの?」
みらいが不思議そうに訊ねてくる。
「ああ、いや……何だろうな……見えない壁みたいなのがあって、そっちに行けないんだ」
自分でも頓珍漢なことを言っている自覚はあった。
しかしみらいは、そんな俺の言葉を聞くと、少し安心したようにほっと息を吐いた。
「よかった。ユウ君はまだ、こっち側には来れないみたいだね」
「……えっ?」
その意味がわからなくて、俺は彼女を見た。
そこにあったのはいつもと変わらない彼女の笑顔。だが、その表情はどこか哀しみの色に縁取られているように見えた。
「どういうことだよ? なんなんだよ、これ?」
「……ごめんね」
目尻に薄っすらと涙を浮かべながら、みらいが俺に謝ってきた。
俺は訳がわからなくて初音に視線を移す。しかし、彼女も何故か、ボロボロと大粒の涙を零しながら唇を噛み締めていた。
……それを認めた瞬間、俺は全てを悟った。
そうか……
やっぱり、ここは―――……
俺は、持っていた鞄を床に落とした。
この世界は―――……
絶望と悲しみが同時に込み上げてくる。
「ごめん……」
項垂れながら、俺は彼女たちに謝った。
「どうして、ユウ君が謝るの?」
みらいの声は、すでに涙声だった。
「さっきの、怖い夢の話の続きだ……」
「…………うん」
「その夢の中で、俺はお前たちを護れなかったんだ。お前たちが、死んでいくのを、ただ眺めていることしか、できなかった」
口が勝手に動いていた。
「…………」
「ずっと傍にいたのに、何も気づいてやることができなかった。辛い現実から目を背けて、忘れて、偽りの温かさに浸っていた」
彼女たちは黙って俺の話を聞いてくれている。
「全てを知ったときには手遅れだった。既に取り返しのつかない事態になっていた。どうすることも、できなかったんだ」
喉の奥が焼けるように熱い。泣く権利なんてないはずなのに、意志に反して俺の目からは涙が零れ落ちてくる。
「俺はずっと、どうしたらお前たちに赦してもらえるか考えてきた。毎日後悔して、悪夢にうなされて、どんな無様な醜態をさらせば、お前たちが満足してくれるか、それだけを考えて生きてきたんだ」
「…………」
「でも、どんなに考えてもわからなかった。何回悪夢を見ても、お前たちが喜んでいる顔は浮かんでこなかった。結局は全部、自分の自己満足みたいに思えて、余計に惨めになるだけだったんだ」
そこで俺は顔を上げる。
みらいは両目を真っ赤にし、初音は鼻をぐずぐずと言わせながら泣きじゃくっていた。
しかしそれでも、彼女たちは真っ直ぐに、俺を見てくれていた。
「教えてくれ」
そんな彼女たちの視線を受け止めながら、俺は乞うように訊ねた。
「どうしたらお前たちは、俺のことを赦してくれる? 俺はお前たちに、何をしてやればいい?」
「…………」
「…………」
しかし彼女たちは何も答えてくれない。悲痛な面持ちで顔を歪ませたまま、口を閉ざしている。
俺は彼女たちに手を伸ばそうとしたが、見えない障壁のせいでそれは叶わなかった。
「頼むよ。代わりに死ねと言うのならそうする。無様に殺されろと言うのならめった刺しにしてくれても構わない。だから―――」
そこで俺は床に膝を着き、彼女たちに向かって深々と頭を下げた。
「教えてくれ。俺に、ちゃんと罪を償わせてくれ」
憐れな訴えが、薄暗い廊下に余韻を残して消えていった。
情けないことこの上ない。
結局俺は、彼女たちに救いを求めてしまっている。
答えを得て、それを実行して、だから何だというのか。
そんなことに、何の意味も価値もない。それで俺の罪が消えるわけでもない。
やはり全ては、俺の自己満足。
都合の良い懺悔をしたいだけなのだ。
……しかし、それでも、本当に腹立たしいことに、今の俺にはこうすること以外に何も思いつかなかった。
……やがて、どれくらいした頃だろうか。
不意に頬に、ふわりと温かい感触があった。
顔を上げると、目を腫らしたみらいの顔が正面にあった。彼女は両手で、俺の顔を優しく包み込んでくれていた。
「立って、ユウ君」
彼女に促されるがまま、俺はゆっくりと立ち上がる。
俺の目を数秒見つめた後、彼女はにこり、と微笑んだ。
と、次の瞬間、
バチンッ―――!
乾いた音が廊下にこだました。
頬に痺れるような鈍い痛みを感じた時には、俺は床に尻もちをついて倒れていた。
状況に頭がついていかなくて、俺はぽかんと口を開けてみらいを見上げる。
彼女は息を荒くして、まるで俺と同じ痛みを感じているように顔を歪ませ、目からは大粒の涙をボロボロと零しながら、鋭い視線で俺を見下ろしていた。
「ばっかじゃないのっ!」
彼女の罵声が俺の鼓膜を貫いた。
一瞬、彼女の声か疑った。それほどまでにその言葉は鋭く、俺を非難する響きが含まれていた。
「どうしたら赦してくれるかだって⁉ そんなの、赦せるわけないじゃないっ!」
「…………ッ!」
「どうして気付いてくれなったの⁉ どうして全部忘れちゃったの⁉ なんで初音ちゃんを救ってあげられなかったのっ⁉」
彼女の悲痛な叫び声一つひとつが、鋭利なナイフのようになって、容赦なく俺の胸をえぐってくる。
真っ赤になった彼女の顔を見つめたまま、俺は息をすることも忘れた。
「ユウ君がもっとしっかりしてたら、こんなことにはならなかった! 初音ちゃんも死なずに済んだ! きっと今でも、三人仲良く一緒に暮らせてたんだよ!」
「…………」
「全部全部ユウ君が悪いっ! こんなことになったのは全部ユウ君のせいっ! 全部、ユウ君が悪いのっ! なのに……それなのに、簡単に赦してもらおうなんて考えないでっ!」
魂を吐き出すような絶叫だった。
ぜえぜえと苦しそうに、彼女は肩で息をしている。
「……ごめん」
俺の口から出たのはその言葉だった。
「謝らないで!」
しかしそんな陳腐な言葉は、彼女の叫びによって否定されてしまう。
俺はどうしたら良いかわからず、力なく項垂れた。
やはり俺は弱い。
「赦せない―――赦せないよ―――……」
頭上から、彼女の嗚咽混じりの声が降ってくる。初音のすすり泣く声が静かに落ちてくる。
熱した鉄を押し付けられるみたいに、胸のあたりが焼けるように痛んだ。彼女たちの怒りと哀しみが身体の芯にまで沁み込んできた。
「でも……そんなことは、もうどうでもいい……」
そこで、彼女の声色が少し低くなった。
俺は顔を上げる。
目を真っ赤に腫らしたみらいと視線がかち合った。
「私が本当に赦せないのは、ユウ君の、その中途半端な覚悟」
「……えっ?」
その言葉の真意を掴み切れず、俺は訊き返した。
「ユウ君は、結局何がしたいの? 私たちにどうしてほしいの?」
彼女が問いかけてくる。
「……俺は……」
「赦してほしいの? 怨んでほしいの? 生かされたいの? 死にたいの? 殺してほしいの?」
「…………」
俺は何も返せなかった。
「ほらね、何も答えられない。私が赦せないのは、そういうところだよ。ユウ君には覚悟がないの」
「覚悟……?」
彼女は無言で頷き、それからすうと息を吸い込んだ。
「死にたいならさっさと死ね。赦されたいのなら一生地面に頭を擦り付けていろ。半端な覚悟で私たちの気持ちを利用するな」
一息に言った。
彼女のものとは思えない汚い言葉遣いと、腹の奥にまで響いてくるような低い声だった。
背筋がぞくりとした。
しかし、その言葉はまさに本質を突いており、俺の胸に深々と突き刺さってきた。
「ユウ君はどうしたいの?」
そこで彼女は腰をかがめ、また両手で俺の頬を優しく包み込んできた。
今度は俺の知っている、彼女の柔らかな声音だった。
至近距離から彼女に見つめられ、俺は言葉に窮する。喉の奥にボールでも詰まってみたいに上手く声を発することができない。
「ユウ君は、どうしたいの」
もう一度、彼女が訊ねてきた。
少しだけ呼吸が楽になった。
「俺は―――……」
しかしそこでまた、俺は言葉を詰まらせてしまう。どうしてもその先が言えなかった。言いたくなかった。
だが、
「言って―――!」
彼女の切実な声と瞳が、そんな俺の詰まらない抵抗を木っ端微塵に打ち砕いた。
導かれ、流されるように、俺の喉から情けない声が漏れる。
「赦してほしい」
言った瞬間、心が少しだけ軽くなったような気がした。
「死にたくない。生きていたい」
言葉が溢れる。
「本当は、誰からも怨まれたくない。苦しみたくないんだ」
そう言う俺の声は震えていた。本当に、みっともないことこの上ない。
だが、これが俺の本心だ。嘘偽りのない本当の気持ちなのだ。
ここまで来て、俺はようやくそのことに気付くことができた。
「そう……」
みらいは静かに微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。
温もりが、頬から離れていく。
「よかった。そう言ってくれて。安心した。やっぱりユウ君は、まだこっちには来れないみたいだね」
「……ありがとう、お兄ちゃん」
みらいの横で、初音は依然泣きじゃくっていたが、その表情は安堵に満ちているようだった。
「それって……」
「ユウ君」
みらいが静かに俺の言葉を遮る。
彼女を見る。
俺と視線が合うと、みらいは、ほんの少しだけ躊躇する様子を見せた後に、柔らかな笑みを湛えた。
「もう、私たちの存在に縛られないで」
彼女が言った。
「えっ?」
「私たちに囚われないで。私たちを悪夢にしないで。私たちの存在を、呪いにしないで。顔を上げて前を見て、胸を張って生きていってね」
その声は静かで落ち着いたものだったが、彼女の痛切な想いが込められているようだった。
「約束だよ」
その瞬間、俺の身体は、まさに雷に打たれたように硬直した。自らの罪を、ようやく理解することができた瞬間だった。
「――――――ッ」
悲鳴にもならない嗚咽が、腹の底から湧き上がってきた。
俺は胸を拳で抑え付けながら蹲る。
そうか……俺の罪は―――
赦せなくて、悔しくて、腹立たしくて、幸せで―――自分がどういった感情なのかわからなかった。ただ、ずっと胸の内に居座っていた重たくて黒い何かは、綺麗さっぱりに粉砕されて無くなってしまったようだった。
……俺は、無意識の内に彼女たちの存在を呪いにしていたのか―――
不意に、頭頂部に柔らかくて気持ちの良い感触が広がった。彼女たちが優しく俺の頭を撫でてくれていた。
その温もりが堪らなく愛おしくて、俺は彼女たちの手を握りしめた。
過去に戻ってやり直せるならどれだけいいだろうか。あの心地よい日常を取り戻すことができたらどれだけ幸せだろうか。もしも神様という存在がいて、この願いを叶えてくれるのなら、俺は躊躇なくどんな代償だって支払える自信がある。
しかし、そんなことはできない。現実は甘くない。いい加減、俺は向き合わなければならない。本当の現実に―――
後悔も絶望も失意も憤りも、全部全部受け入れて、俺は前に進んでいかなければならない。それが俺の果たすべき責務であり、彼女たちに対する贖罪になる。彼女たちの存在を、呪いにしてはならない―――
泣いて、哭いて、叫んで、吐き出して―――もう外に出すものが何も無くなった頃、彼女たちの手が、ゆっくりと離れていった。
顔を上げた俺に、彼女たちは優しく微笑んだ。二人とも、もう泣いてはいなかった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
みらいはそう言うと、静かに初音の手を取った。
「バイバイ、お兄ちゃん」
初音が言った直後、
バンッ―――!
大きな音を立てて、玄関扉が勢いよく開いた。
その先の光景を見て、俺は目を見開いた。
扉の向こうには何もなかった。記憶の中にある門も、道路も、向かいの家も、全て消えて無くなっている。
ただただ真っ白な空間が、どこまでも広がっているだけだった。まさに〝無〟そのもの。
俺が言葉を失っていると、手を繋いだ彼女たちは俺に背を向け、ゆっくりとその白い空間に向かって歩き始めた。
「ま、待ってくれ!」
俺は反射的に呼び止めていた。
「あと少し……少しだけでいい! 俺の側にいてくれ!」
掠れた声を振り絞って、彼女たちに訴えた。
しかし、彼女たちは止まってくれない。振り返ってもくれない。二人の背中が、徐々に白い闇に呑まれていく。
「頼む! まだ行かないでくれ! 俺一人でどうしろと言うんだ……」
覚悟を決めたはずなのに、情けない声が漏れた。
枯れたはずの涙がまた込み上げてきた。
やはり俺は情けない。
できることならば俺もそちら側に行きたい。何も考えず、この不可視の壁をぶち破り、彼女たちといつまでも一緒に暮らしていきたい。
しかしそれは叶わない。他の誰が許しても、彼女たちが許してくれない。
俺は戻らなければならない。生きなければならない。生きて、この身を引き千切られるような胸の痛みと真正面から向き合わなければならない。
「ああああああああああ―――!」
嗚咽とも咆哮ともつかない叫び声が、喉の奥から放たれる。
頭が沸騰しそうに熱い。感情の制御が利かない。気を抜くと身体がバラバラになってしまいそうだ。
二人が俺から離れていく。彼女たちの背中が小さくなっていく。
耐えろ。歯を食いしばれ。目を逸らすな―――
俺は自分に強く言い聞かせる。俺はこの光景を目の奥に焼き付けておかなければならない。これから生きていくために―――
やがて、二人の姿が完全に見えなくなろうとした時、
ほんの一瞬だけ、彼女たちが立ち止まり、こちらを振り返ってくれた。
その表情はまさに幸せの色に満たされており、一点の曇りもないようだった。
キイィィィ―――……パタン。
静かに扉が閉められる。
俺は独り、薄暗い廊下に取り残された。
途端に、どうしようもない孤独感が津波のように襲い掛かってきて、俺はそのまま意識を失った。
前の席には初音、左横にはみらいが座っている。
部屋には、彼女たちの笑い声が響いている。柔らかな朝陽と爽やかな風が部屋に流れ込んできて、俺たちを優しく包み込んでくる。
昨日も俺はこうしていたはずなのに、胸の奥がどうしようもなく熱くて、中々食が進まなかった。当たり前の日常にこんなにも幸せを感じたことが、これまでにあっただろうか。
「お兄ちゃん、あのね―――」
初音が満面の笑みを浮かべながら俺に話しかけてくる。
「ああ」
他愛もない彼女の話に、俺は優しく相槌を打つ。
時偶みらいがバカみたいなことを言って、俺と初音が同時に突っ込みを入れる。
当たり前の幸せ。どこにでも存在する日常の一コマ。
だけどそんな日常が、今の俺にとっては何よりも大切だ。こんな時間がずっと続けばいい。他には何もいらない。何も望まない。この日常が保証されるのならば、俺は命以外なら何でも投げ捨てよう。
……本当に、夢のような時間だった。
しかし、そんな夢の時間は、みらいの驚愕した声によって唐突に終わりを迎えた。
「うっそ、もうこんな時間! 早くしないと遅刻しちゃうよ!」
彼女の声で部屋の時計を見ると、一限の開始まであと十五分ほどしかなかった。確かに、これはやばい。
「ほらユウ君! いつまでもパジャマのままいないで、早く着替えてきてよ! 置いていくよ!」
台所に食器を運びながら、みらいが俺を急かしてくる。
「ああ、わかった」
俺は残りのトーストを無理やり口の奥に押し込むと、急いで二階へと駆け上がった。
部屋で制服に着替え、鞄を持ち、一階に下りると、彼女たちは既に玄関に下りて俺を待っているところだった。
「悪い、待たせたな」
今から走れば、まだぎりぎり間に合う。
俺とみらいだけならともかく、初音を遅刻させるわけにはいかなかった。
俺は靴を履こうと、玄関に置いてある自分の靴に足を突っ込もうとした。
「…………?」
だがどうしたことだろうか。
足が前に進まない。上がり框から下に下りることができない。
まるで見えない壁に阻まれているように、俺は靴を履くことができなかった。
「どうしたの?」
みらいが不思議そうに訊ねてくる。
「ああ、いや……何だろうな……見えない壁みたいなのがあって、そっちに行けないんだ」
自分でも頓珍漢なことを言っている自覚はあった。
しかしみらいは、そんな俺の言葉を聞くと、少し安心したようにほっと息を吐いた。
「よかった。ユウ君はまだ、こっち側には来れないみたいだね」
「……えっ?」
その意味がわからなくて、俺は彼女を見た。
そこにあったのはいつもと変わらない彼女の笑顔。だが、その表情はどこか哀しみの色に縁取られているように見えた。
「どういうことだよ? なんなんだよ、これ?」
「……ごめんね」
目尻に薄っすらと涙を浮かべながら、みらいが俺に謝ってきた。
俺は訳がわからなくて初音に視線を移す。しかし、彼女も何故か、ボロボロと大粒の涙を零しながら唇を噛み締めていた。
……それを認めた瞬間、俺は全てを悟った。
そうか……
やっぱり、ここは―――……
俺は、持っていた鞄を床に落とした。
この世界は―――……
絶望と悲しみが同時に込み上げてくる。
「ごめん……」
項垂れながら、俺は彼女たちに謝った。
「どうして、ユウ君が謝るの?」
みらいの声は、すでに涙声だった。
「さっきの、怖い夢の話の続きだ……」
「…………うん」
「その夢の中で、俺はお前たちを護れなかったんだ。お前たちが、死んでいくのを、ただ眺めていることしか、できなかった」
口が勝手に動いていた。
「…………」
「ずっと傍にいたのに、何も気づいてやることができなかった。辛い現実から目を背けて、忘れて、偽りの温かさに浸っていた」
彼女たちは黙って俺の話を聞いてくれている。
「全てを知ったときには手遅れだった。既に取り返しのつかない事態になっていた。どうすることも、できなかったんだ」
喉の奥が焼けるように熱い。泣く権利なんてないはずなのに、意志に反して俺の目からは涙が零れ落ちてくる。
「俺はずっと、どうしたらお前たちに赦してもらえるか考えてきた。毎日後悔して、悪夢にうなされて、どんな無様な醜態をさらせば、お前たちが満足してくれるか、それだけを考えて生きてきたんだ」
「…………」
「でも、どんなに考えてもわからなかった。何回悪夢を見ても、お前たちが喜んでいる顔は浮かんでこなかった。結局は全部、自分の自己満足みたいに思えて、余計に惨めになるだけだったんだ」
そこで俺は顔を上げる。
みらいは両目を真っ赤にし、初音は鼻をぐずぐずと言わせながら泣きじゃくっていた。
しかしそれでも、彼女たちは真っ直ぐに、俺を見てくれていた。
「教えてくれ」
そんな彼女たちの視線を受け止めながら、俺は乞うように訊ねた。
「どうしたらお前たちは、俺のことを赦してくれる? 俺はお前たちに、何をしてやればいい?」
「…………」
「…………」
しかし彼女たちは何も答えてくれない。悲痛な面持ちで顔を歪ませたまま、口を閉ざしている。
俺は彼女たちに手を伸ばそうとしたが、見えない障壁のせいでそれは叶わなかった。
「頼むよ。代わりに死ねと言うのならそうする。無様に殺されろと言うのならめった刺しにしてくれても構わない。だから―――」
そこで俺は床に膝を着き、彼女たちに向かって深々と頭を下げた。
「教えてくれ。俺に、ちゃんと罪を償わせてくれ」
憐れな訴えが、薄暗い廊下に余韻を残して消えていった。
情けないことこの上ない。
結局俺は、彼女たちに救いを求めてしまっている。
答えを得て、それを実行して、だから何だというのか。
そんなことに、何の意味も価値もない。それで俺の罪が消えるわけでもない。
やはり全ては、俺の自己満足。
都合の良い懺悔をしたいだけなのだ。
……しかし、それでも、本当に腹立たしいことに、今の俺にはこうすること以外に何も思いつかなかった。
……やがて、どれくらいした頃だろうか。
不意に頬に、ふわりと温かい感触があった。
顔を上げると、目を腫らしたみらいの顔が正面にあった。彼女は両手で、俺の顔を優しく包み込んでくれていた。
「立って、ユウ君」
彼女に促されるがまま、俺はゆっくりと立ち上がる。
俺の目を数秒見つめた後、彼女はにこり、と微笑んだ。
と、次の瞬間、
バチンッ―――!
乾いた音が廊下にこだました。
頬に痺れるような鈍い痛みを感じた時には、俺は床に尻もちをついて倒れていた。
状況に頭がついていかなくて、俺はぽかんと口を開けてみらいを見上げる。
彼女は息を荒くして、まるで俺と同じ痛みを感じているように顔を歪ませ、目からは大粒の涙をボロボロと零しながら、鋭い視線で俺を見下ろしていた。
「ばっかじゃないのっ!」
彼女の罵声が俺の鼓膜を貫いた。
一瞬、彼女の声か疑った。それほどまでにその言葉は鋭く、俺を非難する響きが含まれていた。
「どうしたら赦してくれるかだって⁉ そんなの、赦せるわけないじゃないっ!」
「…………ッ!」
「どうして気付いてくれなったの⁉ どうして全部忘れちゃったの⁉ なんで初音ちゃんを救ってあげられなかったのっ⁉」
彼女の悲痛な叫び声一つひとつが、鋭利なナイフのようになって、容赦なく俺の胸をえぐってくる。
真っ赤になった彼女の顔を見つめたまま、俺は息をすることも忘れた。
「ユウ君がもっとしっかりしてたら、こんなことにはならなかった! 初音ちゃんも死なずに済んだ! きっと今でも、三人仲良く一緒に暮らせてたんだよ!」
「…………」
「全部全部ユウ君が悪いっ! こんなことになったのは全部ユウ君のせいっ! 全部、ユウ君が悪いのっ! なのに……それなのに、簡単に赦してもらおうなんて考えないでっ!」
魂を吐き出すような絶叫だった。
ぜえぜえと苦しそうに、彼女は肩で息をしている。
「……ごめん」
俺の口から出たのはその言葉だった。
「謝らないで!」
しかしそんな陳腐な言葉は、彼女の叫びによって否定されてしまう。
俺はどうしたら良いかわからず、力なく項垂れた。
やはり俺は弱い。
「赦せない―――赦せないよ―――……」
頭上から、彼女の嗚咽混じりの声が降ってくる。初音のすすり泣く声が静かに落ちてくる。
熱した鉄を押し付けられるみたいに、胸のあたりが焼けるように痛んだ。彼女たちの怒りと哀しみが身体の芯にまで沁み込んできた。
「でも……そんなことは、もうどうでもいい……」
そこで、彼女の声色が少し低くなった。
俺は顔を上げる。
目を真っ赤に腫らしたみらいと視線がかち合った。
「私が本当に赦せないのは、ユウ君の、その中途半端な覚悟」
「……えっ?」
その言葉の真意を掴み切れず、俺は訊き返した。
「ユウ君は、結局何がしたいの? 私たちにどうしてほしいの?」
彼女が問いかけてくる。
「……俺は……」
「赦してほしいの? 怨んでほしいの? 生かされたいの? 死にたいの? 殺してほしいの?」
「…………」
俺は何も返せなかった。
「ほらね、何も答えられない。私が赦せないのは、そういうところだよ。ユウ君には覚悟がないの」
「覚悟……?」
彼女は無言で頷き、それからすうと息を吸い込んだ。
「死にたいならさっさと死ね。赦されたいのなら一生地面に頭を擦り付けていろ。半端な覚悟で私たちの気持ちを利用するな」
一息に言った。
彼女のものとは思えない汚い言葉遣いと、腹の奥にまで響いてくるような低い声だった。
背筋がぞくりとした。
しかし、その言葉はまさに本質を突いており、俺の胸に深々と突き刺さってきた。
「ユウ君はどうしたいの?」
そこで彼女は腰をかがめ、また両手で俺の頬を優しく包み込んできた。
今度は俺の知っている、彼女の柔らかな声音だった。
至近距離から彼女に見つめられ、俺は言葉に窮する。喉の奥にボールでも詰まってみたいに上手く声を発することができない。
「ユウ君は、どうしたいの」
もう一度、彼女が訊ねてきた。
少しだけ呼吸が楽になった。
「俺は―――……」
しかしそこでまた、俺は言葉を詰まらせてしまう。どうしてもその先が言えなかった。言いたくなかった。
だが、
「言って―――!」
彼女の切実な声と瞳が、そんな俺の詰まらない抵抗を木っ端微塵に打ち砕いた。
導かれ、流されるように、俺の喉から情けない声が漏れる。
「赦してほしい」
言った瞬間、心が少しだけ軽くなったような気がした。
「死にたくない。生きていたい」
言葉が溢れる。
「本当は、誰からも怨まれたくない。苦しみたくないんだ」
そう言う俺の声は震えていた。本当に、みっともないことこの上ない。
だが、これが俺の本心だ。嘘偽りのない本当の気持ちなのだ。
ここまで来て、俺はようやくそのことに気付くことができた。
「そう……」
みらいは静かに微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。
温もりが、頬から離れていく。
「よかった。そう言ってくれて。安心した。やっぱりユウ君は、まだこっちには来れないみたいだね」
「……ありがとう、お兄ちゃん」
みらいの横で、初音は依然泣きじゃくっていたが、その表情は安堵に満ちているようだった。
「それって……」
「ユウ君」
みらいが静かに俺の言葉を遮る。
彼女を見る。
俺と視線が合うと、みらいは、ほんの少しだけ躊躇する様子を見せた後に、柔らかな笑みを湛えた。
「もう、私たちの存在に縛られないで」
彼女が言った。
「えっ?」
「私たちに囚われないで。私たちを悪夢にしないで。私たちの存在を、呪いにしないで。顔を上げて前を見て、胸を張って生きていってね」
その声は静かで落ち着いたものだったが、彼女の痛切な想いが込められているようだった。
「約束だよ」
その瞬間、俺の身体は、まさに雷に打たれたように硬直した。自らの罪を、ようやく理解することができた瞬間だった。
「――――――ッ」
悲鳴にもならない嗚咽が、腹の底から湧き上がってきた。
俺は胸を拳で抑え付けながら蹲る。
そうか……俺の罪は―――
赦せなくて、悔しくて、腹立たしくて、幸せで―――自分がどういった感情なのかわからなかった。ただ、ずっと胸の内に居座っていた重たくて黒い何かは、綺麗さっぱりに粉砕されて無くなってしまったようだった。
……俺は、無意識の内に彼女たちの存在を呪いにしていたのか―――
不意に、頭頂部に柔らかくて気持ちの良い感触が広がった。彼女たちが優しく俺の頭を撫でてくれていた。
その温もりが堪らなく愛おしくて、俺は彼女たちの手を握りしめた。
過去に戻ってやり直せるならどれだけいいだろうか。あの心地よい日常を取り戻すことができたらどれだけ幸せだろうか。もしも神様という存在がいて、この願いを叶えてくれるのなら、俺は躊躇なくどんな代償だって支払える自信がある。
しかし、そんなことはできない。現実は甘くない。いい加減、俺は向き合わなければならない。本当の現実に―――
後悔も絶望も失意も憤りも、全部全部受け入れて、俺は前に進んでいかなければならない。それが俺の果たすべき責務であり、彼女たちに対する贖罪になる。彼女たちの存在を、呪いにしてはならない―――
泣いて、哭いて、叫んで、吐き出して―――もう外に出すものが何も無くなった頃、彼女たちの手が、ゆっくりと離れていった。
顔を上げた俺に、彼女たちは優しく微笑んだ。二人とも、もう泣いてはいなかった。
「じゃあ、そろそろ行くね」
みらいはそう言うと、静かに初音の手を取った。
「バイバイ、お兄ちゃん」
初音が言った直後、
バンッ―――!
大きな音を立てて、玄関扉が勢いよく開いた。
その先の光景を見て、俺は目を見開いた。
扉の向こうには何もなかった。記憶の中にある門も、道路も、向かいの家も、全て消えて無くなっている。
ただただ真っ白な空間が、どこまでも広がっているだけだった。まさに〝無〟そのもの。
俺が言葉を失っていると、手を繋いだ彼女たちは俺に背を向け、ゆっくりとその白い空間に向かって歩き始めた。
「ま、待ってくれ!」
俺は反射的に呼び止めていた。
「あと少し……少しだけでいい! 俺の側にいてくれ!」
掠れた声を振り絞って、彼女たちに訴えた。
しかし、彼女たちは止まってくれない。振り返ってもくれない。二人の背中が、徐々に白い闇に呑まれていく。
「頼む! まだ行かないでくれ! 俺一人でどうしろと言うんだ……」
覚悟を決めたはずなのに、情けない声が漏れた。
枯れたはずの涙がまた込み上げてきた。
やはり俺は情けない。
できることならば俺もそちら側に行きたい。何も考えず、この不可視の壁をぶち破り、彼女たちといつまでも一緒に暮らしていきたい。
しかしそれは叶わない。他の誰が許しても、彼女たちが許してくれない。
俺は戻らなければならない。生きなければならない。生きて、この身を引き千切られるような胸の痛みと真正面から向き合わなければならない。
「ああああああああああ―――!」
嗚咽とも咆哮ともつかない叫び声が、喉の奥から放たれる。
頭が沸騰しそうに熱い。感情の制御が利かない。気を抜くと身体がバラバラになってしまいそうだ。
二人が俺から離れていく。彼女たちの背中が小さくなっていく。
耐えろ。歯を食いしばれ。目を逸らすな―――
俺は自分に強く言い聞かせる。俺はこの光景を目の奥に焼き付けておかなければならない。これから生きていくために―――
やがて、二人の姿が完全に見えなくなろうとした時、
ほんの一瞬だけ、彼女たちが立ち止まり、こちらを振り返ってくれた。
その表情はまさに幸せの色に満たされており、一点の曇りもないようだった。
キイィィィ―――……パタン。
静かに扉が閉められる。
俺は独り、薄暗い廊下に取り残された。
途端に、どうしようもない孤独感が津波のように襲い掛かってきて、俺はそのまま意識を失った。
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