牧瀬くんは猫なので【完結】

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【第三章】

30.サーモンアボカドサンド

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大きなベッドの枕と枕の間に沈んで布団を被って丸くなっていた僕を、吉良くんが見つけた。
 あの日から4ヶ月ほど経って、僕と吉良くんはとても仲良くなった。
 僕は週の半分くらい、こうして吉良くんの家で寝泊まりするようになっていた。もちろん、牧瀬家にも許可をもらっている。パートナー候補と親交を深めるための行動で、事前に許可さえとっていれば、牧瀬家はけっこう寛容だ。

「おい、いい加減起きろ」

夏が終わって、秋に入ると気温がゆっくり下がっていく。吉良くんの家は基本的に快適な温度だけど、僕は温かくて、吉良くんの匂いがする布団を頭まですっぽりかぶると、気持ち良過ぎてなかなか起きることができないのだ。
 吉良くんは布団越しに僕の上に跨るように膝をつくと、枕を掻き分け、ガバリと僕の布団を巡った。
 眩しいのと体を包んでいた温もりを失ったのとで、僕はギュッと瞼と眉をよせて、吉良くんに奪われた布団の端を引っ張った。

「こらこら、また寝ようとすんな。間に合わなくなるぞ」

吉良くんは僕の両手を掴んで引いた。上半身だけ無理やり起こされた僕はそのまま流れるように吉良くんの胸元にパタリと額を擦り付ける。吉良くんの匂いがして最高だ。
 僕は背中に手を回してギュウとしがみつき、そしてまた目を……

「アホ、寝るなって!朝飯いつものとこでサンドウィッチ買ってやるから」

「……サーモンの……やつ……?」

「おう、ホットココアも付けてやる」

「……起きる」

吉良くんのマンションの道路を挟んで向こう側のビルの一階に朝早くからやってるパン屋がある。そこにあるサーモンアボカドサンドは僕の好物だ。
 吉良くんはのそのそ身支度する僕の横で、いそいそと荷物を揃えて準備をしている。
 時々玄関から外に出てそれを運び出している。車に荷物を移しているのだ。
 急かされるようにして、僕はマンションの地下駐車場の吉良くんの車の助手席に収まった。
後部座席は空いているけど、そのもう一つ後ろには荷物がぎゅうぎゅうに詰まっている。
 しばらく待つと、吉良くんが紙袋を持って運転席に乗り込んだ。紙袋には向かいのパン屋の店名が入っている。渡された袋は温かくて、僕は中から、ホットココアとコーヒーの入った紙コップを取り出して、二人の間のドリンクホルダーに収めた。袋にはちゃんとリクエストしたサーモンアボカドサンドとおまけのスコーンが入っている。
 コーヒーとココアと小麦粉の匂いで、僕の胸は高揚した。
 車の中でこの匂いがする朝は、だいたい楽しいことがある日の朝だ。
 僕たちはこれから、サークルの合宿にいく。
合宿というのは、前に吉良くんが教えてくれた、天然の岩を登ったり、バーベキューで肉を焼いたりする遊びだ。

僕は窓の外に流れる早朝の街並みと、吉良くんの飲むコーヒーの匂いを嗅ぎながら、サーモンとアボカドの挟まったサンドウィッチを齧った。
 少し走って駅の近くに車を停めると、大きい荷物を背負った莉央と河本がやって来た。二人も一緒にこの車でキャンプ場に向かう。
 もう絶対入らないと思っていたけど、吉良くんは一度車を降りて、荷台に無理やり二人の荷物を詰め込んだ。なんとか収まっているようだ。
 二人が後部座席に乗ると、背中が一気に楽しくなった。走る車で僕は何度も振り返る。
 吉良くんは途中で莉央に「朝からテンションが高ぇ」と文句を言っていたが、それでもサングラスの奥の目は笑っていた。
 
 都心の風景が途絶え、しばらく長いコンクリートの道が終わると、少しずつ景色に木々が増えていった。滑らかだった路面が、未舗装の道に変化したことが車の振動で感じ取れる。
 道下に川が見えたところで、吉良くんがこちら側の窓を開けてくれた。
飛び込んでくる空気に紛れて湿った葉と土と水の匂いがする。
 車を停めてキャンプ場内に荷物を運ぶと、すでに到着していたらしい見知ったサークルメンバーの顔があった。
 テントの設営だけを済ませると、クライミング組とハイキング組はそれぞれ身支度をした。
 残るメンバーでバーベキューやもろもろの準備をしておいてくれるそうだ。申し訳なくも思ったが、「あいつらは先に酒が飲みたいだけだから大丈夫」という吉良くんの言葉を信じて、僕はクライミング組に混ざらせてもらった。
 キャンプ場の脇には清流が流れてそこから少し冷たい風が時折心地よく流れてきた。その脇を通って進むと、山に入る道がある。
 ハイキングコースに沿って少しズレたところに、数カ所のクライミングスポットがあるようだった。
 ジムではカラフルなホールドを追って掴めば良いが、天然の岩場では自分でそれを見定めなければいけない。
 とはいえ、今回の場所は初心者でもそこそこ気軽に楽しめる程度のグーレドということもあり、なんとなくそれらしき窪みを壁面に見つけるのは容易だということだ。
 身一つで登る程度の高さのものもあったけど、今回僕は吉良くんや河本、莉央と一緒に2人1組で行うトップロープクライミングをする予定だ。
 これはゴール地点にあらかじめ掛けられているロープを介して、クライマーとビレイヤーという補助役に別れて登る方法だ。
ゴール地点を頂点として、井戸の水を組むみたいに、クライマーとビレイヤーをロープで繋ぎ、ビレイヤーはそのロープを維持することでクライマーの転落を防ぐ安全確保の役割がある。比較的安全で初心者でも挑戦しやすい方法らしい。
 4人の中で、僕と莉央が初心者で、吉良くんと河本は経験者だった。

「じゃ、とりあえず。俺と河本でやってみせるから」

吉良くんが腰に付けたたくさんの装備を確認しながらそう言った。
クライマーよりもビレイヤーの方が安全確保という役割のためか、重要性が高いらしい。今日は経験者の2人がその役割を交互にやってくれるそうだ。

「万が一落下してきた時に衝突するから、クライマーの真下には入らない。あとは重さで引っ張られて岩壁に激突する場合もあるから、ビレイヤーは必ず岩壁に沿って待機すること」

 僕は近ごろかなり言葉を覚えていて、河本がしてくれた説明のほとんどを理解することができた。初心者だというのに10mほどの岩壁に連れてこられた僕と莉央は若干緊張しながらも、彼の説明を聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けていた。

 クライマーが河本でビレイヤーが吉良くんだ。
お互いにロープやデバイスの装着を確認し合うと、河本が岩壁の麓の窪みに手足をかけた。
 行くよと声をかけた河本に吉良くんが答える。
ルートのわかりやすい初心者向けのポイントということもあってか、経験者の河本は比較的すんなりと中間地点の大きなへこみのあたりまで到達した。
 河本が声をかけると、吉良くんがロープを張った。窪みに足をかけて少し休んでいるようだ。
 再開した河本は、ゴール地点まで到達すると余裕の合図をこちらに向けた。吉良くんにロープを調整してもらいながら、ゆっくりと地上に戻ってくる。

「まあ、こんな感じですよ」

 少し得意げな河本に、莉央が「やるじゃん」などと声を掛けている。

 次に少し休んで、莉央がクライマーをやることになった。ビレイヤーを河本がやる。
 僕と吉良くんは少し離れた位置で少しずつ岩壁を登る莉央を応援した。
 彼女は女性の中では小柄な方ではないものの、やはり手足のリーチや筋力の差なのか、かなり苦戦をしているようだった。
 途中で河本が声をかけてロープを張りサポートしている。中間地点でギブアップのサインがあり、莉央がゆっくり地上に戻ってきた。

「何これー!見てるぶんには登れる気がするのに、実際やるとしんどいわ!」

 少し悔しそうな莉央に、最初はそんなもんだと珍しく吉良くんが声を掛けていた。

「おまえ、さっきからなんか静かだけど緊張でもしてるの?」

吉良くんに問われ、僕は頷いた。

「少し。でも楽しそう」

 前にも話したが壁登りは得意だ。吉良くんや河本にもセンスがあると誉められる。
 あの岩のゴール地点はもしかしたら山の木々の向こうを見渡せるかもしれない。左の方向は多分さっき通ったキャンプ場や清流がある。自分でこの岩壁を登って高いところからそれらを見てみたい。
 高揚して肋の下あたりが疼いていた。
 吉良くんは僕の言葉を聞くと、躊躇いなくその手を引いた。彼が僕のビレイヤーをしてくれるらしい。

「吉良ってけっこう、甘々ベタベタタイプだよね」

 僕らの繋いだ手をみて、からかうように莉央が言うと、「まあな」と吉良くんが応える。
 僕らは岩壁の前に立つと、さっきの莉央たちと同様に基本に忠実にお互いの装備を確認しあった。

「吉良くん。ゴールしたら、上で景色見たいから、ちょっとロープ張ってて欲しい」

「お、ゴールする気満々か。了解」

 おでこに軽く唇を当てられる。
それを見た莉央がまた「ひゃー」と変な声をあげているが、吉良くんはニヤリと笑って配置についた。
 莉央と河本しかいない時は、吉良くんはこんな感じであまり遠慮をしない。
 手をかけて合図をしてから、僕はゆっくりと登り始めた。
 少し登った時点ですでに屋内のジムとは違う解放感があった。遠くで鳥の囀りや、木々の葉が擦れる音が鳴り、吸い込む空気も胸の奥をすっとさせた。
 高さは怖くはなかったが、下を見るとバランスが保てなくなりそうだったので、僕は次の窪みを常に目で追った。
 まだ先のゴール地点を見上げると、岩壁の向こうに広がる秋の空は高く、雲の配置が絶妙に綺麗だった。
今のこの自分の視界をカメラに収めたい、スマホを持っていれば良かったと思ったが、それはもともと無理な話だ。
 なんとか中間地点の大きな窪みに足をかけて、吉良くんに合図をすると、彼がロープを張ってくれた。
 息を整えながら横を見ると、先ほどよりも目線が高い。まだ向こう側までは見えないが、あと数メートル登れば、さらに視界が開けそうだ。
 大丈夫か、と下から声をかけられて、そこで初めて地面を見下ろした。下から見上げていた時よりも高さを感じるが恐怖まではいかない。それはもしかしたら僕が猫だからなのかもしれない。
 僕ら猫は自分の体高の10倍程度までなら、怪我なく着地できるのだ。
僕は吉良くんに大丈夫と合図を返した。クライミングを再開すると示すように次の窪みに手をかける。
 このあとさっき少し河本も苦戦していた箇所に到達する。飛び移るほどではないが、次の窪みまで片足でバランスをとりながら腕を伸ばさないといけない場所だ。
 動きやすいように、吉良くんがロープを調整してくれている。僕はさっき河本の体制を思い出しながら左足だけを窪みに残して、左手で岩壁を引き寄せながら、右手を伸ばす。 
 持ち前のリーチのおかげで容易く手が届いた。
 このポイントのあとはそう難しくない。ゴールがもう直ぐだ。
 しかし、そのことで油断してしまったのか踏み込んだ左足を窪みから踏み外した。
 急に足元の支えがなくなり、僕は焦ってしまった。 
 右手は次の窪みを掴んでいたし、何よりビレイヤーの吉良くんが踏み外した僕の様子をみてすかさずロープを張ってくれた。
 だから冷静になれば落ちることなんて絶対になかったのだ。


 だけど、僕は落ちてしまった。

 こともあろうに、一瞬動揺して身を守るために元の姿に変化してしまったのだ。

 体はハーネスをすり抜けて、背中が地面を向いた。その瞬間はスローモーションだった。
 視界に広がる空が、とてつもなく綺麗だ。だが、そんな悠長にしていられない。体制を立て直さないと、うまく着地できない。なんとか体を反転させたが、地面が遠い。

 そうだ、人間の体長ではなく、猫になってしまった今の体からするとこの場所は高すぎる。目を瞑る間もなく、纏っていた衣服が視界を阻んだ。
 体に衝撃があった。しかしそれは地面に激突したものではない。多少の痛みはあったが想像より柔らかかった。
 一緒に落ちた衣服の隙間を縫って、恐る恐る様子を伺うと僕を抱き留めてくれたらしい吉良くんと目が合った。

これは、めちゃくちゃまずい。

「うそ!大丈夫?!」

 莉央の声がする。吉良くんは咄嗟に隠すように僕の小さな体を衣服で包んで岩壁を向いた。

「来んな。大丈夫」

「え、でも」

「一応、救護室連れて行くから」

 衣服で包まれ、視界には何もなかったが、かちゃかちゃと吉良くんが装備を外している音がする。
 それにしても、ちょっと無理があると思う。
莉央たちがいた位置からみても、吉良くんに抱き抱えられた僕の様子は相当な違和感があるはずだ。
 だけど吉良くんはそれ以上、莉央や河本に何も追求させないように、僕を抱き抱えたまま、ほとんど走るようにその場を去った。
 どう考えても、おかしい。莉央たちから見たら成人男性を抱えてこんな足場の悪いところを走っているわけだ。

 吉良くん、変な嘘吐かせてごめん。

 
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