おやすみ、玲玲

teo@4/30書籍販売(リンクス〜

文字の大きさ
3 / 12

2-1.

しおりを挟む
◇李景宵(り けいしょう)◇




皇帝の弟である李景宵の執務室は、離宮の中でもひときわ静かな位置に設えられている。
南向きの高窓からは、初春のやわらかな日差しが差し込み、薄絹の簾を透かして床に淡い影を落としていた。
開け放たれた窓の向こうでは、庭の木々を渡る風が若葉を揺らし、どこかで小鳥が朗らかに囀っている。白梅の名残と、新しく芽吹いた草の匂いが、微かに室内へ流れ込んできた。

――穏やかな昼だ。

少なくとも、外の気配だけを切り取れば、そう言えただろう。

景宵は几案に向かい、積み上げられた案牘に視線を落としていた。
地方官からの訴状、内廷の調停案件、礼制の齟齬に関する報告。どれも急を要するものではないが、後回しにすれば必ず尾を引く、厄介な類いの文書ばかりだ。利害が絡み、誰かが必ず不満を抱く。正解はなく、ただ規則に照らして最も波風の立たない落とし所を探る作業が続く。

文字を追うごとに、目の奥がじわりと重くなる。
昨夜、まともに眠れていないことを、今さらのように思い出した。

(――集中しろ)

そう自分に言い聞かせ、景宵は案牘を一枚めくる。だが、行を追う視線がわずかに揺れ、次の瞬間、瞼が落ちかけた。

その気配を逃さず、控えていた沈周安(しん じゅうあん)が静かに声をかけてくる。

「殿下」

その声に、景宵は小さく息を吐き、視線だけを上げる。

「……何だ」

「お疲れでしたら、少し仮眠をお取りになってはいかがでしょうか。文書は逃げません」

周安は、几案の脇に立ったまま、感情を滲ませない表情でそう言った。進言というより、事実を淡々と述べるような口調だ。

「……そうだな」

そう応じはしたものの、景宵はすぐには身を動かさなかった。
眠気は、確かにある。
文字を追い続けたせいで思考は鈍り、こめかみの奥がじくじくと重い。

だが、それだけだ。

横になったところで、眠れるわけではない。
瞼を閉じれば、意識だけが冴え、呼吸の音と時の流れを数えることになる。
それを休息と呼べないことを、景宵は嫌というほど知っていた。

机の隅に置かれた、小さな長方形の蓋付きの箱へと視線が向く。
指先でそっと撫でると、乾いた感触が伝わってきた。

ほんのひと月前まで、夜は、違った。

胸の奥に、鈍い痛みが走る。
温もりを思い出すたび、無意識に眉が寄った。

そのわずかな変化を見逃さなかったのだろう。
周安が、いつもより抑えた声音で言った。

「差し出がましいこととは承知しておりますが……
ひとつ、ご進言してもよろしいでしょうか」

箱から視線を外し、景宵は静かに息を吐いた。

「……構わん、申せ」

周安が一歩前に出て、恭しく身を低くする。
景宵との年の差は十ほど上だったと記憶しているが、目元に刻まれた疲労の名残が、実年よりわずかに老けた印象を与えていた。

景宵に仕える以前、厄介な皇族付きとして苦労を重ねたと聞く。初めて会った頃は顔色も悪かったが、今は肌艶も戻り、身のこなしも落ち着いている。

側に置いて二年。
宮内の人脈と事情に通じ、必要な情報を滞りなく揃えてくる。判断も早く、信頼に足る側近だった。
 
「……差し出がましいことですが。眠りを軽く見られぬ方がよろしいかと存じます。私の親戚に、長く眠れぬまま無理を重ね、ある日ふと崩れてしまった者がおりまして……。その後は、回復にも随分と時を要しました」
 
周安の言葉に、景宵は「……はぁ」と短く息を吐いた。
力を抜いて背もたれに身を預け、指先で眉間を押さえる。

「それくらい、承知している」

口にした言葉が、思ったよりも鈍く響いた。

「だがな。医官の処方も、眠りに効くとされた茶も、一通り試した。それでも、肝心なところで効かない。これ以上、打つ手があるとは思えん」
 
「……殿下ご自身、眠りを妨げている理由には、お心当たりがおありなのでは」

周安の言葉に、景宵は視線を落とした。

否定はしない。
周安のいう通り、理由はわかっている。
 
かつてそこにあった温もりが、今はないからだ。

腕の中にあった重み。
眠りに落ちる前、無意識に触れていた存在。

それを失ったことが、これほどまでに夜を遠ざけるとは思っていなかった。

「……ですので」

景宵の沈黙を受け取ったように、周安が言葉を継ぐ。

「別の形で、眠りを取り戻す手立てをお考えになってはいかがかと」

「別の形?」

眉がわずかに動く。

問い返したのは、意味が分からなかったからではない。
その先を察して、反射的に拒みが生じたからだ。

だが、進言を許したのは自分自身だ。
景宵は一度、息を整えた。

「……具体的には」

「そうですね……例えば、誰かと同じ寝所にお休みになるのはいかがでしょうか?」

「……誰を想定している」

皮肉を含ませたつもりだったが、声に力は乗らなかった。

周安は一瞬だけ間を取り、慎重に言葉を選ぶ。

「たとえば、先日、離宮へ迎え入れられた、寧珀様など」

(――寧珀?)

「……誰だ、それは」

「邵族より差し出された瑞性の者ですよ。先日の謁見で、お目にかかられたはずですが」

「ああ……」

記憶の奥をなぞると、淡い灰白の衣と、過剰なほど整えられた礼の姿勢が蘇る。

「いたな……」

自分でも驚くほど、空々しい声だ。
思い出しても、胸が動かない。

瑞性の男。
人によっては、女より好む者もいるのだろう。だが景宵にとって「瑞性」というだけで、その存在はどこか哀れに映る。

主性に引き寄せられるためだけに在り、当人たちもまた、そこに己の価値を結びつけて生きている。
自ら選ぶ余地のない生き方だ。主体性を奪われた在り方は、どうしても痛ましく思えてしまう。

――『で、ですが……それでは、僕……あ、いや、私がここにいる意味が……』

謁見の折、言葉を失いかけていた寧珀の声が、ふと脳裏をよぎった。 

「そもそも邵族は、白嶺山陵を守る“神聖な民族”と位置づけられております。形式の上でも、あまりに素っ気ない扱いは好ましくないかと」

「丁重に扱っているだろ。身辺も過不足なく整えてやっているはずだ」

「ですが……彼自身は、殿下との縁を望んでいるようでした」

「ないな」

きっぱりと言い切る。

たとえこの先、自分が伴侶を迎えることがあったとしても、瑞性だけは選ばない。
西陵国では、白虎は『守り』や『境界』の象徴として語られる一方、瑞性は主性に結びつくための体質として扱われてきた。
しかし、景宵には、その結びつきが必ずしも幸福をもたらすとは思えなかった。

幼い頃、気持ちの伴わない縁がどれほど人を摩耗させるかを、最も近い場所で見ている。
役目として結ばれ、役目として耐え続ける。その果てに残るのは、空虚だけだ。

「……わかりました。邵族の青年の件は、ひとまず脇に置きましょう」

自分から持ち出した話題だというのに、周安はあっさりと切り替えた。
それが、この男の持つ実務的な一面なのだと、景宵は理解している。

「何よりも重要なのは、殿下がきちんとお休みになられることです」

淡々と、しかし引かずに言う。

「もしご所望でしたら、眠りを助けるため、お側に控える者を改めて選び直すことも可能です。似通った容姿の者がよろしければ、そのように手配をいたしましょう。今度は、より身体の丈夫な者を――」

「周安」

名を呼んだだけだった。
だが、その声の温度で、周安は自分の踏み込みすぎを悟ったらしい。

「……失礼いたしました。出過ぎた進言でした」

短く詫び、静かに頭を下げる。
 
「私の身を案じての言葉だということは、わかっている」

景宵は、即座に湧き上がった感情を抑え、ゆっくりと息を吐いた。

「強く咎めるつもりはない。だが、これだけは、はっきりさせておく」

周安の前で、言葉を選ぶ必要はなかった。

「……あの子の代わりはいない」

視線が、自然と自分の両手へと落ちる。

「私にとって、唯一の……存在だった」

この手で触れた温もり。
胸に寄せられた小さな体の重さ。
それらを、いつまで覚えていられるのだろうか。

すでに、少しずつ薄れていく感覚がある。
それが、ひどく怖かった。

(――会いたい)

そう、思ってしまう。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

落としたのは化粧じゃなく、みんなの心でした

444
BL
『醜い顔…汚らしい』 幼い頃、実母が病気によって早くに亡くなった数年後に新しい義母からそう言われたシリルは、その言葉が耳に残って16歳となった今も引きずっていた。 だが、義母のその言葉は真っ赤な嘘でシリルはとても美しかった。ただ前妻の息子であるシリルに嫉妬した結果こぼした八つ当たりの言葉であったのをシリルは知らずに、義母のいう醜い顔を隠すために化粧をする。 その結果、彼は化粧によって本当に醜い顔になってしまった。そんな彼が虐げられながらも徐々に周囲を絆す話 暴力表現があるところには※をつけております

台風の目はどこだ

あこ
BL
とある学園で生徒会会長を務める本多政輝は、数年に一度起きる原因不明の体調不良により入院をする事に。 政輝の恋人が入院先に居座るのもいつものこと。 そんな入院生活中、二人がいない学園では嵐が吹き荒れていた。 ✔︎ いわゆる全寮制王道学園が舞台 ✔︎ 私の見果てぬ夢である『王道脇』を書こうとしたら、こうなりました(2019/05/11に書きました) ✔︎ 風紀委員会委員長×生徒会会長様 ✔︎ 恋人がいないと充電切れする委員長様 ✔︎ 時々原因不明の体調不良で入院する会長様 ✔︎ 会長様を見守るオカン気味な副会長様 ✔︎ アンチくんや他の役員はかけらほども出てきません。 ✔︎ ギャクになるといいなと思って書きました(目標にしましたが、叶いませんでした)

妖精です、囲われてます

うあゆ
BL
僕は妖精 森で気ままに暮らしていました。 ふと気づいたら人間に囲まれてました。 でもこの人間のそばはとても心地いいし、森に帰るタイミング見つからないなぁ、なんて思いながらダラダラ暮らしてます。 __________ 妖精の前だけはドロ甘の冷徹公爵×引きこもり妖精 なんやかんやお互い幸せに暮らします。

黒獅子の愛でる花

なこ
BL
レノアール伯爵家次男のサフィアは、伯爵家の中でもとりわけ浮いた存在だ。 中性的で神秘的なその美しさには、誰しもが息を呑んだ。 深い碧眼はどこか憂いを帯びており、見る者を惑わすと言う。 サフィアは密かに、幼馴染の侯爵家三男リヒトと将来を誓い合っていた。 しかし、その誓いを信じて疑うこともなかったサフィアとは裏腹に、リヒトは公爵家へ婿入りしてしまう。 毎日のように愛を囁き続けてきたリヒトの裏切り行為に、サフィアは困惑する。  そんなある日、複雑な想いを抱えて過ごすサフィアの元に、幼い王太子の世話係を打診する知らせが届く。 王太子は、黒獅子と呼ばれ、前国王を王座から引きずり降ろした現王と、その幼馴染である王妃との一人息子だ。 王妃は現在、病で療養中だという。 幼い王太子と、黒獅子の王、王妃の住まう王城で、サフィアはこれまで知ることのなかった様々な感情と直面する。 サフィアと黒獅子の王ライは、二人を取り巻く愛憎の渦に巻き込まれながらも、密かにゆっくりと心を通わせていくが…

俺は夜、社長の猫になる

衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。 ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。 言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。 タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。 けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。

寂しいを分け与えた

こじらせた処女
BL
 いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。  昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。

交際0日婚の溺愛事情

江多之折(エタノール)
BL
死にたくはない。でも、生きたくもない。ふらふらと彷徨う根無し草は、世界の怖さを知っている。救いの手は、選ばれた者にだけ差し伸べられることも知っている。 だから緩やかに終わりを探して生きていた。 ──たった数回の鬼ごっこを経験するまでは。 誠実すぎて怖い人は、4回目の顔合わせで僕の夫となる。 そんな怖がりな男と誠実な男の、結婚生活の始まり。 ■現実だけど現実じゃない、そんな気持ちで読んでください。 ■家庭に関してトラウマを抱えている方は読まない方が良いと思います。

余命半年の俺を、手酷く振ったはずの元カレ二人が手を組んで逃がしてくれません

ユッキー
BL
半年以内に俺は一人寂しく死ぬ。そんな未来を視た。きっと誰も悲しむ人は居ないだろう。そう思っていたから何も怖くなかった。なのにそんな俺の元に過去手酷く振り、今では世界的スターとなった元カレ二人がやってきた。彼らは全てを知っていた。俺がどうして彼らを振ったのか、そして俺の余命も。 全てを諦めた主人公と、主人公を諦めきれないイケメンサッカー選手とシンガーソングライターの再会が導く未来は?

処理中です...