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9.下町の酒場

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声をかけてきた男はギルと名乗った。年齢は25とのことで、ディアナより7つも年上らしい。職業について聞くと「それは秘密!」と言って片目を閉じた。

(この男、妙に軽いのよね)

ディアナは心の中で呟く。
軽薄な雰囲気を纏うギルは、話してみてもやはり軽そうな男だった。ただ非常に聞き上手で、人の懐に入り込むのが上手かった。
ディアナの素性を探ろうとする事もなかった為、そこだけは安心できたとも言える。

(表裏はなさそうな性格なのよね)

ギルは良くも悪くも素直な性格をしていたのだ。


「ディアナちゃんって見た目は圧倒的美人って感じだけど、雰囲気がいかにも男慣れしてなさそうだよね。で、ちなみに経験とかはあったり?」

「…………はぁ。どうでしょうね」

そして彼は時々、無神経であった。

(運命の人を探しにきたはずなのに、どうしてこの人と一緒に飲んでいるのかしら)

ディアナは溜息をつく。
ギルのお陰で危ない自体は避けられたが、前々から立てていた計画は大失敗である。ギルも悪い男ではない。だが運命の相手かと言われれば、正直ぴんと来ないのだ。

そう思うとついつい酒に手が伸びてしまい、ディアナは「今日はもう無理ね」と誰にも聞こえないほど小さく呟いた。だが。




「無理って、何が無理なの?」



ディアナは、はっと息を飲み込んだ。そして声の主を見つめる。蟻にも聞こえないほど、小さな声で呟いたはずなのに。

(なんでギルには聞こえているの!?)

ギルは超人的な地獄耳らしい。
唖然とした様子で驚きを隠せずにいると、彼は人差し指で頰を掻き、苦笑いを浮かべた。

「俺、昔から五感が鋭いんだよ」

(五感が鋭いって……。いくらなんでも人間離れし過ぎでしょ!)

大きく突っ込みを入れそうになったが、ディアナは堪える。ここは外出先で、家ではないのだ。本来の自分を曝け出す事だけは避けたい。
さらに言えば、目の前の男とは出会ってものの数十分なのだ。そんな人の前で素の自分でいる事には抵抗を覚えるのは確かだった。

ギルの前にいると、不思議とリラックスをしてしまいそうになる。初対面のはずなのにそうは思えないのは、天性のなにかなのだろう。

「で、何が無理なの?教えて!」

「えーっと……その…………」


質問から逃れようにも、ギルの追及の手は止まない。
ディアナは考えた。自分のことを知らない人間になら、打ち明けてもいいのではないかと。

そしてついに、ディアナは己が酒場へ来た理由を口にしてしまうのだった。

ーー自分は恋愛関係において失敗をしてしまったこと。待ち続けるのは性に合わないため、酒場まで探しに出たこと。そして、運命の人というものを心の底から信じているということを。

(馬鹿にされるかしら?大笑いされるかしら?)

ディアナは不安そうにギルを見つめた。
だが、目の前の男は予想外にも「おお!やるねぇ」と面白がりながらも、真面目に受け取ってくれたのだ。そして、興味深げな表情で、彼女を見つめてくる。

彼はなぜかディアナに関心を持ったらしく、前のめりになりながら話を根掘り葉掘りと聞いてきた。



「そういえば、どういうタイプの男が理想の運命の人なの?」

ギルは興味津々な様子で尋ねる。それに対し、ディアナは想像を巡らせた。自分の言ったことを素直に受け入れてもらい、少しばかり気分が良い。

(うーん。やっぱり頭が良くて優しくて、私にたくさん愛を注いでくれる人がいいわね………………ってあれ?これってまるっきり誰かさんに当てはまるような)

ディアナは、先日豹変した義弟の顔を思い浮かべる。すると背中に冷たい風が通り抜けたように感じ、思わずぶるりと体を震わせた。

「…………監禁しない人、ですかね」

「はははっ、面白いこと言うね!ディアナちゃん」

(本気で言ったのだけれど)

どうやらギルは、ディアナが冗談を言ったのだと受け取ったらしい。彼女としては、大真面目に言ったはずなのに。

ふぅと溜息をつき、カランと手に持ったグラスの氷が鳴るのを見つめていた。



ーーそうこう話しているうちに30分はとっくに経過していたらしい。自由な時間というものは、あっという間に過ぎてしまうものだ。

「まぁ、影ながら応援してるよ」

ギルはそう言うと、席から立ち上がり店員に会計を頼んだ。ディアナは自分の分を払おうとコインを取り出そうとした。だが彼はそれを手で止め、二人分の会計をまとめて済ませてしまった。

(そう言うところはスマートで素敵なのよね)

ディアナは「ありがとう」と礼を言い、ギルに微笑んだ。これは、心からの言葉だった。
ギルと話すことが出来て、ディアナはすっきりとした気持ちになったのだ。やはり、気分転換は大切だと実感させられる。

「また何かあったら、今日と同じ時間帯に酒場前に来なよ。相談相手になるからさ」

彼は、やはりどこか軽薄そうな笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。ディアナは「はい」と大きく頷き、離れていく背中を見送った。

その日、ディアナには初めて下町に良き相談相手が出来たのだった。







ギルを見送った後、ディアナは一人帰路についた。義弟が用事を終える前に屋敷へと戻らなければと思ったため、帰り道を足早に行く。

(まだ家に帰ってないはずだから、バレてないわよね)

下町に背を向け、なるべく人通りの多い道を選んで歩いた。そして無事に屋敷にたどり着き、ディアナの監視役であろう警備を潜り抜けた。

ようやっとと思い、安堵の息を漏らしながらディアナは自室の扉を開ける。

(ふぅ……やっと帰ってこられ…………)

ーーだが、そんなディアナの心を嘲笑うかのように悪魔が立ちすくんでいた。





「姉様」




柔らかで、同時に冷たさをも含んだ悪魔の声が聞こえる。それはディアナの自室で、帰りを待っていたのだ。
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