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当日、僕は約束の時間よりも三十分も早く最寄り駅に到着していた。
昨夜は一睡もできなかった。布団に入っても、明日天野さんと会うという事実が頭の中を何度も思い出され、とても眠れる状態ではなかった。推しとのデート……いや、これをデートと呼んでいいのかもわからないけれど、とにかく二人きりで出かけるなんて、夢のような話だ。
一番困ったのが、着ていく服だった。クローゼットを開けて愕然とした。黒か灰色か、とにかく地味な色の服しかない。どれもこれも、天野さんと並んで歩くにはあまりに暗すぎる。
困り果てて母さんに相談すると、僕の様子を見た母さんは何かを察したようで、にやりと笑った。おしゃれに気を遣う僕を珍しがり、僕はただ俯くしかできなかった。母さんはそんな僕の反応を見て楽しそうに笑い、何とかしようと言った。
母さんと一緒にクローゼットの奥まで探して、何とか比較的ましな服を見つけ出した。ネイビーのチノパンに白いシャツ、その上にベージュのカーディガンを羽織る。いつもの僕にしては、確かに少しはおしゃれに見える。普段の地味な格好に比べれば、だいぶマシになったはずだ。
出がけに母さんに励ましの言葉をかけられながら、僕はアパートを後にした。
待ち合わせ場所は、駅から徒歩十分ほどの場所にあるブックカフェだ。事前に下見に来た時、その洗練された外観に少し気後れした。レンガ造りの外壁に蔦が這い、大きなガラス窓からはおしゃれな店内が覗いている。普段の僕なら、とても一人で入る勇気が出ないような、洗練された雰囲気だ。
とはいえ、天野さんと待ち合わせしている以上、店内に入らないわけにもいかない。僕は意を決して、店のドアに手をかけた。
重い木製のドアを押して店内に入ると、天井まで届く本棚に囲まれた空間が広がっていた。店内は適度に薄暗く、各テーブルに置かれた小さなランプが温かい光を放っている。
そして――いた。
奥のテーブル席で、天野さんが僕を見つけて手を振ってくれている。
「黒澤くん、おはよう!」
天野さんは席から立ち上がって、僕に近づいてきた。
「今日の服装、すごくいいね。とても似合ってるよ」
頑張って取り繕った服装を褒められて、僕は恥ずかしさでつい俯いてしまった。消え入ってしまいたい。でも同時に、彼に褒められたむず痒い嬉しさも感じる。
「あ……ありがとうございます」
僕は天野さんの服装にも目を向けた。白いシンプルなTシャツに黒のスラックス、その上にグレーのジャケットを羽織っている。一見シンプルなコーディネートだが、素材の良さが一目でわかる。シルエットも完璧で、まるでファッション雑誌からそのまま抜け出してきたようだ。
……やっぱり何もかもが違う。着ているものも、立ち姿も、雰囲気も。僕とは住む世界が違う人なんだ。
「どうぞ、座って」
天野さんに促されて、僕は恐る恐る向かい側の席に腰を下ろした。
「ここ、オレがよく来るお店なんだ。本に囲まれて珈琲を飲めるから、とても落ち着くんだよね」
改めて店内を見回すと、確かに静かで落ち着く空間だった。本棚には古典文学から現代小説まで、様々なジャンルの本がぎっしりと並んでいる。お客さんたちはみな静かに読書をしたり、小声で会話を楽しんだりしている。
「ここにある本は自由に読めるし、気に入った本があれば購入することもできるんだよ」
天野さんの説明に、僕は思わず目を輝かせた。こんな素敵な空間で本を選べるなんて、まさに理想的だ。
物珍しさに僕が本棚をキョロキョロと眺めていると、それを見ていた天野さんが、笑みを浮かべながら小さく呟いた。
「……黒澤くんって、本当にかわいいね」
突然の言葉に、僕は固まった。
……かわいい? 僕が?
天野さんは一体何を見ているんだろう。僕のどこがかわいいって言うんだ。地味で冴えない夜間学校生のどこに、そんな要素があるというんだろう。
僕は何と返していいかわからず、ただ困惑するばかりだった。
「ああ、そうだ。メニュー見てみよう」
天野さんがメニュー表を差し出してくれた。開いてみると、様々な種類のコーヒーがずらりと並んでいる。エチオピア・イルガチェフェ、グアテマラ・アンティグア、ブルーマウンテン……珈琲に詳しくない僕には、どれがどんな味なのか、さっぱりわからない。
「珈琲は飲める? どういう味が好き?」
僕の困惑を察したのか、天野さんが優しく聞いてくれた。
「珈琲は……飲めます。あの……すっきりとした、苦みがそこまで強くないものが……」
「じゃあ、コロンビア・スプレモがいいかな。酸味と甘みのバランスがいいから飲みやすいと思う」
天野さんが店員さんを呼んで、僕の分も一緒に注文してくれた。程なくして運ばれてきたコーヒーを口に含むと、確かに僕好みの味だった。苦みの中にほのかな甘みがあって、とても美味しい。
「この喫茶店、どう?」
天野さんが僕の表情を見ながら聞いてきた。
「素敵、だと思います。……気に入りました」
僕の返事を聞いて、天野さんの顔がぱっと明るくなった。
「君が喜んでくれると、オレも嬉しいよ」
その言葉に、僕は胸がむずむずするような甘さを感じるのと同時に、戸惑いを覚えた。なぜ彼は、僕のことをそんなふうに気にかけてくれるんだろう。
僕が天野さんのことを好きになったのは、今から4年前のことだ。あの頃の僕は、父さんを亡くしてから続いていた金銭的な問題や、進路への不安で毎日が辛かった。そんな時、たまたま開いた配信アプリで彼の歌声を聞いた。
透明感のある美しい声で歌われる曲に、僕は一瞬で心を奪われた。配信を見続けているうちに、彼がアイドル志望の駆け出しであることを知った。その頃の配信の視聴者はあまり多くなかったけど、天野さんはどんなコメントにも丁寧に返事をし、少額の投げ銭にも心から感謝の気持ちを表していた。
そんな誠実な姿勢に、僕はますます惹かれていった。だから僕は彼のことが好きになったんだ。
そして今、その彼がアイドルとしてデビューし、俳優としても成功を収めている。それは彼が持つ誠実で真面目な人柄があってこそだろう。
そんな彼と、僕は今こうしてカフェで一緒に珈琲を飲んでいる。
この状況に、僕はまだ完全に現実感を持てずにいた。
昨夜は一睡もできなかった。布団に入っても、明日天野さんと会うという事実が頭の中を何度も思い出され、とても眠れる状態ではなかった。推しとのデート……いや、これをデートと呼んでいいのかもわからないけれど、とにかく二人きりで出かけるなんて、夢のような話だ。
一番困ったのが、着ていく服だった。クローゼットを開けて愕然とした。黒か灰色か、とにかく地味な色の服しかない。どれもこれも、天野さんと並んで歩くにはあまりに暗すぎる。
困り果てて母さんに相談すると、僕の様子を見た母さんは何かを察したようで、にやりと笑った。おしゃれに気を遣う僕を珍しがり、僕はただ俯くしかできなかった。母さんはそんな僕の反応を見て楽しそうに笑い、何とかしようと言った。
母さんと一緒にクローゼットの奥まで探して、何とか比較的ましな服を見つけ出した。ネイビーのチノパンに白いシャツ、その上にベージュのカーディガンを羽織る。いつもの僕にしては、確かに少しはおしゃれに見える。普段の地味な格好に比べれば、だいぶマシになったはずだ。
出がけに母さんに励ましの言葉をかけられながら、僕はアパートを後にした。
待ち合わせ場所は、駅から徒歩十分ほどの場所にあるブックカフェだ。事前に下見に来た時、その洗練された外観に少し気後れした。レンガ造りの外壁に蔦が這い、大きなガラス窓からはおしゃれな店内が覗いている。普段の僕なら、とても一人で入る勇気が出ないような、洗練された雰囲気だ。
とはいえ、天野さんと待ち合わせしている以上、店内に入らないわけにもいかない。僕は意を決して、店のドアに手をかけた。
重い木製のドアを押して店内に入ると、天井まで届く本棚に囲まれた空間が広がっていた。店内は適度に薄暗く、各テーブルに置かれた小さなランプが温かい光を放っている。
そして――いた。
奥のテーブル席で、天野さんが僕を見つけて手を振ってくれている。
「黒澤くん、おはよう!」
天野さんは席から立ち上がって、僕に近づいてきた。
「今日の服装、すごくいいね。とても似合ってるよ」
頑張って取り繕った服装を褒められて、僕は恥ずかしさでつい俯いてしまった。消え入ってしまいたい。でも同時に、彼に褒められたむず痒い嬉しさも感じる。
「あ……ありがとうございます」
僕は天野さんの服装にも目を向けた。白いシンプルなTシャツに黒のスラックス、その上にグレーのジャケットを羽織っている。一見シンプルなコーディネートだが、素材の良さが一目でわかる。シルエットも完璧で、まるでファッション雑誌からそのまま抜け出してきたようだ。
……やっぱり何もかもが違う。着ているものも、立ち姿も、雰囲気も。僕とは住む世界が違う人なんだ。
「どうぞ、座って」
天野さんに促されて、僕は恐る恐る向かい側の席に腰を下ろした。
「ここ、オレがよく来るお店なんだ。本に囲まれて珈琲を飲めるから、とても落ち着くんだよね」
改めて店内を見回すと、確かに静かで落ち着く空間だった。本棚には古典文学から現代小説まで、様々なジャンルの本がぎっしりと並んでいる。お客さんたちはみな静かに読書をしたり、小声で会話を楽しんだりしている。
「ここにある本は自由に読めるし、気に入った本があれば購入することもできるんだよ」
天野さんの説明に、僕は思わず目を輝かせた。こんな素敵な空間で本を選べるなんて、まさに理想的だ。
物珍しさに僕が本棚をキョロキョロと眺めていると、それを見ていた天野さんが、笑みを浮かべながら小さく呟いた。
「……黒澤くんって、本当にかわいいね」
突然の言葉に、僕は固まった。
……かわいい? 僕が?
天野さんは一体何を見ているんだろう。僕のどこがかわいいって言うんだ。地味で冴えない夜間学校生のどこに、そんな要素があるというんだろう。
僕は何と返していいかわからず、ただ困惑するばかりだった。
「ああ、そうだ。メニュー見てみよう」
天野さんがメニュー表を差し出してくれた。開いてみると、様々な種類のコーヒーがずらりと並んでいる。エチオピア・イルガチェフェ、グアテマラ・アンティグア、ブルーマウンテン……珈琲に詳しくない僕には、どれがどんな味なのか、さっぱりわからない。
「珈琲は飲める? どういう味が好き?」
僕の困惑を察したのか、天野さんが優しく聞いてくれた。
「珈琲は……飲めます。あの……すっきりとした、苦みがそこまで強くないものが……」
「じゃあ、コロンビア・スプレモがいいかな。酸味と甘みのバランスがいいから飲みやすいと思う」
天野さんが店員さんを呼んで、僕の分も一緒に注文してくれた。程なくして運ばれてきたコーヒーを口に含むと、確かに僕好みの味だった。苦みの中にほのかな甘みがあって、とても美味しい。
「この喫茶店、どう?」
天野さんが僕の表情を見ながら聞いてきた。
「素敵、だと思います。……気に入りました」
僕の返事を聞いて、天野さんの顔がぱっと明るくなった。
「君が喜んでくれると、オレも嬉しいよ」
その言葉に、僕は胸がむずむずするような甘さを感じるのと同時に、戸惑いを覚えた。なぜ彼は、僕のことをそんなふうに気にかけてくれるんだろう。
僕が天野さんのことを好きになったのは、今から4年前のことだ。あの頃の僕は、父さんを亡くしてから続いていた金銭的な問題や、進路への不安で毎日が辛かった。そんな時、たまたま開いた配信アプリで彼の歌声を聞いた。
透明感のある美しい声で歌われる曲に、僕は一瞬で心を奪われた。配信を見続けているうちに、彼がアイドル志望の駆け出しであることを知った。その頃の配信の視聴者はあまり多くなかったけど、天野さんはどんなコメントにも丁寧に返事をし、少額の投げ銭にも心から感謝の気持ちを表していた。
そんな誠実な姿勢に、僕はますます惹かれていった。だから僕は彼のことが好きになったんだ。
そして今、その彼がアイドルとしてデビューし、俳優としても成功を収めている。それは彼が持つ誠実で真面目な人柄があってこそだろう。
そんな彼と、僕は今こうしてカフェで一緒に珈琲を飲んでいる。
この状況に、僕はまだ完全に現実感を持てずにいた。
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