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しおりを挟む「旦那様は大変忙しいお方なのです」
サルヴェール家の侍従長、オーランドさんはそうおっしゃいました。
そうでしょう。
旦那様は王家に信頼を置かれている貴族、サルヴェール侯爵卿なのですから。
サルヴェール家から王家に迎えられた女性の他に、サルヴェール家へと降嫁した王女もいらっしゃる、という血族的にも王家に近しい高位貴族なのですから。
サルヴェール侯爵が陛下やご年齢の近い王太子殿下のご相談に乗られている、というお話も伺っております。それは理解しております。
ですから結婚式が華やかなものではなく、当人たちだけの略式化されたものなのも理解しておりますし、不満を申し上げるつもりもありません。
私たちの間には恋も愛も――いえ、それどころか一度お会いしたきりで信頼関係もなく、互いの利害が一致した単なる政略結婚だというのも重々理解しております。
子爵とは名ばかりの没落貴族の私どもといたしましては、この結婚によってたくさんの支援金をサルヴェール侯爵家から頂くことになり、そのことに関しましては心より感謝いたしております。
二人の間に恋は無い。愛は無い。信頼関係は無い。
政略結婚? こちとら痩せても枯れても貴族の娘です。自分の立場はきちんと理解しております。不満などございません。大いに結構。政略結婚、むしろどんと来い!
――ですが。
ですが、その結婚式に旦那様ご本人がいらしていないのは、さすがに……理解に苦しみます。
今生では着ることはないだろうと思われた、品質がよくて美しい真っ白なドレスに身を包み、古い歴史のある広い教会で立派な聖職者様の前に一人ぽつんと立つ姿は、第三者から見たら滑稽すぎるのです。
ドレスが豪華であればあるほど、教会が格式高い場所であればあるほど、式直前に新郎に逃げられた哀れな新婦の姿として際立ちます。
幸いにもそれを目撃する第三者すらおらず、今この場にいるのは私と聖職者様……そしてサルヴェール家の侍従長であるオーランドさんだけです。
格調の高い造形の柱も、色とりどりのステンドグラスから入る太陽の光も、入り口まで長く続く木目が美しい会衆席も、招待客が一人もいないせいで虚しさを強く演出してくれます。
いえ。もしやここは、私に恥をかかさぬよう招待客を呼ばずにいてくださって、過分なご温情を賜り痛み入ります、と旦那様に感謝の念をお伝えすべきところなのでしょうか。非常に悩みます。
「あ、あの。ええっと。ご新郎様不在のままで式を執り行うのでしょうか」
聖職様、私を見ないでください。答えられません。
私としましても、旦那様ご不在の中の結婚式というお話は一切伺っていないのです。
初めてのご経験のようで聖職者様も相当お困りのご様子ですけれど、私のほうが精神的打撃は大きいでしょう。
突然のことに茫然としている部分もありますが、叫ばず、泣かず、暴れ出さず、逃げ出さず、この場に大人しく立っているだけでも何と偉いことか、と自分で自分を褒めたいと思うのです。
まあ、あまりにも奇怪な出来事すぎて感情すら追いついていない、というのが正しいのかもしれませんが。
私がぼんやり立ち尽くすばかりで何も答えない人形のように頑なに口を閉ざすので――いえ、答えられないものですから、聖職者様は同情の視線を向けてくださいました。
その後、私の側にいる、答えを出してくれそうなオーランドさんに視線を移して確認されました。
「はい。旦那様のご意向です。ご進行のほどよろしくお願いいたします」
私はオーランドさんの顔を改めて見ましたが、彼は澄まし顔で平然とのたまいました。
オーランドさんはサルヴェール家の侍従長だけあって、貫禄のある落ち着いた初老の男性です。髪色と同じはしばみ色の目は、私と聖職者様の動揺をよそに冷たさすら感じるほど感情を見せずにいます。
「そ、そうですか。では」
そんなオーランドさんを目にされたからでしょうか。聖職者様はコホンと咳払いを一つして動揺から抜け出し、職務を全うしようとしております。そんなお姿に敬愛の念を抱くほどです。
「新郎レオナルド・サルヴェール、あなたはリゼット・クレージュを妻とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、共に分かち合い支え合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
視線は虚ろに宙を見ていらっしゃるけれど、最後まで乱れることなく言い切られたお姿は実に立派でございました。さあ皆の者よ、拍手喝采せよ。
心の中にのみ存在する招待客に言ってみると、拍手と共に歓声まで起こり、盛り上がりました。めでたしめでたし。
…………さて。
虚しい逃避から戻って来たのはいいのですが、現実は厳しく、沈黙が続いている状態です。誓いの言葉はどうするのでしょうか。私が代わりにお答えするのでしょうか。
何も打ち合わせしていなかったのでただ黙って様子見していたら、オーランドさんが洗練された仕草で胸元から何やら取り出して広げました。
「旦那様から言付けをお預かりしております。『すべて誓う』――とのことです」
旦那様のものと思われる署名が入っている書面をこちらに見せるオーランドさんに、私と聖職者様は再び呆気に取られてしまいました。
ですが、悲しいことに徐々に慣れてきてしまった私たちは、立ち直るのも早くなります。
というか、そのような書面で済ませるぐらいならば、いっそ式すら挙げないほうが清々しかったのではないのでしょうか。あるいは花嫁に対するこの処遇は、サルヴェール家に入るための試練の一つとされているのでしょうか。だとしたら、私はそれに応えるしかないのでしょうね。
「それでは新婦リゼット・クレージュ」
「あ、はい。誓います」
気を取り直した聖職者様の声に、私は反射的に答えます。
旦那様が誓うと書面で示し、それを無効にできる権限が私にはない以上、当然、私が誓いませんと言うことはできないでしょう。
「あ、あなたは新郎レオナルド・サルヴェールを」
「はい誓います」
「お、夫とし」
「はい誓います」
言葉を遮って答える私に対して聖職者様は口元を引きつらせておられますが、内容は同じですし、繰り返して時間を引き延ばす必要も、この茶番劇を長引かせて傷を深くする自虐趣味もありません。
少しでも早く終わらせたかった私もまた、引きつった笑顔を聖職者様に見せました。
◇◇◇
「旦那様は大変忙しいお方なのです」
サルヴェール家の侍従長、オーランドさんはそうおっしゃいました。
そうでしょう。
旦那様は数年前に引退されたお父様に代わり、日々お仕事に奮闘されているそうなのですから。
侯爵位を引き継いだだけの若造が、と長年王家に仕える貴族の中には疎ましく思っている方々もいるのでしょう。祖先より引き継いだ権力ではなく、自分の力を周囲に見せて認めてもらう必要があるのだと思います。それは理解しております。
ですが。
ですが、実家とは桁違いの大きな浴室で湯浴みを終え、着たこともない上質で滑らかな寝衣に身を包み、サルヴェール侯爵家で私付きとされた侍女、アンヌさんに髪も丁寧にとかしてもらって、いざ夜に向けて緊張でガチガチになりながら、実家の倍はあろうかという大きなベッドにて待機していた私に向けるお言葉として、果たしてそれは正しいのでしょうか。
今いる寝室から繋がる扉は、廊下への扉と自分の居室への扉、そして旦那様の部屋に繋がる扉の計三カ所ありますが、どの扉もノック音はおろか、ぴくりと微振動する気配すらありません。
せめて本日、結婚式を欠席されたことへの謝罪、もしくは十歩、いや百歩譲って労いのお言葉ぐらい頂いても罰は当たらないと思うのですが。
色んな感情と言葉を呑み込む私の横で、旦那様の帰宅時間を尋ねるためにオーランドさんを呼んでくれたアンヌさんは静かに控えています。
このサルヴェール家に仕える者の特徴なのでしょうか。仕事は早く的確なのですが、感情の起伏がほとんど見られません。オーランドさんもそうですし、もしやこの屋敷の採用条件の一つに『表情筋が死んだ者に限る』というのがあるのでしょうか。
失礼なことを考えてしまいます。
「ですが、結こ――昼間もお目にかかれませんでしたし、何とかご挨拶だけでもさせていただければと思います。いつお帰りになるのでしょうか。それまで起きてお待ちいたします」
オーランドさんは感情のこもっていない視線を私に向けます。
「リゼット様。旦那様は大変忙しいお方なのです。不規則のため、お帰りのお時間をお伝えすることはできかねます。どうかご理解くださいませ」
まるで駄々をこねる子供をたしなめるかのようにおっしゃるのですね。私はそんなに我儘なことを申しているのでしょうか。
しかし私も大人の女性です。ここに嫁いできたばかりの身で、新参者としての立場をわきまえています。
今はこの家の事情を何も知りませんし、旦那様が普段どのような生活を送っていらっしゃるのかも知りません。旦那様のことや家のことをよくご存じの侍従長さんが忙しい旦那様のことを理解しろとおっしゃっているのに、理解いたしかねますと言えるでしょうか。言えませんね。
私は小さく頷きます。
「……承知いたしました」
「ご理解いただき、ありがとうございます。それでは失礼させていただきます」
慇懃無礼な挨拶を残してオーランドさんは去り、同時にアンヌさんも「お休みなさいませ」と必要以上の言葉は残さず、しずしずと礼を取った後、退室しました。
初めてこの屋敷に足を踏み入れて不安を覚えている者に対して、お二人ともそっけないものです。
「明日にはお会いできるかしら。でも正直……」
正直、ほっとしました。一度しかお会いしていない方と本日、夜を共にしなければならないのかと思うと怖かったので。
旦那様が結婚の申し込みで我が子爵家へご来訪された時に一度だけお目にかかったことがありますが、茶色がかった金の髪色に、影を落とした湖畔のような青色の瞳の美しい方でした。――だったと思います。誰もが振り返るような美しい容姿だと前評判を伺っていましたが、想像以上に容姿端麗なお方で、恥ずかしくてほとんど視線を合わせることはできなかったのですから。
緊張と恥ずかしさで心が浮ついてしまって、その時お話しされていたこともほとんど記憶にないですが、低く淡々とした冷たい声だったと、今ならそんな気がします。
旦那様がお帰りになった後に、なぜ我が家にこのような光栄なお話が舞い込んできたのかと父に尋ねたところ、社交パーティーで私を見初めてくださったとのことでした。
美しく華やかに着飾った貴婦人が大勢いる社交場で、地味で目立たず、壁とお友達の私のような者をお見初めになるわけがないと思い、さらに詰め寄ってみますと、やはり真相は違ったようでした。
「レオナルド様は侯爵位であり、王家の方々も絶対な信頼を置くとても優秀なお方で、容姿もあの通り端麗で引く手数多だ。だが、レオナルド様はまだ二十歳半ばとお若く、王家の周りにいる大臣の中には、位は高けれど身を固めぬ若輩者に大きな仕事を任せるわけにはいかぬ、と煙たがる頑固親父が多いんだ」
もちろんそこには、『生まれがたまたま侯爵家にすぎない七光りの若造が』という個人的な嫉妬も含まれるのでしょう。さらに眉目秀麗で女性からの人気が高いところも鼻につくのかもしれません。
「また一方で、自分の娘と結婚させようと媚びてくる者も頻繁にあると言う。そう言った煩わしさもあり、身を固める決意をなさったのだと思う。そこで嫁選びとなるわけだが」
私が真実をおっしゃってくださいと、じとりとした目つきで見つめるものだから、父は気まずそうに頬を掻いて先を続けました。
「社交場でまとわりついてくる着飾ったご令嬢はお美しくはあるが、気位が高く、少しでも蔑ろにするようなことがあれば、たちまち機嫌を損ねるであろうことは想像に難くない。レオナルド様はご自分が若輩者だと自覚なさっており、現在、人一倍精力的に動かれている大変お忙しい方だ。一番大事な今の時期に、妻のご機嫌取りで煩わされるようなことにはなりたくないと。……そういうわけだろう。だから、その」
そこで身分差に気が引けて高位のお貴族様方には一切近づかず、壁の花になっていた私に目をつけたということなのでしょう。つまり主人に文句一つ言わず、従順で大人しいお飾りの妻が欲しいということでしたか、なるほど。
「わたくしどもも、見返りとしてサルヴェール侯爵家からのご援助を頂くことができるのですね」
私の家にはまだ幼い弟や妹たちがいます。贅沢とは言わなくても、彼らがこれから先、苦労せずに伸び伸びと生きられるだけの環境を整えてあげたいと思います。
「そ、そうなんだ、うん。……お前一人に重荷を背負わせてしまってすまない。私が不甲斐ないばかりに」
「いいえ。お父様、違います。わたくしは自ら望んでサルヴェール家に嫁ぐのです」
「リゼット、ありがとう」
肩を落とすお父様に、私は胸を張って笑顔を向けました。
……と。
私も事前にそのようなお話は聞かされており、覚悟した上での結婚ではありましたが。
「それでも初日からこの扱いはあんまりだと思うのですが」
私は大きくため息をつきました。
◇◇◇
「旦那様は大変忙しいお方なのです」
サルヴェール家の侍従長、オーランドさんはそうおっしゃいました。
朝、慣れぬベッドで目覚めた後に視界に入った光景は、やはり見慣れぬ高い天井でした。
幸いにも意外と自分の神経は図太かったようで、慣れぬ高級ベッドで慣れぬ肌触りの良いシーツに包まれても眠れないということはなかったようです。むしろ旦那様不在の結婚式に気疲れした後、初夜を迎えることもなくホッとした気持ちもあったせいなのか、意識を失うようにすぐ眠った気がします。
状況を冷静に分析した私は、人の気配は感じられないながら寝返りを打って横を見てみました。思った通り、やはり見慣れぬ人物はそこにいませんでした。
シーツに手を置いてみたところ温もりはなく、乱れもなかったので、昨夜、旦那様はここでお休みではなかったのかもしれません。あるいは私が遅く起きすぎてしまったということも……
せめて朝食はご一緒できるかと侍女のアンヌさんがやって来る前に慌てて着替えて、昨日ご案内いただいていた食堂へと向かったわけですが、旦那様はすでにお食事は済ませて職場へと向かわれたようで、オーランドさんからはお決まりのお言葉を頂きました。
「そうでしたか。旦那様のお見送りもせず、大変失礼いたしました。明日からはもっと早く起床いたします」
朝は弱いですが頑張りたいと思います。
「いいえ。旦那様はいつも朝がお早いので、リゼット様はごゆっくりお休みいただいて構いません」
旦那様が朝早くお出かけになり、夜遅くお戻りになるのに、そんな旦那様を支えるべき妻が朝も夜も呑気にグーグー寝ているのはいかがなものでしょうか。ですが、私がこの家に入ったことで、これまでの旦那様の生活習慣に乱れが生じてしまうことも懸念されます。しばらくは様子を見ることにして、ここは大人しく引くことにしましょう。
「それでは、これからのわたくしの役割や家のしきたり、こちらに頻繁にいらっしゃるお客様の芳名などをご教示いただけないでしょうか」
実際のところ、お名前だけでは来訪された時、お顔とすぐに一致はしないでしょうが、どんな身分の方なのか、どんなご職業の方なのか、旦那様とのご関係はどれほどの深さなのかなど、頭に入れておくことがたくさんあるでしょう。
しきたりも家それぞれです。我が子爵家では気楽にやっていたことも、この格式ある侯爵家では許されないということも多々あるかと思います。それらを学ばなければ。
「いいえ。必要ございません。旦那様からはリゼット様にご無理をさせぬよう言付かっております」
「ご、ご無理、ですか?」
政略結婚とは言えこの屋敷に足を踏み入れた以上、旦那様が不在の時には女主人として務めを果たすものだと自覚しておりますし、侯爵家という高位貴族の一員となる覚悟も少しは持っております。それなのに必要ないとは、一体どういうことでしょうか。
ただ、私も馬鹿ではありません。
好意的な気持ちで甘やかしてくれているわけではないことだけは分かります。さすがにここは引くわけには参りません。
それともサルヴェール侯爵家では女主人としてまずやるべき重要な他のお仕事があるというのでしょうか。
「ではわたくしは何をすればよろしいのでしょうか」
「ご案内いたします」
なるほど。やはり私がサルヴェール侯爵家の女主人としてすべき重要なことが他にあったようです。
気が急いていた自分を反省しながら、先導してくださるオーランドさんの後ろをついていくと、一つの部屋に到着しました。
昨日はこのお部屋の説明はなかったはず。
何のお部屋だろうと首を傾げていると、彼はおもむろに扉を開けました。
「こちらは……一体?」
リネン室かと思われたそこには、ひと目で高級と分かる素材の生地や毛糸などが雑然と山積みされています。他にも木箱が複数、棚に置かれているのが見えます。
もしやこれを整理整頓しろということでしょうか。与えられた仕事に文句を言うつもりはありませんが、女主人がすることではないような気がします。
「旦那様がご用意した生地と裁縫道具です。ご自由にお使いください」
「ご自由にお使いくださいとは、一体どういうことでしょうか」
もちろん言葉の意味は分かりますが、意図が分からず、戸惑いを隠せないまま尋ねます。
「手芸がご趣味だとお聞きした旦那様が、リゼット様のためにとご用意くださいました。お好きなだけお使いいただいて構いません。何か足りないものがあれば、私に言ってくださればご用意いたします」
今度こそ言葉を失ってしまいました。
確かに手芸は嗜みます。はっきり言って好きです。得意です。
とはいえ、それは貴族の娘が花嫁修業の一環としておこなうものであり、妻となり女主人となった者が、手芸だけをして一日を過ごしていい、というものではないはず。
つまり旦那様がおっしゃるには、私は女主人としての仕事は何一つしてくれなくていい、むしろ何もしてくれるな、ただ黙って手芸をしていろ……と、そういうことなのですね。
今、私が女主人としての仕事をさせてほしいとオーランドさんに頼んだところで、旦那様の忠実な侍従である彼は私に何もさせてくれないでしょう。
「……ありがとうございます。承知いたしました」
旦那様と顔を合わせてお話をしなければ。
私はぐっと手を握りました。
◇◇◇
「旦那様は大変忙しいお方なのです」
サルヴェール家の侍従長、オーランドさんはそうおっしゃいました。
手芸用品を揃えてくださった旦那様にお礼を伝えたい、とオーランドさんに言った時のことです。夕食の時間がやってきて、食事を開始するよう促されたため今日も一人で済ませましたが、さすがに今日は旦那様とお話しできる時間はあるのではないでしょうか。
しかしオーランドさんの返答は、相変わらず同じ言葉を繰り返すのみです。
旦那様は屋敷にお戻りになってはいるようなので、会う時間を作ろうと思えば作れるはずです。私はそれを望んでいますし、オーランドさんもその旨を伝えてくださっているはずです。……伝えていないかもしれませんが。
それなのにその時間さえ割こうとしないのは、酷くお疲れだからでしょうか。
――いいえ。きっとお飾りの妻に愛嬌を振りまく必要はない、会う必要はない。何より会いたくないというお考えでいらっしゃるのでしょう。
妻に時間と物だけ与えていれば大人しくするだろう、とお考えの旦那様。お決まりの言葉を繰り返し、与えられた仕事を淡々とこなすだけの使用人たち。
外側のみ綺麗に整えられているだけの温もりが感じられない、この家そのもののようでした。
◇◇◇
「旦那様は大変忙しいお方なのです」
サルヴェール家の侍従長、オーランドさんはそうおっしゃいました。
私はため息をつくと、こめかみを指でマッサージします。
サルヴェール家に妻としてやって来て四日目となりますが、いまだに旦那様とお会いできておりません。私のしていることと言えば、ただ黙って手芸で時間を潰すのみです。
あれほど好きだったのに、時間を潰すためだけの趣味はもはや趣味ではなく、苦痛すら感じ始めています。
外に出ることは禁じられてはいませんが、まるで部屋に一人閉じ込められている気分です。
「お茶はいかがでしょうか、リゼット様」
「ありがとうございます。頂きます」
刺繍していた手を止めてお茶を頂くことにしました。
相変わらず感情の色がないアンヌさんですが、よくよく観察していると気遣いが端々に窺われ、決して無感情というわけでも、義務的に嫌々やっているわけでもないのだと感じます。
……読み違えている可能性も否定できませんが、とりあえず自分の見る目を信じて、少し会話に挑戦してみたいと思います。
「アンヌさん。少しお尋ねしたいことがあります」
「はい」
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