116 / 127
第5章:聖地ラスラッカ編
第111話:空中対戦〜クルトの暴走〜
しおりを挟む
どれほどの距離を飛んだのかわからない。
ミヤコは空飛ぶホットカーペットの上でみかんを食べながらくつろいていた。下を見ても大地は見えず、海と雲。天を見ても終わりのない青空ばかりで夜すら来ない。時間がさっぱりわからないので何日すぎたのかもわからないが、とにかく長い時間飛んでいた。退屈を紛らわすのに昔の話をしたり、これからのことを話したり。何度か、クルトから怪しげな手付きで弄られそうになって、押し止めたり。
「クルトさん!一応フェリって聖獣だから!」
「一応ってなによ!」
「ちょっとくらい運動したほうがいいじゃないか」
「そういう運動はダメ!」
顔を真っ赤にしながらミヤコは纏っていたマントをぎゅっと握りしめた。
クルトはゴロンと横になり、片腕で頭を支えもう一方でミヤコの足をさわさわと撫でていたが、隙を見て腰をつかみ、隣に転がし抱きしめた。
「んんっ」
ちゅ、ちゅとキスをしてやわらかな唇を確かめる。
「はあ。好きだよ、ミヤ」
「クルトさん、なんかキャラ変わってる!」
「そう?僕はミヤの前ではずっとこうだと思うけど?」
「だ、だってこんな風に前は」
「してたよ。君が気づかなかっただけで」
二人きりになることが少なかったおかげで、かなり自制させられてはいたが、基本ミヤコが近くにいて触らないということはなかった。今現在、周りには何もない。空と海とフェニックスだけだ。フェニックスは所詮鳥だし、3回も羽ばたけば一旦前のことなど忘れるに決まってる。気にすることないじゃないか、とクルトは思ったのだが、ミヤは違うのかと内心不貞腐れている。
「好きな人がこんなに近くにいて、いい匂いがするし柔らかいし、邪魔も無いのに触らないなんて、男としておかしいだろ」
「そ、そういう問題じゃな、んっ」
ミヤコが声を張り上げる前に唇を塞がれ、結局流されてしまう。ちらりと様子を伺ったフェリだったが、無言のまま空を飛び続ける。カルラとアガバのやりとりをよく見ているフェリは、アホウドリに徹することも得意だった。
それに、今だけだもの。
精霊は、意思の伝達が早い。同じ属性のものは意識を共有することができるから、常に情報は入ってくる。違う属性のものも、大精霊さえ情報を得ればすぐに伝わるのだ。キミヨと地の大精霊の話し合いはすぐに他の大精霊にも伝わった。小さな精霊たちはミヤコの味方だ。できれば自分たちはミヤコから離れたくない。ミヤコが望むものをすべて叶えてあげれば、ずっと自分たちといてくれるのではないかと期待している。
それはほんの数日一緒にいるフェリにしても同じだった。ミヤコの周りは居心地が良い。やわらかで暖かで力強い。りんごもたくさんくれる。恐ろしいまでの威圧感を持つカルラやアガバとはまた違う、安心感があるのだ。それが何なのかはわからない。けれど活力が湧いてくる何かがミヤコにはあり、それがひたひたと魂に寄り添ってくるのだ。
この風の子供も魂のレベルでそれがわかっているのに違いない、とフェリは思う。こんなに小さな人間なのに、全世界の命運をこの二人に委ねなきゃならないなんて。フェニックスであるアタシが、何もしてあげられないなんて。
大きな光は、全てのためになんて誰が言ったのかしら。
「もうすぐよ。覚悟しなさい」
旅の終わりがもうすぐ、やってくる。この二人はどちらの道を選ぶのか。フェリはキュッと口を閉じて前方を見定めた。
風向きが変わった。淀んだ空気に腐臭。ミヤコははっと顔を上げ、目を凝らして前方を見た。
「クルトさん………」
「ああ」
それまで雲ひとつなく広がっていた青空に、くすんだ色が混じり合った。進路が変わったのか、高度が落ちたのか。雲が肌を撫で、湿り気のある空気にミヤコは眉をしかめた。
「瘴気?」
「何か来るわ!しっかりつかまって!」
フェリが緊迫した声をあげた。風を切るように翼をパンッと広げスピードを上げる。つかまれと言われても、手綱があるわけでもなく、つかめるものはフェリの背中にはない。二人は寝そべるように腹ばいになりぴったりとフェリに張り付いた。ミヤコの体を押さえつけるようにクルトが腕を伸ばす。
「顔を伏せて」
「うん」
ミヤコの鼻には、瘴気の独特な悪臭が纏わり付いた。近い。聖地から匂ってくるのだとしたら、いったい何が瘴気になったのか。フェリに顔を擦り付けて鼻を隠そうとしたその瞬間、衝撃が走ってミヤコの体が宙に浮いた。
「!?」
鋭い痛みがミヤコの背中を襲い、かはっと息を吐く。次の瞬間ミヤコの体を黒い靄が拘束した。その靄の中から人の手がミヤの腕を掴んでいるのが見えた。顔だけ振り返りその存在を確かめる。
「モンド!?」
はっと顔を戻すと、クルトを乗せたフェリが黒い靄に包まれ墜落するように落ちていく。
「フェリ!クルトさん!」
ミヤコはモンドの手から逃れようと体をよじるが、掴まれた腕がギリギリと締め付けられて骨が軋んだ。痛みに顔を歪ませる。
「あぁ……ようヤク捕まエた。お前サエいれバ、俺は王になれるンだ。俺は神の子ダ。ハハ……ハハハ!」
「離して!」
何かがおかしい。禍々しい瘴気を纏い瘴魔になりつつあるのか。靄の中からヌッと顔を突き出し、ミヤコの鼻先に現れたモンドは狂気に歪んだ笑顔を貼り付け、ミヤコの唇を奪った。
ぞわりと全身に鳥肌が立った。
「!!」
腐臭がミヤコの口の中に広がり吐き気を催した。
「ぐっ!?」
唇の間に捻じりこまれたモンドの舌を千切る勢いで噛みつき、思わず離れたモンドに対して唾を吐く。血の混じった唾液を頬からぬぐい取ったモンドは、カッとしてミヤコの顔を殴り飛ばした。鉄の味がミヤコの口中に溢れて、歯をくいしばる。掴まれた腕により力が入り、もう片手がミヤコの肩を掴み取る。口の中を切ったミヤコは血を滴らせながらも、ギッとモンドを睨みつける。その目には恐怖よりも憎悪に溢れている。
「生意気な!俺は王だゾ!」
「だから何!」
「ググッ!俺が望んだラ、お前はただ差し出せ!逆ラウな!」
「馬鹿じゃないの!誰が従うもんですか!」
ミヤコの目には怒りの炎が上がって、モンドは一瞬躊躇した。なんだこの女は。震える体を手のひらに感じる。怖いくせに、逆らいやがる。眩しいくらいの光を発しているかの様に錯覚する。自身から湧き上がる嫉妬や恐怖、怒りや悲しみといった負の思念をなぎ消していくかのように。
「調教シテやる、二度と俺に逆らえナイように!お前を差し出せ!」
モンドはすぐ強気になり、もう一度ミヤコの唇を奪おうと顔を近づけたが、頭をのけぞらせたミヤコがモンドの視界に入ったと思ったら、振り戻した頭が鼻頭に返ってきた。
「グァッ!?」
ゴキッと鈍い音がして、目の前に星が飛んだモンドは、思わずミヤコの体を突き放してしまった。
頭突きをかましてモンドから解放されたミヤコは、すぐ体を回転させて、逃げるように急降下を始める。フェリはどこだと目を細めて両手をサイドに広げた。スカイダイビングをするモモンガのように広げれば、纏っていたマントが風を含みスピードがわずかに抑えられる。
「ミヤ!」
風魔法をまとったクルトがミヤコをふわりと受け止めて、だがそのまま下降していく。
「風魔法が上手く発動しないんだ!このままフェリのところへ行く!」
「クルトさん!フェリは!?」
「大丈夫!衝撃波を受けただけで怪我はない。ミヤは……」
大丈夫か、という前に見たミヤコの顔にクルトは息を飲んだ。モンドに殴られた顔が赤く手形を残し皮膚が切れて血が滲んでいる。黄緑色の瞳が赤黒く染まり、ミヤコはクルトの怒りに固まった。
「だ、大丈夫よ!ちゃんとやり返したし!」
「あの、下衆やろう……!!」
そこへフェリが上手く滑り込み、クルトとミヤコを受け止めた。
「ちょっと!大丈夫だった!?ごめんねアタシも油断したわ!」
「だ、大丈夫よ!不意打ちでキスされただけで、舌を噛み切ってやったわ!」
フンッと鼻息荒く、やり返してやったことを自慢するように言った後でハッと気がつく。
「……キ、ス?」
「あっ、えっとあの、」
「舌を噛み切ったって、あいつ舌までいれてきたのか…!」
「いや、あの、問題はそこじゃなくて、ね?」
「それで、殴られたのか」
そっと頰に手を当てるクルトに、びくりと避けるように体を揺らすミヤコ。今更ながらじんじんと痛む。痛みをこらえて笑おうとするが、口の中が切れていて、口元から血が溢れた。
目を見開いて燃え上がるクルト。黒い炎が背中から上がる。こんなに怒ったクルトは見たことがない。魔獣が出た時だって、精霊王と初対面で敵対した時だってこれほどではなかった。震える指がそっとミヤコの口元を拭い、水魔法で頰を冷やすように手を当てた。
「他には?」
「え、えっと大丈夫、だよ?あの、あのね、私も頑張って舌も噛み切ってやったし、頭突きを鼻にしたし?それで手を離されて、落ちたけど、あの、クルトさんのくれたマントがあったからね、だから」
「腕を、掴まれたんだな?」
マントをめくって腕を見ると、そこにも赤黒く握られた跡が残っていた。かなり力強く握られていたんだと気がつく。
「……」
「あ、えと、あの、クルトさん?」
無言がすごく怖い。フェリは不自然なほどまっすぐ前を見て、こちらを見ようとせず、話しかけることもなく乗り物に徹している。
「フェリ!」
「ハイィッ!」
「今度あいつが来たら、俺が締め上げてギッタギタにするから、いいというまで手をだすな!いいな!?」
「ハイィッ!?」
「ク、クルトさ……口調が」
クルトはミヤコの唇を親指で撫で、そっとキスをした。
「口開けて」
「ふぇ?」
「消毒!」
ひんやりしたクルトの舌がミヤコの口をゆっくりかき回し、血をぬぐい取っていく。水魔法を纏った手で頰を冷やしながら、消毒に満足したクルトはようやくミヤコの唇を解放した。酸欠と「消毒」の熱っぽさでぼんやりするミヤコの頭を自分の胸に押し付け、ちょっとじっとしてて、と告げる。
突然、クルトが炎の魔法を機関銃のように繰り出した。
「がアァッ!?」
ドシュ、ドシュッと音がして、焼けた匂いが鼻についた。ミヤコが振り向こうとしたものの、クルトががっちりミヤコの頭を胸に押し付けているせいで、何が起こっているのか見ることができない。が、あの声はモンドのものだとわかる。性懲りも無く戻ってきたのだ。
「女をヨコセ!」
モンドが喚くが、クルトは一言も発せず、魔法弾の衝撃だけがミヤコの体に伝わってくる。ぎゃっとか、ヒイィッとかグェェッなどといった悲鳴だけが虚しく響き、その間、ミヤコはクルトの心音だけに耳を傾け、目は見開いたままピクリとも動かずにいた。
そして静かになった。
「フェリ、浄化しろ」
「はぁい」
フェリがゴッと炎を吐き、かすかにじゅっと何かが溶ける音がして全てが終わった。ミヤコはごくりと喉を鳴らした。
まさかとは思うが、あれがモンドの最後だったのだろうか。
小首を傾げたミヤコだったが、そう尋ねるのはなぜか憚られた。
「火の加護ってすごいな。色々纏ってたから全部浄化してやった」
「へ、へえ。いろいろって、何かな」
「瘴気とか、瘴気とか、瘴気だね。あれは腐ってたからね。どんどん瘴気が出てきたよ」
「エェ~…あれだけ攻撃したら、その」
「死んだろうね。自業自得だけど、気になるかい?」
「え、えと、まあ」
「……アイザック、聞こえるか?」
――え?いきなりアイザックさん?あ、そうか!伝達石があったんだった!
すっかりその存在を忘れていたミヤコだったが、クルトは移動ごとに逐一報告していたらしい。報連相、大事。
「……というわけだから、黒いのが海に落ちていたら、カリプソに拾ってもらってアガバに渡すよう連絡してくれないか。……ああ、大丈夫。……ああ、そうだ。そろそろ風の聖地に着くから。また後で。そっちは?……そうか。わかった。頑張れよ。……了解」
きょとんとして見上げるミヤコに、今度こそクルトはにっこり笑った。
「アイザックが王になるみたいだよ」
「アイザックが王様?!」
「ああ。詳しくはわからないけど、国王と聖女がモンファルト元王子によって処刑されたらしいよ。だけど、やり方が悪かったんだろうね。ちょうどアイザック達革命軍が王都に入った後で、貴族と中枢は制圧した後だったらしい。それで、国民がモンファルトに反発してアイザックを持ち上げたってとこかな」
「ええ……」
「軍師を味方につけたようだ」
「クルトさんのお父さんも」
どうも、極端にはしょりすぎな気もするが、もともとモンファルトは廃嫡されていたし、国民を惹きつけるほどのカリスマ性も甲斐性もなかった残念な人だ。聖女とルブラート教に踊らされた被害者といえば、そうなのかもしれないが。冷たい言い方をすれば、この世界で親を殺されたのは何も彼だけではないのだ。アイザックは村ごと滅ぼされたし、ルノーだって研究材料にされた唯一の部族の生き残り。瘴気や瘴魔に親や子供を殺された人もたくさんいる。
そんな中で、ルノーはグレンフェールの街の人々を元気づけ、率いて王都まで来た。アイザックはガーネットと共にオワンデルの魑魅魍魎を退治した聖騎士で、精鋭隊からもルノーからも信頼される立場の人だ。アイザックは特に、人を引き寄せるカリスマ性がある。公平で実直で貫禄もある。短気で口は悪いけど。
――アイザックさんが王になるのは、まあ当然の成り行きかな。
「そっか。じゃあ、ミラート神国は大丈夫なのかな?」
「今のところは、だよ。聖地の穢れを祓わないことには根本は解決しない」
「じゃ、今度は私たちの番だね」
「うん。頑張ろう」
ミヤコはクルトを見て大きく頷いた。
「フェリちゃん、助けてくれてありがとう!」
「あ、あら。どってことないわよ。それより、ちょっと進路を戻すから、飛ばすわよ」
「その前にリンゴ食べる?」
「いただきます!」
フェリは大きな口を開けて、リンゴが投げられるのを待った。
==========
モンド、あっけなく散りましたね。
ミヤコは空飛ぶホットカーペットの上でみかんを食べながらくつろいていた。下を見ても大地は見えず、海と雲。天を見ても終わりのない青空ばかりで夜すら来ない。時間がさっぱりわからないので何日すぎたのかもわからないが、とにかく長い時間飛んでいた。退屈を紛らわすのに昔の話をしたり、これからのことを話したり。何度か、クルトから怪しげな手付きで弄られそうになって、押し止めたり。
「クルトさん!一応フェリって聖獣だから!」
「一応ってなによ!」
「ちょっとくらい運動したほうがいいじゃないか」
「そういう運動はダメ!」
顔を真っ赤にしながらミヤコは纏っていたマントをぎゅっと握りしめた。
クルトはゴロンと横になり、片腕で頭を支えもう一方でミヤコの足をさわさわと撫でていたが、隙を見て腰をつかみ、隣に転がし抱きしめた。
「んんっ」
ちゅ、ちゅとキスをしてやわらかな唇を確かめる。
「はあ。好きだよ、ミヤ」
「クルトさん、なんかキャラ変わってる!」
「そう?僕はミヤの前ではずっとこうだと思うけど?」
「だ、だってこんな風に前は」
「してたよ。君が気づかなかっただけで」
二人きりになることが少なかったおかげで、かなり自制させられてはいたが、基本ミヤコが近くにいて触らないということはなかった。今現在、周りには何もない。空と海とフェニックスだけだ。フェニックスは所詮鳥だし、3回も羽ばたけば一旦前のことなど忘れるに決まってる。気にすることないじゃないか、とクルトは思ったのだが、ミヤは違うのかと内心不貞腐れている。
「好きな人がこんなに近くにいて、いい匂いがするし柔らかいし、邪魔も無いのに触らないなんて、男としておかしいだろ」
「そ、そういう問題じゃな、んっ」
ミヤコが声を張り上げる前に唇を塞がれ、結局流されてしまう。ちらりと様子を伺ったフェリだったが、無言のまま空を飛び続ける。カルラとアガバのやりとりをよく見ているフェリは、アホウドリに徹することも得意だった。
それに、今だけだもの。
精霊は、意思の伝達が早い。同じ属性のものは意識を共有することができるから、常に情報は入ってくる。違う属性のものも、大精霊さえ情報を得ればすぐに伝わるのだ。キミヨと地の大精霊の話し合いはすぐに他の大精霊にも伝わった。小さな精霊たちはミヤコの味方だ。できれば自分たちはミヤコから離れたくない。ミヤコが望むものをすべて叶えてあげれば、ずっと自分たちといてくれるのではないかと期待している。
それはほんの数日一緒にいるフェリにしても同じだった。ミヤコの周りは居心地が良い。やわらかで暖かで力強い。りんごもたくさんくれる。恐ろしいまでの威圧感を持つカルラやアガバとはまた違う、安心感があるのだ。それが何なのかはわからない。けれど活力が湧いてくる何かがミヤコにはあり、それがひたひたと魂に寄り添ってくるのだ。
この風の子供も魂のレベルでそれがわかっているのに違いない、とフェリは思う。こんなに小さな人間なのに、全世界の命運をこの二人に委ねなきゃならないなんて。フェニックスであるアタシが、何もしてあげられないなんて。
大きな光は、全てのためになんて誰が言ったのかしら。
「もうすぐよ。覚悟しなさい」
旅の終わりがもうすぐ、やってくる。この二人はどちらの道を選ぶのか。フェリはキュッと口を閉じて前方を見定めた。
風向きが変わった。淀んだ空気に腐臭。ミヤコははっと顔を上げ、目を凝らして前方を見た。
「クルトさん………」
「ああ」
それまで雲ひとつなく広がっていた青空に、くすんだ色が混じり合った。進路が変わったのか、高度が落ちたのか。雲が肌を撫で、湿り気のある空気にミヤコは眉をしかめた。
「瘴気?」
「何か来るわ!しっかりつかまって!」
フェリが緊迫した声をあげた。風を切るように翼をパンッと広げスピードを上げる。つかまれと言われても、手綱があるわけでもなく、つかめるものはフェリの背中にはない。二人は寝そべるように腹ばいになりぴったりとフェリに張り付いた。ミヤコの体を押さえつけるようにクルトが腕を伸ばす。
「顔を伏せて」
「うん」
ミヤコの鼻には、瘴気の独特な悪臭が纏わり付いた。近い。聖地から匂ってくるのだとしたら、いったい何が瘴気になったのか。フェリに顔を擦り付けて鼻を隠そうとしたその瞬間、衝撃が走ってミヤコの体が宙に浮いた。
「!?」
鋭い痛みがミヤコの背中を襲い、かはっと息を吐く。次の瞬間ミヤコの体を黒い靄が拘束した。その靄の中から人の手がミヤの腕を掴んでいるのが見えた。顔だけ振り返りその存在を確かめる。
「モンド!?」
はっと顔を戻すと、クルトを乗せたフェリが黒い靄に包まれ墜落するように落ちていく。
「フェリ!クルトさん!」
ミヤコはモンドの手から逃れようと体をよじるが、掴まれた腕がギリギリと締め付けられて骨が軋んだ。痛みに顔を歪ませる。
「あぁ……ようヤク捕まエた。お前サエいれバ、俺は王になれるンだ。俺は神の子ダ。ハハ……ハハハ!」
「離して!」
何かがおかしい。禍々しい瘴気を纏い瘴魔になりつつあるのか。靄の中からヌッと顔を突き出し、ミヤコの鼻先に現れたモンドは狂気に歪んだ笑顔を貼り付け、ミヤコの唇を奪った。
ぞわりと全身に鳥肌が立った。
「!!」
腐臭がミヤコの口の中に広がり吐き気を催した。
「ぐっ!?」
唇の間に捻じりこまれたモンドの舌を千切る勢いで噛みつき、思わず離れたモンドに対して唾を吐く。血の混じった唾液を頬からぬぐい取ったモンドは、カッとしてミヤコの顔を殴り飛ばした。鉄の味がミヤコの口中に溢れて、歯をくいしばる。掴まれた腕により力が入り、もう片手がミヤコの肩を掴み取る。口の中を切ったミヤコは血を滴らせながらも、ギッとモンドを睨みつける。その目には恐怖よりも憎悪に溢れている。
「生意気な!俺は王だゾ!」
「だから何!」
「ググッ!俺が望んだラ、お前はただ差し出せ!逆ラウな!」
「馬鹿じゃないの!誰が従うもんですか!」
ミヤコの目には怒りの炎が上がって、モンドは一瞬躊躇した。なんだこの女は。震える体を手のひらに感じる。怖いくせに、逆らいやがる。眩しいくらいの光を発しているかの様に錯覚する。自身から湧き上がる嫉妬や恐怖、怒りや悲しみといった負の思念をなぎ消していくかのように。
「調教シテやる、二度と俺に逆らえナイように!お前を差し出せ!」
モンドはすぐ強気になり、もう一度ミヤコの唇を奪おうと顔を近づけたが、頭をのけぞらせたミヤコがモンドの視界に入ったと思ったら、振り戻した頭が鼻頭に返ってきた。
「グァッ!?」
ゴキッと鈍い音がして、目の前に星が飛んだモンドは、思わずミヤコの体を突き放してしまった。
頭突きをかましてモンドから解放されたミヤコは、すぐ体を回転させて、逃げるように急降下を始める。フェリはどこだと目を細めて両手をサイドに広げた。スカイダイビングをするモモンガのように広げれば、纏っていたマントが風を含みスピードがわずかに抑えられる。
「ミヤ!」
風魔法をまとったクルトがミヤコをふわりと受け止めて、だがそのまま下降していく。
「風魔法が上手く発動しないんだ!このままフェリのところへ行く!」
「クルトさん!フェリは!?」
「大丈夫!衝撃波を受けただけで怪我はない。ミヤは……」
大丈夫か、という前に見たミヤコの顔にクルトは息を飲んだ。モンドに殴られた顔が赤く手形を残し皮膚が切れて血が滲んでいる。黄緑色の瞳が赤黒く染まり、ミヤコはクルトの怒りに固まった。
「だ、大丈夫よ!ちゃんとやり返したし!」
「あの、下衆やろう……!!」
そこへフェリが上手く滑り込み、クルトとミヤコを受け止めた。
「ちょっと!大丈夫だった!?ごめんねアタシも油断したわ!」
「だ、大丈夫よ!不意打ちでキスされただけで、舌を噛み切ってやったわ!」
フンッと鼻息荒く、やり返してやったことを自慢するように言った後でハッと気がつく。
「……キ、ス?」
「あっ、えっとあの、」
「舌を噛み切ったって、あいつ舌までいれてきたのか…!」
「いや、あの、問題はそこじゃなくて、ね?」
「それで、殴られたのか」
そっと頰に手を当てるクルトに、びくりと避けるように体を揺らすミヤコ。今更ながらじんじんと痛む。痛みをこらえて笑おうとするが、口の中が切れていて、口元から血が溢れた。
目を見開いて燃え上がるクルト。黒い炎が背中から上がる。こんなに怒ったクルトは見たことがない。魔獣が出た時だって、精霊王と初対面で敵対した時だってこれほどではなかった。震える指がそっとミヤコの口元を拭い、水魔法で頰を冷やすように手を当てた。
「他には?」
「え、えっと大丈夫、だよ?あの、あのね、私も頑張って舌も噛み切ってやったし、頭突きを鼻にしたし?それで手を離されて、落ちたけど、あの、クルトさんのくれたマントがあったからね、だから」
「腕を、掴まれたんだな?」
マントをめくって腕を見ると、そこにも赤黒く握られた跡が残っていた。かなり力強く握られていたんだと気がつく。
「……」
「あ、えと、あの、クルトさん?」
無言がすごく怖い。フェリは不自然なほどまっすぐ前を見て、こちらを見ようとせず、話しかけることもなく乗り物に徹している。
「フェリ!」
「ハイィッ!」
「今度あいつが来たら、俺が締め上げてギッタギタにするから、いいというまで手をだすな!いいな!?」
「ハイィッ!?」
「ク、クルトさ……口調が」
クルトはミヤコの唇を親指で撫で、そっとキスをした。
「口開けて」
「ふぇ?」
「消毒!」
ひんやりしたクルトの舌がミヤコの口をゆっくりかき回し、血をぬぐい取っていく。水魔法を纏った手で頰を冷やしながら、消毒に満足したクルトはようやくミヤコの唇を解放した。酸欠と「消毒」の熱っぽさでぼんやりするミヤコの頭を自分の胸に押し付け、ちょっとじっとしてて、と告げる。
突然、クルトが炎の魔法を機関銃のように繰り出した。
「がアァッ!?」
ドシュ、ドシュッと音がして、焼けた匂いが鼻についた。ミヤコが振り向こうとしたものの、クルトががっちりミヤコの頭を胸に押し付けているせいで、何が起こっているのか見ることができない。が、あの声はモンドのものだとわかる。性懲りも無く戻ってきたのだ。
「女をヨコセ!」
モンドが喚くが、クルトは一言も発せず、魔法弾の衝撃だけがミヤコの体に伝わってくる。ぎゃっとか、ヒイィッとかグェェッなどといった悲鳴だけが虚しく響き、その間、ミヤコはクルトの心音だけに耳を傾け、目は見開いたままピクリとも動かずにいた。
そして静かになった。
「フェリ、浄化しろ」
「はぁい」
フェリがゴッと炎を吐き、かすかにじゅっと何かが溶ける音がして全てが終わった。ミヤコはごくりと喉を鳴らした。
まさかとは思うが、あれがモンドの最後だったのだろうか。
小首を傾げたミヤコだったが、そう尋ねるのはなぜか憚られた。
「火の加護ってすごいな。色々纏ってたから全部浄化してやった」
「へ、へえ。いろいろって、何かな」
「瘴気とか、瘴気とか、瘴気だね。あれは腐ってたからね。どんどん瘴気が出てきたよ」
「エェ~…あれだけ攻撃したら、その」
「死んだろうね。自業自得だけど、気になるかい?」
「え、えと、まあ」
「……アイザック、聞こえるか?」
――え?いきなりアイザックさん?あ、そうか!伝達石があったんだった!
すっかりその存在を忘れていたミヤコだったが、クルトは移動ごとに逐一報告していたらしい。報連相、大事。
「……というわけだから、黒いのが海に落ちていたら、カリプソに拾ってもらってアガバに渡すよう連絡してくれないか。……ああ、大丈夫。……ああ、そうだ。そろそろ風の聖地に着くから。また後で。そっちは?……そうか。わかった。頑張れよ。……了解」
きょとんとして見上げるミヤコに、今度こそクルトはにっこり笑った。
「アイザックが王になるみたいだよ」
「アイザックが王様?!」
「ああ。詳しくはわからないけど、国王と聖女がモンファルト元王子によって処刑されたらしいよ。だけど、やり方が悪かったんだろうね。ちょうどアイザック達革命軍が王都に入った後で、貴族と中枢は制圧した後だったらしい。それで、国民がモンファルトに反発してアイザックを持ち上げたってとこかな」
「ええ……」
「軍師を味方につけたようだ」
「クルトさんのお父さんも」
どうも、極端にはしょりすぎな気もするが、もともとモンファルトは廃嫡されていたし、国民を惹きつけるほどのカリスマ性も甲斐性もなかった残念な人だ。聖女とルブラート教に踊らされた被害者といえば、そうなのかもしれないが。冷たい言い方をすれば、この世界で親を殺されたのは何も彼だけではないのだ。アイザックは村ごと滅ぼされたし、ルノーだって研究材料にされた唯一の部族の生き残り。瘴気や瘴魔に親や子供を殺された人もたくさんいる。
そんな中で、ルノーはグレンフェールの街の人々を元気づけ、率いて王都まで来た。アイザックはガーネットと共にオワンデルの魑魅魍魎を退治した聖騎士で、精鋭隊からもルノーからも信頼される立場の人だ。アイザックは特に、人を引き寄せるカリスマ性がある。公平で実直で貫禄もある。短気で口は悪いけど。
――アイザックさんが王になるのは、まあ当然の成り行きかな。
「そっか。じゃあ、ミラート神国は大丈夫なのかな?」
「今のところは、だよ。聖地の穢れを祓わないことには根本は解決しない」
「じゃ、今度は私たちの番だね」
「うん。頑張ろう」
ミヤコはクルトを見て大きく頷いた。
「フェリちゃん、助けてくれてありがとう!」
「あ、あら。どってことないわよ。それより、ちょっと進路を戻すから、飛ばすわよ」
「その前にリンゴ食べる?」
「いただきます!」
フェリは大きな口を開けて、リンゴが投げられるのを待った。
==========
モンド、あっけなく散りましたね。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
868
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる