『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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どうして、誰も疑わないのだろう。

フィリオ=ルクレインは、昼下がりの石畳の廊下を歩きながら、胸の奥がじくじくと痛むのを感じていた。

香塔の前で感じた不気味さ。食堂での無言の圧力。図書室で見た、誰もアズナ=グランフォードを裁けなかった記録の数々。それらはすべて事実だった。それなのに、なぜ皆、あの人を信じるのか。頼るのか。微笑まれることを、嬉しがるのか。

「おかしい……」

独り言のようにそう呟くと、肩にかけていた鞄が少しだけ揺れた。

教室でも、寮でも、どこでも聞こえてくる“称賛”の声が、今では耳障りでならなかった。

「アズナ様は、完璧なお方よね」

「怒られたことなんて、一度もないよ」

「許されると、安心するっていうか……優しさに包まれるの」

その“優しさ”が、フィリオには――堪えがたい“屈辱”だった。

なぜなら、そこに“対等な目線”を感じたことが一度もないからだ。まるで彼女の周囲だけ、ひとつ高い台の上にあるかのように、すべてを“包み込む視線”が降りてくる。その微笑は、あまりにも完璧すぎて、あまりにも無垢すぎて、むしろ“否定”されたようにすら感じられる。

――私は、同じ場所に立てていない。

そんな苦しさを抱えたまま、フィリオは午後の講義を終えた。

その日の最後、講義室を出る直前に呼び止められたのは、倫理学を教えるライナス教師だった。

「君の目は、よく見ているな。感じたことを、そのまま文章にしてごらん」

教師の言葉に、フィリオは戸惑った。

「文章……ですか?」

「誰にも見せなくていい。自分の思ったことを、まず自分で知るために書くんだ。君のような子は、それがきっと必要になる」

その言葉は、じんわりと胸に染み込んでくるようだった。

その夜、寮の机の前で、フィリオは便箋を広げた。灯の下で、手が震えるのを感じながら、ペンを走らせる。

――私は、間違っているのだろうか。  
――あの微笑みは、優しさなのか。  
――それとも、私を“正すため”の冷たい光なのか。

気づけば、便箋は十枚近くに達していた。書き殴られた言葉の数々は、やがて一つの方向性を持ち始める。

“アズナ=グランフォードは、善意をもってして他者を支配している”  
“その香りと笑顔は、精神的高圧であり、対話を不可能にする力だ”  
“わたしは、それを赦すことができない”

翌朝、フィリオは封筒を手に事務局へ向かった。歩くたびに、心臓の鼓動が大きくなる。足がすくむ。けれど――止まらない。

「こちら……生徒会宛の文書、提出をお願いします」

事務官は淡々と受け取り、提出記録に印を残した。

それは、“断罪請願状”として正式に受理された瞬間だった。

学院中に、さざ波のようなざわめきが広がる。  
“あのアズナ様に対して、告発状が出された”――と。

生徒会が緊急招集される。教師たちが静かに事務局へ足を運ぶ。

そんな中、フィリオは立っていた。誰よりも小さく、誰よりも強く。  
これは勇気なのか、それともただの錯覚なのか――その答えは、まだ分からない。

けれど彼女は知っていた。もう、後戻りはできないということだけは。
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