『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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それは、あまりにも静かな夜だった。

春の香塔から漂う香りは、今夜も学院全体に満ちていた。  
だがそれはいつものように甘くやさしいものではなく、どこか空気の輪郭をぼかすような――  
輪郭のない、白い夢のような香りだった。

そしてその夜、生徒たちは再び、同じ夢を見た。

広大な白い花畑。  
風もなく、空もない、ただ光だけがゆらめく幻想の原野。  
そこに立つ者は誰もいなかった。ただひとりだけ、花々に囲まれて座る少女の姿。

アズナ=グランフォード。

彼女は立ち上がるでもなく、誰かを待つでもなく、ただ静かに座っていた。  
目を伏せ、口元に微笑をたたえたまま。

前回の夢では、彼女は人々の中心にいた。  
微笑み、歩き、迎え入れ、すべてを赦していた。

けれど今回の夢では――誰もいなかった。

その静寂が、あまりにも深かった。

朝、寮の談話室はどこか妙な空気に包まれていた。

「また……あの夢を見たわ」  
「今度は……アズナ様が、ひとりで……」

「まるで、誰かと話すことも、必要としていないような顔だった」  
「……でも、違う。あれは“ひとりでいることを選んだ”顔じゃなかった。選ぶしかなかった、みたいな……」

誰かがぽつりと呟く。

「もしかして……アズナ様の方が、わたしたちより、ずっと寂しいのかもしれない……」

それは、これまで語られなかった感情だった。

誰もが彼女を中心に据えてきた。  
“微笑まれる者”として、彼女のまなざしを求め、香を真似し、日々の安心を享受してきた。

けれど――

“微笑む側”に、誰かの温度があったことを。  
“赦す側”にも、痛みがあるかもしれないことを。  
初めて、考えた。

夜の香塔の周辺には、その日、誰も近づかなかった。

理由は分からない。ただ、香りが少しだけ重く感じられたから。  
その香に包まれて、もう一度“同じ夢”を見ることが怖かったから。

その夜、香は確かに人々の心をひとつにした。  
けれど、今度は“支配”ではなかった。  
それは、ひとりの微笑の奥にある、深い孤独への――静かな共感だった。
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