『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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夜更けのル・グラシエ寮。  
アズナ=グランフォードの私室には、静かに香が満ちていた。

ベアトリスは、いつものように机まわりを丁寧に整えていた。  
香瓶の位置、筆記具の角度、ランプの芯――  
どれも彼女の几帳面な性格を映すように、ぴたりと揃っている。

だがその晩、いつもと違う場所に目が留まった。

香棚の最上段。  
鍵付きの小箱に覆われた一本の香瓶。  
それは、どこか異質な存在感を放っていた。

「お嬢様……こちらは?」

声をかけると、アズナは本を閉じてゆっくりと立ち上がった。  
目を伏せたまま、小さく頷く。

「それは……昔、封じた香ですの」

彼女が指先で鍵を回し、箱を開くと、そこには薄い紫に染まった瓶が静かに眠っていた。  
キャップに触れた瞬間、アズナの瞳がかすかに揺れる。

ふわりと広がるのは、甘さの奥にほんのり苦味を宿す香――  
まるで、言葉にならなかった感情そのもののような。

次の瞬間、アズナの視界に、ある光景がよぎった。

――回想:旧香研究室。

夜の塔の奥、まだ幼い彼女はひとり、机に香材を並べていた。  
手元の香瓶を割って泣いた日。  
誰かの心ない言葉に胸を締めつけられた日。  
けれど、その感情を言葉にすることはなかった。

彼女は瓶を取り、調香を始める。  
「感じてはいけない」「揺らいではいけない」  
そう自らに言い聞かせ、香で封じ、匂いの中に“怒り”も“悲しみ”も溶かしていった。

感情を消すための香。  
それが、彼女の最初の“調香”だった。

現実に戻ったアズナは、ゆっくりと目を伏せる。  
その手には、再び封印された紫の瓶。

ベアトリスが、少しだけ声を潜めて言った。

「お嬢様……あなたは、ご自分でご自分の心を、閉ざしておられるのですね」

アズナは一拍の沈黙ののち、いつものように微笑んだ。

「……そんな過去も、ございましたわ。でも今は、皆さまのお役に立てる香を作れるようになりましたもの」

その笑顔に、迷いも痛みも滲んでいない――  
そう思いたかった。

だが、ベアトリスの目には映っていた。  
その微笑みの奥にある、“決して戻らない感情”の影が。

香に封じた記憶。  
香に沈めた本音。  
アズナの静けさは、育まれたものではなく――“消してきたもの”の集積だったのかもしれない。
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