『この悪役令嬢、すべてを許しすぎて逆に怖い』

白石あかね

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香塔の最深部、実験室。  
石造りの壁に囲まれたそこは、特別な魔術遮断処理が施された、“香の届かぬ空間”だった。

「ここで、一晩を過ごしていただきます」

ライナス=グレイブは淡々と言った。  
実験の目的は明確だった。  
――アズナの香りから完全に隔絶された環境で、生徒の心理がどう変化するかを検証する。

志願したのは、フィリオ=ルクレイン。

「わたし、ちゃんと自分で考えたいんです。  
あの人を信じることが、ほんとうに“わたし自身の意志”なのか、確かめたい」

そう語った彼女の声には、決意があった。  
だがそれは、あまりにも脆いものだった。

遮音処理のされた小部屋。香も、音も、気配もない。  
ただ机とベッドと、記録用の魔導板が置かれているだけ。

最初の数時間、フィリオは日記をつけたり、呼吸を整えたりして過ごした。  
“自分だけの思考”に触れようとしていた。

けれど、夜が深まるにつれ、空気が少しずつ重くなる。

「……さっきまで、こんなに静かだったっけ?」

耳鳴りがするわけでもない。ただ、“何かが足りない”のだ。

アズナの香。  
やわらかく、すべてを包んでくれる空気。  
いつしかそれは、呼吸の一部のように日常に溶け込んでいた。

そして今、そこにない。

「こんなに、不安なものだったの……? 空気って……」

フィリオの思考が濁る。輪郭が溶けていく。

“わたしって……どんな人だったっけ?”  
“何を目指して、何を嫌って、誰を……怖れていた?”  
“アズナ様がいないと、わたしって……何?”

ふと気づけば、指先が震えていた。  
ベッドの上、膝を抱えながら、いつのまにか視界が滲んでいた。

眠りに落ちたのは、それからすぐだった。

夢の中、白い空間に立っていた。  
見渡す限り何もない。けれど、何かを必死に探している。

「アズナ様……?」

誰もいない。  
“あの人の香り”も、“微笑”も、どこにもない。

「……どうして、笑ってくれないんですか……?」

声は震え、やがて嗚咽へと変わる。

「ごめんなさい……わたし、疑ったりして……  
でも、怖かったんです……わたしが、わたしじゃなくなるのが……!」

そして目が覚めたとき、フィリオはベッドの上で涙を流していた。

香のない空間。  
何も押し付けられていないはずの環境。  
なのに、そこでは“自分”がどこにあるのかさえ分からなくなる。

記録板に、震える指で最後にこう書いた。

《これは信仰じゃない。  
アズナ様への気持ちは、きっともう“依存”になってる。  
あの香がないと、わたしは――壊れる》

香は魔法ではない。  
だがそれは、魔法以上の呪縛だった。
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