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朝、ル・グラシエ寮の空気は妙に“軽かった”。
いや、正確には――“何かが抜けていた”。
アズナ=グランフォードの部屋に満ちていた香が、その日、忽然と姿を消したのだ。
彼女の部屋の香炉には蓋がされ、香瓶は鍵付きの棚にしまい込まれていた。
それは彼女自身が行ったものだった。
理由は、誰にも語られていない。
「本日より、少しだけ香をお休みいたしますわ」
そうだけを、侍女ベアトリスに静かに告げて。
それから数時間も経たぬうちに、学園に異変が広がり始めた。
「……なんだか、頭が重い」
「集中できない……昨日まで、もっと気持ちが落ち着いていたのに」
「誰かと話すのが、妙に疲れる気がする……」
講義棟、香塔前、寮の食堂――
各所で、学生たちが原因不明の“倦怠感”と“苛立ち”を訴え始めた。
「天気のせい?」
「昨日までと、何が違うの?」
けれど、その問いに誰も答えられなかった。
唯一、香塔を訪れていたライナス=グレイブだけが、静かに気づいていた。
「……これは、“正常”に戻りつつある兆候だ」
塔の空気は、今日に限って妙に澄んでいた。
これまで無意識に感じていた“安らぎ”の気配が、確かに希薄だった。
彼は香塔の記録台に、筆を走らせる。
《本日、アズナ=グランフォードによる調香活動の完全停止を確認。
塔内の香気成分は通常基準以下に落ち着き、魔法感知も反応を停止。
学生の不調訴えが複数発生――症状は主観的不快、情緒不安、集中力低下など》
そして、その末尾に一言、こう記した。
《ようやく、香に頼らぬ空気が戻りつつある。
だが今、それは“彼らにとっての異常”となっている。
アズナの香は、すでに空気ではなく“生存の基盤”になっていたのだ》
その間も、アズナは変わらぬ姿勢で講義室の席にいた。
香をまとうことなく、ただ筆記に集中し、誰にも香らせず、誰も導かない。
それは、ひとつの“実験”だったのか。
あるいは、彼女なりの“償い”だったのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
ただ、生徒たちの言葉だけが、真実を物語っていた。
「……アズナ様がいないと、息がしづらい気がする」
「なんで昨日まで、あんなに心が軽かったんだろう……?」
“香がない”ということは、
すでに“支えがない”ということだった。
それがどれほど静かで、深くて、根を張る依存だったのか。
ようやく、誰もが気づき始めていた。
いや、正確には――“何かが抜けていた”。
アズナ=グランフォードの部屋に満ちていた香が、その日、忽然と姿を消したのだ。
彼女の部屋の香炉には蓋がされ、香瓶は鍵付きの棚にしまい込まれていた。
それは彼女自身が行ったものだった。
理由は、誰にも語られていない。
「本日より、少しだけ香をお休みいたしますわ」
そうだけを、侍女ベアトリスに静かに告げて。
それから数時間も経たぬうちに、学園に異変が広がり始めた。
「……なんだか、頭が重い」
「集中できない……昨日まで、もっと気持ちが落ち着いていたのに」
「誰かと話すのが、妙に疲れる気がする……」
講義棟、香塔前、寮の食堂――
各所で、学生たちが原因不明の“倦怠感”と“苛立ち”を訴え始めた。
「天気のせい?」
「昨日までと、何が違うの?」
けれど、その問いに誰も答えられなかった。
唯一、香塔を訪れていたライナス=グレイブだけが、静かに気づいていた。
「……これは、“正常”に戻りつつある兆候だ」
塔の空気は、今日に限って妙に澄んでいた。
これまで無意識に感じていた“安らぎ”の気配が、確かに希薄だった。
彼は香塔の記録台に、筆を走らせる。
《本日、アズナ=グランフォードによる調香活動の完全停止を確認。
塔内の香気成分は通常基準以下に落ち着き、魔法感知も反応を停止。
学生の不調訴えが複数発生――症状は主観的不快、情緒不安、集中力低下など》
そして、その末尾に一言、こう記した。
《ようやく、香に頼らぬ空気が戻りつつある。
だが今、それは“彼らにとっての異常”となっている。
アズナの香は、すでに空気ではなく“生存の基盤”になっていたのだ》
その間も、アズナは変わらぬ姿勢で講義室の席にいた。
香をまとうことなく、ただ筆記に集中し、誰にも香らせず、誰も導かない。
それは、ひとつの“実験”だったのか。
あるいは、彼女なりの“償い”だったのか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
ただ、生徒たちの言葉だけが、真実を物語っていた。
「……アズナ様がいないと、息がしづらい気がする」
「なんで昨日まで、あんなに心が軽かったんだろう……?」
“香がない”ということは、
すでに“支えがない”ということだった。
それがどれほど静かで、深くて、根を張る依存だったのか。
ようやく、誰もが気づき始めていた。
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