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香塔の最上階――
誰も立ち入らぬ夜の聖域に、ひとり、アズナ=グランフォードの姿があった。
香炉には火が灯っていない。
棚の香瓶もすべて、鍵のかかった箱に収められている。
ただ、窓から吹き込む夜風だけが、淡く髪を揺らしていた。
月は高く、雲はなく、静寂がすべてを支配していた。
彼女は窓辺に座り、外の光景を見るでもなく、内なる何かに耳を澄ませていた。
何も纏わず、香も纏わず、言葉さえ手放したその姿は、あまりにも無防備で――そして、ようやく“本物”だった。
やがて、そっと扉が開いた。
足音ひとつ立てずに近づいたのは、ベアトリス=シュナイダー。
その目は、涙を堪えるように揺れながら、まっすぐに主を見つめていた。
「……お嬢様」
アズナは、応えない。
けれど、顔を向けることもないまま、彼女の存在を受け入れるように、静かに息をついた。
ベアトリスは膝をつき、そっと囁く。
「もう……微笑まなくてもよろしいのです」
その言葉は、命令ではなかった。
許可でもなかった。
ただ、一人の侍女として――いや、一人の人間としての祈りだった。
アズナの肩が、わずかに揺れる。
その目が、ふと細められ、唇がわずかに弛んだ。
けれどそれは、笑顔ではなかった。
“微笑”という名の仮面が、音もなく剝がれていく。
苦しみも、怒りも、喜びも。
すべてを“香”で包み、“赦し”で抑えてきた少女が、今、初めて――“何者でもない自分”へと還る。
アズナはゆっくりと目を閉じた。
そこには、香も、言葉もなかった。
ただ、ひとりの人間の、静かな終わりと始まりがあった。
ベアトリスは、その顔を見つめていた。
「……初めて、あなたを“お嬢様”ではなく、“アズナ様”として見た気がいたします」
その呟きに、アズナは何も返さなかった。
けれど、返す必要はなかった。
その沈黙こそが、すべてを語っていた。
微笑の終焉。
それは、赦しの終わりではない。
ひとつの仮面を脱ぎ捨て、ただ“自分”を始めるための夜だった。
塔の外では、夜風が枝を揺らし、
塔の中では、誰にも聞こえない時間が静かに流れていた。
誰も立ち入らぬ夜の聖域に、ひとり、アズナ=グランフォードの姿があった。
香炉には火が灯っていない。
棚の香瓶もすべて、鍵のかかった箱に収められている。
ただ、窓から吹き込む夜風だけが、淡く髪を揺らしていた。
月は高く、雲はなく、静寂がすべてを支配していた。
彼女は窓辺に座り、外の光景を見るでもなく、内なる何かに耳を澄ませていた。
何も纏わず、香も纏わず、言葉さえ手放したその姿は、あまりにも無防備で――そして、ようやく“本物”だった。
やがて、そっと扉が開いた。
足音ひとつ立てずに近づいたのは、ベアトリス=シュナイダー。
その目は、涙を堪えるように揺れながら、まっすぐに主を見つめていた。
「……お嬢様」
アズナは、応えない。
けれど、顔を向けることもないまま、彼女の存在を受け入れるように、静かに息をついた。
ベアトリスは膝をつき、そっと囁く。
「もう……微笑まなくてもよろしいのです」
その言葉は、命令ではなかった。
許可でもなかった。
ただ、一人の侍女として――いや、一人の人間としての祈りだった。
アズナの肩が、わずかに揺れる。
その目が、ふと細められ、唇がわずかに弛んだ。
けれどそれは、笑顔ではなかった。
“微笑”という名の仮面が、音もなく剝がれていく。
苦しみも、怒りも、喜びも。
すべてを“香”で包み、“赦し”で抑えてきた少女が、今、初めて――“何者でもない自分”へと還る。
アズナはゆっくりと目を閉じた。
そこには、香も、言葉もなかった。
ただ、ひとりの人間の、静かな終わりと始まりがあった。
ベアトリスは、その顔を見つめていた。
「……初めて、あなたを“お嬢様”ではなく、“アズナ様”として見た気がいたします」
その呟きに、アズナは何も返さなかった。
けれど、返す必要はなかった。
その沈黙こそが、すべてを語っていた。
微笑の終焉。
それは、赦しの終わりではない。
ひとつの仮面を脱ぎ捨て、ただ“自分”を始めるための夜だった。
塔の外では、夜風が枝を揺らし、
塔の中では、誰にも聞こえない時間が静かに流れていた。
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