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6 奥州街道
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第三章 奥州街道
第一話 金之助と鉄之介
奥州街道を歩む金之助の足取りは、重かった。
戸兵衛を葬ってから、どれほどの時が経ったのか。
数えても意味はないのに、金之助の胸の奥では、夜の冷たさと同じように時間が鈍く積もっていく。
足を前へ出すたび、土の感触がやけに硬く、遠く感じられた。
浅間山の噴火は、信州の出来事だ。
ここ奥州までは遠く、火も石も届かぬ。
――それでも、空だけは違った。
真夏のはずなのに、空はずっと鉛色にくすみ、風が吹けば、薄い灰がさらさらと舞って頬に触れる。
日差しは弱く、薄い布越しに当たる光が冷たい。
昼でも薄暗く、夕方になるともう夕暮れのような色になる。
肌にまとわりつく空気も、夏の湿った熱さではなく、
どこか秋口みたいなひやりとした冷えを含んでいた。
吐く息が白くなるほどではないが、汗をかいたあとに風が当たると、骨の内側まで冷えるような寒さがある。
旅支度は最低限。
背負い袋には乾いた握り飯と、少しの干し魚、水筒には半分ほどの水――それだけ。
金が潤沢にあるわけでもない。
宿に泊まる日は少なく、夜の多くは野宿だ。
草を敷いて眠っても、夜半には冷えで目が覚め、
身体を丸め、歯を噛みしめて朝を待った。
まだ十五やそこらの身にとって、
この旅はあまりにも過酷だった。
それでも歩く。
止まるわけにはいかない。
戸兵衛の「西へ行け」という声が、背中を押し続けていた。
夕刻。
金之助はようやく、小山の宿場にたどり着いた。
街道の先に見えた人の影と、家々の灯火。
漂う飯の匂い、馬の嘶き、子どもの声。
それらが一度に目と鼻に飛び込んできて、
金之助は思わず胸の奥がほどけるのを感じた。
生きている町だ。
灰の降る道中では、家も人も少なく、通り過ぎる村の多くは戸が閉じられ、まるで世界が沈んでいるようだった。
だからこの宿場のざわめきは、
一瞬だけ金之助に“戻ってきた感覚”をくれた。
――だが、その静けさは長く続かなかった。
「やんのか、こらぁ!」
「上等だ!」
怒号が通りに響いた。
人のどよめきが膨らみ、灯りの揺れが集まる方向へ動いていく。
金之助が顔を上げると、
通りの真ん中に人垣ができていた。
誰もがそこへ吸い寄せられるように、円を作って覗き込み、口々に囃し立てている。
金之助は自然と足が向いた。
人垣の隙間から、何が起きているのか見ようとする。
覗き込むと――二人の男が取っ組み合いをしていた。
一人は若い商人風。
着物の袖をまくり、顔を真っ赤にして殴りかかっている。
拳は必死だが、喧嘩慣れしていない動きで、狙いが定まらない。
もう一人は背の高い職人風。
肩幅が広く、腕は丸太のように太い。
しかもその肩には、大槌が無造作に担がれている。
普通なら、武器になるものを持った時点で「危ない」と止められる。
だがこの男は、その大槌を持ったまま笑い、軽い身のこなしで拳を受けていた。
ばしっ、どすっ。
商人の拳が男の頬をかすめる。
しかし男は怯まない。
むしろ嬉しそうに笑ってみせた。
「ほらほら!
その拳じゃ俺の顔にゃ届かねえな!」
豪快に笑い飛ばす声が、通りに響く。
男――音羽鉄之介(おとわ てつのすけ)。
その名を金之助はまだ知らない。
けれど、遠目からでも分かる。
この男、ただの喧嘩屋ではない。
身体の軸がぶれず、足運びが軽い。
“戦う体”を持っている。
鉄之介は相手の腕を絡め取るように掴むと、
ぐい、と一息に投げ飛ばした。
どん!
商人が土の上に叩きつけられ、呻いた。
見物人たちがどよめく。
冷たい風がざわりと通りを吹き抜けた。
鉄之介は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、通りの人々をぐるりと見回す。
そして――その視線が、偶然金之助で止まった。
「おい、小僧!
見物料ぐらい置いてけ!」
突然の声に、金之助はたじろいだ。
自分へ向けられるとは思っていなかった。
「……いや、俺は……」
「なんだ、払えねえのか?
ははっ、いい面だな。どこから来やがった」
冗談めいた調子なのに、目は妙に鋭い。
ふざけているのに、底知れぬ迫力がある。
金之助は無意識に懐へ意識を向けた。
そこにある辰の珠が、かすかに脈動した。
ほんの一拍。
けれど確かに、珠が“何か”に反応した。
――同じ匂いがする者。
理由は分からない。
でも直感がそう告げた。
「……旅の途中だ」
金之助は短く答えた。
鉄之介はその返事を聞くと、にやりと笑った。
まるで面白い玩具を見つけた子どもみたいに。
「旅の途中ならちょうどいい!
寒いだろう? 俺が酒でも奢ってやる!
ついでに、この小山の連中がどれだけ退屈か教えてやらぁ!」
言葉の最後に、わざとらしく大声で笑う。
周囲の見物人がまたどっと湧き、
鉄之介はその歓声を背に受けながら、金之助へ手招きした。
冷たい風が、再び通りを吹き抜けた。
こうして金之助は――
のちに、酉の珠を背負う漢、音羽鉄之介と出会った。
第二話 宿場町の夜
小山の宿場は、いつもの年なら夏の熱気に満ちていたはずだ。
旅人の声、商いの呼び込み、酒の匂い、子どもの笑い――そうしたものが夜まで町を押し上げる。
だが今夜の宿場は違った。
人はいる。灯もある。
それでも、空が灰色で覆われているせいか、声の響きがどこか沈み、笑い声にも翳りが混じる。
風は冷え切り、吹くたびに灰を細く巻き上げて、灯の輪郭をぼかしていった。
金之助はその風に身を縮めながら、人波の中を歩いていた。
旅の疲れで脚は重い。
背負い袋は軽いのに、胸の奥だけが石みたいに重い。
目の前の宿場の賑わいが、まるで別の世界のように遠く感じられた。
――そのときだ。
横から、ぐいと肩を掴まれた。
驚いて顔を向ける暇もなく、金之助は半歩引きずられるように人波を避け、茶屋の暖簾の下へ押し込まれた。
「おう、小僧!」
耳に残る、通りで聞いたあの豪快な声。
暖簾越しに入ってきた灯が、男の顔を照らす。
日が落ちてもなお明るい眼。
大きな肩、無造作な大槌。
荒々しいのに、どこか“真っ直ぐ”な存在感。
まるで、凍った道を歩き続けていた金之助の前に、突然焚き火が置かれたような感じだった。
「名前は?」
鉄之介は座布団を引き寄せ、勝手に向かいにどかっと座る。
その所作には遠慮も警戒もない。
ただ「ここにいるのが当たり前だ」とでも言うような、乱暴な自然さがあった。
「俺は……金之助だ」
金之助はまだ戸惑っていた。
だが相手の勢いに、拒む隙がない。
「金之助? へぇ。
俺は鉄之介だ。スケ友達ってとこか」
「……友達?」
金之助が眉を寄せると、鉄之介はけらけら笑った。
「難しい顔すんな。
出会った時点で縁ができる。縁ができりゃ仲間だ。
細けぇ理屈はいらねぇ」
そう言いながら、鉄之介は茶屋の女に声を投げる。
「おい、温かいもん。
この小僧、腹減って死にそうな顔してるぞ」
女が笑いながら引っ込み、
すぐに湯気を立てた蕎麦が二つ運ばれてきた。
金之助の目の前に置かれた丼から、
ふわりと出汁の匂いが立つ。
それだけで腹の底がきゅっと鳴った。
ここ何日も、握り飯と乾き物ばかり。
温かい食べ物を口にするのは久しぶりだった。
金之助は思わず箸を取る。
一口すすった瞬間、
熱が冷えきった喉を通り、腹へ落ちていくのが分かった。
その熱が、
まるで胸の奥で凍りついていたものを、ゆっくり溶かすようだった。
「……うまい……」
声に出した瞬間、自分の声が少しだけ“生きている”響きを取り戻した気がする。
鉄之介はそれを聞くと、満足そうに笑った。
「だろ?
食えるときに食っとけ。旅にゃそれが一番だ。
腹が空いてると、心まで貧しくなるからな」
素朴な言葉なのに、
金之助の胸に温かく刺さった。
戸兵衛が生きていた頃、同じようなことを言っていたのを思い出す。
それが、少し痛い。
でも、痛いだけじゃない。
鉄之介は、金之助のその表情を見たのか見ていないのか、何も言わずに自分の蕎麦を豪快にすすった。
食事を終えると、鉄之介は立ち上がった。
「よし、腹も膨れたし、ちょいと散歩だ。
この町の夜を見せてやる」
また半ば強引に、金之助を外へ連れ出す。
夜の宿場の広場には、夜店が並んでいた。
提灯の灯が揺れ、
飴の匂いと焼き団子の香りが混じり、
子どもたちの声があちこちから跳ねてくる。
ただ、空は相変わらず灰色の雲に覆われ、
星も月も見えない。
灯があるのに、どこか薄暗く感じる夜だった。
金之助が提灯の列を眺めていると、
竹とんぼで遊んでいた子どもが一人、石に躓いて転んだ。
「うわぁん!」
泣き声が広場に響く。
周りの子どもたちが気まずそうに止まり、大人たちも目をやるが、誰もすぐには動かない。
その間に、鉄之介がすっと歩み寄った。
「おいおい、どうした小僧。
泣いてたら、灰まで飲み込んじまうぞ」
鉄之介は大槌を肩から下ろすと、
柄を外して短い棒にした。
その動きが驚くほど手慣れている。
まるで、“子どもを笑わせるための道具”として最初から用意していたみたいに。
鉄之介は即席の木刀のように構え、竹とんぼを軽く上から払った。
ぱしん。
竹とんぼが風を切って高く舞い上がる。
灰の薄く漂う空へ、くるくると回りながら、ひゅっと吸い込まれた。
「うおおお!」
子どもたちが歓声を上げる。
転んで泣いていた子も目を丸くし、
さっきの涙の跡も忘れたように笑い出した。
鉄之介は得意げに胸を張るでもなく、
ただ「ほら、行け」とでも言うように顎で示しただけだった。
その気取らなさが、不思議と格好よかった。
金之助は、その背中をしばらく見つめていた。
大槌を担いで喧嘩をしていた時の荒々しさと、子どもに竹とんぼを打ち上げる今の姿が、同じ男の中で自然につながっていることが、妙に胸に残った。
気づけば口に出ていた。
「……あんた、ただの乱暴者かと思ったが、意外と優しいんだな」
鉄之介は鼻を鳴らし、肩をすくめる。
「馬鹿言え。
強え奴ってのはな、弱え奴を笑わせられて一人前よ」
あっけらかんとした言い方だった。
けれどその言葉は、金之助の胸の奥にあった冷たく固い塊を、少しずつ溶かしていった。
旅の孤独。
追われる恐怖。
じいさまを失った痛み。
全部が一晩で消えるわけじゃない。
でも、鉄之介という男の隣にいると、「それでも前へ進める」という感覚が胸に灯る。
鉄之介は子どもたちの歓声の中から戻ってくると、いつもの調子で金之助の肩を軽く叩いた。
「ほら行くぞ、金之助。
夜は短い。
生きてるうちに、少しでも笑っとけ」
金之助は小さくうなずいた。
二人は広場をあとにし、肩を並べて街道を見やった。
空は灰に覆われたまま。
冷たい風も止まらない。
それでも金之助の胸の内には、今夜、確かに小さな灯がともっていた。
第一話 金之助と鉄之介
奥州街道を歩む金之助の足取りは、重かった。
戸兵衛を葬ってから、どれほどの時が経ったのか。
数えても意味はないのに、金之助の胸の奥では、夜の冷たさと同じように時間が鈍く積もっていく。
足を前へ出すたび、土の感触がやけに硬く、遠く感じられた。
浅間山の噴火は、信州の出来事だ。
ここ奥州までは遠く、火も石も届かぬ。
――それでも、空だけは違った。
真夏のはずなのに、空はずっと鉛色にくすみ、風が吹けば、薄い灰がさらさらと舞って頬に触れる。
日差しは弱く、薄い布越しに当たる光が冷たい。
昼でも薄暗く、夕方になるともう夕暮れのような色になる。
肌にまとわりつく空気も、夏の湿った熱さではなく、
どこか秋口みたいなひやりとした冷えを含んでいた。
吐く息が白くなるほどではないが、汗をかいたあとに風が当たると、骨の内側まで冷えるような寒さがある。
旅支度は最低限。
背負い袋には乾いた握り飯と、少しの干し魚、水筒には半分ほどの水――それだけ。
金が潤沢にあるわけでもない。
宿に泊まる日は少なく、夜の多くは野宿だ。
草を敷いて眠っても、夜半には冷えで目が覚め、
身体を丸め、歯を噛みしめて朝を待った。
まだ十五やそこらの身にとって、
この旅はあまりにも過酷だった。
それでも歩く。
止まるわけにはいかない。
戸兵衛の「西へ行け」という声が、背中を押し続けていた。
夕刻。
金之助はようやく、小山の宿場にたどり着いた。
街道の先に見えた人の影と、家々の灯火。
漂う飯の匂い、馬の嘶き、子どもの声。
それらが一度に目と鼻に飛び込んできて、
金之助は思わず胸の奥がほどけるのを感じた。
生きている町だ。
灰の降る道中では、家も人も少なく、通り過ぎる村の多くは戸が閉じられ、まるで世界が沈んでいるようだった。
だからこの宿場のざわめきは、
一瞬だけ金之助に“戻ってきた感覚”をくれた。
――だが、その静けさは長く続かなかった。
「やんのか、こらぁ!」
「上等だ!」
怒号が通りに響いた。
人のどよめきが膨らみ、灯りの揺れが集まる方向へ動いていく。
金之助が顔を上げると、
通りの真ん中に人垣ができていた。
誰もがそこへ吸い寄せられるように、円を作って覗き込み、口々に囃し立てている。
金之助は自然と足が向いた。
人垣の隙間から、何が起きているのか見ようとする。
覗き込むと――二人の男が取っ組み合いをしていた。
一人は若い商人風。
着物の袖をまくり、顔を真っ赤にして殴りかかっている。
拳は必死だが、喧嘩慣れしていない動きで、狙いが定まらない。
もう一人は背の高い職人風。
肩幅が広く、腕は丸太のように太い。
しかもその肩には、大槌が無造作に担がれている。
普通なら、武器になるものを持った時点で「危ない」と止められる。
だがこの男は、その大槌を持ったまま笑い、軽い身のこなしで拳を受けていた。
ばしっ、どすっ。
商人の拳が男の頬をかすめる。
しかし男は怯まない。
むしろ嬉しそうに笑ってみせた。
「ほらほら!
その拳じゃ俺の顔にゃ届かねえな!」
豪快に笑い飛ばす声が、通りに響く。
男――音羽鉄之介(おとわ てつのすけ)。
その名を金之助はまだ知らない。
けれど、遠目からでも分かる。
この男、ただの喧嘩屋ではない。
身体の軸がぶれず、足運びが軽い。
“戦う体”を持っている。
鉄之介は相手の腕を絡め取るように掴むと、
ぐい、と一息に投げ飛ばした。
どん!
商人が土の上に叩きつけられ、呻いた。
見物人たちがどよめく。
冷たい風がざわりと通りを吹き抜けた。
鉄之介は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、通りの人々をぐるりと見回す。
そして――その視線が、偶然金之助で止まった。
「おい、小僧!
見物料ぐらい置いてけ!」
突然の声に、金之助はたじろいだ。
自分へ向けられるとは思っていなかった。
「……いや、俺は……」
「なんだ、払えねえのか?
ははっ、いい面だな。どこから来やがった」
冗談めいた調子なのに、目は妙に鋭い。
ふざけているのに、底知れぬ迫力がある。
金之助は無意識に懐へ意識を向けた。
そこにある辰の珠が、かすかに脈動した。
ほんの一拍。
けれど確かに、珠が“何か”に反応した。
――同じ匂いがする者。
理由は分からない。
でも直感がそう告げた。
「……旅の途中だ」
金之助は短く答えた。
鉄之介はその返事を聞くと、にやりと笑った。
まるで面白い玩具を見つけた子どもみたいに。
「旅の途中ならちょうどいい!
寒いだろう? 俺が酒でも奢ってやる!
ついでに、この小山の連中がどれだけ退屈か教えてやらぁ!」
言葉の最後に、わざとらしく大声で笑う。
周囲の見物人がまたどっと湧き、
鉄之介はその歓声を背に受けながら、金之助へ手招きした。
冷たい風が、再び通りを吹き抜けた。
こうして金之助は――
のちに、酉の珠を背負う漢、音羽鉄之介と出会った。
第二話 宿場町の夜
小山の宿場は、いつもの年なら夏の熱気に満ちていたはずだ。
旅人の声、商いの呼び込み、酒の匂い、子どもの笑い――そうしたものが夜まで町を押し上げる。
だが今夜の宿場は違った。
人はいる。灯もある。
それでも、空が灰色で覆われているせいか、声の響きがどこか沈み、笑い声にも翳りが混じる。
風は冷え切り、吹くたびに灰を細く巻き上げて、灯の輪郭をぼかしていった。
金之助はその風に身を縮めながら、人波の中を歩いていた。
旅の疲れで脚は重い。
背負い袋は軽いのに、胸の奥だけが石みたいに重い。
目の前の宿場の賑わいが、まるで別の世界のように遠く感じられた。
――そのときだ。
横から、ぐいと肩を掴まれた。
驚いて顔を向ける暇もなく、金之助は半歩引きずられるように人波を避け、茶屋の暖簾の下へ押し込まれた。
「おう、小僧!」
耳に残る、通りで聞いたあの豪快な声。
暖簾越しに入ってきた灯が、男の顔を照らす。
日が落ちてもなお明るい眼。
大きな肩、無造作な大槌。
荒々しいのに、どこか“真っ直ぐ”な存在感。
まるで、凍った道を歩き続けていた金之助の前に、突然焚き火が置かれたような感じだった。
「名前は?」
鉄之介は座布団を引き寄せ、勝手に向かいにどかっと座る。
その所作には遠慮も警戒もない。
ただ「ここにいるのが当たり前だ」とでも言うような、乱暴な自然さがあった。
「俺は……金之助だ」
金之助はまだ戸惑っていた。
だが相手の勢いに、拒む隙がない。
「金之助? へぇ。
俺は鉄之介だ。スケ友達ってとこか」
「……友達?」
金之助が眉を寄せると、鉄之介はけらけら笑った。
「難しい顔すんな。
出会った時点で縁ができる。縁ができりゃ仲間だ。
細けぇ理屈はいらねぇ」
そう言いながら、鉄之介は茶屋の女に声を投げる。
「おい、温かいもん。
この小僧、腹減って死にそうな顔してるぞ」
女が笑いながら引っ込み、
すぐに湯気を立てた蕎麦が二つ運ばれてきた。
金之助の目の前に置かれた丼から、
ふわりと出汁の匂いが立つ。
それだけで腹の底がきゅっと鳴った。
ここ何日も、握り飯と乾き物ばかり。
温かい食べ物を口にするのは久しぶりだった。
金之助は思わず箸を取る。
一口すすった瞬間、
熱が冷えきった喉を通り、腹へ落ちていくのが分かった。
その熱が、
まるで胸の奥で凍りついていたものを、ゆっくり溶かすようだった。
「……うまい……」
声に出した瞬間、自分の声が少しだけ“生きている”響きを取り戻した気がする。
鉄之介はそれを聞くと、満足そうに笑った。
「だろ?
食えるときに食っとけ。旅にゃそれが一番だ。
腹が空いてると、心まで貧しくなるからな」
素朴な言葉なのに、
金之助の胸に温かく刺さった。
戸兵衛が生きていた頃、同じようなことを言っていたのを思い出す。
それが、少し痛い。
でも、痛いだけじゃない。
鉄之介は、金之助のその表情を見たのか見ていないのか、何も言わずに自分の蕎麦を豪快にすすった。
食事を終えると、鉄之介は立ち上がった。
「よし、腹も膨れたし、ちょいと散歩だ。
この町の夜を見せてやる」
また半ば強引に、金之助を外へ連れ出す。
夜の宿場の広場には、夜店が並んでいた。
提灯の灯が揺れ、
飴の匂いと焼き団子の香りが混じり、
子どもたちの声があちこちから跳ねてくる。
ただ、空は相変わらず灰色の雲に覆われ、
星も月も見えない。
灯があるのに、どこか薄暗く感じる夜だった。
金之助が提灯の列を眺めていると、
竹とんぼで遊んでいた子どもが一人、石に躓いて転んだ。
「うわぁん!」
泣き声が広場に響く。
周りの子どもたちが気まずそうに止まり、大人たちも目をやるが、誰もすぐには動かない。
その間に、鉄之介がすっと歩み寄った。
「おいおい、どうした小僧。
泣いてたら、灰まで飲み込んじまうぞ」
鉄之介は大槌を肩から下ろすと、
柄を外して短い棒にした。
その動きが驚くほど手慣れている。
まるで、“子どもを笑わせるための道具”として最初から用意していたみたいに。
鉄之介は即席の木刀のように構え、竹とんぼを軽く上から払った。
ぱしん。
竹とんぼが風を切って高く舞い上がる。
灰の薄く漂う空へ、くるくると回りながら、ひゅっと吸い込まれた。
「うおおお!」
子どもたちが歓声を上げる。
転んで泣いていた子も目を丸くし、
さっきの涙の跡も忘れたように笑い出した。
鉄之介は得意げに胸を張るでもなく、
ただ「ほら、行け」とでも言うように顎で示しただけだった。
その気取らなさが、不思議と格好よかった。
金之助は、その背中をしばらく見つめていた。
大槌を担いで喧嘩をしていた時の荒々しさと、子どもに竹とんぼを打ち上げる今の姿が、同じ男の中で自然につながっていることが、妙に胸に残った。
気づけば口に出ていた。
「……あんた、ただの乱暴者かと思ったが、意外と優しいんだな」
鉄之介は鼻を鳴らし、肩をすくめる。
「馬鹿言え。
強え奴ってのはな、弱え奴を笑わせられて一人前よ」
あっけらかんとした言い方だった。
けれどその言葉は、金之助の胸の奥にあった冷たく固い塊を、少しずつ溶かしていった。
旅の孤独。
追われる恐怖。
じいさまを失った痛み。
全部が一晩で消えるわけじゃない。
でも、鉄之介という男の隣にいると、「それでも前へ進める」という感覚が胸に灯る。
鉄之介は子どもたちの歓声の中から戻ってくると、いつもの調子で金之助の肩を軽く叩いた。
「ほら行くぞ、金之助。
夜は短い。
生きてるうちに、少しでも笑っとけ」
金之助は小さくうなずいた。
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涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
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