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第七章 揺れる境界線
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その日一日、遥はずっとぼんやりしていた。
仕事中も、入力ミスを三回。電話の相手が名乗った名前を聞き逃し、先輩の岡部に何度も確認する羽目になった。
(……あれ、夢だったのかな。いや、夢にしては生々しすぎるし……でも、本当に“死神”って)
公園でのやりとりが頭から離れない。
ベンチに真顔で座るあの男。名前は名乗らなかった。でも、“烏牙”──どこかで聞いたような、ないような、そんな音。
「君は死ぬ運命にあった」「私はそれを正すためにいる」
その言葉の重さは異常だった。
──が。
「……整っていれば、運命も正しく流れる」
あの律儀な缶の揃え方を思い出し、ふっと笑ってしまう。
(いやいや、真顔で缶揃えてる時点で、ただのヤバい人じゃん……)
でも不思議なことに、怖さはなかった。むしろ、どこか哀れで、誰よりも“正しさ”に囚われているように思えた。
─翌朝。
遥は思い切ってスマホを開き、由梨にLINEを打ちかけて、やめた。
あんな精神状態の由梨に「死神に会った」なんて、言えるはずがなかった。
(そもそも信じてもらえるわけないし……何なら、悪ふざけして由梨のことバカにしているなんて風にとられかねない)
寝癖のまま鏡を見た自分に、苦笑いしてからコーヒーを淹れる。
だが、その時、玄関のチャイムが鳴った。
心臓が一瞬、跳ねる。
(……誰?)
インターホン越しに映ったのは、あの黒いコートの男──烏牙だった。
「少しだけ……話せますか」
再び対面した烏牙は、前回よりも少し疲れたように見えた。
「記憶、動いてます。如月碧人の」
遥は一瞬、息を呑んだ。
「如月…あの人?」 「戻ってきてるってこと?」
「はい。ただし不安定です。断片的に夢として現れている様子。死神としての勘ですが、危険な兆候です」
烏牙はそう言って、コートの内ポケットから小さなノートを取り出した。
そこには碧人の行動記録と、夢の内容らしき箇条書きがびっしりと並んでいた。
「……監視してるの?」
「仕事ですので」
さらりと言われて遥は言葉に詰まった。
「私は、できればあなたを救いたい。でも……規定では、記憶が戻り彼が再び“本来の行動”に向かえば、あなたの死は避けられない」
「どうして……どうしてそこまで正しくあろうとするの?」
烏牙はしばし黙ってから、静かに言った。
「……私は、何か重大な過ちを犯した者のようです。詳細は覚えていません。ですが、時々──何かの拍子に、断片が戻ってくる。誰かを導いていた記憶や……逃げ惑う声。恐らく、私は生前に大勢を死なせた……それだけは、強く確信しています。だから“正しさ”をやり直すしかないんです」
遥はその言葉に何も返せなかった。ただ、その横顔が、どこまでも悲しく見えた。
*
それから数日間、遥は奇妙な宙ぶらりんな気持ちを抱えたまま日常を過ごしていた。
烏牙の言葉。
──「君の命には、終わりの印が付けられています」
一度忘れようとしても、ふとした拍子に思い出してしまう。真顔で、律儀に缶を並べながら語った“死神”の言葉が、現実味を帯びて胸の奥に残っていた。
(あれは嘘……のはず。でも……)
心のどこかが囁いていた。
──本当かもしれない、と。
そんなある日、碧人からメッセージが届いた。
「今週末、もし予定なかったら会えませんか? 映画でも観に行きませんか」
遥はスマホを見つめたまま、数分間何も返せなかった。
(……本来なら、私を殺すはずだった人)
でも今の彼は、優しい。礼儀正しく、静かで、不器用なほど誠実。
(記憶が戻る前に、知りたい。彼の“今”のことを)
そう思って、遥は「うん。空いてるよ」と返信を打った。
*
映画館前の待ち合わせ。碧人は、以前と同じく落ち着いた服装で、少しだけ緊張したような笑顔を見せた。
「久しぶりに映画なんて観ます。……人と来るのは特に」
「私も。静かに集中できる相手じゃないと疲れちゃうし」
映画の内容はあまり頭に入らなかった。
隣で静かに息づく彼の気配が、どうしても気になった。
何気なくポップコーンを差し出す手。
上映中、暗がりで交わしたささやかな視線。
そのどれもが普通で、心地よくて──怖かった。
(これが“演技”だったら? 私を信用させるために近づいてるとしたら?)
そんな考えが脳裏をよぎるたび、遥は自分を責めた。
(疑ってる……この人を。こんなに優しくしてくれてるのに)
映画のあと、駅前の小さなカフェでお茶をした。
「どうでした? 映画」
「正直、話が難しくて……でも、映像はすごかったです」
「僕もです。最後の方、ちょっと寝そうでした」
二人で笑ったあと、一瞬の沈黙が落ちた。
そのとき、遥の心に浮かんだのは烏牙の声だった。
──「記憶は断片的に戻り始めている」
(この人の“裏側”を、私は見ていないだけ)
だが同時に、目の前で優しく笑う碧人に、遥はどこか惹かれてもいた。
心が、二つに引き裂かれそうだった。
仕事中も、入力ミスを三回。電話の相手が名乗った名前を聞き逃し、先輩の岡部に何度も確認する羽目になった。
(……あれ、夢だったのかな。いや、夢にしては生々しすぎるし……でも、本当に“死神”って)
公園でのやりとりが頭から離れない。
ベンチに真顔で座るあの男。名前は名乗らなかった。でも、“烏牙”──どこかで聞いたような、ないような、そんな音。
「君は死ぬ運命にあった」「私はそれを正すためにいる」
その言葉の重さは異常だった。
──が。
「……整っていれば、運命も正しく流れる」
あの律儀な缶の揃え方を思い出し、ふっと笑ってしまう。
(いやいや、真顔で缶揃えてる時点で、ただのヤバい人じゃん……)
でも不思議なことに、怖さはなかった。むしろ、どこか哀れで、誰よりも“正しさ”に囚われているように思えた。
─翌朝。
遥は思い切ってスマホを開き、由梨にLINEを打ちかけて、やめた。
あんな精神状態の由梨に「死神に会った」なんて、言えるはずがなかった。
(そもそも信じてもらえるわけないし……何なら、悪ふざけして由梨のことバカにしているなんて風にとられかねない)
寝癖のまま鏡を見た自分に、苦笑いしてからコーヒーを淹れる。
だが、その時、玄関のチャイムが鳴った。
心臓が一瞬、跳ねる。
(……誰?)
インターホン越しに映ったのは、あの黒いコートの男──烏牙だった。
「少しだけ……話せますか」
再び対面した烏牙は、前回よりも少し疲れたように見えた。
「記憶、動いてます。如月碧人の」
遥は一瞬、息を呑んだ。
「如月…あの人?」 「戻ってきてるってこと?」
「はい。ただし不安定です。断片的に夢として現れている様子。死神としての勘ですが、危険な兆候です」
烏牙はそう言って、コートの内ポケットから小さなノートを取り出した。
そこには碧人の行動記録と、夢の内容らしき箇条書きがびっしりと並んでいた。
「……監視してるの?」
「仕事ですので」
さらりと言われて遥は言葉に詰まった。
「私は、できればあなたを救いたい。でも……規定では、記憶が戻り彼が再び“本来の行動”に向かえば、あなたの死は避けられない」
「どうして……どうしてそこまで正しくあろうとするの?」
烏牙はしばし黙ってから、静かに言った。
「……私は、何か重大な過ちを犯した者のようです。詳細は覚えていません。ですが、時々──何かの拍子に、断片が戻ってくる。誰かを導いていた記憶や……逃げ惑う声。恐らく、私は生前に大勢を死なせた……それだけは、強く確信しています。だから“正しさ”をやり直すしかないんです」
遥はその言葉に何も返せなかった。ただ、その横顔が、どこまでも悲しく見えた。
*
それから数日間、遥は奇妙な宙ぶらりんな気持ちを抱えたまま日常を過ごしていた。
烏牙の言葉。
──「君の命には、終わりの印が付けられています」
一度忘れようとしても、ふとした拍子に思い出してしまう。真顔で、律儀に缶を並べながら語った“死神”の言葉が、現実味を帯びて胸の奥に残っていた。
(あれは嘘……のはず。でも……)
心のどこかが囁いていた。
──本当かもしれない、と。
そんなある日、碧人からメッセージが届いた。
「今週末、もし予定なかったら会えませんか? 映画でも観に行きませんか」
遥はスマホを見つめたまま、数分間何も返せなかった。
(……本来なら、私を殺すはずだった人)
でも今の彼は、優しい。礼儀正しく、静かで、不器用なほど誠実。
(記憶が戻る前に、知りたい。彼の“今”のことを)
そう思って、遥は「うん。空いてるよ」と返信を打った。
*
映画館前の待ち合わせ。碧人は、以前と同じく落ち着いた服装で、少しだけ緊張したような笑顔を見せた。
「久しぶりに映画なんて観ます。……人と来るのは特に」
「私も。静かに集中できる相手じゃないと疲れちゃうし」
映画の内容はあまり頭に入らなかった。
隣で静かに息づく彼の気配が、どうしても気になった。
何気なくポップコーンを差し出す手。
上映中、暗がりで交わしたささやかな視線。
そのどれもが普通で、心地よくて──怖かった。
(これが“演技”だったら? 私を信用させるために近づいてるとしたら?)
そんな考えが脳裏をよぎるたび、遥は自分を責めた。
(疑ってる……この人を。こんなに優しくしてくれてるのに)
映画のあと、駅前の小さなカフェでお茶をした。
「どうでした? 映画」
「正直、話が難しくて……でも、映像はすごかったです」
「僕もです。最後の方、ちょっと寝そうでした」
二人で笑ったあと、一瞬の沈黙が落ちた。
そのとき、遥の心に浮かんだのは烏牙の声だった。
──「記憶は断片的に戻り始めている」
(この人の“裏側”を、私は見ていないだけ)
だが同時に、目の前で優しく笑う碧人に、遥はどこか惹かれてもいた。
心が、二つに引き裂かれそうだった。
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