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第十一章 境界からの救出
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遥が再びチャイムを押すと、またしても返事はなかった。
「……やっぱり、いるよね。今、音がした」
遥がそう呟くと、和馬がポケットからスマホを取り出して時間を確認しながら言った。
「鍵はかかってる。でも……実は、合鍵を預かってたことがあるんだ。何年か前、由梨が体調崩したときのためにって」
「持ってるの?」
「いや……今は手元にない。たしか実家の引き出しに……くそ、こんなときに限って」
和馬が拳を固く握る。緊張が張りつめた空気を包み込むなか、碧人が控えめな声で言った。
「……警察を呼んだ方がいいかもしれません。何かあってからじゃ遅い」
遥は迷った。けれど、そのとき。
ガチャリ。
ドアの鍵が、わずかに動いた音がした。
三人が一斉に息を呑む。
「由梨……?」遥が声をかける。
しかし、応答はない。沈黙の中、ほんのわずかにドアが開いていることに気づいた。
碧人がそっと手をかける。軋むような音を立てながら、ドアがゆっくりと内側へと開いていった。
薄暗い部屋。カーテンは閉じられ、空気は重く淀んでいる。
リビングのテーブルの上には、飲みかけのペットボトルとバラ撒かれた薬のシート、そして床には倒れた椅子。
「由梨っ!」
遥が靴を脱ぐ間もなく駆け込む。
ソファの前、カーペットの上に、毛布を被った小さな人影が横たわっていた。
「……生きてる! 呼吸、ある……!」
和馬が確認する。遥の目に涙が浮かんだ。
「救急車……!」
碧人がすでにスマホを耳に当てていた。
*
屋根の上。
風が吹き抜けるなか、烏牙はそれを見下ろしていた。
隣の死神がぽつりと呟く。
「さて。俺の出番は……もう少し、先になりそうだな」
烏牙は無言で見つめていた。胸の奥に、重く小さな安堵が宿る。
(間に合った……のか?)
だがその問いに、誰も答えを出せない。
まだ何も終わってはいなかった。
*
病院の待合室。白い天井に照明が鈍く灯る静寂のなか、遥は深く息を吐いた。
由梨は処置室に運ばれ、応急措置ののちに個室に移されたという。命に別状はないと医師から聞かされてはいたが、それでも遥の心臓は強く脈を打ち続けていた。
窓際の椅子に腰かけた碧人は、黙ってスマホをいじるふりをしている。たまに顔を上げて遥の様子を伺っているのがわかる。
和馬は、看護師に付き添われて別室で事情を聞かれている最中だった。
(助かって……よかった)
本当に、それだけだった。もし遅れていたらと思うと、足元が崩れそうになる。
そのとき、看護師がドアをノックして顔をのぞかせた。
「ご友人の方、面会できますよ。少しだけですが」
遥は立ち上がり、碧人と目を合わせて小さく頷いた。
個室のベッドの上。由梨はまだ弱々しく、顔色も悪かったが、確かに目を開けて遥を見つめていた。
「……遥……」
か細い声。それでも遥は、涙が出そうなほど嬉しかった。
「ごめん、もっと早く来ればよかった……連絡くれてたのに、私……」
「ううん、遥が……来てくれて……よかった……」
由梨は手を伸ばし、遥の手をそっと握った。その温度が、まだ確かに生きている証のようで、遥の胸がきゅっと締めつけられる。
「……もう大丈夫。あんなところに戻らないで。……お願い」
由梨はわずかに頷いたが、遠くを見つめるような目で、ぽつりと呟いた。
「死ぬのって……楽になれるって、思ってた……でも……怖かった。怖くて……最後、声が出なかった……」
遥は彼女の手を強く握り返した。
その頃、病院の屋上では、烏牙がフェンスにもたれかかって夜空を見上げていた。
(助かった……本当に、よかったんだろうか)
彼女の魂は、まだ境界を越えてはいない。しかしそれは、死の予定が覆ったわけではない。
──それでも今、彼女は確かに生きている。
(私の仕事とは、一体なんなのだ? “死を受け渡す”ことだけが正義なのか?)
あのもう一人の死神が言っていた。
「運命は決まっている。ただ、決まる“タイミング”が違うだけ」
(ならば──私はその“タイミング”を、動かしてしまったことになる)
罪悪感。安堵。迷い。矛盾。
幾重にも折り重なる感情に、烏牙の胸は重く沈んだ。
それでも、遥が由梨の手を握り、涙を浮かべて笑っている光景が頭に浮かぶ。
(あれを、救いと呼ばずに、なんとする)
自問は、答えを出さない。だが、彼のなかで何かが静かに変わりはじめていた。
遥が病室を出たとき、碧人が待合室のソファで立ち上がり、声をかけてきた。
「どうだった?」
「……大丈夫。まだ辛そうだけど、ちゃんと話せた。目も、しっかりしてた」
碧人は安堵の息を吐いた。
「それはよかった」
一拍の沈黙ののち、遥がぽつりと口を開いた。
「……ねえ、碧人くんって……どうしてそんなに優しいの?」
碧人は、少しだけ驚いたような顔をした後、微笑んだ。
「さあ、なんでだろうね。……自分でも、よくわからないんだ」
遥の心に、再びあの“死神の言葉”がよみがえる。
──彼は人を殺す人間だ。あなたを殺す運命だ。
でも。
今、隣に立つこの人が──そんなことをするようには、どうしても思えなかった。
(私は……何を信じれば、いいんだろう)
揺れる心は、夜の病院の静けさに包まれて、答えのない問いだけを抱えていた。
*
翌朝、遥は目を覚ました瞬間から、胸の奥にどこか重たい違和感を抱えていた。
由梨の一件は、ひとまず落ち着いた。
碧人は病院から自宅へ送り届けてくれたあと、しばらくは連絡を控えるとだけメッセージを残していた。
だが、遥の心は静まらなかった。
(本当に……あれで、よかったんだろうか)
あのときの死神──烏牙の姿。どこか悲しげで、それでいて懸命に何かを訴えようとしていた。
信じてはいけないと、何度も心の中で否定した。
でも、あの目が、言葉が、どうしても胸に残る。
リビングの窓辺に立っていた遥は、ふと気配を感じて振り返った。
そこに、黒衣の男──烏牙が静かに立っていた。
「……また来たの?」
遥の声は驚きというよりも、呆れと警戒が混ざった響きだった。
烏牙はわずかに眉を寄せたまま、感情を押し殺した声で言った。
「伝えておかねばならないことがある。……君の運命は、変わってしまった」
遥は目を細めた。「はあ?」
「君が碧人に関わったことで、本来ならすでに終わっていた彼の運命が停止している。そして……それに引っ張られるように、由梨の運命までが変わった」
「……どういうこと?」
烏牙はほんの一瞬、言葉を探すように黙り──それから静かに言った。
「君は、本来もうこの世界に“存在していない”人間だった」
遥は言葉を失った。
「君が生きているという“誤差”が、まわりの人間の未来を書き換え始めている。……このままでは、さらに多くの人間の運命に影響が出る」
遥は胸の奥がぎゅっと掴まれるような衝撃を受けた。
──自分の存在が、誰かを救った?
──もしかすると──碧人の“呪われた運命”も?
遥はじっと烏牙の目を見つめ返す。
「……なら、それでもいい」
「何?」
「私は、碧人くんを救いたい。彼の過去がどうであれ、いま目の前にいるあの人は……人を想って、助けてくれる人だから」
沈黙。烏牙の表情は揺れた。
「そんな感情で運命は変えられない。変えるべきではない」
「でももう、変わってる。由梨だって──生きてる。あなたの“仕事”から外れて」
遥の声には、静かな決意が宿っていた。
「だったら、私はこのまま、自分の“誤差”として……誰かを救ってみせる」
烏牙は何も言い返せなかった。
その姿を、遥は黙って見つめ返した。
やがて彼は、ふいに顔を背けるようにして、その場から消えた。
残された部屋には、静かな朝の光が差し込んでいた。
「……やっぱり、いるよね。今、音がした」
遥がそう呟くと、和馬がポケットからスマホを取り出して時間を確認しながら言った。
「鍵はかかってる。でも……実は、合鍵を預かってたことがあるんだ。何年か前、由梨が体調崩したときのためにって」
「持ってるの?」
「いや……今は手元にない。たしか実家の引き出しに……くそ、こんなときに限って」
和馬が拳を固く握る。緊張が張りつめた空気を包み込むなか、碧人が控えめな声で言った。
「……警察を呼んだ方がいいかもしれません。何かあってからじゃ遅い」
遥は迷った。けれど、そのとき。
ガチャリ。
ドアの鍵が、わずかに動いた音がした。
三人が一斉に息を呑む。
「由梨……?」遥が声をかける。
しかし、応答はない。沈黙の中、ほんのわずかにドアが開いていることに気づいた。
碧人がそっと手をかける。軋むような音を立てながら、ドアがゆっくりと内側へと開いていった。
薄暗い部屋。カーテンは閉じられ、空気は重く淀んでいる。
リビングのテーブルの上には、飲みかけのペットボトルとバラ撒かれた薬のシート、そして床には倒れた椅子。
「由梨っ!」
遥が靴を脱ぐ間もなく駆け込む。
ソファの前、カーペットの上に、毛布を被った小さな人影が横たわっていた。
「……生きてる! 呼吸、ある……!」
和馬が確認する。遥の目に涙が浮かんだ。
「救急車……!」
碧人がすでにスマホを耳に当てていた。
*
屋根の上。
風が吹き抜けるなか、烏牙はそれを見下ろしていた。
隣の死神がぽつりと呟く。
「さて。俺の出番は……もう少し、先になりそうだな」
烏牙は無言で見つめていた。胸の奥に、重く小さな安堵が宿る。
(間に合った……のか?)
だがその問いに、誰も答えを出せない。
まだ何も終わってはいなかった。
*
病院の待合室。白い天井に照明が鈍く灯る静寂のなか、遥は深く息を吐いた。
由梨は処置室に運ばれ、応急措置ののちに個室に移されたという。命に別状はないと医師から聞かされてはいたが、それでも遥の心臓は強く脈を打ち続けていた。
窓際の椅子に腰かけた碧人は、黙ってスマホをいじるふりをしている。たまに顔を上げて遥の様子を伺っているのがわかる。
和馬は、看護師に付き添われて別室で事情を聞かれている最中だった。
(助かって……よかった)
本当に、それだけだった。もし遅れていたらと思うと、足元が崩れそうになる。
そのとき、看護師がドアをノックして顔をのぞかせた。
「ご友人の方、面会できますよ。少しだけですが」
遥は立ち上がり、碧人と目を合わせて小さく頷いた。
個室のベッドの上。由梨はまだ弱々しく、顔色も悪かったが、確かに目を開けて遥を見つめていた。
「……遥……」
か細い声。それでも遥は、涙が出そうなほど嬉しかった。
「ごめん、もっと早く来ればよかった……連絡くれてたのに、私……」
「ううん、遥が……来てくれて……よかった……」
由梨は手を伸ばし、遥の手をそっと握った。その温度が、まだ確かに生きている証のようで、遥の胸がきゅっと締めつけられる。
「……もう大丈夫。あんなところに戻らないで。……お願い」
由梨はわずかに頷いたが、遠くを見つめるような目で、ぽつりと呟いた。
「死ぬのって……楽になれるって、思ってた……でも……怖かった。怖くて……最後、声が出なかった……」
遥は彼女の手を強く握り返した。
その頃、病院の屋上では、烏牙がフェンスにもたれかかって夜空を見上げていた。
(助かった……本当に、よかったんだろうか)
彼女の魂は、まだ境界を越えてはいない。しかしそれは、死の予定が覆ったわけではない。
──それでも今、彼女は確かに生きている。
(私の仕事とは、一体なんなのだ? “死を受け渡す”ことだけが正義なのか?)
あのもう一人の死神が言っていた。
「運命は決まっている。ただ、決まる“タイミング”が違うだけ」
(ならば──私はその“タイミング”を、動かしてしまったことになる)
罪悪感。安堵。迷い。矛盾。
幾重にも折り重なる感情に、烏牙の胸は重く沈んだ。
それでも、遥が由梨の手を握り、涙を浮かべて笑っている光景が頭に浮かぶ。
(あれを、救いと呼ばずに、なんとする)
自問は、答えを出さない。だが、彼のなかで何かが静かに変わりはじめていた。
遥が病室を出たとき、碧人が待合室のソファで立ち上がり、声をかけてきた。
「どうだった?」
「……大丈夫。まだ辛そうだけど、ちゃんと話せた。目も、しっかりしてた」
碧人は安堵の息を吐いた。
「それはよかった」
一拍の沈黙ののち、遥がぽつりと口を開いた。
「……ねえ、碧人くんって……どうしてそんなに優しいの?」
碧人は、少しだけ驚いたような顔をした後、微笑んだ。
「さあ、なんでだろうね。……自分でも、よくわからないんだ」
遥の心に、再びあの“死神の言葉”がよみがえる。
──彼は人を殺す人間だ。あなたを殺す運命だ。
でも。
今、隣に立つこの人が──そんなことをするようには、どうしても思えなかった。
(私は……何を信じれば、いいんだろう)
揺れる心は、夜の病院の静けさに包まれて、答えのない問いだけを抱えていた。
*
翌朝、遥は目を覚ました瞬間から、胸の奥にどこか重たい違和感を抱えていた。
由梨の一件は、ひとまず落ち着いた。
碧人は病院から自宅へ送り届けてくれたあと、しばらくは連絡を控えるとだけメッセージを残していた。
だが、遥の心は静まらなかった。
(本当に……あれで、よかったんだろうか)
あのときの死神──烏牙の姿。どこか悲しげで、それでいて懸命に何かを訴えようとしていた。
信じてはいけないと、何度も心の中で否定した。
でも、あの目が、言葉が、どうしても胸に残る。
リビングの窓辺に立っていた遥は、ふと気配を感じて振り返った。
そこに、黒衣の男──烏牙が静かに立っていた。
「……また来たの?」
遥の声は驚きというよりも、呆れと警戒が混ざった響きだった。
烏牙はわずかに眉を寄せたまま、感情を押し殺した声で言った。
「伝えておかねばならないことがある。……君の運命は、変わってしまった」
遥は目を細めた。「はあ?」
「君が碧人に関わったことで、本来ならすでに終わっていた彼の運命が停止している。そして……それに引っ張られるように、由梨の運命までが変わった」
「……どういうこと?」
烏牙はほんの一瞬、言葉を探すように黙り──それから静かに言った。
「君は、本来もうこの世界に“存在していない”人間だった」
遥は言葉を失った。
「君が生きているという“誤差”が、まわりの人間の未来を書き換え始めている。……このままでは、さらに多くの人間の運命に影響が出る」
遥は胸の奥がぎゅっと掴まれるような衝撃を受けた。
──自分の存在が、誰かを救った?
──もしかすると──碧人の“呪われた運命”も?
遥はじっと烏牙の目を見つめ返す。
「……なら、それでもいい」
「何?」
「私は、碧人くんを救いたい。彼の過去がどうであれ、いま目の前にいるあの人は……人を想って、助けてくれる人だから」
沈黙。烏牙の表情は揺れた。
「そんな感情で運命は変えられない。変えるべきではない」
「でももう、変わってる。由梨だって──生きてる。あなたの“仕事”から外れて」
遥の声には、静かな決意が宿っていた。
「だったら、私はこのまま、自分の“誤差”として……誰かを救ってみせる」
烏牙は何も言い返せなかった。
その姿を、遥は黙って見つめ返した。
やがて彼は、ふいに顔を背けるようにして、その場から消えた。
残された部屋には、静かな朝の光が差し込んでいた。
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