死神と私と、優しい殺人鬼の想い出

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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第十三章 抱擁の奥に潜むもの

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その日、遥は少し早めに仕事を切り上げて部屋を整えていた。
約束の時間まではまだ余裕があるはずなのに、心の奥はどこか落ち着かない。

(部屋に招くなんて、初めてだ……)
インターホンが鳴る音に、小さく跳ねるように立ち上がる。
扉の向こうには、黒いジャケットを着た碧人が、どこか照れたように立っていた。
「お邪魔しても、いい?」
「うん……どうぞ」
中に通したあと、遥はキッチンに立ち、お湯を沸かす音が静かに部屋を満たした。
碧人はリビングのソファに腰を下ろし、部屋を見回すようにして周囲に視線を巡らせていた。
「思ったより、広いね。なんだか、君らしい部屋だ」
「そうかな? なんにもないけど……あ、ミルク入れる?」
「うん、少しだけ」
そんなやりとりを交わしながら、遥は湯気の立つティーカップを慎重にトレーにのせて運ぶ。
碧人がカップを手に取り、香りを確かめるように目を細めた。
「この香り、好きかも」
「それ、ちょっと高かったんだよ。美味しかったら当たり、かな」
ふたりはカップを傾けながら、仕事のこと、最近観た映画のこと、どこかのカフェの話題など、他愛ない会話を重ねた。
けれど、その空気の中に微かに感じる“特別な夜”の予感が、遥の胸をざわつかせる。
碧人はリビングの棚に並んだ小物や写真を興味深そうに眺めていたが、ふと、静かに遥を見つめた。

「こうやって君の部屋に来て、君の生活を感じると……なんだか、信じられない気分になる」
「どうして?」
「夢みたいなんだ。君が、僕の隣にいることが」
その言葉に、遥の胸はじんわりと熱くなる。
ゆっくりと距離が近づいていく。碧人の指が、遥の頬にそっと触れた。
静かに、唇が重なる。
ぬくもりの中に、ほんのわずかな震えがあった。
遥は目を閉じながら、碧人の背に腕をまわす。心も体も、この人に委ねたい──そう思った。
碧人の手が、遥の髪を撫で、肩を包む。
その手は優しく、だがどこかぎこちなさを伴っていた。
彼女の温もりに触れるたび、胸の奥に波のように押し寄せてくるものがあった。 それは、喜びでも安心でもない。
(これは……何だ? どうして、こんな気持ちになる?)
碧人の指先が、自然と遥の肩から鎖骨へと滑っていく。止めようとしても、どこか体が命令に従わない感覚があった。

(駄目だ、これは違う。彼女を……傷つけたくない)
心の中で何度もそう繰り返す。 でもそのたびに、記憶の奥に眠る“声”が囁く。

──全部、自分のものにすればいい。

その幻の声を打ち消すように、碧人は奥歯を噛みしめた。
(僕は彼女を愛してる……だから、触れてはいけない)
必死に手を引こうとする意思と、遥の肌に触れていたい衝動がせめぎ合う。 そのせいで、動きがぎこちなくなっていく。
(こんなふうに誰かと触れ合うのは……何年ぶりだろう)

遥が囁くように言った。
「碧人くん……大丈夫? 緊張してる?」
碧人は微かに笑い、首を横に振った。けれど、目の奥に走る影を遥は見逃さなかった。
碧人の中で、何かが葛藤していた。遥の頬に手を添えたまま、彼は一度、視線を伏せる。
(こんなにも触れていたいのに……どこかで、怖くなる)
彼女の柔らかい肌に触れていると、過去の記憶の残滓が微かに甦る。冷たい皮膚、動かぬ体──永遠に失われた温もり。
そんな記憶を、遥と重ねたくない。だが、それは勝手に忍び寄ってくる。
「ねえ、碧人くん……無理してない?」
遥の問いかけに、碧人ははっとして視線を上げた。
「いや……ただ、ちょっと……自分が怖くなる瞬間がある」
彼女に傷をつけるなんて、絶対にしたくない。 でも、自分の中にある“黒い衝動”が、喉元に浮かんでは消えていくのを、碧人は否定できなかった。

──この手が、君を傷つけてしまうかもしれない。
碧人は遥の首筋にそっと触れた。優しく、触れるだけのつもりだった。
けれど、指先がその脈動を感じた瞬間──何かがざわりと蘇りかけた。
遥が静かに目を開ける。
その瞳の奥に、わずかな不安が滲んでいた。
その表情に我に返った碧人は、慌てて手を離し、少し距離を取った。
「ごめん……なにか、変だった?」
「ううん……ただ、少しびっくりしただけ」
遥は笑おうとしたが、その笑みはどこか引きつっていた。
(……いま、なにか感じた。碧人くんの中にあるもの。あれは──)
碧人は震える手をそっと自分の膝に置き、何かを堪えるように視線を伏せた。
「……君に触れてると、怖くなる。嬉しくて、苦しくて……壊れてしまいそうになる」
その声は本当に切実で、遥はその言葉を信じたかった。
(信じたい。……私は、この人を)
恐怖と愛情、その狭間で揺れる夜が、やがて静かに溶け合っていった。

その晩、二人は何度も愛し合った。
遥は碧人の腕の中で、これまでにない安らぎと幸福を感じていた。
碧人もまた、遥の体温と呼吸を確かめるたび、胸の奥の衝動を押さえ込もうと必死だったが──それでも、遥との交わりは、過去のどんな性行為、いや、過去に犯してきた死姦の記憶よりも、圧倒的に鮮やかで、生きていた。
(これが……本物の“触れ合い”なんだ)
そう思えた瞬間、碧人の中で何かが崩れ、変わった。

朝── 窓のカーテン越しに差し込む柔らかな光で、二人は目を覚ました。
寝起きのまま、互いの顔を見つめて微笑み合い、唇を重ねる。 そして、もう一度そっと、互いを確かめ合うように肌を寄せ合った。
遥の胸には、確かな満足と安堵があった。
──この人を好きになってよかった。これから、もっと一緒にいたい。
その間、遥の中からは、死神の存在がふっと霧のように消えていた。
あの警告の声も、不吉な運命の影も──すべて、いまは遠い夢のように感じていた。
だが、静寂な朝の光が差し込む部屋に、不意に重たい気配が差し込んだ。 遥がベッドの上で毛布を直していると、ふいに窓の前に黒い影が立った。
烏牙だった。

「……やっぱり、来たのね」
碧人がシャワーを浴びている間に現れた死神は、静かに遥を見つめた。 その姿は遥にしか見えない。碧人には、何も気配すら感じ取れない。
「君の命は……本来ならもう存在しないはずだった。私は、君を正すためにここにいる」
「それでも、私は生きてる。そして、幸せに思えてるの」
「如月碧人の記憶が戻り始めている。昨夜のこと、君は感じたはずだ」
遥の眉がかすかに動く。「……彼の中に、冷たい何かが宿った気がした」
烏牙は強い口調で言い放つ。「そう、それこそが殺意だ。過去、彼が八人の女性を殺したときに抱いていたものと同じ」
「でも彼は、私を傷つけようとはしなかった。むしろ怯えてた、自分自身に」
「それが逆に恐ろしい。自覚しながら衝動に飲まれる者ほど、厄介な存在はいない」
遥は言い返すように目を細めた。「それでも、私は彼を信じたい」
「君が信じようと信じまいと、運命は変えられない。碧人と共にいれば、いずれ君は──」
「殺される……それでも構わないわ」遥の声は震えていたが、瞳は真っ直ぐだった。
「私の運命はもう変わった。だから、彼の運命もきっと変えられる。私はそれを信じてるの」
烏牙は焦りを隠せなかった。「自分を犠牲にする覚悟で彼に寄り添うというのか? 君が死んだら、それで彼が本当に救われると思うのか?」
「わからない。けど、もし彼が変わる未来があるなら、その可能性を捨てたくない」
「君のような人間がいるから、私は苦労する……」
烏牙はため息をつき、頭を抱えるように肩を落とした。
「私の使命は“正しい死”を導くことだ。君も、碧人も、本来はその道に戻るべきだ」
「でも、正しいって誰が決めたの?」
遥の言葉に、烏牙は一瞬沈黙した。 その隙に、シャワー室の扉が開く音がした。 烏牙はその気配に気づくと、視線を逸らして一言だけ残した。
「……私は、君が間違っていないことを願う」
そうして姿を霧のように消した。
遥は、湯気の立つバスルームの扉を見つめながら、静かに深呼吸をした。
あの警告の声も、不吉な運命の影も──すべて、いまは遠い夢のように感じていた。
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