死神と私と、優しい殺人鬼の想い出

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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第二十二章 砕ける方程式

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夜が明ける頃、遥はようやくベッドに横たわっていた。
ドアは開かなかった。碧人も去っていった。

(私……生きてる)
それが、信じられなかった。
体は重く、眠ってもいないのに夢を見ているようだった。
心臓の鼓動だけが、生を証明していた。
(あれでよかったの? 本当に……)
拒絶できたことへの安堵と、
それでもなお“自分が誰かを傷つけた”という罪の意識が、胸の奥でぶつかり合っていた。
(私は……彼をもう一度、壊したのかもしれない)
自分の命を守る選択が、誰かの崩壊に繋がる。
それが、“善”だとは思えなかった。


同じ時間。
ビルの屋上にひとり立つ碧人の背中は、まるで影そのもののように沈んでいた。
手元にあったはずの鍵は、もうない。
スマホも、通話履歴も、LINEも、全てが“遮断”を告げていた。
彼女は、ドアを開けなかった。

“もう戻ってこない”と――わかった。
「そうか……そうなんだ……」
言葉は震えていた。
けれど、涙は出ない。ただ、冷たい興奮が彼の内側で泡立っていた。
「じゃあ……次は、僕の番だ」
静かに笑った。
(今度は僕が、“選ぶ”番だ。
君が閉ざしたなら――僕が開けるしかない)
彼の中で、かつての“静かな狂気”が再構築されていく。
それは、優しさではなく執着の姿をしていた。
「僕の心を受け取らない世界は、存在しなくていい」


その日、死神中庁・審問室。
烏牙は椅子に座り、白の外套をまとった審問官の視線を受けていた。

「お前は“死を予定された魂”を、独断で回避させた」
「感情起因による未来予知の変動。死因の先延ばし、三度目。
本来であれば、担当交代と記録抹消が妥当だ」
烏牙は静かに応じた。
「確かに私の判断だった。だが、彼女は“自ら選んで”生き残った。
それは死神が干渉したのではなく、人間自身の意思による未来の更新だ」
「ならば、代償を払え」
審問官が手帳を開く。

「お前は、今後いかなる運命の介入も禁ず。
この魂に対する最終記録者として、以降の観測権を保持するのみ」

「……了解した」
“観ることは許される。だが、もう触れてはならない”
烏牙の外套が黒く染まり、彼はただ立ち上がった。
(それでいい。
私はもう――選ばれた結末を、最後まで“見届ける”だけだ)


その夜、遥の部屋の窓の外に――誰かの影が立っていた。
ビルの影から見えたその輪郭は、まだ名を持たない“次の災厄”の始まり。
それに、遥はまだ気づかない。


静かだった。
部屋の中も、窓の外も、心の中でさえも。
音を立てれば“見つかる”気がして、遥はほとんど呼吸をしていなかった。
ブラインドは閉め切り、玄関には椅子と棚を重ねてバリケードを作った。
スマホは電源を切り、位置情報もBluetoothも、SIMカードすら抜き取った。
それでも、彼は来る。

「逃げたくても逃げられないよ。君は、僕に見つけられるようにできてる」

最後に会ったときの言葉が、耳の奥で腐りかけた金属のように響いていた。
(本当に……来る。殺される)
そう思ってしまうには、十分すぎる現象が重なっていた。
・玄関ポストに名前のない封筒が入っていた。
・昨日届いたスーパーの宅配便が、誰かに一度開けられた形跡があった。
・寝ている間、机の上のコップが左右逆になっていた。
(碧人がやってる……私の中を、崩そうとしてる)
思考がまともに働かない。
(殺される。今度こそ、本当に――)
涙も出なかった。
恐怖が濃すぎて、感情の出口が塞がれていた。


ビルの屋上。
死神・烏牙は手帳を開いたまま、遥の部屋を遠くから見下ろしていた。
「魂の色――黒赤」
「心拍数:異常上昇」
「死因接近率:92.4%」
「……あとわずか。ここで碧人が接触し、殺意を発動すれば――確定する」
ページが風に揺れた。
烏牙の眼差しは、遥に向けられていたはずなのに、どこかに曇りがあった。
(本当に、この男は……また殺すのか?)
死神ですら、確信を持てない“不確定な未来”。
ただ、ひとつだけはっきりしている。
“このままなら、遥は近いうちに死ぬ”


深夜一時。

遥はキッチンの床で、毛布にくるまってうずくまっていた。
照明はつけていない。音も光も、全ての気配を消していた。
そのとき、
スマホの電源が、勝手に入った。
真っ暗な画面に、LINEの通知が浮かぶ。
「もう怖がらないで」
「僕が全部、終わらせてあげる」
ぞわりと背筋が凍る。
SIMは抜いた。Wi-Fiも切っている。
それなのに、届いている……気がした。
遥は、咄嗟にスマホを床に叩きつけた。画面が割れる。
(来る。もう、すぐそこにいる)
壁を背に、震える指で包丁を握った。
玄関の向こうから――足音がした。


部屋の隅に、死んだように縮こまる。
割れたスマホが目の前で沈黙している。包丁はまだ握っていた。自分が何に怯えているのか、もう明確な言葉にはならない。
音が聞こえる気がした。
足音。廊下。風の音と混ざり合って、誰かが確かに近づいている気配。
(碧人くん……)
あの目が脳裏に浮かぶ。
冷たく、何かを壊すためだけに生まれたような目。
(あの人が来る。来て、私を……)
玄関の前に誰かが立っている。
そんな確信が、脈打つように広がる。

ピンポーン。
チャイムの音が部屋に弾けた。
全身が跳ねた。心臓が、一度止まった気がした。
「遥ちゃん? 岡部です……聞こえる?」
思っていたのとは違う声だった。
一瞬、呼吸が戻る。
次の瞬間、別の種類の緊張が体を支配した。

岡部。会社の上司。
以前、「君のこと、ずっと見てた」なんて告白をしてきた男。
(どうして……どうしてこの部屋がわかったの?)
誰にも住所は教えていない。
会社の人間にも、親しい友人にも。
「近くに来たんだ。最近ずっと連絡が取れなかったから、心配でさ」
声は穏やかで、優しいふりをしていた。
でも遥の中には、かつて聞いた別の声が、重なっていた。
“だって、君のこと見てるからだよ。前から、ずっと”
あのときも、この声だった。
やさしい音色に、どこかおかしい音程が混ざっている。
「開けなくてもいい。ただ……無事かどうかだけ、返事をしてくれると嬉しい」
(碧人よりは……)
そう思った。ほんの一瞬。
碧人の姿が頭をよぎり、その手に包丁が握られている幻が見えた。
(この人なら、少なくとも“殺しはしない”かもしれない)
天秤が、わずかに傾く。
「碧人に会ったら、君は壊される。あいつはもう、まともじゃない。
僕、知ってるよ。ずっと見てたから。君を……君のまわりを」

ずっと――見てた?
その言葉に、ぞっとする。
自分が誰にも気づかれないように帰宅した日、窓の隙間から覗いたような視線。
(まさか……あれも?)
玄関のドアに手を伸ばしかけた手が止まる。
岡部の声は、変わらずやさしかった。
「君を守りたいだけなんだ。怖がらないで。
僕は……あいつとは違う。絶対に、違うから」
その言葉が、やけに切実に響く。
けれど、遥の中で何かが警告を鳴らしている。
それでも――
(もう、誰かに決めてほしかった)
どちらに転んでも、きっと後悔する。
でも、いまこの瞬間、選ばなければ終われない。
そして――
玄関のドアの向こうに、再び影が動いた。
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