死神と私と、優しい殺人鬼の想い出

陵月夜白(りょうづきやしろ)

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第二十四章 信じられない声

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数日後の午後――。

由梨のアパートにチャイムが鳴った。
キッチンで水を飲んでいた遥の手が止まる。
「……誰?」
由梨は穏やかに微笑んで言った。
「大丈夫。和馬が来るって言ってたから」
「ちょっと話したいことがあるって」
遥は少しだけ安心した表情を見せかけて、玄関へ向かう。
だが、ドアが開いた瞬間、目に飛び込んできた顔に凍りついた。

「――っ!」
岡部が、和馬の隣に立っていた。
「久しぶりだね、遥ちゃん。急に驚かせてごめん」
柔らかな口調。
笑顔。
でもその目の奥にあった“何か”が、遥の記憶に刻まれていた。
背筋が凍り、足がすくむ。
「やだ……やだ、なんで……あなたが……!」
由梨が慌てて近づいてくる。
「遥、落ち着いて。話聞いて……岡部さんは、会社の人でしょ? 和馬が心配して――」
遥は首を振る。
息が荒くなり、喉の奥から叫びが漏れそうになる。
「違う、違うの……この人、怖い……この人に……!」
和馬が制するように手を上げる。
「落ち着いて、遥ちゃん。何も怖がることないよ。岡部さん、ちゃんと君を助けたいって……」
岡部が一歩前に出る。
「僕、車で来てるんだ。すぐ近くに病院もある。落ち着けるところに行こう。ね?」
遥は後ずさった。
「やだ……行かない……」
由梨も優しく言葉を重ねる。
「遥、本当にお願い。少し診てもらうだけ。疲れてるんだよ、きっと……」
(嘘……やだ……誰も、信じられない)
遥の頭の中で、声が渦を巻く。
(みんなで、私を……)
手が震える。息が詰まる。視界が揺れる。

そして、次の瞬間――。
遥は玄関の隙間をすり抜けて、アパートの外階段を駆け下りていた。
誰かが呼ぶ声が背後から追ってくる。
「遥! 待って――!」
遥は振り返らず、ただ走った。
(逃げなきゃ。殺される。連れて行かれる……!)
泣きながら、息を切らしながら、
彼女はまたしても――“ひとり”になった。


夜風が肌を切るように冷たかった。
遥は何駅も電車を乗り継ぎ、降りたことのない土地にいた。
小さな駅前を抜け、灯りのない裏通りを歩き続けた。
目的地など、どこにもない。
ただ、“誰にも見つからない場所”を探していた。
やがて目の前に、朽ちた鉄の門が現れた。

「市立植物園跡地」

プレートは斜めに掛けられ、文字の一部は剥がれて読めなくなっている。
門の奥には、うっすらと枯れた木々のシルエット。
さらに奥に、ガラスが砕けた温室の骨組みが、月明かりに照らされて浮かんでいた。
遥は門の前に立ち尽くした。
(ここに入れば……誰にも見つからないかもしれない)
けれど、足が動かなかった。
風が吹き抜け、割れたガラス片が鈍い音を立てる。
門の奥は静かすぎて、生き物の気配がなかった。
(こんな場所……ひとりで入れるわけがない)
(怖い。暗い。なにかが潜んでいそうで……)

膝が震える。
呼吸も浅くなる。
それでも、後ろに引き返す気にはなれなかった。
(戻れば、碧人がいる。……あるいは岡部が)
背後の闇を想像しただけで、喉がつまった。
身体の芯が冷え、心臓が荒く鳴る。
(怖いのは、廃墟じゃない。……人間のほうだ)
それでも、門の奥へ一歩踏み出すには、あまりに勇気が要った。
(誰もいないかもしれない。でも……誰かいたら?)
(もし“あの人たち”がここにも現れたら?)
ずっとその場に立ち尽くしたまま、遥は月を仰いだ。
そのとき――風が強く吹き、遠くで犬が吠える声が響いた。
遥の中で何かが“音を立てて切れた”。
(どこかに逃げないと、もう終わる)
(ここが地獄でも、外のほうが、もっと地獄かもしれない)
ようやく――足が、門の内側へと動いた。


夜のオフィス街に、不釣り合いな気配があった。
人気のないビル街の一角。
その一棟の前に、男が立っている。
碧人だった。
白いフードを目深に被り、
顔の一部を闇に沈めたまま、無言でビルを見上げていた。
視線は、獲物を定める肉食獣のように鋭く、
だが、そこに浮かぶ感情の色はなかった。
「……遥」
その名を呟く声は、異様に淡々としていた。
まるで、名前ではなく“物の名前”を言っているような、温度のない音。

ビルの入り口へ近づく。
指先がガラス扉に触れる。
そして――静かに、冷たく、笑った。
「またいない」
嬉しいのか、寂しいのか、怒っているのか。
何一つわからない表情だった。
ただ――壊れていることだけが、確かだった。

碧人はポケットから何かの小型メモ帳を取り出すと、そこに数文字を書きつけた。
何かを確認し、周囲を見回し、ビルの裏口へと回る。
不審者のように見えても、まるで本人は気にしていない。
監視カメラの死角に自然と入り込み、静かに周囲を歩き回る。
すべては、訓練された何かのように、音もなく進行する。

「どうして……逃げるの。僕から、どこへ行くの」
「でも、隠れても無駄。……僕は、見つける」
その声は、やさしさの仮面もない。
ただ、ひたすらに“見つけ出して、手に入れようとする者”の執念だけが残っていた。
ビルの脇にある非常階段に目を向け、
足音を立てぬように金属段を数歩だけ上り、音の反響を確認する。
中に誰もいないと分かると、今度は通りの自販機に目を向け、
無言で自分の姿をガラスに映す。
その目が、じっと――何かを“殺しにかかる者”の目をしていた。

「きっともうすぐ。君はまた……僕の前に現れる」
「そのとき、もう逃がさない」
笑った。
だがその笑みは、壊れた人形のように、歪んでいた。

古びたアパートの前に、碧人は立ち尽くしていた。
誰もいない。
数日前から、明かりも差さない。
ポストにはチラシが詰まり、洗濯物は干されていない。
カーテンの隙間は、静かすぎた。
「……いない」
その言葉を吐き出す唇は、わずかに歪んだ。
怒りでも、落胆でもない。
ただ、「自分のもの」が逃げた事実に対する純粋な苛立ちが滲んでいた。
(なぜいない。どうして……逃げる)
(僕は、まだ“終わっていない”のに)
視線がアパートの外壁を這い、窓を貫き、
鍵のかかった玄関扉を穴が開くほど見つめた。
足元にある小さな泥の跡に視線を落とし、何かを推測するように動かない。
(誰かが来た……?それとも連れて行かれた?)
そう考えた瞬間、眉間がぎゅっと寄り、歯を噛み締める音が微かに漏れる。
「連れて行かれたなら……壊す」
その声に、優しさも人間味もなかった。

アパートの裏手に回り、植え込みを踏み越え、
二階のベランダを見上げながら、金属のポールに手をかける。
まるで――侵入の機会を探っているかのように。
中を覗くことはない。ただ、何度も、何度も、
その“いない空間”に視線を這わせる。
「どこだ……遥」
声が低く、乾いていた。
まるで、深い井戸の底から響く呪詛のようだった。

再び玄関前に戻ると、足元の砂を踏みしめ、かかとで無意識に何度もこする。
砂埃が舞い、乾いた音が夜に溶けた。
そして、不意に顔を上げた碧人の表情は――狂気だった。
「もう一度、見つける。何があっても」
その口元が、笑ったのか、歪んだのか。
その境界が、もうわからなかった。

碧人はその場を離れる。
だが、その足取りは遅くも早くもない、
ただただ“冷たい執着”だけを伴った、
獲物に距離を詰める狩人の歩みだった。
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