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第二十八章 引き裂かれた運命
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ナイフが宙を裂き、鮮血が舞った。
碧人は自らの肩口に刃を受けながらも、遥の身体を岡部の腕から引きはがすように抱き寄せた。遥の身体がその胸に崩れ落ち、恐怖で震える指が彼の服を掴んだ。
「遥……っ」
それだけを呟くと、碧人は彼女を背後に庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。負傷した腕からは血が滴り、草を赤く染めていく。
岡部は舌打ちをし、再び構えを取った。目が爛々と光っている。
「ふざけるな……ふざけるな! なんでお前なんかが、あの女に選ばれる!? 俺はずっと努力してきたんだ! 我慢して、耐えて、ずっと……!」
「それを努力とは言わない」
碧人の声は冷え切っていた。怒りも、同情も、もうなかった。ただ一つの強い意志が、言葉に宿っていた。
「お前は、自分の不幸を他人にぶつけて、傷つけることでしか自分を保てなかったんだ。そんなのは……ただの弱さだ」
「うるさいっ!!」
岡部がナイフを振りかぶり、突進した。
次の瞬間、肉と肉がぶつかる重い音。
碧人がその刃を受け止め、捻じ伏せるように岡部の腕を掴み、地面に叩きつけた。
「ぐっ……!」
岡部が呻き声を上げる。
「終わりだ、岡部」
荒く息を吐きながら、碧人が告げた。だが、その瞳には怒りではなく、冷ややかな憐れみが浮かんでいた。
「……違う、終わらない。お前も俺と同じだ。女を傷つけてきた。殺してきた。だから、地獄に落ちるのは……お前も、同じだ」
「それでも、遥だけは……」
碧人は遥の方をちらりと見た。
「俺が、守る」
遥の目が潤み、その場に崩れ落ちそうになる膝を支えるように、震える腕でペンダントを握りしめた。
岡部が地面に倒れ、呼吸だけが響く闇の中で――
ついに、すべてが終わりを迎えようとしていた。
*
夜が、ようやく明け始めていた。
薄明の空に、静かな風が流れ、植物園の草木がわずかに揺れている。
倒れた岡部は、うめき声を上げながらももはや反撃の気力を失っていた。碧人の手によってナイフを奪われ、地面に押さえつけられていた。
遥はその光景を、ただ呆然と見つめていた。
終わったのか――。
それとも、これはまだ悪夢の続きなのか。
耳の奥で、自分の鼓動だけが妙に大きく響いている。ペンダントを握りしめる手には、もう力が入らない。それでも、それだけが現実と繋がる唯一の確かな感触だった。
「……碧人……」
かすれた声で呼ぶと、碧人が遥の方を振り返った。
その目は、どこか空虚だった。
「大丈夫か?」
その一言に、遥は何も返せなかった。ただ、こくりと小さく頷くだけ。
碧人の腕や顔は血に濡れていたが、その表情には怒りも凶気もなかった。
ただ、すべてを背負い切った男の、静かな疲労と後悔だけがあった。
そのとき、遠くでサイレンの音が響き始める。
誰かが通報していたのだろうか。あるいは、近隣の異変に誰かが気づいたのか。
「もうすぐ来る。……ここから離れろ」
碧人が遥に言った。
「でも……あなたは?」
「俺はもう……逃げることはない。全部、終わらせる」
遥は一歩だけ、碧人に近づこうとした。
だが――
その背中に、言葉では届かない距離があることに、彼女は気づいた。
遥の足が止まる。
碧人の背中が、これまで見てきたどの姿よりも遠く感じられた。
傷だらけで、血に染まり、それでもまっすぐ立っているその背中は――彼女の知る“殺人鬼”ではなかった。
「わたし……あなたのこと、信じていいの……?」
遥の問いに、碧人は少しだけ振り返った。
その顔に笑みはなかったが、どこか優しさが戻っていた。
「信じるな。……でも、忘れないでくれ」
そう言い残して、碧人は岡部の横にしゃがみ込み、その腕を押さえながら、警察の到着を待つ姿勢を取った。
遠ざかっていたサイレンが、すぐそこまで迫ってきていた。
赤と青の光が植物園の塀越しに明滅し、いよいよこの夜の終わりが近づいていることを告げていた。
遥は、その光の中に立ち尽くしながら、ペンダントを見つめた。
ぬくもりはまだ、そこにあった。
彼のぬくもりも、彼の罪も、彼の祈りも――すべてがそこに、残っていた。
「……碧人」
最後に、名を呼んだ。
彼は振り返らなかった。けれど、その背中がかすかに揺れたように見えた。
警官たちが植物園へと駆け込み、静寂だった空間が急に現実に引き戻される。
遥は一歩、二歩と後ずさり、視界の端で碧人が手錠をかけられるのを見届けた。
そして、振り返らずにその場を離れた。
空はすっかり明るくなっていた。
けれど、胸の中にあった夜は、まだ少しだけ、消えていなかった。
*
季節は、いつの間にか変わっていた。
蝉の鳴き声が消え、街路樹の葉は色を変え始めている。
遥は静かな公園のベンチに座り、ひざの上に両手を置いて、ただ目を閉じていた。
あの夜のことを、夢だったと考えるには、傷が深すぎた。
岡部の逮捕。碧人の拘束。
そして、取り調べによって明らかになった複数の遺体と、彼の過去。
彼は本当に人を殺した。
それは変えようのない事実だった。
けれど――
「でも、あのとき、わたしを守ってくれたのも……彼だった」
遥はそっと、胸元に手を添える。
シャツの下には、あのペンダントがまだある。
あの日の血も、涙も拭って、磨いた。
「信じるな」と言った彼の声が、今でも耳に残っている。
だけど、信じてしまった。
たとえ、それが間違いだったとしても。
ベンチの隣に、ふと誰かが座った気配がした。
目を開けると、そこには――烏牙がいた。
黒いコートに黒い瞳。その姿は変わっていない。
「……また、現れたのね」
遥の声は、怒りでも恐れでもなかった。ただ静かな確認だった。
烏牙は何も言わずに頷くと、前を見たまま呟いた。
「私はあの夜、何もできなかった。死神でありながら、ただ見ていただけだ」
「……そうね。あなた、ずっと“無能な死神”だって、自分で言ってた」
烏牙はわずかに笑ったようだった。
「でも、君は選んだ。恐れも、疑いも、すべて飲み込んで、立ち向かった。私にはそれができなかった」
沈黙が流れる。
「運命は、決まってなどいない。……誰かが諦めることで、初めて“確定”になるだけだ。
君が諦めなかったから、運命は揺れ動いた。最後の瞬間まで」
遥はゆっくりと目を閉じた。
「ありがとう。でも……わたしは、まだ答えが出せない。
碧人を許せるかどうかも、彼を“救いたい”と思ってしまう自分を認められるかも……」
「それでいい。答えは一つじゃない。人間は、何度でも選び直せる」
烏牙の声が、遠ざかっていく。
目を開いたとき、隣には誰もいなかった。
ただ、風だけがそっと髪を揺らしていた。
遥はベンチから立ち上がる。
ペンダントが、胸元で微かに音を立てた。
それは、誰にも届かない――けれど、確かに彼に向けた、無音の祈りだった。
碧人は自らの肩口に刃を受けながらも、遥の身体を岡部の腕から引きはがすように抱き寄せた。遥の身体がその胸に崩れ落ち、恐怖で震える指が彼の服を掴んだ。
「遥……っ」
それだけを呟くと、碧人は彼女を背後に庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。負傷した腕からは血が滴り、草を赤く染めていく。
岡部は舌打ちをし、再び構えを取った。目が爛々と光っている。
「ふざけるな……ふざけるな! なんでお前なんかが、あの女に選ばれる!? 俺はずっと努力してきたんだ! 我慢して、耐えて、ずっと……!」
「それを努力とは言わない」
碧人の声は冷え切っていた。怒りも、同情も、もうなかった。ただ一つの強い意志が、言葉に宿っていた。
「お前は、自分の不幸を他人にぶつけて、傷つけることでしか自分を保てなかったんだ。そんなのは……ただの弱さだ」
「うるさいっ!!」
岡部がナイフを振りかぶり、突進した。
次の瞬間、肉と肉がぶつかる重い音。
碧人がその刃を受け止め、捻じ伏せるように岡部の腕を掴み、地面に叩きつけた。
「ぐっ……!」
岡部が呻き声を上げる。
「終わりだ、岡部」
荒く息を吐きながら、碧人が告げた。だが、その瞳には怒りではなく、冷ややかな憐れみが浮かんでいた。
「……違う、終わらない。お前も俺と同じだ。女を傷つけてきた。殺してきた。だから、地獄に落ちるのは……お前も、同じだ」
「それでも、遥だけは……」
碧人は遥の方をちらりと見た。
「俺が、守る」
遥の目が潤み、その場に崩れ落ちそうになる膝を支えるように、震える腕でペンダントを握りしめた。
岡部が地面に倒れ、呼吸だけが響く闇の中で――
ついに、すべてが終わりを迎えようとしていた。
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夜が、ようやく明け始めていた。
薄明の空に、静かな風が流れ、植物園の草木がわずかに揺れている。
倒れた岡部は、うめき声を上げながらももはや反撃の気力を失っていた。碧人の手によってナイフを奪われ、地面に押さえつけられていた。
遥はその光景を、ただ呆然と見つめていた。
終わったのか――。
それとも、これはまだ悪夢の続きなのか。
耳の奥で、自分の鼓動だけが妙に大きく響いている。ペンダントを握りしめる手には、もう力が入らない。それでも、それだけが現実と繋がる唯一の確かな感触だった。
「……碧人……」
かすれた声で呼ぶと、碧人が遥の方を振り返った。
その目は、どこか空虚だった。
「大丈夫か?」
その一言に、遥は何も返せなかった。ただ、こくりと小さく頷くだけ。
碧人の腕や顔は血に濡れていたが、その表情には怒りも凶気もなかった。
ただ、すべてを背負い切った男の、静かな疲労と後悔だけがあった。
そのとき、遠くでサイレンの音が響き始める。
誰かが通報していたのだろうか。あるいは、近隣の異変に誰かが気づいたのか。
「もうすぐ来る。……ここから離れろ」
碧人が遥に言った。
「でも……あなたは?」
「俺はもう……逃げることはない。全部、終わらせる」
遥は一歩だけ、碧人に近づこうとした。
だが――
その背中に、言葉では届かない距離があることに、彼女は気づいた。
遥の足が止まる。
碧人の背中が、これまで見てきたどの姿よりも遠く感じられた。
傷だらけで、血に染まり、それでもまっすぐ立っているその背中は――彼女の知る“殺人鬼”ではなかった。
「わたし……あなたのこと、信じていいの……?」
遥の問いに、碧人は少しだけ振り返った。
その顔に笑みはなかったが、どこか優しさが戻っていた。
「信じるな。……でも、忘れないでくれ」
そう言い残して、碧人は岡部の横にしゃがみ込み、その腕を押さえながら、警察の到着を待つ姿勢を取った。
遠ざかっていたサイレンが、すぐそこまで迫ってきていた。
赤と青の光が植物園の塀越しに明滅し、いよいよこの夜の終わりが近づいていることを告げていた。
遥は、その光の中に立ち尽くしながら、ペンダントを見つめた。
ぬくもりはまだ、そこにあった。
彼のぬくもりも、彼の罪も、彼の祈りも――すべてがそこに、残っていた。
「……碧人」
最後に、名を呼んだ。
彼は振り返らなかった。けれど、その背中がかすかに揺れたように見えた。
警官たちが植物園へと駆け込み、静寂だった空間が急に現実に引き戻される。
遥は一歩、二歩と後ずさり、視界の端で碧人が手錠をかけられるのを見届けた。
そして、振り返らずにその場を離れた。
空はすっかり明るくなっていた。
けれど、胸の中にあった夜は、まだ少しだけ、消えていなかった。
*
季節は、いつの間にか変わっていた。
蝉の鳴き声が消え、街路樹の葉は色を変え始めている。
遥は静かな公園のベンチに座り、ひざの上に両手を置いて、ただ目を閉じていた。
あの夜のことを、夢だったと考えるには、傷が深すぎた。
岡部の逮捕。碧人の拘束。
そして、取り調べによって明らかになった複数の遺体と、彼の過去。
彼は本当に人を殺した。
それは変えようのない事実だった。
けれど――
「でも、あのとき、わたしを守ってくれたのも……彼だった」
遥はそっと、胸元に手を添える。
シャツの下には、あのペンダントがまだある。
あの日の血も、涙も拭って、磨いた。
「信じるな」と言った彼の声が、今でも耳に残っている。
だけど、信じてしまった。
たとえ、それが間違いだったとしても。
ベンチの隣に、ふと誰かが座った気配がした。
目を開けると、そこには――烏牙がいた。
黒いコートに黒い瞳。その姿は変わっていない。
「……また、現れたのね」
遥の声は、怒りでも恐れでもなかった。ただ静かな確認だった。
烏牙は何も言わずに頷くと、前を見たまま呟いた。
「私はあの夜、何もできなかった。死神でありながら、ただ見ていただけだ」
「……そうね。あなた、ずっと“無能な死神”だって、自分で言ってた」
烏牙はわずかに笑ったようだった。
「でも、君は選んだ。恐れも、疑いも、すべて飲み込んで、立ち向かった。私にはそれができなかった」
沈黙が流れる。
「運命は、決まってなどいない。……誰かが諦めることで、初めて“確定”になるだけだ。
君が諦めなかったから、運命は揺れ動いた。最後の瞬間まで」
遥はゆっくりと目を閉じた。
「ありがとう。でも……わたしは、まだ答えが出せない。
碧人を許せるかどうかも、彼を“救いたい”と思ってしまう自分を認められるかも……」
「それでいい。答えは一つじゃない。人間は、何度でも選び直せる」
烏牙の声が、遠ざかっていく。
目を開いたとき、隣には誰もいなかった。
ただ、風だけがそっと髪を揺らしていた。
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