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16.諦観
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昨夜は浅い眠りを繰り返し、結局寝不足になってしまった。目を覚ますといつも通り朝食を食べ掃除に取り掛かる。
昨夜のことが何度も頭の中を巡る。彼の大きな手が自分を支えダンスをした。見つめ合った瞬間、永遠に時間が止まってほしかった。リックと踊ることが出来ると知っていたならもっと淑やかなドレスを着たかった。あんな派手なものではなく彼に好ましいと感じられるものがよかった。一生の思い出に相応しい、そんなドレス……。考えていると瞳が潤んでくる。
ジリアンは現実が辛くて夢のような時間を思い出すことで逃避している。エヴァに呼ばれるとしたら午後だろう。昨夜は三人とも帰宅が遅かったようなので午前中は起きないはずだ。エヴァに何を言われるのかとジリアンは恐れていた。
掃除をするも上の空になる。それでも体は自然と動いた。夕方になるとエヴァに部屋に呼ばれた。
「ジリアン。お前の行動は軽率でした。今後グリーン商会のお使いは他の者に行かせます。それと暫く夜会にも出なくていいわ。昨夜イヴリンとヒューゴ様の婚約が正式に決まりました。お前の縁談は今来ている人たちから選びます。候補としては子爵家のご子息か男爵家の当主の後妻のどちらかになるでしょう。婚約が整い次第、お前は相手の家に勉強を兼ねて行ってもらいます。ただその手荒れのまま行かせては私が酷い扱いをしていたと思われ評判に関わります。ですからメイドの仕事は免除します。その代わり寄付するための刺繍や小物作り、手紙の代筆をしてもらいます。詳しい指示は侍女長から伝えるようにするので部屋で待機をしているように」
「かしこまりました。奥様」
部屋を出ようとしたジリアンにエヴァは思い出したように付け加える。
「ああ、ジリアン。あの商人のところへ逃げようなんて思わないことね。そんなことをしたらカーソン侯爵家の力を使ってあの商人を潰すわ。愚かな行動は慎みなさい」
「っ――。はい……」
やはり、エヴァはジリアンをリックから遠ざけた。彼女は勘がいいからジリアンの気持ちを察したのだろう。部屋に戻り呆然とする。もうリックに会うことは出来ない。あれが最後の別れになってしまった。それならせめて気持ちを伝えればよかった。違う。駄目だ。もしそれで彼が自分を連れ出そうとすればエヴァが何をするか分からない。だからこれでよかった……。
ジリアンは自分がメイドとなり平民として暮らしてわかったことがある。全ての貴族ではないが多くの貴族は平民と自分たちを区別する。まるで人間以下のように嬲ることに頓着せず傲慢に振る舞う。街にお使いに出ると気に入らないという理由だけで杖で男性を叩く貴族を見た。グリーン商会でも理不尽な要求をしてリックやダイナ、従業員たちが苦労している所も見ていた。いつだって自分はどうすることも出来なくて見ていただけだった。もしエヴァが本気でリックに危害を加える気になれば絶対に実行するだろう。自分のせいでリックをそんな目に合わせるわけにはいかない。
辛いことを数えたくない。そう思っても彼と過ごしたささやかな幸せを凌駕する悲しみに押し潰されそうになる。扉のノックに返事をすれば侍女長が顔を出した。手には大量のハンカチと刺繍セットがある。
「奥様がバザーに出す為のハンカチに刺繍をするようにとのことです」
「分かりました」
「ジリアン。この部屋の入室も奥様の指示で制限されました。あなたも部屋から出ることを許されていません。辛いと思いますが堪えて下さい。それとこれは私とルナからです。みんなも心配しています。だから気持ちを強く持ちなさい」
侍女長は表情を変えることなく淡々と話し部屋を出ていった。動揺を見せないのは彼女なりの気遣いだと分かった。もし、心配気に慰められたら心がグチャグチャになってしまったかもしれない。
(どうして自分だけこんな目に合うの! 人を好きになってはいけないの? 勝手に使用人にしておきながら貴族籍に残しておいて好きでもない男と結婚しろなんて酷い! リックさんを人質にするような発言は許せない!)
そう叫び出したかったが侍女長の声を聞いたことで頭の中が少し冷静になれた。渡された紙袋を覗けばそこには飴やクッキーが入っている。
(自分には心配してくれる人がいる。一人じゃない。この先どうなるか分からないけど挫けては駄目だ)
飴の包みを取り広げると丸いピンク色の飴が出てきた。口に入れると甘い苺の香りと甘みが広がる。
「美味しい……」
思わず顔が綻んだ。そのお菓子を両親の形見のハンカチと一緒に大事に引き出しにしまい、気を紛らわすためにハンカチに刺繍を刺しはじめた。
毎日屋根裏部屋で与えられた仕事をこなし静かに過ごす。顔を合わせるのは食事を運んで来てくれる侍女長だけだったが、侍女長は敢えて自分の縁談の話はせずにルナの話や屋敷の庭に入り込んでみんなでこっそり飼っている猫の話をしてくれた。
そのおかげで今の自分を静かに受け入れることが出来た。
一か月ほど経ったある朝、エヴァに呼び出されジリアンの縁談が決まったことを告げられた。そしてもう迎えが来ているからと客間に向かう。そこには見知らぬ男性とバナンとイヴリンがいた。
とうとうこの家を出る、その時が来たのだ。
昨夜のことが何度も頭の中を巡る。彼の大きな手が自分を支えダンスをした。見つめ合った瞬間、永遠に時間が止まってほしかった。リックと踊ることが出来ると知っていたならもっと淑やかなドレスを着たかった。あんな派手なものではなく彼に好ましいと感じられるものがよかった。一生の思い出に相応しい、そんなドレス……。考えていると瞳が潤んでくる。
ジリアンは現実が辛くて夢のような時間を思い出すことで逃避している。エヴァに呼ばれるとしたら午後だろう。昨夜は三人とも帰宅が遅かったようなので午前中は起きないはずだ。エヴァに何を言われるのかとジリアンは恐れていた。
掃除をするも上の空になる。それでも体は自然と動いた。夕方になるとエヴァに部屋に呼ばれた。
「ジリアン。お前の行動は軽率でした。今後グリーン商会のお使いは他の者に行かせます。それと暫く夜会にも出なくていいわ。昨夜イヴリンとヒューゴ様の婚約が正式に決まりました。お前の縁談は今来ている人たちから選びます。候補としては子爵家のご子息か男爵家の当主の後妻のどちらかになるでしょう。婚約が整い次第、お前は相手の家に勉強を兼ねて行ってもらいます。ただその手荒れのまま行かせては私が酷い扱いをしていたと思われ評判に関わります。ですからメイドの仕事は免除します。その代わり寄付するための刺繍や小物作り、手紙の代筆をしてもらいます。詳しい指示は侍女長から伝えるようにするので部屋で待機をしているように」
「かしこまりました。奥様」
部屋を出ようとしたジリアンにエヴァは思い出したように付け加える。
「ああ、ジリアン。あの商人のところへ逃げようなんて思わないことね。そんなことをしたらカーソン侯爵家の力を使ってあの商人を潰すわ。愚かな行動は慎みなさい」
「っ――。はい……」
やはり、エヴァはジリアンをリックから遠ざけた。彼女は勘がいいからジリアンの気持ちを察したのだろう。部屋に戻り呆然とする。もうリックに会うことは出来ない。あれが最後の別れになってしまった。それならせめて気持ちを伝えればよかった。違う。駄目だ。もしそれで彼が自分を連れ出そうとすればエヴァが何をするか分からない。だからこれでよかった……。
ジリアンは自分がメイドとなり平民として暮らしてわかったことがある。全ての貴族ではないが多くの貴族は平民と自分たちを区別する。まるで人間以下のように嬲ることに頓着せず傲慢に振る舞う。街にお使いに出ると気に入らないという理由だけで杖で男性を叩く貴族を見た。グリーン商会でも理不尽な要求をしてリックやダイナ、従業員たちが苦労している所も見ていた。いつだって自分はどうすることも出来なくて見ていただけだった。もしエヴァが本気でリックに危害を加える気になれば絶対に実行するだろう。自分のせいでリックをそんな目に合わせるわけにはいかない。
辛いことを数えたくない。そう思っても彼と過ごしたささやかな幸せを凌駕する悲しみに押し潰されそうになる。扉のノックに返事をすれば侍女長が顔を出した。手には大量のハンカチと刺繍セットがある。
「奥様がバザーに出す為のハンカチに刺繍をするようにとのことです」
「分かりました」
「ジリアン。この部屋の入室も奥様の指示で制限されました。あなたも部屋から出ることを許されていません。辛いと思いますが堪えて下さい。それとこれは私とルナからです。みんなも心配しています。だから気持ちを強く持ちなさい」
侍女長は表情を変えることなく淡々と話し部屋を出ていった。動揺を見せないのは彼女なりの気遣いだと分かった。もし、心配気に慰められたら心がグチャグチャになってしまったかもしれない。
(どうして自分だけこんな目に合うの! 人を好きになってはいけないの? 勝手に使用人にしておきながら貴族籍に残しておいて好きでもない男と結婚しろなんて酷い! リックさんを人質にするような発言は許せない!)
そう叫び出したかったが侍女長の声を聞いたことで頭の中が少し冷静になれた。渡された紙袋を覗けばそこには飴やクッキーが入っている。
(自分には心配してくれる人がいる。一人じゃない。この先どうなるか分からないけど挫けては駄目だ)
飴の包みを取り広げると丸いピンク色の飴が出てきた。口に入れると甘い苺の香りと甘みが広がる。
「美味しい……」
思わず顔が綻んだ。そのお菓子を両親の形見のハンカチと一緒に大事に引き出しにしまい、気を紛らわすためにハンカチに刺繍を刺しはじめた。
毎日屋根裏部屋で与えられた仕事をこなし静かに過ごす。顔を合わせるのは食事を運んで来てくれる侍女長だけだったが、侍女長は敢えて自分の縁談の話はせずにルナの話や屋敷の庭に入り込んでみんなでこっそり飼っている猫の話をしてくれた。
そのおかげで今の自分を静かに受け入れることが出来た。
一か月ほど経ったある朝、エヴァに呼び出されジリアンの縁談が決まったことを告げられた。そしてもう迎えが来ているからと客間に向かう。そこには見知らぬ男性とバナンとイヴリンがいた。
とうとうこの家を出る、その時が来たのだ。
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