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Episode③ 魂の居場所

第11章|エイチアイ石鹸株式会社 <8>蘇る思い出(鈴木風寿の視点)

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<8>


「鈴木先生、失礼します」


夕方、『株式会社E・M・A』の個室でメール返信作業をしている最中に、保健師の足立がドアをノックして入ってきた。


「今日の訪問に関する報告書、会社のデータ共有ボックスに入れましたので、ご確認をお願いします」


「わかりました。のちほど確認しておきます。そういえば、大山さんの保健指導はどうでしたか」


ちょうどたった今、『エイチアイ石鹸株式会社』の大山さん宛に、彼女の保健指導練習に協力してもらったお礼のメールを、送ろうと思っていたところだった。


「初めてのわりには、結構ちゃんとできたかな、と……。クリアしやすそうな具体的目標を決めて、次回面談までに生活習慣を変えて頂くお約束をしましたので、次回お会いするのが楽しみでもあり、怖くもあり………」


足立は話をするとき、表情が面白いようにコロコロ変わる。考えていることがそのまま顔に出るタイプなのだろう。

彼女の感情がいちいち手に取るように伝わってしまう点は、保健師として吉と出るのか凶と出るのか、迷うところなのだが………、妙な気取りが無いのは美点といえなくもないし、基本的に人との関わりが好きで情に厚い性質でもあるようだから、看護職に向いているタイプと言えると思う。

今回も、大山さんを精一杯支援したいという熱意は、その身振り手振りから伝わってきた。


「なるほど。熱血保健指導の効果が出るといいですね。その他には、何か気になることはありませんでしたか」


「あっ。そういえば。大山さんから帰りに、『ピップーカちゃん』の洗剤サンプルを頂いたんです。もらってしまっても大丈夫でしょうか? 」


「大山さんが下さったのならば、頂いておけばよいでしょう。産業医や保健師にとって、契約先の製品に触れることは、社員や企業をより深く理解することにつながります。
僕も以前もらったことがあります。足立さんも試してみてください。あの会社の洗剤類、なかなか使い心地がいいんですよ」


「やった~♥ じゃあ、ありがたく頂いておきますね! 私、キャラクターの『ピップーカちゃん』、前から好きなんです! 」


足立は心底嬉しそうな様子で、顔がパッと華やいだ。

わずか数百円の日用品をもらってここまで喜ぶとは、可愛らしい。



「ほかには特にありませんか」


「あ…………あと、『エイチアイ石鹸株式会社』って、」足立が言い淀んだ。


「何でしょうか」


「あの、以前、鈴木先生の判定で会社を辞めた、病気の社員さんがいたとお聞きしたのですが…………」



―――彼女の言葉に、俺は内心、軽く動揺した。



初回訪問でいきなりその話を聞きつけるとは。
大山さんが話したのだろうか……? 


足立が言っているのはおそらく、元総務部社員の広瀬さんのことだろう。
しかし、あのケースは…………


「足立さんはまだ新人ですので、まずはよくあるスタンダードな症例パターンを経験された方がよいと思います。あのケースは少し特殊でした。もう終わったことですし、気にしなくて大丈夫です」



「えっ………あ、はい。…………わかりました」


俺の言葉を聞いて、足立はそれ以上追及しなかった。

彼女は頭を下げ、それでは失礼します、と部屋を出て行った。





――――『エイチアイ石鹸株式会社』の広瀬さん。


今でも忘れることはない。脳裏に、鮮やかに思い出が蘇ってくる。




……………あれは、俺がまだ駆け出しの産業医だったころのことだ。

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