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第3章 拡散
4 さらなる死者
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「やめろ!」
浦安は咄嗟に声を上げたが、事態は明らかに手遅れだった。人影を掴むように一歩踏み出し、手を掲げた。だが人影は放物線を描いて視界から消えた。
黒い影の残像が、ストップモーションのようにリピート再生された。それはまるで水泳選手がスタートのピストルの合図とともに飛び込んだようだった。もし今の光景が実際に起こったことならば、今頃マンションの下は目も当てられない惨状と化しているだろう。浦安の位置からは二階部分でJRと私鉄の駅を繋ぐコンコースが遮蔽物となって確認することはできない。ただアブラゼミのジージーという不快な声だけが、浦安を日常から切り取るように鳴り響いていた。
浦安は走った。駅前のショッピングモールを北から南へ抜け、件のマンションの前へと辿り着く。人々の喧騒が飛び交っているのを聞き、さっき見た光景が現実に起こったことなのだと実感した。途端、頭を緊急モードに切り替える。人を掻き分け、まずは現場に直行する。泣き叫んでいる婦人、その場にへたり込むサラリーマン…スマホを翳している学生風の何人かを叱責する。そして目の中に、青ざめて立ち尽くす警備員と、その足元に倒れている赤い人型が目に入る。頭がビーチで割られたスイカのようにパックリ割れ、当たり一面に赤黒い脳漿が飛び散っている。
「人を遠ざけて!早く!」
警備員の肩を叩き指示を出す。警備員はハッと我に返ったように浦安を見返し、浦安が刑事だと告げると、頷いて近づき過ぎている人集りを笛を吹いて遠ざけ始めた。浦安は遺体に手を合わせ、簡単な検分をする。頭から地面に衝突したようで、頭部はもう原型を留めていない。脈をみるまでもなく、これが自殺であるなら本懐を遂げていた。服装はTシャツ、ジーンズ、スニーカー、勤め人の格好には見えず、服装のセンスとTシャツから出ている腕の肌の張り具合で若い男性と思われた。ズボンポケットの膨らみを探ると財布や携帯が出てくる可能性が高いが、手袋を持参していない浦安はこの後に来る捜査員に任せることにし、自分は現場の確保に努めた。
やがて緊急車両が続々と集結し、地域課の警官により規制テープが貼られていく。池田渚の事件で詰めていた捜査員たちも喧騒を聞きつけて十階の事件現場から降りてきた。
「係長!一体これは…?」
渚の事件を担当していた速水が浦安を見つけて寄って来る。
「飛び降りだ。ちょうどこっちに向かってた最中だったんだが、目の当たりにしたよ」
「え、マジですか!?」
K署の強行犯係に五人いる主任の中で一番若い速水は、素の好奇心を満面に出して声を上げる。そこへ唯一、禍津町やこのマンションでの事件を担当していなかった遠藤班も臨場してきた。
「お疲れ様です。いやあ、こんなに現場が重なることってあります?」
「あ、遠藤さんもそう思いました?ちょっと普通じゃないですよね」
遠藤はK署の強行犯所属の巡査部長の中で最年長だが、地域課での下積みが長かった苦労人だ。最年少で肩肘の張っている速水も遠藤には気さくに話しかけるのは、遠藤のやや三枚目な気質のせいだろう。眉を潜めて頷き合う二人に、浦安は上司らしい言葉をかけた。
「現場での偶然はまず疑えってな。何かここで飛び降りた必然性があるかもしれん。遠藤、身元の割り出しを急いでくれ」
「はーい、了解でーす!」
現場が同じとはいえ、こちらの案件はまだK署の管轄にある。多くの人員が禍津町の事件に裂かれる中、地域課を中心に手の空いているK署の捜査員たちが続々と集まってきた。浦安は地域課に太いパイプを持つ遠藤に指示を出すと、速水をエントランスまで連れ出した。
「で、そっちの方の捜査はどうなってる?殺害方法を特定できそうか?」
「いやあ、それなんですが…」
速水はバツが悪そうに後頭部を掻いた。なかなかの二枚目だが少し間の抜けたところがあり、遠藤や橋爪、弓削と比べると少し頼りない気もする。だが捜査にはひたむきで、浦安も速水には目をかけていた。
「何だ?何かまずいことでもあるのか?」
「いえ…まず噛まれた歯型の照合なんですが、鳥類でないことは確かなようです。他の猛禽動物の線でマンション内の聞き込みを進めてるんですが、今のところペットで危険動物を飼っているという情報は上がってません」
「ということは、まだ何も分かってないってことか?」
「いやあ、そうなんですが…」
速水はまた言葉に詰まり、しきりに後頭部を掻く。
「何だその奥歯に物が挟まったような物言いは。何でも言ってみろよ」
「はい…これはあくまで僕の印象として聞いて欲しいんですけど…捜一のやつら、何か隠してるみたいなんです」
「隠す?て、何を?」
「いやあ、あくまで印象です。何か歯型のことで重要なことが分かっている感じがするんですが、そこを突っ込んでも僕には教えてもらえないっていうか…」
浦安の頭に一瞬、沖芝管理官の如才なさそうな吊り目顔が過った。彼女にしてみれば所轄刑事など駒に過ぎず、捜査上の秘匿情報などこちらに流してこないだろう。速水の感じていることはあながち見当違いではないのかもしれない。苦々しい思いで顔をしかめたとき、遠藤がエントランスに駆け入ってきた。
「係長!遺体の身元が分かりました!」
「お、速いな」
「はい。ジーンズに入っていた財布から免許証が出てきました。新見逸生、24歳。データ照合をかけたところ前がありました」
「前?」
「はい。窃盗や女性への暴力など前科持ちでした。どれも軽犯罪ですけどね」
新見逸生…その名前に引っかかりを覚え、脳内検索にかける。そうだ、須田の情報から割り出した、池田渚と事件当日に行動を共にしていた男のうちの一人で、渚と付き合っていた方の男だ。そのことを遠藤と速水に伝えると、遠藤はいきなり肩からぶつかってきた。
「やっぱり係長の仰るとおり、偶然は無かったですねえ」
おどけてそう言う遠藤を押し返し、死人のいる現場で浮ついたことするなと注意する。そして今のうちに出来るだけ情報を集めるように指示した。遠藤ははーいと軽い返事をしてエントランスを出て行く。
飛び降りた男が渚と繋がったということは、こっちの事件もすぐに警察庁の捜査本部に組み込まれる。警察はチームだと言う沖芝管理官の言葉に反発する訳ではないが、速水からの話を聞き、警察庁の動きに何か不穏な匂いを嗅ぎ取った。ひょっとすると管理官が聖蓮女子の聴取を渋ったのも何か裏があるのかもしれない。長年刑事をやっている浦安の嗅覚がここ一連の事態に警鐘を鳴らしている。
速水と共にエレベーターに乗った。警察庁捜査一課への報告は速水に任せ、自分はそのまま屋上へと上がる。そこそこ広い屋上は銀色のスチール製のフェンスで囲まれており、フェンス上部には乗り越え防止の尖った忍び返しも付いている。すでに上がっていたK署の捜査員たちにお疲れ様ですと声をかけられながら飛び降り地点に近づく。灼熱の太陽に照りつけられたコンクリートから陽炎が立ち昇っていた。
「あれ、乗り越えられると思うか?」
見知った遠藤班の班員が近くにいたので、太陽を反射して眩しく光るフェンス上部を顔を顰めながら指差して聞く。地面に目を凝らしていた捜査員は顔を上げて少し首を傾げた後、
「死ぬ気なら不可能ではないかと…」
と、自信なさげに言った。
「死ぬ気なら……ねえ」
水泳選手のようにダイブした男の影が思い起こされ、頭を振って振り払う。そしてフェンス越しに飛び降り地点を見た。幅にして20cmくらい。飛び込み台ほど広くないが、上手く爪先を乗せれば充分踏み込めるスペースではある。自分が目にしたのは男がすでにフェンスを乗り越えた後だった。
「遺書は見つかったのか?」
「いえ、それらしき物は何も。ただジーンズのポケットに入っていた携帯は無事だったようで、解析を急がせています」
靴を揃えて中に遺書を忍ばせておくなんていう作法は若い者には無いのかもしれない。今時は何でもSNSだ。つぶやき症候群だ。ため息をつきながら踵を返した時、目の端に青いものが揺れた。そちらを見ると、屋上の塔屋の影に何人かが集っている。
「あ、そうそう。自分たちがここに上がってきた時に不審なやつらが三名いまして、今事情聴取しているところです」
浦安の見た方向に気づき、遠藤班の班員が説明してくれる。確かに三人の若者が制服警官に聴取されているところのようだ。一人は髪を染めているのだろうか、真っ青な髪を背中まで垂らし、異様な格好をしている。そしてもう一人、向こうも浦安に気づいて目が合ったその顔に、浦安はハッとした。
浦安は咄嗟に声を上げたが、事態は明らかに手遅れだった。人影を掴むように一歩踏み出し、手を掲げた。だが人影は放物線を描いて視界から消えた。
黒い影の残像が、ストップモーションのようにリピート再生された。それはまるで水泳選手がスタートのピストルの合図とともに飛び込んだようだった。もし今の光景が実際に起こったことならば、今頃マンションの下は目も当てられない惨状と化しているだろう。浦安の位置からは二階部分でJRと私鉄の駅を繋ぐコンコースが遮蔽物となって確認することはできない。ただアブラゼミのジージーという不快な声だけが、浦安を日常から切り取るように鳴り響いていた。
浦安は走った。駅前のショッピングモールを北から南へ抜け、件のマンションの前へと辿り着く。人々の喧騒が飛び交っているのを聞き、さっき見た光景が現実に起こったことなのだと実感した。途端、頭を緊急モードに切り替える。人を掻き分け、まずは現場に直行する。泣き叫んでいる婦人、その場にへたり込むサラリーマン…スマホを翳している学生風の何人かを叱責する。そして目の中に、青ざめて立ち尽くす警備員と、その足元に倒れている赤い人型が目に入る。頭がビーチで割られたスイカのようにパックリ割れ、当たり一面に赤黒い脳漿が飛び散っている。
「人を遠ざけて!早く!」
警備員の肩を叩き指示を出す。警備員はハッと我に返ったように浦安を見返し、浦安が刑事だと告げると、頷いて近づき過ぎている人集りを笛を吹いて遠ざけ始めた。浦安は遺体に手を合わせ、簡単な検分をする。頭から地面に衝突したようで、頭部はもう原型を留めていない。脈をみるまでもなく、これが自殺であるなら本懐を遂げていた。服装はTシャツ、ジーンズ、スニーカー、勤め人の格好には見えず、服装のセンスとTシャツから出ている腕の肌の張り具合で若い男性と思われた。ズボンポケットの膨らみを探ると財布や携帯が出てくる可能性が高いが、手袋を持参していない浦安はこの後に来る捜査員に任せることにし、自分は現場の確保に努めた。
やがて緊急車両が続々と集結し、地域課の警官により規制テープが貼られていく。池田渚の事件で詰めていた捜査員たちも喧騒を聞きつけて十階の事件現場から降りてきた。
「係長!一体これは…?」
渚の事件を担当していた速水が浦安を見つけて寄って来る。
「飛び降りだ。ちょうどこっちに向かってた最中だったんだが、目の当たりにしたよ」
「え、マジですか!?」
K署の強行犯係に五人いる主任の中で一番若い速水は、素の好奇心を満面に出して声を上げる。そこへ唯一、禍津町やこのマンションでの事件を担当していなかった遠藤班も臨場してきた。
「お疲れ様です。いやあ、こんなに現場が重なることってあります?」
「あ、遠藤さんもそう思いました?ちょっと普通じゃないですよね」
遠藤はK署の強行犯所属の巡査部長の中で最年長だが、地域課での下積みが長かった苦労人だ。最年少で肩肘の張っている速水も遠藤には気さくに話しかけるのは、遠藤のやや三枚目な気質のせいだろう。眉を潜めて頷き合う二人に、浦安は上司らしい言葉をかけた。
「現場での偶然はまず疑えってな。何かここで飛び降りた必然性があるかもしれん。遠藤、身元の割り出しを急いでくれ」
「はーい、了解でーす!」
現場が同じとはいえ、こちらの案件はまだK署の管轄にある。多くの人員が禍津町の事件に裂かれる中、地域課を中心に手の空いているK署の捜査員たちが続々と集まってきた。浦安は地域課に太いパイプを持つ遠藤に指示を出すと、速水をエントランスまで連れ出した。
「で、そっちの方の捜査はどうなってる?殺害方法を特定できそうか?」
「いやあ、それなんですが…」
速水はバツが悪そうに後頭部を掻いた。なかなかの二枚目だが少し間の抜けたところがあり、遠藤や橋爪、弓削と比べると少し頼りない気もする。だが捜査にはひたむきで、浦安も速水には目をかけていた。
「何だ?何かまずいことでもあるのか?」
「いえ…まず噛まれた歯型の照合なんですが、鳥類でないことは確かなようです。他の猛禽動物の線でマンション内の聞き込みを進めてるんですが、今のところペットで危険動物を飼っているという情報は上がってません」
「ということは、まだ何も分かってないってことか?」
「いやあ、そうなんですが…」
速水はまた言葉に詰まり、しきりに後頭部を掻く。
「何だその奥歯に物が挟まったような物言いは。何でも言ってみろよ」
「はい…これはあくまで僕の印象として聞いて欲しいんですけど…捜一のやつら、何か隠してるみたいなんです」
「隠す?て、何を?」
「いやあ、あくまで印象です。何か歯型のことで重要なことが分かっている感じがするんですが、そこを突っ込んでも僕には教えてもらえないっていうか…」
浦安の頭に一瞬、沖芝管理官の如才なさそうな吊り目顔が過った。彼女にしてみれば所轄刑事など駒に過ぎず、捜査上の秘匿情報などこちらに流してこないだろう。速水の感じていることはあながち見当違いではないのかもしれない。苦々しい思いで顔をしかめたとき、遠藤がエントランスに駆け入ってきた。
「係長!遺体の身元が分かりました!」
「お、速いな」
「はい。ジーンズに入っていた財布から免許証が出てきました。新見逸生、24歳。データ照合をかけたところ前がありました」
「前?」
「はい。窃盗や女性への暴力など前科持ちでした。どれも軽犯罪ですけどね」
新見逸生…その名前に引っかかりを覚え、脳内検索にかける。そうだ、須田の情報から割り出した、池田渚と事件当日に行動を共にしていた男のうちの一人で、渚と付き合っていた方の男だ。そのことを遠藤と速水に伝えると、遠藤はいきなり肩からぶつかってきた。
「やっぱり係長の仰るとおり、偶然は無かったですねえ」
おどけてそう言う遠藤を押し返し、死人のいる現場で浮ついたことするなと注意する。そして今のうちに出来るだけ情報を集めるように指示した。遠藤ははーいと軽い返事をしてエントランスを出て行く。
飛び降りた男が渚と繋がったということは、こっちの事件もすぐに警察庁の捜査本部に組み込まれる。警察はチームだと言う沖芝管理官の言葉に反発する訳ではないが、速水からの話を聞き、警察庁の動きに何か不穏な匂いを嗅ぎ取った。ひょっとすると管理官が聖蓮女子の聴取を渋ったのも何か裏があるのかもしれない。長年刑事をやっている浦安の嗅覚がここ一連の事態に警鐘を鳴らしている。
速水と共にエレベーターに乗った。警察庁捜査一課への報告は速水に任せ、自分はそのまま屋上へと上がる。そこそこ広い屋上は銀色のスチール製のフェンスで囲まれており、フェンス上部には乗り越え防止の尖った忍び返しも付いている。すでに上がっていたK署の捜査員たちにお疲れ様ですと声をかけられながら飛び降り地点に近づく。灼熱の太陽に照りつけられたコンクリートから陽炎が立ち昇っていた。
「あれ、乗り越えられると思うか?」
見知った遠藤班の班員が近くにいたので、太陽を反射して眩しく光るフェンス上部を顔を顰めながら指差して聞く。地面に目を凝らしていた捜査員は顔を上げて少し首を傾げた後、
「死ぬ気なら不可能ではないかと…」
と、自信なさげに言った。
「死ぬ気なら……ねえ」
水泳選手のようにダイブした男の影が思い起こされ、頭を振って振り払う。そしてフェンス越しに飛び降り地点を見た。幅にして20cmくらい。飛び込み台ほど広くないが、上手く爪先を乗せれば充分踏み込めるスペースではある。自分が目にしたのは男がすでにフェンスを乗り越えた後だった。
「遺書は見つかったのか?」
「いえ、それらしき物は何も。ただジーンズのポケットに入っていた携帯は無事だったようで、解析を急がせています」
靴を揃えて中に遺書を忍ばせておくなんていう作法は若い者には無いのかもしれない。今時は何でもSNSだ。つぶやき症候群だ。ため息をつきながら踵を返した時、目の端に青いものが揺れた。そちらを見ると、屋上の塔屋の影に何人かが集っている。
「あ、そうそう。自分たちがここに上がってきた時に不審なやつらが三名いまして、今事情聴取しているところです」
浦安の見た方向に気づき、遠藤班の班員が説明してくれる。確かに三人の若者が制服警官に聴取されているところのようだ。一人は髪を染めているのだろうか、真っ青な髪を背中まで垂らし、異様な格好をしている。そしてもう一人、向こうも浦安に気づいて目が合ったその顔に、浦安はハッとした。
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