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第8章 蔓延
2 グワシのまこっちゃん
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禍津町の夜空は街に比べて星が多い。黒い敷布に薄力粉を散らしたような空を見上げると、真上に一際明るい星が煌めき、その東には柄杓形に並んだ七星。弓削は理科が苦手だったが(理科もだが)、その七星の位置だけはいつもすぐに見つけることが出来た。ただ、少し違和感を感じる。七星の位置からするとあの明るい星は北極星のはず。だとするともっと北にあるはずと思うのだが……
久遠寺の境内の、本殿の東に設けられた木のベンチに座っていた。隣りには浦安が座り、冷蔵庫からもらってきた缶ビールで喉を潤している。ダイニングではお通夜から帰った遵奉住職が差し入れでもらった寿司をアテに、鷹田神社から戻った朱美を加えて酒盛りをしている。浦安と打ち合わせをしたいと思っていた弓削は、浦安の目配せで外に出て、浦安が町長や天冥らから聞いた話を報告してもらったところだった。
一通り聞き終え、弓削も夜空を見上げながら妙に熱くなった胸を缶ビールで冷やす。夏真っ盛りの外気は田舎といえどもムッとした湿気を含んで蒸し暑かったが、時折吹く風は幾分涼しかった。周囲の田んぼからはカエルの合唱が、昼間のセミに変わって夏の夜を賑わせている。北極星の瞬きが、そんな自分たちに何かを語りかけているようだった。
この夏、日本で起こっている一連の事件は平将門の怨念で、将門はこの世界を黄泉の世界に飲み込ませようとしている。それを防ぐため、この禍津町には北斗七星の結界が張られているが、結界は次々に破られようとしている。この町には将門の力を強める何かがあり、それを求めて将門が顕現しやすくするために。そしてその時をチャンスとし、天冥が迎え撃つ。今この寺でしていることは、そのための準備なのだ、と。そんな神話やお伽噺でしか聞かないような内容に、普段なら一笑に付すところだろう。けれども人の首が伸びるなんてホラーな現象を弓削も実際に目の前で見たし、浦安に至っては首だけで飛び回るのを見たと言う。そんな今までの常識では説明のつかない現象が、天冥たちの話に信憑性を与えていた。
「これから、どうすればいいんでしょうか?たぶん、ここではもう今以上の情報は取れないと思います。それでもあたし、このままいても?」
「うーん、まあ、朝霧調査員からも何の連絡もないしな。四條畷が死に、様子見というところなのだろう。なら、俺は一度天冥たちの言うことを信じ、彼らに力を貸そうと思う。だが、俺と弓削班だけでは心許ない。橋爪や遠藤にも協力を仰ごうと思うんだ。明日は日曜なので何とか彼らと会って話をし、協力を得られるなら月曜にK署へ行って署長に俺から頼んでみようと思う。なので俺は明日、この場を離れることになるが、弓削はここにいて、何か変化があれば教えて欲しい」
分かりました、と承諾し、でも、と付け足す。
「遠藤さんは協力してくれそうだけど、橋爪はどうでしょう?あの出世しか頭に無いやつが、警察庁と袂を分かってまで動きますかねえ?」
それを聞き、浦安はふっと鼻から息を洩らした。
「弓削はよほど、橋爪が嫌いなんだな」
「べ、別に、嫌いってわけじゃあ…」
「まあ話すだけ話してみるよ。それで協力してくれないならそれもよし、でもな、俺は橋爪は協力してくれると思うぞ」
意味ありげにニヤッとする浦安に、何でですかと突っ込む。いやいや、と含み笑いだけを返す浦安に、モヤッとしたものが残った。悄然としない思いに、悪戯心が芽生える。
「うふふふふふ」
「何だ急に。気持ち悪いな」
「いえ、ちょっと昼間のこと思い出しちゃって。係長、紬ちゃんに怒られっぱなしでしたね」
共に仏具磨きに入った浦安だったが、どうも彼の仏具の扱い方が雑だったらしく、
「おっさん!そんなガチャガチャ言わさない!」
「おっさん!まだ拭き残しある!」
「おっさん!もっと奥まで磨く!」
おっさん!おっさん!と、目を釣り上げて怒る紬の声を何度聞いたか分からない。そうやって怒られている浦安の姿はまるで紛れ込んできた近所のガキンチョのようで、目をしょぼつかせて小さくなっている浦安の意外な姿に頬を緩ませたのだった。これが漫画なら、きっと浦安の顔から汗マークがいっぱい吹き出ていただろう。
「いやあ、形無しだったね。普段は天真爛漫で可愛い子なのに、俺にはきついんだもんなあ」
浦安も思い出したのか、そう言って後ろ髪を撫でた。弓削はそんな浦安を微笑ましく思う。思えば初見から、部下想いの浦安に親しいものを感じていた。浦安が父で、紬が年の離れた妹、三人で作業している時に、そんな妄想もしていた。
「こんなこと言ったら不謹慎かもしれないんですけど、あたし、係長と作業していて何だか楽しかった。家族団らんって、こんな感じなのかなぁって」
「弓削の家族って、どんなだったんだ?」
「どんな……あたし、子どもの頃からバドミントンに明け暮れる日々でしたから、あんまし団らんしたって記憶、ないんですよね…」
感傷的になった弓削に向けられた質問だったが、弓削は遠い目をすると、眉根を下げてその表情を曇らせた。
弓削には子どもの頃、封印している記憶があった。小学校の高学年になるにつれて、弓削の胸は周りの子よりも早い加速で膨らんでいった。そしてある時ふと、父親の視線に違和感を覚える。それは父親の目ではなく、男の目なのではないかと。そう思うと、父親のことが嫌で嫌でたまらなくなった。少し触れられただけで、鳥肌が立った。元より弓削はあまり父親のことが好きになれなかった。中堅メーカーに勤める真面目なだけが取り柄の男だったが、父方の祖母が母親にきつく当たるのを黙って見ているどころか、要所要所で祖母の肩を持つ。そんな父親のマザコン気質的なところが大嫌いだった。そして父の言いなりになる弱い母親のことも、疎ましく思った。
弓削は出来るだけ家族の親睦の場に身を置きたくなくて、バドミントンに没頭した。どこかに家族で出掛けようと提案されても、疲れているからと断った。そして常に疲れて見えるように、不機嫌な自分を演出した。なので別に父親に犯されたとか、そんな映画やドラマで観るような鬱展開があったわけじゃない。ただ、胸は母性の象徴であり、自分を女として見る父の視線が我慢ならなかった。そしてその感性は年を重ねても引き継がれた。有り体に言えば、男嫌いになった。そしてバドミントン部の女の先輩を好きになった。
そんな自分ももう三十路に入り、今となっては悩んでいる。男嫌いの反動で先輩を好きになったのか、それとも元々自分にはマイノリティーな性指向があったのか。そんな中で、セフィロトの代表と教えられた青年を見て胸がときめいた。人生で初めて体験する、一目惚れというやつだったと思う。理屈じゃない。確かにときめいていた。その対象が男であることに嬉しくなり、わざわざ写真を撮って毎日眺めた。そしてそのときめきを確認した。だがその人は実は女だった。がっかりした。別に同性愛に偏見があるわけじゃない。ただ、先輩が亡くなったことへの自分の責任から目を反らしたかったのだ。今こうして天冥と話せるくらい親しい位置に来て、ときめきが完全に無くなったわけではないが、写真で見ていたほどではなくなっている。あれはきっと、恋愛に奥手になってしまった自分に訪れた、遅い思春期だったのだ。そして今だに、自分の性指向がどちらなのか分からないでいる。
「弓削は…付き合っている人はいるのか?」
いつの間にか考えの中に埋没していた弓削を、浦安の質問が現実に引き戻した。
「いませんよ、そんなの」
「じゃあ、気になってる人とかは?一人くらいいるだろ?」
そう聞かれ、一人の男の輪郭が浮かぶ。それを首を振って打ち消すと、浦安が怪訝な顔で覗き込んだ。その顔は好奇心というよりも、娘が行き遅れにならないかと心配するような父親のものに見えた。弓削は少し泣きそうになる。そしてすんと鼻を鳴らし、にっこりと微笑んだ。
「そう言えば係長、さっき朱美にグワシのまこっちゃんって呼ばれてましたね。何ですか?そのグワシって」
そう聞くと浦安は困ったように頭をかき、
「昔さ、まことっていう名前の男の子が主人公のギャグ漫画があったんだよ。その男の子の持ちギャグっていうのかな、決めゼリフがあって、それがグワシなんだ。ほら、俺の名前、誠だろ?だから酔うとたまに出るんだな。くだらない親父ギャグさ。それをあのバーの店長はいつまでもイジるんだよ」
と、眉を下げて笑った。
「どんなギャグなんですか?見たいです」
「ええ、いいよ、そんなの」
「いいから、やって下さい。あたしを元気付けると思って」
「いやあ、人を元気にするとか、そんなんじゃないんだけどな…」
言いながらも身体を弓削に向ける。そして、左手の中指と小指を曲げ、前に突き出すポーズをしながら、
「グワシ!」
と叫んだ。一瞬呆気に取られ、そして浦安のクソ真面目な表情に笑った。真似ようとすると、薬指まで曲がってしまいなかなか難しい。
「こうだよ、グワシ!」
「えーと、グ、グワシ!」
「そうそう、グワシ!」
「グワシ!」
グワッグワッと、カエルも囃し立てていた。
久遠寺の境内の、本殿の東に設けられた木のベンチに座っていた。隣りには浦安が座り、冷蔵庫からもらってきた缶ビールで喉を潤している。ダイニングではお通夜から帰った遵奉住職が差し入れでもらった寿司をアテに、鷹田神社から戻った朱美を加えて酒盛りをしている。浦安と打ち合わせをしたいと思っていた弓削は、浦安の目配せで外に出て、浦安が町長や天冥らから聞いた話を報告してもらったところだった。
一通り聞き終え、弓削も夜空を見上げながら妙に熱くなった胸を缶ビールで冷やす。夏真っ盛りの外気は田舎といえどもムッとした湿気を含んで蒸し暑かったが、時折吹く風は幾分涼しかった。周囲の田んぼからはカエルの合唱が、昼間のセミに変わって夏の夜を賑わせている。北極星の瞬きが、そんな自分たちに何かを語りかけているようだった。
この夏、日本で起こっている一連の事件は平将門の怨念で、将門はこの世界を黄泉の世界に飲み込ませようとしている。それを防ぐため、この禍津町には北斗七星の結界が張られているが、結界は次々に破られようとしている。この町には将門の力を強める何かがあり、それを求めて将門が顕現しやすくするために。そしてその時をチャンスとし、天冥が迎え撃つ。今この寺でしていることは、そのための準備なのだ、と。そんな神話やお伽噺でしか聞かないような内容に、普段なら一笑に付すところだろう。けれども人の首が伸びるなんてホラーな現象を弓削も実際に目の前で見たし、浦安に至っては首だけで飛び回るのを見たと言う。そんな今までの常識では説明のつかない現象が、天冥たちの話に信憑性を与えていた。
「これから、どうすればいいんでしょうか?たぶん、ここではもう今以上の情報は取れないと思います。それでもあたし、このままいても?」
「うーん、まあ、朝霧調査員からも何の連絡もないしな。四條畷が死に、様子見というところなのだろう。なら、俺は一度天冥たちの言うことを信じ、彼らに力を貸そうと思う。だが、俺と弓削班だけでは心許ない。橋爪や遠藤にも協力を仰ごうと思うんだ。明日は日曜なので何とか彼らと会って話をし、協力を得られるなら月曜にK署へ行って署長に俺から頼んでみようと思う。なので俺は明日、この場を離れることになるが、弓削はここにいて、何か変化があれば教えて欲しい」
分かりました、と承諾し、でも、と付け足す。
「遠藤さんは協力してくれそうだけど、橋爪はどうでしょう?あの出世しか頭に無いやつが、警察庁と袂を分かってまで動きますかねえ?」
それを聞き、浦安はふっと鼻から息を洩らした。
「弓削はよほど、橋爪が嫌いなんだな」
「べ、別に、嫌いってわけじゃあ…」
「まあ話すだけ話してみるよ。それで協力してくれないならそれもよし、でもな、俺は橋爪は協力してくれると思うぞ」
意味ありげにニヤッとする浦安に、何でですかと突っ込む。いやいや、と含み笑いだけを返す浦安に、モヤッとしたものが残った。悄然としない思いに、悪戯心が芽生える。
「うふふふふふ」
「何だ急に。気持ち悪いな」
「いえ、ちょっと昼間のこと思い出しちゃって。係長、紬ちゃんに怒られっぱなしでしたね」
共に仏具磨きに入った浦安だったが、どうも彼の仏具の扱い方が雑だったらしく、
「おっさん!そんなガチャガチャ言わさない!」
「おっさん!まだ拭き残しある!」
「おっさん!もっと奥まで磨く!」
おっさん!おっさん!と、目を釣り上げて怒る紬の声を何度聞いたか分からない。そうやって怒られている浦安の姿はまるで紛れ込んできた近所のガキンチョのようで、目をしょぼつかせて小さくなっている浦安の意外な姿に頬を緩ませたのだった。これが漫画なら、きっと浦安の顔から汗マークがいっぱい吹き出ていただろう。
「いやあ、形無しだったね。普段は天真爛漫で可愛い子なのに、俺にはきついんだもんなあ」
浦安も思い出したのか、そう言って後ろ髪を撫でた。弓削はそんな浦安を微笑ましく思う。思えば初見から、部下想いの浦安に親しいものを感じていた。浦安が父で、紬が年の離れた妹、三人で作業している時に、そんな妄想もしていた。
「こんなこと言ったら不謹慎かもしれないんですけど、あたし、係長と作業していて何だか楽しかった。家族団らんって、こんな感じなのかなぁって」
「弓削の家族って、どんなだったんだ?」
「どんな……あたし、子どもの頃からバドミントンに明け暮れる日々でしたから、あんまし団らんしたって記憶、ないんですよね…」
感傷的になった弓削に向けられた質問だったが、弓削は遠い目をすると、眉根を下げてその表情を曇らせた。
弓削には子どもの頃、封印している記憶があった。小学校の高学年になるにつれて、弓削の胸は周りの子よりも早い加速で膨らんでいった。そしてある時ふと、父親の視線に違和感を覚える。それは父親の目ではなく、男の目なのではないかと。そう思うと、父親のことが嫌で嫌でたまらなくなった。少し触れられただけで、鳥肌が立った。元より弓削はあまり父親のことが好きになれなかった。中堅メーカーに勤める真面目なだけが取り柄の男だったが、父方の祖母が母親にきつく当たるのを黙って見ているどころか、要所要所で祖母の肩を持つ。そんな父親のマザコン気質的なところが大嫌いだった。そして父の言いなりになる弱い母親のことも、疎ましく思った。
弓削は出来るだけ家族の親睦の場に身を置きたくなくて、バドミントンに没頭した。どこかに家族で出掛けようと提案されても、疲れているからと断った。そして常に疲れて見えるように、不機嫌な自分を演出した。なので別に父親に犯されたとか、そんな映画やドラマで観るような鬱展開があったわけじゃない。ただ、胸は母性の象徴であり、自分を女として見る父の視線が我慢ならなかった。そしてその感性は年を重ねても引き継がれた。有り体に言えば、男嫌いになった。そしてバドミントン部の女の先輩を好きになった。
そんな自分ももう三十路に入り、今となっては悩んでいる。男嫌いの反動で先輩を好きになったのか、それとも元々自分にはマイノリティーな性指向があったのか。そんな中で、セフィロトの代表と教えられた青年を見て胸がときめいた。人生で初めて体験する、一目惚れというやつだったと思う。理屈じゃない。確かにときめいていた。その対象が男であることに嬉しくなり、わざわざ写真を撮って毎日眺めた。そしてそのときめきを確認した。だがその人は実は女だった。がっかりした。別に同性愛に偏見があるわけじゃない。ただ、先輩が亡くなったことへの自分の責任から目を反らしたかったのだ。今こうして天冥と話せるくらい親しい位置に来て、ときめきが完全に無くなったわけではないが、写真で見ていたほどではなくなっている。あれはきっと、恋愛に奥手になってしまった自分に訪れた、遅い思春期だったのだ。そして今だに、自分の性指向がどちらなのか分からないでいる。
「弓削は…付き合っている人はいるのか?」
いつの間にか考えの中に埋没していた弓削を、浦安の質問が現実に引き戻した。
「いませんよ、そんなの」
「じゃあ、気になってる人とかは?一人くらいいるだろ?」
そう聞かれ、一人の男の輪郭が浮かぶ。それを首を振って打ち消すと、浦安が怪訝な顔で覗き込んだ。その顔は好奇心というよりも、娘が行き遅れにならないかと心配するような父親のものに見えた。弓削は少し泣きそうになる。そしてすんと鼻を鳴らし、にっこりと微笑んだ。
「そう言えば係長、さっき朱美にグワシのまこっちゃんって呼ばれてましたね。何ですか?そのグワシって」
そう聞くと浦安は困ったように頭をかき、
「昔さ、まことっていう名前の男の子が主人公のギャグ漫画があったんだよ。その男の子の持ちギャグっていうのかな、決めゼリフがあって、それがグワシなんだ。ほら、俺の名前、誠だろ?だから酔うとたまに出るんだな。くだらない親父ギャグさ。それをあのバーの店長はいつまでもイジるんだよ」
と、眉を下げて笑った。
「どんなギャグなんですか?見たいです」
「ええ、いいよ、そんなの」
「いいから、やって下さい。あたしを元気付けると思って」
「いやあ、人を元気にするとか、そんなんじゃないんだけどな…」
言いながらも身体を弓削に向ける。そして、左手の中指と小指を曲げ、前に突き出すポーズをしながら、
「グワシ!」
と叫んだ。一瞬呆気に取られ、そして浦安のクソ真面目な表情に笑った。真似ようとすると、薬指まで曲がってしまいなかなか難しい。
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「グワシ!」
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