画面の向こうの君に、恋をした。

一ノ瀬玲央×綾瀬灯花

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第3奏パート1:揺らぐこころと雨の匂い

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――雨の匂いには、記憶が宿る。

画面越しに、あの午後の風が再生された。

ひんやりとした空気。濡れたアスファルトに染み込む、懐かしい匂い。

それだけで、心が少しだけ、昔の“僕”を思い出す。

静かだった。

傘を持たずに歩いたあの日の帰り道。

雨音だけが、ずっと僕のそばにいた。

誰にも言えなかった想い。

まだ「恋」だなんて、名付けることもできなかった気持ち。

でも今なら、わかる気がする。

あの揺らぎが、何かを変えるはずだった気がする。

……いや、もしかしたら。

ただの懐かしい、青春の1ページだっただけかもしれない。

それでも僕は、今でも時々──

あの雨音を、探してしまうんだ。

その日は、昼過ぎからずっと、空が不機嫌だった。

グラウンドを照らしていた太陽は午後の授業が終わる頃にはすっかり隠れていて、

空の端が、絵の具をこぼしたように滲んでいた。

蒸し暑さだけが残った教室をあとにして、

僕は、ひとり、いつもの帰り道を歩き始めた。

雲の切れ間から、ぼんやりと光が落ちている。

でも、それは晴れ間というよりも、何かを見失ったような色だった。

肌にまとわりつく空気。

セミの声も聞こえない。

風は、吹いていないのに、なぜか背中に寒気が走った。

「……降る、かも」

誰に言うでもなく、呟いた言葉が、空に吸い込まれていく。

あのときの僕は、まだ知らなかった。

この帰り道が、心を揺らす午後になることも、

誰かの傘の音に、少しだけ救われることも──

足元のアスファルトが、じわりと黒く滲んでいく。

一滴、また一滴。

乾いた世界に染み込むように、雨が降り始めた。

ぴたりと耳に収まったイヤホンから、ふいに優しい声が届く。

「湊、傘は……持ってないんだね?」

「うん。朝は晴れてたから……忘れた。」

画面越しに浮かび上がるノゾミの姿は、いつも通りだった。

でも、どこか──ほんの少しだけ、声の調子が違って聞こえた。

「君の髪、濡れてる……。冷たくない?」

「……うん、大丈夫。慣れてるよ、こういうの。」

返した自分の声が、思っていたよりも低くて。

それが、ちょっとだけ寂しげに聞こえてしまったのは、気のせいじゃなかったと思う。

「……湊、」

ノゾミの声が、耳の奥で揺れた。

続きそうで、続かなかった言葉。

まるで何かを言いかけて、でも辞めたような、その“間”が、雨音に溶けていく。

僕はただ、ポケットの奥にある携帯の温もりを感じながら、

一歩ずつ、にじんだ風景のなかを歩いていた。

ガードレールに手をかけて、曲がり角をひとつ越えたときだった。

突然、雨脚が強まった。

ザアァ……という音が、景色を飲み込んでいく。

視界が滲み、頬に冷たい雫が流れた。

髪はすぐに水を吸って、額にぴたりと張りつく。

僕は慌てて近くの商店街のアーケードへと駆け込み、

鞄からハンカチを取り出して、濡れた前髪を軽く押さえた。

「……ふふっ、ずぶ濡れじゃん。」

声がして、振り返る。

そこに立っていたのは──

「……西園寺?」

黒髪のツインテール。

雨粒を弾く、透明なビニール傘の下から、彼女がこっちを見ていた。

制服のシャツが濡れて、肌にぴったりと張りついている。

胸元のリボンは少しずれて、白い布の向こうにうっすらと肌の輪郭が浮かんでいた。

僕は目を逸らしそうになったけれど──

ほんの一瞬、視線がぶつかる。

「な、なんでここに……」

「さっきまで、友達とカフェにいたの。

雨、降りそうだったから傘持ってきてて、ラッキーだったなーって思ってたら──」

彼女はくすっと笑って、濡れた前髪を見つめるように目を細めた。

「……まさか、湊くんが雨の中を全力で走ってくる姿、見ることになるとはね。

なんか……運命っぽくない?」

ほんの少しだけ茶化すように言いながら、

けれど目の奥には確かに、柔らかい何かが揺れていた。

「……べ、別に……そういうのじゃ──」

「んー、つまんない返し。」

彼女はくるりと傘をまわして、僕にぐっと差し出した。

「ほら。どーせこのまま帰るんでしょ? 途中まで一緒に帰ったげる。」

「え、でも……」

「ふふ……ずぶ濡れの子犬を雨の中に置いてくほど、私、性格悪くないよ?」

笑いながら言うその声に、どこか優しさがにじんでいて。

僕は小さく頷いて、その傘の中に一歩、入った。

雨の音が、少し遠ざかる。

傘の中には、微かにシャンプーの匂いが漂っていた。

それはどこか甘くて、少しだけ──胸がざわつく香りだった。

――たぶん、あの日の僕はまだ気づいていなかった。

女の子と同じ傘に入ることが、

こんなにも、息が詰まるような距離だってこと。

そして、

この微かな違和感が──

“誰かを好きになる”ってことの、始まりかもしれないってことに。
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