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13 ヘンリックとローゼリア
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ヘンリックは自分がどうやって王太子宮の近くまでたどり着いたのかを覚えていなかった。王妃の暮らす離宮は王太子宮とは距離はあったので移動には馬車を使っていたが、どちらも王宮の敷地内にあるので歩いて戻れる距離でもあった。
いつもなら馬車がやってくるまで玄関で待つのだが、今日は馬車を待たずにヘンリックは歩いて王太子宮の近くまで戻った。途中、道ではない草や木の多い場所も歩いたような記憶もうっすらあったが、そんな事はもうどうでも良かった。
下を向きながらとぼとぼと一人で歩くヘンリックのすぐそばに二人乗りの小さな馬車が止まった。
誰とも話をしたくなかったので、それでもヘンリックは止まらずに歩いていたのだが、後ろから声を掛けられてしまった。
「お一人でどうなされたのです?」
声がした方を振り返ると、目の前にローゼリアがいた。王太子宮から本宮まで彼女はいつも馬車で移動をしていて、今はおそらく執務を終えて帰るところだったのだろう。
「狭いですが、とりあえずお乗りください」
ローゼリアに言われるままにヘンリックは馬車に乗り込む。ヘンリックには隣に座る彼女の顔を見るような勇気はなく、ずっと俯いていた。
しかし、こんな時でも身に付けた習慣というものは抜けきらないようで、ヘンリックは馬車が止まると自分が先に降りて自然に体が動くままローゼリアをエスコートしていた。
「まあ、殿下どうなさいましたの!?」
王太子宮の侍女たちがヘンリックの姿を見て驚く。今の彼は足元が泥だらけで、体のいたるところに草や葉を付けていて、普段の彼とはまるで違う様子だったのだ。
「まずは湯浴みをなさいましょう、その後はすぐにお食事をご用意致します」
「……ああ、頼む。……食事は、いらない」
侍女にそれだけ答えるとヘンリックは肩を落とし、力の抜けた様子で浴場へと歩いて行った。いつもと違うヘンリックの様子にローゼリアは驚いていた。
湯浴みを終えた後、ヘンリックは自室に籠り、寝室の寝台の上にただ座っていた。汚れを落としたので身体はすっきりしたが、頭の中は混乱から抜け出せないままだった。
どれだけそうやっていたのか分からなかったが、何度もドアをノックする音でヘンリックは我に返った。ノックの音は夫婦の寝室に繋がる側のドアからしていた。このドアを使ったのは結婚式の夜だけで、あの日から一度も使われていないドアだった。
ヘンリックの私室の間取りは応接室と寝室の二部屋で、寝室のドアを閉めてしまうと廊下へと繋がる応接室のドアをノックしても音はあまり聞こえない。そしてこの王太子宮の主であるヘンリックが許さない限り、誰もヘンリックの自室へは入ってくることは出来ないのだ。
ヘンリックはのろのろと立ち上がって寝室のドアを開ける。ドアの先にはローゼリアがいた。ヘンリックの普段とは違う様子を気遣うような雰囲気はなく、いつもと同じ表情を浮かべているが、今はその方が良かった。ここで優しくされたら、自分が壊れてしまいそうなそんな気がしていた。
「……少しだけお話をしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、すまない。灯を用意させる」
湯浴みを終えてから自室に籠り始めたのは夕方で、部屋に入れなかった侍女はランプに火を灯す事ができなかったため、ヘンリックの部屋は応接室も寝室も真っ暗だった。
「大丈夫ですわ、こちらでお話を……」
そう言ってローゼリアはヘンリックを灯の点けられた夫婦の寝室へと招き入れた。
「ひどいお顔ですわ、どうなされたの?」
ローゼリアはヘンリックの顔をじっと見つめる。ヘンリックは相変わらず俯いたままだった。
「……私は、王太子を退こうと思う」
「王妃様に何か言われましたの?」
あまりにおかしなヘンリックの様子に、ローゼリアはヘンリックが午後何をしているのかを侍従に確認していた。
「愚かにも私は自分という存在が間違いであった事を今日知った。真実を知れば誰もが間違いは正すべきだと思うだろう」
ローゼリアに促されるように寝台に腰掛けたヘンリックは、思いつめた表情で小さくそう言った。
「……殿下は知って仕舞われたのですね」
ヘンリックは隣に座るローゼリアを見る事もなく、無言で頷く。
「殿下は退く必要はございませんのよ」
「真実というものはいつか知られてしまうものだ。ならば私は戴冠前の今、ここで退きたい」
ヘンリックは落ち着かない様子でまた小刻みに震え出した。頭では理解できたが、まだ信じられないという感情もあるし、これからのヘンリックへの処遇を思うと、彼の未来は明るくない。王位の簒奪には死罪もあり得るし、覚悟はしても怖いものは怖い。
「ええ、確かに疑いを持っている者はいるでしょう。けれども誰にも殿下の治世を揺るがす事はできませんわ」
「そのような事、私は耐えられない」
そう言ってヘンリックは辛そうな表情を浮かべながら何度も首を横に振る。
これまで自分をそのように思っていた者が一定数いるなんて思った事もなかった。誰がいつ真実を暴こうとするのかと思うと、これからはそれに怯える日々になるだろう。
「この国には王位継承権の順位はございませんが、殿下の次に王位にふさわしい人物を考えて下さい」
そう言われてヘンリックは王家の家系図を頭に思い浮かべる。今の国王に兄妹はいなかったが、前国王には姉が一人いた。その姉の嫁ぎ先は……。
「フォレスターか?」
ヘンリックはやっと顔を上げてローゼリアの顔を見た。
「ええ、私の曾祖母は先の陛下の姉君に当たります。血縁をたどると王家に最も近いのがフォレスターなのです。私にはどの貴族よりも濃いランゲル王家の血が流れていますから、殿下がフォレスターを裏切らない限りフォレスターは殿下の側におりますわ」
「でもそれではキミの御父上や兄上が納得されないだろう」
「父は野心とは無縁の性格ですわ。それに父を玉座に座らせたら民たちに施しをし過ぎて王家はきっと破産してしますわね。兄は私が王家に嫁いでいる限りは支えてくれるでしょうし、兄が国を治めたらランゲルを解体してしまいそうな気がしますの。どちらも私の思う国にはなりませんわ」
「キミの思う国?」
「ええ、私はまず国力を付けさせたいと思っていますの。それに港をもっと開発させて他国と交流を持つべきだと思いますわ。ランゲル人には民族としての誇りがあるのでしょうが、技術は日々進歩していますのよ。私はこれまであまり外には出してもらえませんでしたが、これからは国内の様々な領地を視察してランゲルが他国と競える何かを探したいと思っていますの。例えば東部のオルコット領は紙の産地ですが、エルランドの職人を呼んでもっと質の高い紙を作り出してもいいと思いますのよ」
「そのような事は、……私もしたいと思っていた」
「兄は先の国王陛下のエルランドとの融和政策を進めたいと思っていますの。ランゲルという国を開き、他国の人間をこの国に多く受け入れる。私もそれには賛成なのですが、それは少しずつでいいと思っていますの。ランゲルのような保守的な国を急に変えようとすると反発も多いのでしょうから、それだけ私たち王家への風当たりも強くなりますもの。兄は強い人ですからそのような風も退けてしまうのでしょうが、私たちはそうでなくても良いと思いますわ」
「やはり、私は頼りないのだろうか?」
「あの兄とご自分を比べる事はしない方がいですわ。例えばこの部屋に突然賊が押し入るような事がありましたらどうされますか? 殿下でしたらまず人を呼ぼうとしますでしょう? それは正しいと私は思います。しかし兄は人を呼ぶと同時に、自らも応戦しようとしますわ。兄は子供の頃から自分の寝室の枕元には、騎士が持つような剣を置いていますのよ。それで枕の下には祖父から譲られた短剣を隠していますの。危ないから仕舞うように言っても、武門の家であるフォレスターの次期当主として正しい姿だと言って聞いてくれませんのよ。なのに武官を目指すのではなく文官を目指していたのですから、おかしな話ですわよね」
そう言ってローゼリアはころころと笑った。ヘンリックはローゼリアが素で笑う姿を初めて間近で見た。
「キミは、美しいな」
ヘンリックは思ったままを素直に言葉にしたのだが、意外にもローゼリアは頬を染めた。
「ご冗談はおっしゃらないで、この国で私の容姿を褒めるのは家族だけですのに」
もしもローゼリアがあのような化粧と髪型をしていなかったらきっと美しい令嬢として評判だっただろう。ランゲル人の好む容姿とはタイプが違うが、ローゼリアは目鼻立ちが整っている。
大きな瞳に筋が通っている小さな鼻、口も小さいが薄紅色の唇はぽってりとしていて青い瞳との対比が彼女をより魅力的に見せる。白金色の髪はふわふわとしていて、触ってみたい衝動に駆られる時もあるし、いつも複雑な編み込みをしていて彼女の美しさを引き立てていた。
「王妃殿下の件はこれまで気付けなくて済まなかった。私が愚かであったばかりにキミには長い間辛い思いをさせていた。ああ、でも今はもう本来のキミの姿を他の者には見せたくない」
「殿下、お酒でもお飲みになりましたの?」
ローゼリアは不審な者を見るように眉根を寄せる。そんな表情ですら小柄な彼女がすると可愛いと思えてしまう。
「いいや、自分の部屋に戻ってからは酒どころか水も飲んでいない。本当は王太子の立場を退くと同時に私はキミと離縁をしようと思っていたんだ。……でも今はキミを離したくない」
そう言ってヘンリックはローゼリアを強く抱きしめた。突然の事にローゼリアはあわあわと焦り出す。
「ちょっ、ちょっとおやめになって下さる? 私、こういった事に慣れていませんのよっ」
「私も女性とこのようにするのは初めてだっ」
ヘンリックの頭に先日のヴィルタとの事が一瞬だけ思い出され、すぐに頭の隅へと追いやった。彼にとって誰かとあんなに身体を密着させたのはあれが初めての事だった。
「殿下には最愛様がいらっしゃったでしょう!」
ローゼリアは力の限りヘンリックを押しのけようとした。しかし意外にも彼はローゼリアよりも力が強く、簡単には離れてくれない。
「マリーナとは隠れて会う事はあったが、彼女とは食事や買い物をするくらいの付き合いしかしてこなかった」
確かにマリーナとの恋愛は楽しかった。彼女はエスコートをするヘンリックに自ら身を寄せて、時には抱きつこうとしていたがヘンリックはそういう事は結婚をしてからだと思っていたので過度な接触は控えていた。
「でもっ、その食事も買い物も私はしたことがありませんのよ!」
そう声を上げたら、突然ヘンリックの腕の力が緩んでローゼリアはやっと開放された。
社会的には彼らは夫婦ではあるが実情は違う。夫婦らしい事どころか、婚約者らしい事すらロクにした事がなかったのだ。本来ならば婚約者時代に当たり前のようにしていた事をヘンリックはずっと拒否してきたのだから。
「……そうか、順番が違っていた。キミは今、私に望んでいる事はあるか?」
これまで何もしてこなかったので、ヘンリックは自分の妻がどういうものを好むのかを知らなかった。今ならば彼女が望めば自分は何でもするだろう、だから知りたかった。
しかしヘンリックの期待に反して彼女の返答は素っ気ないものだった。
「……何も、望んではいませんわ。……殿下に何かしていただくなんて幼い頃に諦めていましたから」
幼い頃、そんなにも早い時期からローゼリアはヘンリックに見切りをつけていたのだと言われてしまったヘンリックは、自分たちの関係が救い難いものである事を思い知らされたのだった。
「そうか……」
力なくそれだけ言うとヘンリックは立ち上がり、再び肩を落としてとぼとぼと自分の部屋へと戻ってしまった。
いつもなら馬車がやってくるまで玄関で待つのだが、今日は馬車を待たずにヘンリックは歩いて王太子宮の近くまで戻った。途中、道ではない草や木の多い場所も歩いたような記憶もうっすらあったが、そんな事はもうどうでも良かった。
下を向きながらとぼとぼと一人で歩くヘンリックのすぐそばに二人乗りの小さな馬車が止まった。
誰とも話をしたくなかったので、それでもヘンリックは止まらずに歩いていたのだが、後ろから声を掛けられてしまった。
「お一人でどうなされたのです?」
声がした方を振り返ると、目の前にローゼリアがいた。王太子宮から本宮まで彼女はいつも馬車で移動をしていて、今はおそらく執務を終えて帰るところだったのだろう。
「狭いですが、とりあえずお乗りください」
ローゼリアに言われるままにヘンリックは馬車に乗り込む。ヘンリックには隣に座る彼女の顔を見るような勇気はなく、ずっと俯いていた。
しかし、こんな時でも身に付けた習慣というものは抜けきらないようで、ヘンリックは馬車が止まると自分が先に降りて自然に体が動くままローゼリアをエスコートしていた。
「まあ、殿下どうなさいましたの!?」
王太子宮の侍女たちがヘンリックの姿を見て驚く。今の彼は足元が泥だらけで、体のいたるところに草や葉を付けていて、普段の彼とはまるで違う様子だったのだ。
「まずは湯浴みをなさいましょう、その後はすぐにお食事をご用意致します」
「……ああ、頼む。……食事は、いらない」
侍女にそれだけ答えるとヘンリックは肩を落とし、力の抜けた様子で浴場へと歩いて行った。いつもと違うヘンリックの様子にローゼリアは驚いていた。
湯浴みを終えた後、ヘンリックは自室に籠り、寝室の寝台の上にただ座っていた。汚れを落としたので身体はすっきりしたが、頭の中は混乱から抜け出せないままだった。
どれだけそうやっていたのか分からなかったが、何度もドアをノックする音でヘンリックは我に返った。ノックの音は夫婦の寝室に繋がる側のドアからしていた。このドアを使ったのは結婚式の夜だけで、あの日から一度も使われていないドアだった。
ヘンリックの私室の間取りは応接室と寝室の二部屋で、寝室のドアを閉めてしまうと廊下へと繋がる応接室のドアをノックしても音はあまり聞こえない。そしてこの王太子宮の主であるヘンリックが許さない限り、誰もヘンリックの自室へは入ってくることは出来ないのだ。
ヘンリックはのろのろと立ち上がって寝室のドアを開ける。ドアの先にはローゼリアがいた。ヘンリックの普段とは違う様子を気遣うような雰囲気はなく、いつもと同じ表情を浮かべているが、今はその方が良かった。ここで優しくされたら、自分が壊れてしまいそうなそんな気がしていた。
「……少しだけお話をしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、すまない。灯を用意させる」
湯浴みを終えてから自室に籠り始めたのは夕方で、部屋に入れなかった侍女はランプに火を灯す事ができなかったため、ヘンリックの部屋は応接室も寝室も真っ暗だった。
「大丈夫ですわ、こちらでお話を……」
そう言ってローゼリアはヘンリックを灯の点けられた夫婦の寝室へと招き入れた。
「ひどいお顔ですわ、どうなされたの?」
ローゼリアはヘンリックの顔をじっと見つめる。ヘンリックは相変わらず俯いたままだった。
「……私は、王太子を退こうと思う」
「王妃様に何か言われましたの?」
あまりにおかしなヘンリックの様子に、ローゼリアはヘンリックが午後何をしているのかを侍従に確認していた。
「愚かにも私は自分という存在が間違いであった事を今日知った。真実を知れば誰もが間違いは正すべきだと思うだろう」
ローゼリアに促されるように寝台に腰掛けたヘンリックは、思いつめた表情で小さくそう言った。
「……殿下は知って仕舞われたのですね」
ヘンリックは隣に座るローゼリアを見る事もなく、無言で頷く。
「殿下は退く必要はございませんのよ」
「真実というものはいつか知られてしまうものだ。ならば私は戴冠前の今、ここで退きたい」
ヘンリックは落ち着かない様子でまた小刻みに震え出した。頭では理解できたが、まだ信じられないという感情もあるし、これからのヘンリックへの処遇を思うと、彼の未来は明るくない。王位の簒奪には死罪もあり得るし、覚悟はしても怖いものは怖い。
「ええ、確かに疑いを持っている者はいるでしょう。けれども誰にも殿下の治世を揺るがす事はできませんわ」
「そのような事、私は耐えられない」
そう言ってヘンリックは辛そうな表情を浮かべながら何度も首を横に振る。
これまで自分をそのように思っていた者が一定数いるなんて思った事もなかった。誰がいつ真実を暴こうとするのかと思うと、これからはそれに怯える日々になるだろう。
「この国には王位継承権の順位はございませんが、殿下の次に王位にふさわしい人物を考えて下さい」
そう言われてヘンリックは王家の家系図を頭に思い浮かべる。今の国王に兄妹はいなかったが、前国王には姉が一人いた。その姉の嫁ぎ先は……。
「フォレスターか?」
ヘンリックはやっと顔を上げてローゼリアの顔を見た。
「ええ、私の曾祖母は先の陛下の姉君に当たります。血縁をたどると王家に最も近いのがフォレスターなのです。私にはどの貴族よりも濃いランゲル王家の血が流れていますから、殿下がフォレスターを裏切らない限りフォレスターは殿下の側におりますわ」
「でもそれではキミの御父上や兄上が納得されないだろう」
「父は野心とは無縁の性格ですわ。それに父を玉座に座らせたら民たちに施しをし過ぎて王家はきっと破産してしますわね。兄は私が王家に嫁いでいる限りは支えてくれるでしょうし、兄が国を治めたらランゲルを解体してしまいそうな気がしますの。どちらも私の思う国にはなりませんわ」
「キミの思う国?」
「ええ、私はまず国力を付けさせたいと思っていますの。それに港をもっと開発させて他国と交流を持つべきだと思いますわ。ランゲル人には民族としての誇りがあるのでしょうが、技術は日々進歩していますのよ。私はこれまであまり外には出してもらえませんでしたが、これからは国内の様々な領地を視察してランゲルが他国と競える何かを探したいと思っていますの。例えば東部のオルコット領は紙の産地ですが、エルランドの職人を呼んでもっと質の高い紙を作り出してもいいと思いますのよ」
「そのような事は、……私もしたいと思っていた」
「兄は先の国王陛下のエルランドとの融和政策を進めたいと思っていますの。ランゲルという国を開き、他国の人間をこの国に多く受け入れる。私もそれには賛成なのですが、それは少しずつでいいと思っていますの。ランゲルのような保守的な国を急に変えようとすると反発も多いのでしょうから、それだけ私たち王家への風当たりも強くなりますもの。兄は強い人ですからそのような風も退けてしまうのでしょうが、私たちはそうでなくても良いと思いますわ」
「やはり、私は頼りないのだろうか?」
「あの兄とご自分を比べる事はしない方がいですわ。例えばこの部屋に突然賊が押し入るような事がありましたらどうされますか? 殿下でしたらまず人を呼ぼうとしますでしょう? それは正しいと私は思います。しかし兄は人を呼ぶと同時に、自らも応戦しようとしますわ。兄は子供の頃から自分の寝室の枕元には、騎士が持つような剣を置いていますのよ。それで枕の下には祖父から譲られた短剣を隠していますの。危ないから仕舞うように言っても、武門の家であるフォレスターの次期当主として正しい姿だと言って聞いてくれませんのよ。なのに武官を目指すのではなく文官を目指していたのですから、おかしな話ですわよね」
そう言ってローゼリアはころころと笑った。ヘンリックはローゼリアが素で笑う姿を初めて間近で見た。
「キミは、美しいな」
ヘンリックは思ったままを素直に言葉にしたのだが、意外にもローゼリアは頬を染めた。
「ご冗談はおっしゃらないで、この国で私の容姿を褒めるのは家族だけですのに」
もしもローゼリアがあのような化粧と髪型をしていなかったらきっと美しい令嬢として評判だっただろう。ランゲル人の好む容姿とはタイプが違うが、ローゼリアは目鼻立ちが整っている。
大きな瞳に筋が通っている小さな鼻、口も小さいが薄紅色の唇はぽってりとしていて青い瞳との対比が彼女をより魅力的に見せる。白金色の髪はふわふわとしていて、触ってみたい衝動に駆られる時もあるし、いつも複雑な編み込みをしていて彼女の美しさを引き立てていた。
「王妃殿下の件はこれまで気付けなくて済まなかった。私が愚かであったばかりにキミには長い間辛い思いをさせていた。ああ、でも今はもう本来のキミの姿を他の者には見せたくない」
「殿下、お酒でもお飲みになりましたの?」
ローゼリアは不審な者を見るように眉根を寄せる。そんな表情ですら小柄な彼女がすると可愛いと思えてしまう。
「いいや、自分の部屋に戻ってからは酒どころか水も飲んでいない。本当は王太子の立場を退くと同時に私はキミと離縁をしようと思っていたんだ。……でも今はキミを離したくない」
そう言ってヘンリックはローゼリアを強く抱きしめた。突然の事にローゼリアはあわあわと焦り出す。
「ちょっ、ちょっとおやめになって下さる? 私、こういった事に慣れていませんのよっ」
「私も女性とこのようにするのは初めてだっ」
ヘンリックの頭に先日のヴィルタとの事が一瞬だけ思い出され、すぐに頭の隅へと追いやった。彼にとって誰かとあんなに身体を密着させたのはあれが初めての事だった。
「殿下には最愛様がいらっしゃったでしょう!」
ローゼリアは力の限りヘンリックを押しのけようとした。しかし意外にも彼はローゼリアよりも力が強く、簡単には離れてくれない。
「マリーナとは隠れて会う事はあったが、彼女とは食事や買い物をするくらいの付き合いしかしてこなかった」
確かにマリーナとの恋愛は楽しかった。彼女はエスコートをするヘンリックに自ら身を寄せて、時には抱きつこうとしていたがヘンリックはそういう事は結婚をしてからだと思っていたので過度な接触は控えていた。
「でもっ、その食事も買い物も私はしたことがありませんのよ!」
そう声を上げたら、突然ヘンリックの腕の力が緩んでローゼリアはやっと開放された。
社会的には彼らは夫婦ではあるが実情は違う。夫婦らしい事どころか、婚約者らしい事すらロクにした事がなかったのだ。本来ならば婚約者時代に当たり前のようにしていた事をヘンリックはずっと拒否してきたのだから。
「……そうか、順番が違っていた。キミは今、私に望んでいる事はあるか?」
これまで何もしてこなかったので、ヘンリックは自分の妻がどういうものを好むのかを知らなかった。今ならば彼女が望めば自分は何でもするだろう、だから知りたかった。
しかしヘンリックの期待に反して彼女の返答は素っ気ないものだった。
「……何も、望んではいませんわ。……殿下に何かしていただくなんて幼い頃に諦めていましたから」
幼い頃、そんなにも早い時期からローゼリアはヘンリックに見切りをつけていたのだと言われてしまったヘンリックは、自分たちの関係が救い難いものである事を思い知らされたのだった。
「そうか……」
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