即興小説集

南澤久佳

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彼女のサッカー

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彼女のサッカー

スパイクが足に刺さった時、肉の柔らかさにぞっとした。
流れ出た血の赤さも、対照的に青ざめていく額にも、駆け寄るチームメイトの声も、何も頭に入らなかった。ただ、深く深く、引き裂いた感触だけが全身を支配していた。

***

「今日のコロッケ、どうだった?」
「ああ、うまかったけど、なんかいつもと違った」
「あ、すごい」
「なにが」
「あれ、冷凍食品」
「へえ」
「手作りとねえ、やっぱり味が違うよね。保存料があるかどうかなんだろうねえ。ねえ、あっくんもわかるんだねえ、ちゃんと私の料理と違うのわかるんだね、すごいね」
「まあ、毎日食ってるからね」
「そんでね、夕飯はわたしのコロッケね」
「それはどうなの」
「食べ比べしたかったのね」
「俺を試しているのか」
「そこはどうでもいい」
「俺の舌の繊細さをもっと褒め称えて且つ感謝しろよ」

6畳二間のアパートに、彼女と暮らすようになって一年が経過した。
あっという間の一年だった。
まずゴミの担当で喧嘩して、猫のトイレの掃除で喧嘩して、食事当番で喧嘩して、ホラー映画をレンタルしてきたら喧嘩して、思い出せないくらいいろんなことで喧嘩して、昨日もなんか喧嘩した気がするのだけれどそれはもうどうでもいいから昼の弁当と夕飯のオカズを一緒にするなと言いたいのだが、彼女はてきぱきと食卓の上に夕餉の支度を整えていて、密かに昼食のコロッケに不満を覚えていた胃が鳴き声をあげ、こっちのコロッケのほうがうまい、と主張してきたのでこれについては不問に帰すこととした。
手作りのコロッケは、箸で持ち上げると崩れたり、衣が焦げついていたり、中身がはみ出したり、玉ねぎが大きすぎたりするのだが、それでも冷凍食品よりはずっとずっとうまかった。胃袋がほっとしているのがわかる。彼女と暮らして、手作りの食卓を囲むようになって、出来合いのものの、彼女のさっきの言葉を借りれば保存料の味というものに気づいた。
体重が5キロも落ちて、一人暮らしの時の食費、月二万五千が二人で二万円に収まった。一体どんなマジックを使っているのやら、否、マジックでもなんでもなく、朝九時から激安スーパーで歴戦の勇者の風格を見せるパワフル主婦のみなさんに混じって奮闘しているのは知っている。
それでも長くカップ麺とコンビニ弁当とねんごろであった自分にはそれは手品よりもハンドパワーよりもミラクルな出来事で、素直に感謝したいし、ホラー映画もスプラッタ映画もAVも借りれられなくなったことも不問にしてもいいような気が一瞬したがそれとこれとは区別したい。

食卓を片付けるのは俺の役目だった。
ざばざばと惜しげなく湯を使い蛇口を締めずに洗うのは彼女には大変不評な方法なのだが、中華屋での皿洗い歴3年のキャリアを積んだ俺の手腕にかかれば彼女の2.5倍の速さで皿洗いが終わるのでそこは引かせた。わざわざストップウォッチで時間を計ったのだが3倍ではなかったあたりが悔しい。さらに言うと、同じ条件で皿洗いをするために同じ料理を昼と夜とで食った自分たちは馬鹿だと思う。

華麗な指さばきで皿洗いを終えて居間にもどれば、彼女は、キジなんだかトラなんだかサビなんだか微妙なまだらの柄のどっからどうみても純粋な雑種の猫を膝に乗せてテレビを眺めていた。見たい番組があったのだけれど、録画をしているからまあ構わない。どちらかといえば、俺の膝には死んでも乗らないという態度の猫が、彼女の膝ではゴロゴロと喉を鳴らしていることに抗議したい。
「こいつ、なんで俺になつかないんだろ」
「トイレの掃除しないからじゃない」
「えっ、猫ってそんな綺麗好きなの」
「そうだよ~。毛づくろいとかするじゃん」
「でもさあ、ついでに自分のケツの穴も舐めるじゃん」
「あ~、そうねえ」
彼女の右隣に座って、膝からはみ出た尻尾を掴むと、ぺしりとそのまま尾が手を叩いた。拾ってきたのは俺なのに。口をとがらせたら彼女はけらけらと笑った。
21インチのささやかな大きさの液晶の中に、青い布地が写っている。
「かっこいいねえ」
「何回観るんだか」
「何回でも、観るよ」
液晶の中で、長い髪をひとつに結んで、浅黒く焼けた肌を青と白のユニフォームに包み、緑の芝生の上をかけていく細い体。細いといっても鍛え上げられた脚はそんじょそこらの男では、もちろん俺も敵わない。それでも、日本の女性の体はやはり、外国人選手に比べれば圧倒的に華奢だ。
女性サッカーで世界の頂点にたったその後ろ姿が、あんまりにも小さくて、でも神々しくて、あの日、泣きたくなった俺の横で、彼女はとっくの昔に何度もしゃくりあげ、嗚咽をあげていた。

もう二十年は前になる。地元の子供サッカークラブで、彼女とチームメイトだったのは。
そこらの男子よりもずっと早く、ずっと力強くボールを追いかけていた彼女の足に、深くスパイクを突き立てて、そのことに心折れてしまったのは、自分の方だった。
まず俺がクラブをやめ、それを受けて彼女もやめてしまった。

それほどサッカーに深い思い入れがあったわけではないのだと思う。二人共。だからあっさり辞めてしまった。それでも、その出来事は子供心におおきな事件であったし、親同士とクラブが多少もめたりしたし、彼女とはそのまま疎遠になった。
片田舎の子供サッカークラブで一瞬だけ繋がれた縁は、そのまま切れたはずだったのに、お互い上京し、お互い夢やぶれて地元に帰り、バイト先が同じコンビニで、化粧して肌も白くなってほぼ別人だった彼女がどうしてあの彼女であると気づいたかといえば、足に残った傷痕のおかげだった。

白い太ももの上で丸くなっている猫が、今も残る痛々しい傷跡を舐める。
画面に釘付けかと思われた彼女が、そっと、たしなめるように猫の口元を押さえた。
「おまえってさ」
「なあに」
「サッカー、好き?」
「…コロッケの次ぐらいには、好きかな」

こぼした声が震えていることは、不問に帰すことにした。
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