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その日は、私の二十三年間の人生で三本の指に入るくらい最悪な日だった。
主に刺繍専門のお針子として働く私は、その日も出来上がった品をメルカトという田舎町にある仕立屋に納品に行った。
仕立屋の店主であるローズさんは、とてもいい人だ。
ただ、最近は私に結婚を勧めてくるので、それが少し面倒くさい。
「ナディアちゃんも、そろそろ身を固めなさいよ」
「いいえ、私はいいんです。私なんかと結婚したいなんて人、いないでしょうから」
「そんなことないわよ!ナディアちゃんは気立てもよくて、可愛くて、刺繍の腕も確かじゃない!お嫁さんにほしいって男はたくさんいるわよ!」
「いいんですよ、私はこのままで……それでは、また来週来ますから、よろしくお願いします」
なんとか躱して外に出ると、そこでベイカーが待ち構えていた。
最悪だ……と胸の中で舌打ちしながら、気づかないふりをして通り過ぎようとしたけど、
「ナディア」
と声を掛けられて立ち止まるしかなかった。
本当は無視したいけど、そうもいかない。
だって、ベイカーはローズさんの息子で、仕立屋の跡取り息子なのだから。
「……なにか用?」
「なんだよ、つれないな。ナディアに会いたくて待ってたのに」
私は顔を顰めた。
ベイカーは私の二歳年上で、幼馴染と言ってもいい関係ではあるのだけど、昔から私の髪を引っ張ったり揶揄ったりして嫌がらせばかりされていた。
そして、大人になってからは、もっと別な種類の嫌がらせをされるようになった。
「もう納品は終わったんだろ?ちょっとつきあえよ」
「悪いけど、急いでるの」
誰があんたなんかと!と吐き捨てたくなるのを堪えた。
「いいじゃないか、少しくらい。後は帰るだけなんだろ?」
「買い物しなきゃいけないの。時間ないのよ」
これは本当だ。
今日貰った賃金で、パンや塩などを買って帰らないといけない。
私の家は町から少し離れたところにあるので、暗くなる前には帰り着かないといけないのだ。
「じゃあ、買い物につきあうよ。荷物持ちくらいするから」
そう言って私の手のバスケットを奪おうとしたベイカーから私は慌てて身を引いた。
「いらないわ。一人で大丈夫よ。じゃあね」
急いで横を通り過ぎようとした私の腕をベイカーが掴んだ。
「放して」
「いいのか?俺にそんな態度で」
ニヤニヤと笑うベイカーに、私は嫌悪感でいっぱいになった。
割と整った顔をしていて、家業もしっかりしているベイカーは田舎町では有望株だ。
ベイカーと関係を持ちたいと願う娘もたくさんいるだろうに、なんで私なんかに絡んでくるのだろう。
私はベイカーを睨みつけた。
「そういうナディアの気が強いところも好きなんだけどな。でも、この前届いた新聞を読んでも、同じでいられるかな?なかなか興味深い記事があったぞ」
新聞はだいたい週に一回、ここから遠く離れた王都から届く。
貴族の誰が誰と結婚したとか、どこかで魔獣の群れが騎士団に討伐されたとか、戦争が始まったとか終わったとか、そんなことが書いてある。
私はもう七年ほど、私にはほぼ関係ない記事しか載っていない新聞を毎週購入している。
ベイカーもそれを知っているのだ。
そして、その理由も。
ベイカーの指が腕に食い込んでいて、私は顔をしかめた。
「来週も納品に来るだろ?」
「納品には、来る。仕事だから」
それ以外のことはしない、と言外に伝えたが、ベイカーに聞く気はなさそうだ。
「楽しみに待ってるからな」
そう言ってやっとベイカーは腕を放した。
まるで勝利を確信しているかのように笑うベイカーに嫌悪感を感じながら、私は立ち去った。
私は速足で歩きながら、嫌な予感に胸が塞がれた。
そして、その予感は的中した。
新聞を買って、家に帰るまで待てずに道端で広げてみて、一番大きく目を引く記事にそれは載っていた。
わかっていた。
もうずっと前から、いつかこうなるのではないかと思っていた。
それでも、幾度も固く結んだ約束だからと、希望を捨てられずにいた。
あの温もりも、優しい笑顔も眼差しも、もう二度と私に向けられることはないのだ。
全部、私のものだったのに。
もう買い物もする気になれず、私は重い足をひきずりながら家路についた。
森の中の小路を抜けて家に着いたところで、私はぎくりと足を止めた。
家の前に、なにやら黒くて大きなものがあったのだ。
魔物?熊?私を食べに来たの?
そう思って硬直したが、いつまでたってもその黒い塊は地面に伏せたまま動かない。
弱ってる?怪我でもしてるのかな?
私は迷った末、足元に落ちていた小石を黒い塊に投げてみた。
小石はぽんと黒い塊にあたり、また地面に転がった。
黒い塊はそれでも微動だにしない。
もしかして、もう死んでるのかな?
そっと足音を殺して近づいてみて、その黒い塊が烏のような黒い羽に覆われているのがわかった。
ということは、熊ではない。
じゃあ、魔物なのだろうか?
こんな魔物がこの辺りにいるなんて聞いたこともないのだけど。
指先でちょんちょんとつついてみたけど、やっぱりなんの反応もない。
そっと撫でてみると、漆黒の羽は滑らかでつやつやとしていて、極上の羽飾りにできそうだった。
もし死んだ魔物だったら、この羽だけはできるだけ回収しよう。きっと高値で売れる。
そう思うと、一気に警戒心が薄れた。
成人女性としてはやや小柄な私の三倍くらいの大きさはある黒い塊の他の場所もごそごそと探ってみた。
「これは……足?」
鷲の足のような形をした、鋭い金色の爪のついた大きな足をみつけた。
そして、その反対側くらいを探ってみたとき、
「きゃ!」
思わず飛び退いた。
だって、そこに見つけたのは、黒い羽に埋もれた人の顔だったのだから。
私は、まじまじとその顔を見つめた。
目が閉じられているので瞳の色はわからないけど、まだ若い男性に見える。
頭はそこだけ羽ではなく、羽と同じ色の毛で覆われている。
首から上だけは普通の人間と同じだということがわかった。
魔物に詳しくはないが、人の顔をした魔物がいるなんて話は聞いたことがない。
人と魔物というのは、火と水のように対極にある存在だとおばあちゃんが言っていた。
逆に、人の姿を変えるという魔法があるというのは聞いたことがある。
ということは、これは魔法に失敗したどこかの魔法使いなのではないだろうか。
……この羽を売るのは諦めよう。
私はしばらく考えた末、手押し車を持ってきて、汗だくになるくらいがんばって黒い塊の上半身だと思われる部分を手押し車になんとか押し上げて、鷲の足がついた下半身を引きずりながら家の中に運び込んだ。
もしこの人が悪い魔法使いなら、目を覚ました後に私は殺されるかもしれない。
でも、それでも構わない。
もう私には失うものなどなにもないのだから。
むしろ、そうなってほしい。
そうしたら、もうこれ以上私の心が引き裂かれることはない。
そんな捨鉢な気持ちで、私はアーレンを拾ったのだった。
主に刺繍専門のお針子として働く私は、その日も出来上がった品をメルカトという田舎町にある仕立屋に納品に行った。
仕立屋の店主であるローズさんは、とてもいい人だ。
ただ、最近は私に結婚を勧めてくるので、それが少し面倒くさい。
「ナディアちゃんも、そろそろ身を固めなさいよ」
「いいえ、私はいいんです。私なんかと結婚したいなんて人、いないでしょうから」
「そんなことないわよ!ナディアちゃんは気立てもよくて、可愛くて、刺繍の腕も確かじゃない!お嫁さんにほしいって男はたくさんいるわよ!」
「いいんですよ、私はこのままで……それでは、また来週来ますから、よろしくお願いします」
なんとか躱して外に出ると、そこでベイカーが待ち構えていた。
最悪だ……と胸の中で舌打ちしながら、気づかないふりをして通り過ぎようとしたけど、
「ナディア」
と声を掛けられて立ち止まるしかなかった。
本当は無視したいけど、そうもいかない。
だって、ベイカーはローズさんの息子で、仕立屋の跡取り息子なのだから。
「……なにか用?」
「なんだよ、つれないな。ナディアに会いたくて待ってたのに」
私は顔を顰めた。
ベイカーは私の二歳年上で、幼馴染と言ってもいい関係ではあるのだけど、昔から私の髪を引っ張ったり揶揄ったりして嫌がらせばかりされていた。
そして、大人になってからは、もっと別な種類の嫌がらせをされるようになった。
「もう納品は終わったんだろ?ちょっとつきあえよ」
「悪いけど、急いでるの」
誰があんたなんかと!と吐き捨てたくなるのを堪えた。
「いいじゃないか、少しくらい。後は帰るだけなんだろ?」
「買い物しなきゃいけないの。時間ないのよ」
これは本当だ。
今日貰った賃金で、パンや塩などを買って帰らないといけない。
私の家は町から少し離れたところにあるので、暗くなる前には帰り着かないといけないのだ。
「じゃあ、買い物につきあうよ。荷物持ちくらいするから」
そう言って私の手のバスケットを奪おうとしたベイカーから私は慌てて身を引いた。
「いらないわ。一人で大丈夫よ。じゃあね」
急いで横を通り過ぎようとした私の腕をベイカーが掴んだ。
「放して」
「いいのか?俺にそんな態度で」
ニヤニヤと笑うベイカーに、私は嫌悪感でいっぱいになった。
割と整った顔をしていて、家業もしっかりしているベイカーは田舎町では有望株だ。
ベイカーと関係を持ちたいと願う娘もたくさんいるだろうに、なんで私なんかに絡んでくるのだろう。
私はベイカーを睨みつけた。
「そういうナディアの気が強いところも好きなんだけどな。でも、この前届いた新聞を読んでも、同じでいられるかな?なかなか興味深い記事があったぞ」
新聞はだいたい週に一回、ここから遠く離れた王都から届く。
貴族の誰が誰と結婚したとか、どこかで魔獣の群れが騎士団に討伐されたとか、戦争が始まったとか終わったとか、そんなことが書いてある。
私はもう七年ほど、私にはほぼ関係ない記事しか載っていない新聞を毎週購入している。
ベイカーもそれを知っているのだ。
そして、その理由も。
ベイカーの指が腕に食い込んでいて、私は顔をしかめた。
「来週も納品に来るだろ?」
「納品には、来る。仕事だから」
それ以外のことはしない、と言外に伝えたが、ベイカーに聞く気はなさそうだ。
「楽しみに待ってるからな」
そう言ってやっとベイカーは腕を放した。
まるで勝利を確信しているかのように笑うベイカーに嫌悪感を感じながら、私は立ち去った。
私は速足で歩きながら、嫌な予感に胸が塞がれた。
そして、その予感は的中した。
新聞を買って、家に帰るまで待てずに道端で広げてみて、一番大きく目を引く記事にそれは載っていた。
わかっていた。
もうずっと前から、いつかこうなるのではないかと思っていた。
それでも、幾度も固く結んだ約束だからと、希望を捨てられずにいた。
あの温もりも、優しい笑顔も眼差しも、もう二度と私に向けられることはないのだ。
全部、私のものだったのに。
もう買い物もする気になれず、私は重い足をひきずりながら家路についた。
森の中の小路を抜けて家に着いたところで、私はぎくりと足を止めた。
家の前に、なにやら黒くて大きなものがあったのだ。
魔物?熊?私を食べに来たの?
そう思って硬直したが、いつまでたってもその黒い塊は地面に伏せたまま動かない。
弱ってる?怪我でもしてるのかな?
私は迷った末、足元に落ちていた小石を黒い塊に投げてみた。
小石はぽんと黒い塊にあたり、また地面に転がった。
黒い塊はそれでも微動だにしない。
もしかして、もう死んでるのかな?
そっと足音を殺して近づいてみて、その黒い塊が烏のような黒い羽に覆われているのがわかった。
ということは、熊ではない。
じゃあ、魔物なのだろうか?
こんな魔物がこの辺りにいるなんて聞いたこともないのだけど。
指先でちょんちょんとつついてみたけど、やっぱりなんの反応もない。
そっと撫でてみると、漆黒の羽は滑らかでつやつやとしていて、極上の羽飾りにできそうだった。
もし死んだ魔物だったら、この羽だけはできるだけ回収しよう。きっと高値で売れる。
そう思うと、一気に警戒心が薄れた。
成人女性としてはやや小柄な私の三倍くらいの大きさはある黒い塊の他の場所もごそごそと探ってみた。
「これは……足?」
鷲の足のような形をした、鋭い金色の爪のついた大きな足をみつけた。
そして、その反対側くらいを探ってみたとき、
「きゃ!」
思わず飛び退いた。
だって、そこに見つけたのは、黒い羽に埋もれた人の顔だったのだから。
私は、まじまじとその顔を見つめた。
目が閉じられているので瞳の色はわからないけど、まだ若い男性に見える。
頭はそこだけ羽ではなく、羽と同じ色の毛で覆われている。
首から上だけは普通の人間と同じだということがわかった。
魔物に詳しくはないが、人の顔をした魔物がいるなんて話は聞いたことがない。
人と魔物というのは、火と水のように対極にある存在だとおばあちゃんが言っていた。
逆に、人の姿を変えるという魔法があるというのは聞いたことがある。
ということは、これは魔法に失敗したどこかの魔法使いなのではないだろうか。
……この羽を売るのは諦めよう。
私はしばらく考えた末、手押し車を持ってきて、汗だくになるくらいがんばって黒い塊の上半身だと思われる部分を手押し車になんとか押し上げて、鷲の足がついた下半身を引きずりながら家の中に運び込んだ。
もしこの人が悪い魔法使いなら、目を覚ました後に私は殺されるかもしれない。
でも、それでも構わない。
もう私には失うものなどなにもないのだから。
むしろ、そうなってほしい。
そうしたら、もうこれ以上私の心が引き裂かれることはない。
そんな捨鉢な気持ちで、私はアーレンを拾ったのだった。
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