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「この場所、気に入ってくれたか?」
「うん。とてもきれいな湖ね」

 アーレンが足のかぎ爪に引っ掛けて運んできた籠の中には、いろんなものが入っていた。
 ティーセット、パン、チーズ、塩と調味料、お皿とカトラリーなどなど。

「きみの家に住むようになってすぐ、この湖を見つけたんだ。それから二日に一度はここに通っていた」

 そんな頻度で?と首を傾げる私に、アーレンはティーポットに湖の水を汲んだ。
 そこに庭で摘んできたハーブを入れ、私にいつも家で使っているカップを手渡した。
 水でハーブティー?なんのつもりかわからない私だったけど、アーレンがティーポットの中身をカップに注いでやっと意味がわかった。

 湖で汲んだばかりの水がティーポットの中で熱湯になっていて、私のカップには熱々のハーブティーが注がれたのだ。

 これは、つまり。

「アーレン……魔法を使えるの?」

 おばあちゃんが使っていたのと種類は違うようだけど、どう考えてもこれは魔法だ。
 一緒に暮らす中で、アーレンが魔法を使うのを見るのは初めてだった。
 変身する魔法を失敗したのではなく、呪いで姿を変えられたということだったので、きっと魔法使いではないのだろうと思っていたのだが。

「ああ、使える」

 アーレンは私をじっと見ながら頷いた。

「それは……呪われる前から?」
「子供のころから魔法を使うことができた」
「そうだったの……」
「隠していたわけじゃない。この姿になってから、どうも魔法が以前のように使えなくなってしまったんだ。魔力の質が変わったというか、大きくなったというか……制御が難しくなった。もし魔法が暴走でもしたら、ナディアの家くらいは簡単に吹き飛ばしてしまう。そこまでいかなくても、きみに怪我をさせてしまうかもしれない。だから、そうならないように、ここでずっと訓練をしていたんだ」

 アーレンにかけられた呪いは、外見を変えるだけではなかったようだ。

「ずっと前から、今日ここにきみを連れてこようと決めていた。それまでに魔法がちゃんと使えるようになりたくて、それを目標に訓練も頑張ったんだ。間に合ってよかった」

 私は再び首を傾げた。

「今日はなにか特別な日なの?」
「俺がきみのペットになった半年記念だよ」

 ほうっと私は息を吐き出した。

「半年……もうそんなに経つのね」

 アーレンが現れてから、私の生活は大きく変わった。
 食生活が改善したことだけでなく、週に一度ローズさんの仕立屋に納品に行って帰りに買い物をする時だけしか他人と関わらない生活から、毎日会話をする相手がいる生活になった。
 朝はおはようと言い、いってきます、おかえりなさい、ありがとう、おやすみなさい、とおばあちゃんが生きていたころは毎日何気なく交わしていた挨拶を口にすると、返してくれる相手がいる。
 アーレンが畑を耕して私が種を植えた野菜やハーブでつくった料理で一緒に食卓を囲み、あれこれ話しては笑いあい、夜はお茶を飲みながら膝に座って漆黒の羽の手触りを堪能しながら甘える。
 そんな日々がもう半年も続いているのだ。
 アーレンが来る前、どうやって生活していたのか忘れてしまいそうなくらい、二人暮らしは快適で楽しいものだった。

「半年前、きみが俺を匿ってくれなかったら、俺はきっと野垂れ死にしていた。きみには返しきれないほどの恩がある。なのに、俺はまだ話していないことがあるんだ」

 それは、最初からわかっていた。
 私も敢えてなにも訊かなかったのだ。
 でないと、別れが辛くなるから……

「もしきみがなにか尋ねてくれたら、その時は正直に話そうと思っていたんだ。だが、このまま待っていてもなにも尋ねてくれないようだ。だから、もう俺から種明かしをすることにした」

 そう言ってアーレンが籠から取り出したのは、新聞だった。

「アーレン、それは……」

 アーレンが私の家の庭に落ちていた日に買った、私の心を粉々に砕いた新聞だ。
 もうとっくに処分したと思っていたけど、アーレンが保管しておいたようだ。

「わかってる。きみが見たくない記事が載ってる新聞だ。俺が見てほしいのは別の記事だ」

 アーレンは新聞の端のほうにある小さな記事を指さした。

 それは、オルランディア王国の第二王子が臣籍降下し、その直後に病死したという内容の記事だった。
 
 その第二王子の名は……アーレン・オルランディア。

 絵もなにもない文字だけのその記事では、第二王子がどんな顔をしているのかまではわからない。
 アーレンは、きっと身分が高い人なんだろうとは思っていたけど……

「知っているか?オルランディア王家の血をひくものは、金色の瞳になることが多いんだ。父上も兄上も、同じような瞳をしている」

 現国王陛下と、王太子殿下もってこと……?

 私は新聞をずっと買ってはいたけど、サミーの記事を探すばかりで、他の関係ない記事はあまり読んでいなかった。
 新聞には第二王子の名が記された記事がいくつもあったはずだが、あまり記憶に残っておらず、目の前のアーレンとは全く結びついていなかった。

「アーレン……王子様、なの……?」

 呆然とした私に、アーレンは苦笑して首を振った。

「元、王子様だ。臣籍降下した上に病死したって書いてあるだろ?今は家名もなにもない、ただのアーレンだよ」

 王子様なのに、なんで呪われたの?
 なにがあったの?
 なんで、どうして……アーレンは、こんなに優しい人なのに。

 訊きたいことがたくさんありすぎて、言葉にならない。

 そんな私を、アーレンはひょいと抱えていつものように膝に乗せ、腕と翼で温かい漆黒の中に閉じ込めた。

「長い上に面白くもない話だが……ナディアには聞いてほしい。いいだろうか?」

 私はアーレンの胸に頬を埋めて頷いた。




「今の王妃は、俺の兄である第一王子を産んだ後、体調を崩したらしい。それで、俺の母が側妃として迎えられた。母は俺が三歳のころに亡くなったから、あまり覚えていない。俺と同じ黒髪だったんだそうだ」

 頭脳明晰だが体が弱い第一王子。
 その一歳年下の第二王子であるアーレンは、魔力が豊富で体が頑丈だった。
 アーレンは兄と王位を争う気などなく、軍に入ってその魔力を活かし、将来国王として即位する兄を支えていくつもりだった。
 それは兄も承知していることだった。二人は仲のいい兄弟だったのだ。
 父である国王は家族には無関心で、ほとんど関わったことがない。
 義理の母となった王妃は、生さぬ仲ながらアーレンのことを邪険にしたりはしなかった。
 兄にはどう考えても補佐が必要で、そのためにもアーレンの存在は都合が良かったからだ。
 兄の九歳下に義母上が産んだ妹はアーレンを家族とは認めてくれなかったが、特に気にならなかった。
 アーレンは、ただ家族としての役割を果たそうと思っていた。
   
 それなのに。

「オルランディア王家には、呪いがかかっている。数代に一人、直系の男がその呪いを受けなくてはいけないのだそうだ。俺がそのことを知らされたのは、この姿になった直後だ。義母上は、俺に呪いを引き受けさせ兄上の身を安全に保つためだけに、俺を生かしておいたんだ……」

 感情を抑えた平淡な声。
 だが、その中に言い知れぬ悲しみがある。
 虚空を映す金色の瞳は、その当時の情景を脳裏に思い描いているようだった。

「俺が苦しみのたうち回っているのを、義母上は笑いながら見ていた。そして、こんな姿になった俺を殺すように兵に命じたんだ。化け物を殺せ、と言ってな。俺は最初からこうなる運命だったのだと……兄上のために、オルランディアのために、ここで大人しく死ねと言われた。それが受け入れられずに、無我夢中で逃げた」

 簡潔にまとめられているけど、内容はかなり壮絶だ。
 どれだけ苦しかっただろう。どれだけ怖かっただろう。どれだけ悲しかっただろう……

 胸が痛くなってぎゅっとしがみついた私の髪を、アーレンの掌がそっと撫でた。
 そうすることで、アーレン自身の心を落ち着かせようとしているようだった。

「必死で逃げたのは本当だ。だが、ナディアの家にたどり着いたのは、偶然ではない。なにもかも失った上にこんな姿になった俺は、絶望の中に一つだけ残っていた希望に縋ったんだ。それがナディア、きみだった」

「希望?私が?どういうこと?」

 漆黒の羽を撫でていた私は、次のアーレンの言葉でびくっと体が固まってしまった。

「きみのことは、サミュエルに聞いていた」

 なにも答えられないでいる私に、アーレンは続けた。

「サミュエルが徴兵されたのは、東の山脈から長年地脈の中に溜め込まれていた瘴気が吹き出し、魔物が多く出現するようになったからだ。オルランディアの騎士だけでは足りず、国中から若者が集められて大規模な遠征軍が編成された。俺も、あの時は最前線で戦った。……サミュエルも、その時の戦友の一人だ」

 やっぱり、と私は思った。
 兄のために軍に入ったというアーレンと、軍で活躍して将軍にまでなったサミー。
 知り合いでない方がおかしい。
 それに、サミーと婚約したお姫様はアーレンの妹なのだ。

「サミュエルは……簡素ながら、ありとあらゆる加護がついた素晴らしい装備を持っていた。あれがあったから、あいつは将軍にまでのし上がったんだ。あれはナディア、きみがつくったんだろう?」

 私は唇を噛んだ。
 やっぱりそのことにも、アーレンは気が付いていたのだ。

「サミュエルが軍の中で頭角を現し始めたころ、剣帯やシャツを持って俺のところに相談に来た。どれも丁寧なつくりで、あまり目立たないような刺繍がしてあった。魔力を使って調べてみると、その刺繍にとんでもない加護がついていて……驚いたよ。あんなものがつくれる人がオルランディアにいるなんて、誰も知らなかった。本当なら、国で保護しなくてはいけないところだ。だが……サミュエルは、誰がつくったのかを教えてくれなかった。しかも、あの装備のことは秘密にするように、と俺に頭を下げて頼んできた。だから、俺はピンときたんだ。きっと、あれをつくったのは、たまにサミュエルが話していた恋人なんだろうと」

 私は優しい声音のバリトンを聞きながら、心の奥が冷えていくようだった。
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