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㉖ジェラルド視点
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アーレンがいなくなってからもうすぐ一年になる。
今でもアーレンが抜けた穴は埋まらないままで、アーレンを惜しむ声が絶えることはない。
第二王子であり、東の山脈で軍を率いたアーレンは特に軍関係者に絶大な人気があった。
整った容姿に豊富な魔力、そして人を惹きつけてやまない魅力。
アーレンが王位を継ぐ気はないと宣言しているにも関わらず、アーレンを次期国王にと望む声も少なからずあるくらいだった。
英雄と呼ばれるようになったサミュエル・ギャラガー将軍も人望があるのだが、アーレンには遠く及ばない。
サミュエル自身もアーレンの信徒だったくらいだ。
アーレンの担っていた役割を受け継ぐためにサミュエルも頑張ってはいるが、まだまだ力不足だ。
平民上がりということで軽んじられたり、アーレンに忠誠を誓っていた一部の軍人たちが反発をしたりしている。
もし僕がオルランディアを攻め落とそうとする側の人間なら、間違いなくその綻びを突いて事を起こすだろう。
今は近隣諸国と友好関係を築いているので、突然攻めこまれる可能性が低いということだけが救いだ。
それに、サミュエルに関しては、それ以外にも頭が痛い問題がある。
どうやら先日結婚したばかりのブリジットと、早くも上手くいっていないらしいのだ。
ブリジットが強く望み、母も後押しして、サミュエル本人も最終的には納得した上での婚姻だったはずだ。
それなのに、ブリジットは既に愛人を抱え込んでいて、サミュエルもほとんど邸に帰らず独身時代と同じ官舎の部屋で寝起きしているのだそうだ。
その報告を受けた時の僕の気持ちを想像してみてほしい。
せめて体面を取り繕うくらいはしろ!と叫びたくなったものだ。
将軍は、アーレンほどではないにしても優れた軍人だ。
どこか朴訥とした人柄も人気の理由だ。
人としてはそういった気質を好ましく思うが、将軍という階級と伯爵位を賜りオルランディア貴族に名を連ねた今、はっきり言ってそれは弱みにしかならない。
それが結婚生活に如実に現れてしまったのだろう。
僕はこの日、どんよりとした暗い気持ちで母のサロンに向かっていた。
週に一度、ここで母とブリジットと僕でお茶会をすることになっているのだ。
かつてはアーレンも招待されていたが、アーレンはなにかと理由をつけては参加するのを避けていた。
ただ面倒くさがっているのだと思っていたが、きっとそれだけではなかったのだろう。
アーレンがあんなことになるまで、僕はそれに気がつかなかった。
僕は体が弱い分、目端が利く方だと思っていたが、それが自惚れであったと思い知らされ、同時に酷く打ちのめされた。
サロンの前まで来ると、中から母とブリジットの談笑の声が聞こえた。
今すぐ回れ右して引き返したいのを我慢して、僕は第一王子としての穏やかな外面を被った。
「遅くなりました」
声をかけると、二人が揃って僕を振り返った。
「お兄様、また遅刻ですわよ」
「そう言わないのよ。ジェラルドは忙しいのですから」
母とブリジットはよく似ている。
母はもう四十代だというのに、ブリジットと並ぶと姉妹に見えるくらい若々しい。
最近その肌の輝きに磨きがかかったのは、憎いアーレンを排除したからなのだろうか。
ブリジットもブリジットで、幸せそうに見えるのは新婚だからではなく、心置きなく愛人を囲っているからなのだろうか。
ああ。吐き気がする。
「最近、忙しいのですよ。難しい問題も多くてね」
暗にアーレンがいなくなって執務が増大したことを仄めかせたが、この二人には伝わらない。
「そうなのですか?お兄様も大変ですわね」
「あまり無理をしてはいけませんよ。あなたは体が丈夫ではないのですから」
完全に他人事のブリジットと、僕をいつまでも子ども扱いして現実を見ない母。
僕が無理をしなければ、この国は立ちいかなくなってしまうというのに。
そうなれば、この二人だって今のような贅沢な暮らしはできなくなるというのに。
「僕のことより、ブリジット、結婚生活はどうだい?将軍とは上手くやっているかい?」
話題を変えたくて、ブリジットに話を振った。
「上手くいくもなにも、サミュエルがあまり帰ってこないのです。お兄様と同じでお忙しいのですって!」
「まぁ、新婚だというのに困ったものだわ。ジェラルド、あなた将軍をこき使っているのではなくて?」
こき使ってますよ。本人も自主的に動き回ってますよ。
僕も将軍も必死なんですよ。
本当はこんなところで優雅にお茶なんかしてる場合じゃないんです。
心の中ではそう毒づきながらも、表情は変えないままお茶を一口飲んだ。
「そういば、最近妙な噂を耳にしたのですけど」
ブリジットは将軍のことにも自分の結婚生活のことにもあまり興味がないというように、さっさと話題を変えた。
「なんでも、アーレンの姿を見た人がいるのですって」
その噂なら僕も知っている。
アーレンはナディアを連れて、オルランディアの各地を点々と移動しているらしい。
いつどこに現れるか、というのは完全に気まぐれで、予想ができない。
ある町を出立したと思えば、そこから早馬で五日もかかる町に翌朝に現れたりする。
北から南へ、西から東へ、縦横無尽に飛び回っては冒険者のようなことをしているようだ。
あの二対の大きな翼があれば楽に移動できるのだろう。
「嫌だわ、気味が悪い。あれはもう死んだではありませんか」
母は嫌悪感も露わに眉を顰めた。
アーレンが公式には亡くなったことになってから、母はアーレンを無かったものとして扱うようになった。
以前はアーレンを表面的に可愛がることで、できた正妃だと称賛されていたというのに、今となってはそんな記憶も空しいだけだ。
ブリジットはそんな母の内心を感じ取っていたのか、幼いころからアーレンを兄とは思っておらず、はっきりと見下した態度をとっていた。
僕はそんなブリジットを時には叱責しながらも窘めたが、今にして思えば母はそれについてなにも言わなかった。
「私もそう思いますわ。でも、私のお友達も見たというのです」
「見たって、どこで?」
「モワデイルですわ。いつだったか、有名な劇場で火事がありましたでしょう?あの時に、アーレンがいたんですって」
それまでひそひそと囁かれるだけだったアーレン生存の噂が一気に大きくなったのは、モワデイルの火事がきっかけだった。
魔法具の事故で火災が起きた劇場で、一瞬にして氷魔法で火を消し止め、混乱する人々を鎮めたのが黒髪で長身の青年だったというのだ。
そこにたまたま居合わせた貴族の中にアーレンと面識があるものがいて、その青年が間違いなくアーレンだったと証言したのだ。
オペラグラスで顔まではっきり見たという。
しかし、それを最後に、アーレンとナディアの足取りは掴めなくなった。
どこからも目撃情報が出てこないのだ。
今どこでなにをしているのだろう。
もしかしたら、オルランディアを出て別の国に行ってしまったのかもしれない。
「噂は噂。あてになどならないものよ。たまたま氷魔法が得意な方がいたのですよ」
「でも、オペラグラスまで使って、はっきりと顔を見たのですって」
「きっと煙でよく見えなかったのです。見間違いに決まっています。死人が劇場になんか行くはずがないでしょう」
「そうですわよね。アーレンは生きていたころも劇場になんて興味がなかったはずだわ」
「それにしても、あなたにそんな根拠のない噂を聞かせるなんて。あなたももう結婚したのですから、子供ではないのです。お付き合いをする相手は選ばなくてはいけませんよ」
「お母様、大丈夫ですわ。私のお友達は皆いい方ばかりですのよ。なにも心配いりませんわ」
可愛らしく笑うブリジットの素行を、母はどこまで把握しているのだろうか。
全て知っていて放置しているのだとしたら、母はもうとっくにこの家族を見放しているのかもしれない。
全てが空々しい茶番に思えて、僕は執務が残っていると言い訳をして早々にサロンを抜け出した。
執務室に戻る途中、廊下の窓から空を見上げた。
アーレン。僕の大事な弟。
今、どこにいるのだろう。
無事でいるのだろうか。
あの黒い大きな翼で、今もこの空のどこかをナディアとともに自由に飛んでいるのだろうか。
僕を憎んでいるのだろうか。
もう二度と会えないのだろうか。
そう思うと涙が滲みそうになり、僕はぐっと奥歯を噛みしめた。
僕は心にぽっかりと空いた大きな穴を抱えたまま、前に進み続けるしかなかった。
今でもアーレンが抜けた穴は埋まらないままで、アーレンを惜しむ声が絶えることはない。
第二王子であり、東の山脈で軍を率いたアーレンは特に軍関係者に絶大な人気があった。
整った容姿に豊富な魔力、そして人を惹きつけてやまない魅力。
アーレンが王位を継ぐ気はないと宣言しているにも関わらず、アーレンを次期国王にと望む声も少なからずあるくらいだった。
英雄と呼ばれるようになったサミュエル・ギャラガー将軍も人望があるのだが、アーレンには遠く及ばない。
サミュエル自身もアーレンの信徒だったくらいだ。
アーレンの担っていた役割を受け継ぐためにサミュエルも頑張ってはいるが、まだまだ力不足だ。
平民上がりということで軽んじられたり、アーレンに忠誠を誓っていた一部の軍人たちが反発をしたりしている。
もし僕がオルランディアを攻め落とそうとする側の人間なら、間違いなくその綻びを突いて事を起こすだろう。
今は近隣諸国と友好関係を築いているので、突然攻めこまれる可能性が低いということだけが救いだ。
それに、サミュエルに関しては、それ以外にも頭が痛い問題がある。
どうやら先日結婚したばかりのブリジットと、早くも上手くいっていないらしいのだ。
ブリジットが強く望み、母も後押しして、サミュエル本人も最終的には納得した上での婚姻だったはずだ。
それなのに、ブリジットは既に愛人を抱え込んでいて、サミュエルもほとんど邸に帰らず独身時代と同じ官舎の部屋で寝起きしているのだそうだ。
その報告を受けた時の僕の気持ちを想像してみてほしい。
せめて体面を取り繕うくらいはしろ!と叫びたくなったものだ。
将軍は、アーレンほどではないにしても優れた軍人だ。
どこか朴訥とした人柄も人気の理由だ。
人としてはそういった気質を好ましく思うが、将軍という階級と伯爵位を賜りオルランディア貴族に名を連ねた今、はっきり言ってそれは弱みにしかならない。
それが結婚生活に如実に現れてしまったのだろう。
僕はこの日、どんよりとした暗い気持ちで母のサロンに向かっていた。
週に一度、ここで母とブリジットと僕でお茶会をすることになっているのだ。
かつてはアーレンも招待されていたが、アーレンはなにかと理由をつけては参加するのを避けていた。
ただ面倒くさがっているのだと思っていたが、きっとそれだけではなかったのだろう。
アーレンがあんなことになるまで、僕はそれに気がつかなかった。
僕は体が弱い分、目端が利く方だと思っていたが、それが自惚れであったと思い知らされ、同時に酷く打ちのめされた。
サロンの前まで来ると、中から母とブリジットの談笑の声が聞こえた。
今すぐ回れ右して引き返したいのを我慢して、僕は第一王子としての穏やかな外面を被った。
「遅くなりました」
声をかけると、二人が揃って僕を振り返った。
「お兄様、また遅刻ですわよ」
「そう言わないのよ。ジェラルドは忙しいのですから」
母とブリジットはよく似ている。
母はもう四十代だというのに、ブリジットと並ぶと姉妹に見えるくらい若々しい。
最近その肌の輝きに磨きがかかったのは、憎いアーレンを排除したからなのだろうか。
ブリジットもブリジットで、幸せそうに見えるのは新婚だからではなく、心置きなく愛人を囲っているからなのだろうか。
ああ。吐き気がする。
「最近、忙しいのですよ。難しい問題も多くてね」
暗にアーレンがいなくなって執務が増大したことを仄めかせたが、この二人には伝わらない。
「そうなのですか?お兄様も大変ですわね」
「あまり無理をしてはいけませんよ。あなたは体が丈夫ではないのですから」
完全に他人事のブリジットと、僕をいつまでも子ども扱いして現実を見ない母。
僕が無理をしなければ、この国は立ちいかなくなってしまうというのに。
そうなれば、この二人だって今のような贅沢な暮らしはできなくなるというのに。
「僕のことより、ブリジット、結婚生活はどうだい?将軍とは上手くやっているかい?」
話題を変えたくて、ブリジットに話を振った。
「上手くいくもなにも、サミュエルがあまり帰ってこないのです。お兄様と同じでお忙しいのですって!」
「まぁ、新婚だというのに困ったものだわ。ジェラルド、あなた将軍をこき使っているのではなくて?」
こき使ってますよ。本人も自主的に動き回ってますよ。
僕も将軍も必死なんですよ。
本当はこんなところで優雅にお茶なんかしてる場合じゃないんです。
心の中ではそう毒づきながらも、表情は変えないままお茶を一口飲んだ。
「そういば、最近妙な噂を耳にしたのですけど」
ブリジットは将軍のことにも自分の結婚生活のことにもあまり興味がないというように、さっさと話題を変えた。
「なんでも、アーレンの姿を見た人がいるのですって」
その噂なら僕も知っている。
アーレンはナディアを連れて、オルランディアの各地を点々と移動しているらしい。
いつどこに現れるか、というのは完全に気まぐれで、予想ができない。
ある町を出立したと思えば、そこから早馬で五日もかかる町に翌朝に現れたりする。
北から南へ、西から東へ、縦横無尽に飛び回っては冒険者のようなことをしているようだ。
あの二対の大きな翼があれば楽に移動できるのだろう。
「嫌だわ、気味が悪い。あれはもう死んだではありませんか」
母は嫌悪感も露わに眉を顰めた。
アーレンが公式には亡くなったことになってから、母はアーレンを無かったものとして扱うようになった。
以前はアーレンを表面的に可愛がることで、できた正妃だと称賛されていたというのに、今となってはそんな記憶も空しいだけだ。
ブリジットはそんな母の内心を感じ取っていたのか、幼いころからアーレンを兄とは思っておらず、はっきりと見下した態度をとっていた。
僕はそんなブリジットを時には叱責しながらも窘めたが、今にして思えば母はそれについてなにも言わなかった。
「私もそう思いますわ。でも、私のお友達も見たというのです」
「見たって、どこで?」
「モワデイルですわ。いつだったか、有名な劇場で火事がありましたでしょう?あの時に、アーレンがいたんですって」
それまでひそひそと囁かれるだけだったアーレン生存の噂が一気に大きくなったのは、モワデイルの火事がきっかけだった。
魔法具の事故で火災が起きた劇場で、一瞬にして氷魔法で火を消し止め、混乱する人々を鎮めたのが黒髪で長身の青年だったというのだ。
そこにたまたま居合わせた貴族の中にアーレンと面識があるものがいて、その青年が間違いなくアーレンだったと証言したのだ。
オペラグラスで顔まではっきり見たという。
しかし、それを最後に、アーレンとナディアの足取りは掴めなくなった。
どこからも目撃情報が出てこないのだ。
今どこでなにをしているのだろう。
もしかしたら、オルランディアを出て別の国に行ってしまったのかもしれない。
「噂は噂。あてになどならないものよ。たまたま氷魔法が得意な方がいたのですよ」
「でも、オペラグラスまで使って、はっきりと顔を見たのですって」
「きっと煙でよく見えなかったのです。見間違いに決まっています。死人が劇場になんか行くはずがないでしょう」
「そうですわよね。アーレンは生きていたころも劇場になんて興味がなかったはずだわ」
「それにしても、あなたにそんな根拠のない噂を聞かせるなんて。あなたももう結婚したのですから、子供ではないのです。お付き合いをする相手は選ばなくてはいけませんよ」
「お母様、大丈夫ですわ。私のお友達は皆いい方ばかりですのよ。なにも心配いりませんわ」
可愛らしく笑うブリジットの素行を、母はどこまで把握しているのだろうか。
全て知っていて放置しているのだとしたら、母はもうとっくにこの家族を見放しているのかもしれない。
全てが空々しい茶番に思えて、僕は執務が残っていると言い訳をして早々にサロンを抜け出した。
執務室に戻る途中、廊下の窓から空を見上げた。
アーレン。僕の大事な弟。
今、どこにいるのだろう。
無事でいるのだろうか。
あの黒い大きな翼で、今もこの空のどこかをナディアとともに自由に飛んでいるのだろうか。
僕を憎んでいるのだろうか。
もう二度と会えないのだろうか。
そう思うと涙が滲みそうになり、僕はぐっと奥歯を噛みしめた。
僕は心にぽっかりと空いた大きな穴を抱えたまま、前に進み続けるしかなかった。
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