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番外編 サミュエル

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「それで?どうなったの?」

「陛下、主語が抜けておられます」

「あのナディアさんのハンカチの効果はあった?」

「いえ、今のところ特に変わったことはありません。
 そんなことを訊くために、わざわざ人払いまでなさったのですか?」

 用事があって執務室を訪ねた俺を引き止める陛下に、俺はうんざりした目を向けた。

「将軍、嘘はいけないな。ちゃんと報告は上がっているんだよ」
 
「なんのことです?嘘なんかついていませんよ」

「サリナ・トバイアスというらしいね」

 そういうことか、と俺は顔を顰めた。
 バーナードあたりが陛下になにか言ったのだろう。
 まったく、余計なことを……

「邸で雇った、ただのメイドです。特別な関係ではありません」

「本当にそうなの?」

「本当です。邸に連れて帰った日以来、顔も見ていません」

「ちょ、それはどうなの?将軍が身元引受人になったんだから、せめてどんな様子かくらいは確認しないと」

「大丈夫です。俺の邸の使用人は、全員俺の戦友ですから」

「男ばっかりってこと?」

「女も一人います。心配いりません」

 陛下は大きな溜息をついた。

「なんというか、将軍がこうなったのは、僕の妹のせいでもあるからね……
 僕はどうしても責任を感じてしまうんだよ」

「……」

 俺はなにも言えずに押し黙った。
 確かに、俺が独身のままなのは、部分的には陛下の妹のせいだというのは間違いない。
 だからといって、陛下を責める気など毛頭ないのだが。

「……今日、邸に帰ってから、メイドの様子を見てみます。それでよろしいですか」

 俺がそう言うと、陛下は少しほっとしたように笑った。

「うん、そうしてあげて。ちゃんと話をして、問題がないかも確認するんだよ」

「わかっています。ただし、それ以上どうこうするつもりはありませんからね」

「それでいいよ。
 サリナ・トバイアスは酷い目にあわされた女性だ。少し労わってあげてもいいんじゃないかな」

「……陛下が、そうおっしゃるなら」

 職と住む場所を与えはしたが、労わるようなことをした記憶はない。
 もう少し気を遣ってやるべきだったのだろうか。

 とにかく、今日は早めに仕事を切り上げようと心に決めた。



「お帰りなさいませ、旦那様」

 帰宅すると、いつものように家令が足を引きずりながら出迎えた。

「ああ、ただいま……この前、新しく雇ったメイドはどうしている」

「とても真面目に働いておりますよ」

「そうか……」

「ほら、そこの花も、サリナが生けたものです」 

 家令が指さした先には、花瓶に生けられた花があった。

 この邸の中で花を見るのは初めてのことではないだろうか。
 花のことはよくわからないが、白い小さな花と、淡いピンクや紫の花がきれいに見えるようにバランスよく組み合わされているようだ。
 ただ切り花を花瓶に差しただけ、というのではないのが俺でもわかった。

「こういうことができるのも、貴族としての教養なのでしょうな。
 元軍人の我々には、とても真似できません。
 女性らしく細かいことにもよく気がつく、いいメイドですよ」

 家令の中でのサリナの評価は上々なようだ。

 いつものように着替えてから、執務室にサリナを呼び出した。

「旦那様、お呼びと伺いました」

 メイド服を着たサリナは、最後に見た時よりも随分と健康そうな顔色になっていた。
 憔悴してはいないようで、まずはそこにほっとした。

「ここでの生活はどうだ?なにか困っていることはないか?」

「特に困っていることはございません。
 むしろ、トバイアス家にいた頃よりもいい生活をさせていただいているくらいです。
 以前からメイドのようなことはしておりましたので、仕事も問題ありません」

 我が邸での使用人の扱いは、他よりは少し待遇がいい、といったくらいのはずだ。
 貴婦人がそれよりも低い生活水準だったというのなら、サリナは婚家で虐げられていたのかもしれない。

「リアム、だったか。息子はどうしている」

「下働きの見習いのようなことをしております。
 皆さまの手が空いた時に、読み書きや剣術などを教えて下さるので、とてもありがたく思っております。
 わたくしも息子も、将軍にはとても感謝しております」

 菫色の瞳は穏やかな光を湛えている。
 本当に困っていることはないのだろう。

「そうか……不自由なく暮らしているのなら、それでいい」

 これで用は済んだ、と下がらせようとしてが、サリナはその前に遠慮がちに口を開いた。

「あの、旦那様。お茶をお淹れしてさしあげたいのですが、よろしいでしょうか?
 わたくし、それだけは以前から得意なのです」

「そうなのか。なら、頼む」

 サリナはぱっと嬉しそうに顔を輝かせ、いそいそと準備を始めた。
 いつもはあんなところにティーセットは置いていないのに、なぜ今日はそんなものがここにあるのだろう。

 サリナの独断ではないだろう……家令もグルだな。
 陛下といい、バーナードといい、そんなに俺とサリナをくっつけたいのか。

 サリナは、現在二十七歳。
 そう思ってみればなかなか整った容姿をしている。
 立ち振る舞いも申し分ないようだし、家令があれだけ評価しているのだから性格もよさそうだ。

 息子ごと引き取って嫁に迎えたいと望む男が現れるのは時間の問題だろう。

 サリナが淹れてくれたお茶は、本当に美味しかった。
 茶葉は変わっていないのだそうだが、家令が淹れたものより格段に風味が違うということが俺にもわかったくらいだ。
 そしてこれ以降、俺に茶を淹れるのはサリナの担当ということが自然に決まった。

 サリナも嬉しそうだし、俺も美味い茶が飲めるのだからそこは文句はないのだが、茶を飲んでいる間にサリナと少しだけ話をするようになり、距離が近くなってしまった。

 話の内容は、使用人のことや息子のリアムのことだ。

 リアムは将来、士官学校に行って軍に入りたいのだそうだ。
 あの夜、助けに来てくれた軍服姿の男たちがとても格好良かったから、という少年らしい理由に、俺は微笑ましいと思った。
 
 そういえば、俺が捨てられたのはちょうどリアムくらいの歳のころだった。

 捨てられる前のことはあまり覚えていない。
 痩せてボロボロの服を着ただけの俺は、田舎町に置き去りにされた。
 そこで鍛冶屋のオヤジに引き取られて、ナディアと出会って仲良くなって……

 思い出に引きずられて感傷的な気分になりそうになり、俺は慌てて振り払った。

 ナディアは幸せに暮らしている。
 ナディアはアーレン殿下により大切に守られているのだから、なにも心配はいらない。
 俺は遠くからその幸せを祈るだけだ。

 ナディアのことにつられて、胸ポケットに入れてあるハンカチのことを思い出した。

 幸運と良縁の加護が付加されているハンカチ。

 サリナに出会ったのは、これを持っている時だった。

 ということは、なんらかの意味での良縁なのだろう。
 良縁とはいっても、結婚とか男女の仲になるこという意味での良縁とは限らない。

 サリナは物静かで控え目で、さりげない気遣いもできる。
 菫色の瞳がきらきらと輝くのを見る度に、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなる。

 サリナには、俺なんかよりもっと相応しい男がいるはずだ。
 俺はそんな男が現れるまで、サリナたちを保護しただけのこと。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 そう思っていたのに、そんなことを言ってもいられない事態が起こってしまった。
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