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② それは嫌がらせではなくご褒美です
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「『茨姫』エメライン・アシュビー! おまえとの婚約を破棄する!」
そう高らかに宣言し、私にビシッと人差し指をつきつけた青年の名は、アルバート・ホールデン。
このホールデン王国の王太子殿下で、輝く銀髪とアメジストの瞳をした、すらりとした長身の美青年だ。
対する私は、アシュビー侯爵家の長女エメライン・アシュビー。
豊かな金髪は縦ロールにセットされ、大きな碧の瞳は釣り目を強調するような化粧で彩られ、真っ赤で派手なドレスを身にまとっている。
化粧もドレスも似合ってはいるのだが、どこをとってもキツい印象で可愛らしさは欠片もないという装いだ。
「あらあら王太子殿下ったら。相変わらず冗談が下手でいらっしゃるのね」
私はつんと顎を反らし、ドレスと同じ色に塗られた唇を歪めせせら笑って見せた。
このキツい容姿と同じくらいキツい言動から、私はいつからか『茨姫』と呼ばれるようになった。
私たちの婚約は、私が五歳、王太子殿下が六歳の時に王命により結ばれたものだ。
半年後の王太子殿下の二十歳の誕生日に正式に結婚することになっていて、そのための準備が着々と進められているところだ。
それをいまさらひっくり返すというのか。
私は震える拳をぎゅっと握りしめた。
「可愛げがないのもいい加減にしろ!
こんなところで冗談を言うわけがないだろう!」
そうでしょうね。どこまでも本気なのでしょうね。
だって、今は王家主催の夜会の真っ最中なのだ。
私たちの険悪なやりとりを、きれいに着飾った多数の貴族たちが遠巻きに眺めてヒソヒソしている。
長年婚約している私たちだが、良好な関係ではないということは有名だ。
婚約した当初から王太子殿下は私を性格が悪い生意気な女だと公言し、私のほうもだからなんだと開き直り一切媚びることはしなかった。
直接罵られたこともあったが、私はそれをどこ吹く風で聞き流すか、さっきのようにせせら笑うかのどちらかで返した。
そんなわけで、私たちの仲は悪くなる一方だった。
「私と婚約破棄すると、我が家の後ろ盾を失うことになることはご存じなのでしょうね?」
アシュビー侯爵家は建国当初からの歴史ある名家だ。
領地に良質な鉱山を有しており、経済的にも豊かであるだけでなく、侯爵家当主である私の父は古書の蒐集家で、趣味には熱心だが野心は薄い。
そういう意味でも都合がいいと、王太子殿下の婚約者に私が選ばれたのだが。
「もちろんだ。おまえの家の後ろ盾など、最初から必要なかったのだ!」
王太子殿下がここまで強気なのは、他に王位を継ぐことができる子が今の王家にいないからだ。
国王夫妻はおしどり夫婦で、子が一人しか授からなかったにもかかわらず国王陛下は側妃を娶るようなことはしなかった。
夫婦仲がいいのは結構なことだが、その結果コレが次の国王になることが決定してしまったのだから、私たちを取り巻いている貴族の半分以上が暗澹とした顔をしているのも無理はない。
王太子殿下の後ろで、私の義弟ブライアンがニヤニヤ笑いながらこちらを見ている。
大嫌いな姉が貶められているのが楽しいのだろう。
アシュビー侯爵家に引き取られてすぐのころは私に懐いていたのに、ある時突然嫌われるようになってしまった。
可愛がっていた私としては残念に思ったが、私を嫌う義弟に関わる暇はないと放置して今に至る。
「まぁ、そうでしたの。
殿下がそうおっしゃるのでしたら、私としては従うしかありませんわ。
後で泣きついてきたりしないでくださいね?」
「誰がそんなことをするか!
おまえのそういう、口が減らないところが昔から大嫌いだったのだ!」
「あら偶然ですわね。
私も、殿下のことは昔から大嫌いでしたのよ。
おそろいで結構なことですわ」
ほほほ、とまた笑って見せると、どういうわけか彼は驚いたような、傷ついたような顔をした。
なぜだろう?
まさか、私に慕われているとでも思っていたのだろうか。
今までの私に対する自分の行動を振り返ってみれば、慕われる要素など皆無だということなど明らかだというのに。
実際、私以外の人たちも怪訝な顔になっている。
とにかく、私たちはお互いに嫌いあっていることが、衆人環視の中で確認された。
ここで彼の嫌いなところを列挙することもできるが、さすがにそこまですると不敬罪となるかもしれないので我慢だ。
「では、私たちの婚約は破棄ということでよろしいのですね?」
「ああ、さっきからそう言っているだろう。
正式な書類も準備してある」
王太子殿下が合図をすると、側近の一人が恭しくトレイを掲げて歩み寄ってきた。
トレイの上には、書類とペンとインクがある。
手にとってみると、確かに私たちの婚約破棄に同意する書類で、既に彼の署名は書き込んである状態だ。
私もその横の署名をすればいいのだが、それだけでは婚約破棄は完了しない。
「なにをグズグズしている! さっさとそこに署名をしろ!
もしかして、怖気づいたのか?
ここで私に土下座して泣きつくなら、撤回してやらんでもないぞ」
嗜虐的に笑う彼に、私は冷めた目を向けた。
「怖気づいたわけではありません。
この書類の様式だと、私たちだけではなく国王陛下の署名も必要なようですが、それはどうなさるのですか」
「もちろん、そこも抜かりはない」
得意気に懐から取り出し、掲げて見せたのは……
「それはまさか……御璽ですか⁉」
黄金に色とりどりの宝石が埋めこまれた、掌に乗るくらいの大きさの判子だ。
国王陛下が管理しているはずのもので、芸術的価値からもホールデン王国の至宝の一つとされている。
そんなものを、どうにかして持ち出してきたらしい。
いくら王太子殿下とはいえ、これは暴挙なのではないか。
それだけ私との婚約が嫌だったのだろうが、考えが浅すぎる。
あまりのことに呆れを通り越して眩暈がするような気分になったのは私だけではないらしく、夜会の会場はざわざわと騒がしくなった。
「これがあれば、父上の署名などなくても婚約破棄は成立する!」
「……まあ、そうですわね。
わかりました。署名いたします」
どちらにしろ、婚約破棄した後のことなど知ったことではない。
私がさらさらと署名をして、彼が二人分の署名の下に御璽を押しつけると、ホールデン王家の色である紫色で王家の紋章が書類に印された。
「私、アルバート・ホールデンと、『茨姫』エメライン・アシュビーの婚約は正式に破棄された!
ここにいる皆がその証人だ!」
証人というか、目撃者というか。
これだけの人数がいるから、なにか罰が下るようなことはないだろうが、巻き込まれた方からしたら迷惑極まりない。
嬉しそうに書類を掲げる彼に、私は再び震える拳をぎゅっと握りしめ俯いた。
この震えは、怒りや悲しみからくるものではない。
心の底から湧き上がる歓喜に、今にも飛び上がってしまいそうなのを必死で堪えているからだ。
だって。
私はずっと、この婚約を破棄にもちこむために密かに頑張ってきたのだ。
心の中で渾身のガッツポーズをとりながらも、私は途方にくれた演技を続けた。
さっさとこの茶番劇から退場するためにも、私を貶めるのが大好きな元婚約者様が満足するようにふるまう方が得策だと判断したからだ。
「……では、私はもう用済みですね。
御前を失礼いたします、王太子殿下」
「待て、エメライン」
俯いたままカーテシーをして立ち去ろうとした私を、彼は呼び止めた。
「おまえは可愛くはないが、長い間私の婚約者として務めてくれた。
このままおまえを放り出すのは、慈悲深い私としては忍びない」
ニヤリと厭らしく笑う。
そんな顔をしては、せっかくの王妃殿下譲りの美貌が台無しだ。
無視して踵を返すわけにもいかず、私は内心で舌打ちをした。
「ありがたく思え。
おまえには、新たな縁談を用意してやったぞ!」
これには私もぎょっとした。
せっかく婚約破棄が成立したというのに、新たな縁談だと⁉
どう考えても条件のいい縁談なわけがない。
奴隷のように売り飛ばされるのだろうか。
「……いったい、どなたとの縁談なのです」
「おまえも知っているだろう。
ダスティン・マクドゥーガル辺境伯だ!」
あまりのことに、私は息をのんだ。
ダスティン・マクドゥーガル辺境伯といえば、グリフォン騎士団を率いて先の戦役で多大な功績をあげた英雄ではないか!
「どこにいる、マクドゥーガル! 出てこい!」
ざっと人垣が割れて、その先に騎士の正装を纏った長身の男性の姿が見えた。
短く刈りこまれた黒髪と、遠目にもわかる褐色の肌と逞しい体躯。
間違いないく辺境伯様本人だとわかった。
まさかこの夜会に彼が参加しているとは思わなかった。
領地が遠方にあることと、社交が苦手だということで、彼がこういった場に現れるのは稀なのだ。
辺境伯様は戸惑いの表情を浮かべながらも、渋々といった様子で私たちに歩み寄ってきた。
「マクドゥーガルよ。
おまえに、この『茨姫』を下賜してやろう。感謝するがいい!」
婚約破棄された以上、私はもう殿下のものではない。
自分のものではないものを、下賜なんてできないだろうに。
「……王太子殿下。ご冗談が過ぎます」
低く張りのある、いかにも武人らしい声に、私は先ほどとは違う意味でまた震えた。
「冗談ではない。
おまえが妻と死別したのも、もう何年も前のことだ。
この女は可愛げはなくとも、まだ若く健康だぞ。
私から婚約破棄された以上、新たな良縁など望めないだろう。
後妻にして子を生ませるにはちょうどいいではないか」
「お言葉ですが、私にはもう息子がおります。
後妻を娶る必要もなければ、そのつもりもございません」
辺境伯様は、私のちょうど十歳年上だ。
戦役の前に結婚し、辺境伯様が戦場にいる間に子が生まれたが、それからすぐに奥様は儚くなったと聞いている。
「息子は一人だけなのだろう?
辺境伯家がそれでは心許ないと、父上も前から気にしていらした」
どの口が言うのか、とおそらく会場にいる全ての人々が思った。
辺境伯様はちらりと私に視線を向けた。
精悍な顔立ちを彩る榛色の瞳がはっきりと見えて、私の心臓は大きく跳ねた。
こんなにも間近で彼を見るのは初めてだった。
「だとしても、なにもこちらのご令嬢でなくてもいいでしょう」
「なんだ、おまえでも『茨姫』を娶るのは嫌なのか」
「そういうことを言っているのではありません。
婚約破棄したばかりだというのに、私のような男やもめと無理矢理結婚させるなど、あまりにも酷ではありませんか」
「貴族の結婚はそういったものだ。
個人の感情など必要ない」
「それはそうですが」
「なら、こうしよう。
もしおまえがエメラインを娶らないというなら、ケイロンの皇帝の後宮に送ることにする。
それでも断るか?」
ケイロンというのは、ホールデンの隣国のさらに隣の国だ。
代々皇帝が好色であることが知られており、後宮には常に多数の美女がそろえられているのだそうだ。
殿下のことだから、きっとそのための書類も準備してあるのだろう。
そこに御璽が押されたら、私はこの場で捕らえられ明日にはケイロンに送られることになる。
殿下は、こういう悪知恵はよく働くのだ。
私が縋るような目を向けると、辺境伯様も険しい顔をしてこちらを見ていて、私たちの視線がぶつかった。
体が硬直して動けない。
息が止まってしまいそう。
先に視線を逸らしたのは、辺境伯様の方だった。
「……はぁ、仕方がない……
わかりました。こちらのご令嬢を娶ります」
「よく言った! では、これに署名を」
新たに取り出されたのは、婚姻申請書だった。
辺境伯様は諦めた顔でさっと署名をして、大きな手に握られたペンを私に差し出した。
私はなんとか手を動かしてそれを受け取り、署名をした。
手が震えていたから、婚約破棄の書類に記入した署名と比べるとガタガタな字になってしまった。
殿下は満足気に御璽を押し、こうして私と辺境伯様の婚姻があっさりと成立した。
本来なら、私の婚姻の手続きには父であるアシュビー侯爵の承認が必要なのに、御璽があればこんな無茶なこともできてしまうのだ。
「はははは、野蛮な辺境伯と『茨姫』、いかにもお似合いではないか!
父上もお喜びになるだろう。
皆、ここに新たに誕生した夫婦に祝福の拍手を!」
呆れや失望の視線を人々から向けられているのにも気づかず、殿下はご満悦だ。
一方、私たちには同情の視線が集まっている。
ぱらぱらと拍手の音があがる中、まだ立ち尽くしている私の前に、大きな手が差し出された。
見上げると、私を見下ろしている榛色の瞳。
この夜会で、殿下に婚約破棄されるだろうことは、事前にわかっていた。
だが、まさかその直後に辺境伯様と強制的に結婚させられることまでは予想できていなかった。
私は、さっきまで大嫌いだった殿下が少しだけ好きになった。
だって、この結婚は私からしたら極上のご褒美なのだから!
私は爆発しそうなほど高鳴る鼓動に胸を押さえながら、そっとその大きな手をとった。
======
『王妃陛下』と『王妃殿下』どちらにするか迷ったのですが、本作では『王妃殿下』とすることにしました。
そう高らかに宣言し、私にビシッと人差し指をつきつけた青年の名は、アルバート・ホールデン。
このホールデン王国の王太子殿下で、輝く銀髪とアメジストの瞳をした、すらりとした長身の美青年だ。
対する私は、アシュビー侯爵家の長女エメライン・アシュビー。
豊かな金髪は縦ロールにセットされ、大きな碧の瞳は釣り目を強調するような化粧で彩られ、真っ赤で派手なドレスを身にまとっている。
化粧もドレスも似合ってはいるのだが、どこをとってもキツい印象で可愛らしさは欠片もないという装いだ。
「あらあら王太子殿下ったら。相変わらず冗談が下手でいらっしゃるのね」
私はつんと顎を反らし、ドレスと同じ色に塗られた唇を歪めせせら笑って見せた。
このキツい容姿と同じくらいキツい言動から、私はいつからか『茨姫』と呼ばれるようになった。
私たちの婚約は、私が五歳、王太子殿下が六歳の時に王命により結ばれたものだ。
半年後の王太子殿下の二十歳の誕生日に正式に結婚することになっていて、そのための準備が着々と進められているところだ。
それをいまさらひっくり返すというのか。
私は震える拳をぎゅっと握りしめた。
「可愛げがないのもいい加減にしろ!
こんなところで冗談を言うわけがないだろう!」
そうでしょうね。どこまでも本気なのでしょうね。
だって、今は王家主催の夜会の真っ最中なのだ。
私たちの険悪なやりとりを、きれいに着飾った多数の貴族たちが遠巻きに眺めてヒソヒソしている。
長年婚約している私たちだが、良好な関係ではないということは有名だ。
婚約した当初から王太子殿下は私を性格が悪い生意気な女だと公言し、私のほうもだからなんだと開き直り一切媚びることはしなかった。
直接罵られたこともあったが、私はそれをどこ吹く風で聞き流すか、さっきのようにせせら笑うかのどちらかで返した。
そんなわけで、私たちの仲は悪くなる一方だった。
「私と婚約破棄すると、我が家の後ろ盾を失うことになることはご存じなのでしょうね?」
アシュビー侯爵家は建国当初からの歴史ある名家だ。
領地に良質な鉱山を有しており、経済的にも豊かであるだけでなく、侯爵家当主である私の父は古書の蒐集家で、趣味には熱心だが野心は薄い。
そういう意味でも都合がいいと、王太子殿下の婚約者に私が選ばれたのだが。
「もちろんだ。おまえの家の後ろ盾など、最初から必要なかったのだ!」
王太子殿下がここまで強気なのは、他に王位を継ぐことができる子が今の王家にいないからだ。
国王夫妻はおしどり夫婦で、子が一人しか授からなかったにもかかわらず国王陛下は側妃を娶るようなことはしなかった。
夫婦仲がいいのは結構なことだが、その結果コレが次の国王になることが決定してしまったのだから、私たちを取り巻いている貴族の半分以上が暗澹とした顔をしているのも無理はない。
王太子殿下の後ろで、私の義弟ブライアンがニヤニヤ笑いながらこちらを見ている。
大嫌いな姉が貶められているのが楽しいのだろう。
アシュビー侯爵家に引き取られてすぐのころは私に懐いていたのに、ある時突然嫌われるようになってしまった。
可愛がっていた私としては残念に思ったが、私を嫌う義弟に関わる暇はないと放置して今に至る。
「まぁ、そうでしたの。
殿下がそうおっしゃるのでしたら、私としては従うしかありませんわ。
後で泣きついてきたりしないでくださいね?」
「誰がそんなことをするか!
おまえのそういう、口が減らないところが昔から大嫌いだったのだ!」
「あら偶然ですわね。
私も、殿下のことは昔から大嫌いでしたのよ。
おそろいで結構なことですわ」
ほほほ、とまた笑って見せると、どういうわけか彼は驚いたような、傷ついたような顔をした。
なぜだろう?
まさか、私に慕われているとでも思っていたのだろうか。
今までの私に対する自分の行動を振り返ってみれば、慕われる要素など皆無だということなど明らかだというのに。
実際、私以外の人たちも怪訝な顔になっている。
とにかく、私たちはお互いに嫌いあっていることが、衆人環視の中で確認された。
ここで彼の嫌いなところを列挙することもできるが、さすがにそこまですると不敬罪となるかもしれないので我慢だ。
「では、私たちの婚約は破棄ということでよろしいのですね?」
「ああ、さっきからそう言っているだろう。
正式な書類も準備してある」
王太子殿下が合図をすると、側近の一人が恭しくトレイを掲げて歩み寄ってきた。
トレイの上には、書類とペンとインクがある。
手にとってみると、確かに私たちの婚約破棄に同意する書類で、既に彼の署名は書き込んである状態だ。
私もその横の署名をすればいいのだが、それだけでは婚約破棄は完了しない。
「なにをグズグズしている! さっさとそこに署名をしろ!
もしかして、怖気づいたのか?
ここで私に土下座して泣きつくなら、撤回してやらんでもないぞ」
嗜虐的に笑う彼に、私は冷めた目を向けた。
「怖気づいたわけではありません。
この書類の様式だと、私たちだけではなく国王陛下の署名も必要なようですが、それはどうなさるのですか」
「もちろん、そこも抜かりはない」
得意気に懐から取り出し、掲げて見せたのは……
「それはまさか……御璽ですか⁉」
黄金に色とりどりの宝石が埋めこまれた、掌に乗るくらいの大きさの判子だ。
国王陛下が管理しているはずのもので、芸術的価値からもホールデン王国の至宝の一つとされている。
そんなものを、どうにかして持ち出してきたらしい。
いくら王太子殿下とはいえ、これは暴挙なのではないか。
それだけ私との婚約が嫌だったのだろうが、考えが浅すぎる。
あまりのことに呆れを通り越して眩暈がするような気分になったのは私だけではないらしく、夜会の会場はざわざわと騒がしくなった。
「これがあれば、父上の署名などなくても婚約破棄は成立する!」
「……まあ、そうですわね。
わかりました。署名いたします」
どちらにしろ、婚約破棄した後のことなど知ったことではない。
私がさらさらと署名をして、彼が二人分の署名の下に御璽を押しつけると、ホールデン王家の色である紫色で王家の紋章が書類に印された。
「私、アルバート・ホールデンと、『茨姫』エメライン・アシュビーの婚約は正式に破棄された!
ここにいる皆がその証人だ!」
証人というか、目撃者というか。
これだけの人数がいるから、なにか罰が下るようなことはないだろうが、巻き込まれた方からしたら迷惑極まりない。
嬉しそうに書類を掲げる彼に、私は再び震える拳をぎゅっと握りしめ俯いた。
この震えは、怒りや悲しみからくるものではない。
心の底から湧き上がる歓喜に、今にも飛び上がってしまいそうなのを必死で堪えているからだ。
だって。
私はずっと、この婚約を破棄にもちこむために密かに頑張ってきたのだ。
心の中で渾身のガッツポーズをとりながらも、私は途方にくれた演技を続けた。
さっさとこの茶番劇から退場するためにも、私を貶めるのが大好きな元婚約者様が満足するようにふるまう方が得策だと判断したからだ。
「……では、私はもう用済みですね。
御前を失礼いたします、王太子殿下」
「待て、エメライン」
俯いたままカーテシーをして立ち去ろうとした私を、彼は呼び止めた。
「おまえは可愛くはないが、長い間私の婚約者として務めてくれた。
このままおまえを放り出すのは、慈悲深い私としては忍びない」
ニヤリと厭らしく笑う。
そんな顔をしては、せっかくの王妃殿下譲りの美貌が台無しだ。
無視して踵を返すわけにもいかず、私は内心で舌打ちをした。
「ありがたく思え。
おまえには、新たな縁談を用意してやったぞ!」
これには私もぎょっとした。
せっかく婚約破棄が成立したというのに、新たな縁談だと⁉
どう考えても条件のいい縁談なわけがない。
奴隷のように売り飛ばされるのだろうか。
「……いったい、どなたとの縁談なのです」
「おまえも知っているだろう。
ダスティン・マクドゥーガル辺境伯だ!」
あまりのことに、私は息をのんだ。
ダスティン・マクドゥーガル辺境伯といえば、グリフォン騎士団を率いて先の戦役で多大な功績をあげた英雄ではないか!
「どこにいる、マクドゥーガル! 出てこい!」
ざっと人垣が割れて、その先に騎士の正装を纏った長身の男性の姿が見えた。
短く刈りこまれた黒髪と、遠目にもわかる褐色の肌と逞しい体躯。
間違いないく辺境伯様本人だとわかった。
まさかこの夜会に彼が参加しているとは思わなかった。
領地が遠方にあることと、社交が苦手だということで、彼がこういった場に現れるのは稀なのだ。
辺境伯様は戸惑いの表情を浮かべながらも、渋々といった様子で私たちに歩み寄ってきた。
「マクドゥーガルよ。
おまえに、この『茨姫』を下賜してやろう。感謝するがいい!」
婚約破棄された以上、私はもう殿下のものではない。
自分のものではないものを、下賜なんてできないだろうに。
「……王太子殿下。ご冗談が過ぎます」
低く張りのある、いかにも武人らしい声に、私は先ほどとは違う意味でまた震えた。
「冗談ではない。
おまえが妻と死別したのも、もう何年も前のことだ。
この女は可愛げはなくとも、まだ若く健康だぞ。
私から婚約破棄された以上、新たな良縁など望めないだろう。
後妻にして子を生ませるにはちょうどいいではないか」
「お言葉ですが、私にはもう息子がおります。
後妻を娶る必要もなければ、そのつもりもございません」
辺境伯様は、私のちょうど十歳年上だ。
戦役の前に結婚し、辺境伯様が戦場にいる間に子が生まれたが、それからすぐに奥様は儚くなったと聞いている。
「息子は一人だけなのだろう?
辺境伯家がそれでは心許ないと、父上も前から気にしていらした」
どの口が言うのか、とおそらく会場にいる全ての人々が思った。
辺境伯様はちらりと私に視線を向けた。
精悍な顔立ちを彩る榛色の瞳がはっきりと見えて、私の心臓は大きく跳ねた。
こんなにも間近で彼を見るのは初めてだった。
「だとしても、なにもこちらのご令嬢でなくてもいいでしょう」
「なんだ、おまえでも『茨姫』を娶るのは嫌なのか」
「そういうことを言っているのではありません。
婚約破棄したばかりだというのに、私のような男やもめと無理矢理結婚させるなど、あまりにも酷ではありませんか」
「貴族の結婚はそういったものだ。
個人の感情など必要ない」
「それはそうですが」
「なら、こうしよう。
もしおまえがエメラインを娶らないというなら、ケイロンの皇帝の後宮に送ることにする。
それでも断るか?」
ケイロンというのは、ホールデンの隣国のさらに隣の国だ。
代々皇帝が好色であることが知られており、後宮には常に多数の美女がそろえられているのだそうだ。
殿下のことだから、きっとそのための書類も準備してあるのだろう。
そこに御璽が押されたら、私はこの場で捕らえられ明日にはケイロンに送られることになる。
殿下は、こういう悪知恵はよく働くのだ。
私が縋るような目を向けると、辺境伯様も険しい顔をしてこちらを見ていて、私たちの視線がぶつかった。
体が硬直して動けない。
息が止まってしまいそう。
先に視線を逸らしたのは、辺境伯様の方だった。
「……はぁ、仕方がない……
わかりました。こちらのご令嬢を娶ります」
「よく言った! では、これに署名を」
新たに取り出されたのは、婚姻申請書だった。
辺境伯様は諦めた顔でさっと署名をして、大きな手に握られたペンを私に差し出した。
私はなんとか手を動かしてそれを受け取り、署名をした。
手が震えていたから、婚約破棄の書類に記入した署名と比べるとガタガタな字になってしまった。
殿下は満足気に御璽を押し、こうして私と辺境伯様の婚姻があっさりと成立した。
本来なら、私の婚姻の手続きには父であるアシュビー侯爵の承認が必要なのに、御璽があればこんな無茶なこともできてしまうのだ。
「はははは、野蛮な辺境伯と『茨姫』、いかにもお似合いではないか!
父上もお喜びになるだろう。
皆、ここに新たに誕生した夫婦に祝福の拍手を!」
呆れや失望の視線を人々から向けられているのにも気づかず、殿下はご満悦だ。
一方、私たちには同情の視線が集まっている。
ぱらぱらと拍手の音があがる中、まだ立ち尽くしている私の前に、大きな手が差し出された。
見上げると、私を見下ろしている榛色の瞳。
この夜会で、殿下に婚約破棄されるだろうことは、事前にわかっていた。
だが、まさかその直後に辺境伯様と強制的に結婚させられることまでは予想できていなかった。
私は、さっきまで大嫌いだった殿下が少しだけ好きになった。
だって、この結婚は私からしたら極上のご褒美なのだから!
私は爆発しそうなほど高鳴る鼓動に胸を押さえながら、そっとその大きな手をとった。
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『王妃陛下』と『王妃殿下』どちらにするか迷ったのですが、本作では『王妃殿下』とすることにしました。
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