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㉔ きっと迎えに来てくれる
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「ブライアン! あなた、なんてことを!」
転移の魔法具はとても便利だが、犯罪につかわれる恐れがあるため許可なく製作することは禁じられている。
基本的に王族とその側近たちだけが、緊急脱出用として持つことを許されている特別な魔法具なのだ。
それだけでなく、転移の魔法具を製作するには非常に高価な素材が必要な上に使い捨てなため、本来の目的以外で使用すると王族の側近でも罰せられることになる。
今回、ブライアンは危険から逃れるためではなく、私を攫うために魔法具をつかった。
それがどういう結果を招くか知らないはずないのに。
「あれは俺のじゃなくて、おまえの魔法具だ。
だからなにも問題はない」
かつて王太子殿下の婚約者だった私も、転移の魔法具を所持していた。
各種書類と一緒に私室に残しておいたから、てっきり王家に回収されたと思っていたのに、なんとも管理が杜撰なことだ。
「ここはどこなの?」
「俺の部屋だ」
私はアシュビー侯爵家に連れ戻されてしまったようだ。
ブライアンの私室の場所は知っていたが、中には入るのは初めてだ。
「エメライン」
ブライアンは私をぎゅっと抱きしめた。
吐息が耳にかかる感触に、ぞっとして鳥肌がたった。
中肉中背なブライアンだが、私がどれだけ抵抗しても簡単に押さえつけることができるだろう。
「は、放して」
「嫌だ。こうしたいって、ずっとずっと思ってたんだ……」
感慨深げに囁かれても、私は気持ち悪いとしか思えない。
「私はもう、結婚しているのよ」
「おまえと辺境伯の結婚は、とっくの昔に白紙に戻っている」
「え⁉」
私はぎょっとしてブライアンを見上げた。
「辺境伯にも、手紙でそう伝えてある。
知らなかったのか?」
知らなかった。
本人たちの意志を無視して貴族の正式な結婚を白紙にするなんてかなり無茶なことだと思うが、御璽があればそれも可能だろう。
「おまえは俺と結婚するんだよ、エメライン」
ブライアンの手が私の髪を撫でた。
「ああ、やはりおまえはきれいだな。
この姿を俺以外の前で晒していたのは癪だが、こうしておまえが手に入ったのだから許してやろう」
「……私がわざとあんな恰好をしていたことを、知っていたのね」
「知っていたよ。
偶然、素顔のままのおまえを見て……心を奪われた。
あの時、将来は絶対におまえと結婚するって決めたんだ」
なんて迷惑な!
自分勝手にもほどがある!
「嫌よ! 私はあなたと結婚なんてしないわ!」
私が愛しているのは、ダスティン様ただひとりだけ。
この身も心も、全てダスティン様に捧げているのだ。
だが、今ここでそれを口にしてブライアンの神経を逆撫でするのは悪手だ。
逆上したブライアンになにをされるかわからない。
「嫌だといったところで、おまえになにができる。
おまえの味方は、俺しかいないんだぞ」
「あなたのどこが私の味方だというのよ!」
「わざわざあんな田舎まで出向いて攫ってくるくらい、おまえを愛しているんだ。
味方以外の何者でもないだろう」
あまりに自分本位なブライアンに、私は眩暈がするようだった。
「今日からはもうメイドとして働かなくていいし、子守りをする必要もない。
次期アシュビー侯爵の妻として、ここで優雅に暮らせるんだ」
「そんなこと、私は望んでいないわ!」
「ちょうど明日、王城で夜会がある。
そこで俺たちの結婚を発表して、そのまま簡易的な結婚式をしてしまおう」
「ええぇ⁉」
「おまえはただ俺の隣で笑っていればそれでいい。
ドレスもなにもかも、全部準備してあるからな」
ブライアンが私にこんなにも執着していたなんて、全くの予想外だ。
せっかくアボットで幸せに暮らしていたというのに、このままでは私は全てを失ってしまう。
「私をアボットに帰して!」
「俺はもう二度とおまえを手放さない」
「嫌! 嫌よ! ブライアン、放して!」
ブライアンは私を引きずるようにして、私の私室だった部屋へと連行した。
廊下をたまたま歩いていた侍従に、ブライアンは「エメラインを部屋から絶対に出すな」と命じ、侍従は目を丸くしながらも私ではなくブライアンに従った。
私はコリーン以外の使用人をあまり信用していなかったので、できるだけ遠ざけていたのだが、それが裏目に出てしまった。
ブライアンは私を部屋に押し込むと、扉をばたんと閉めた。
「ブライアン! ここから出して!」
扉を叩いて叫んだが、聞いてもらえるはずもない。
ガチャンと鍵がかけられる音に続き、ブライアンの声がした。
『俺は王太子殿下に話をつけてくる。
おまえは明日に備えて、ゆっくり休んでおくといい』
足音が遠ざかっていき、室内にしんと静寂が満ちた。
閉じ込められた私は、ひとり頭を抱えるしかなかった。
「ダスティン様……ダスティン様……」
愛しい男の名を呼んでも、応えるものはいない。
私とダスティン様の結婚は、もう白紙に戻されている。
そして、私は明日ブライアンと結婚させられるのだ。
また御璽を持ち出すのだろうから、誰にも拒否などできない。
言葉にはせずとも、ダスティン様と心が通じていると感じるようになっていたのに、引き裂かれてしまった。
こんなことになるなら、お試しの結婚なんていって粘ったりせず、さっさとこの国を離れればよかった。
ダスティン様とは、もう二度と会えないのだろう。
あのきれいな榛色の瞳を見つめることも、逞しい胸に顔を埋めることも、もうできないだ。
そう思うと、涙がこぼれた。
ダスティン様も、私がいなくなったことを悲しんでくれるだろうか。
同じ言葉を返してくれなくても、一度くらい愛してるって言葉にして伝えればよかった。
「ダスティン様、愛しています……
私には、あなただけ……」
無力な私は、ダスティン様を思って泣くことしかできなかった。
陽が傾きかけたころ、扉がノックされた。
「お嬢様、ゴドウィンでございます。
夕食をお持ちしました」
そう声がかけられ、扉が開かれるとカートを押したゴドウィンが入ってきた。
ゴドウィンは、アシュビー侯爵家の家令だ。
もう高齢で頭髪は真っ白になっているが、背筋はしゃんと伸びているし手足の動きもきびきびとしている。
趣味にかかりきりで頼りにならない父に代わって領地を管理し、屋敷によりつかない母に代わって家政をとりしきっている、侯爵家になくてはならない存在だ。
「お久しぶりでございます、お嬢様」
「……ええ、そうね……」
「お嬢様がお好きな料理をお持ちしました。
どうぞお召し上がりください」
「食欲なんてないわ」
こんな状況で、とてもではないが食事が喉を通る気がしない。
「多少無理をしてでも、お召し上がりになったほうがいいと思いますよ。
いざという時、空腹だと体が動きませんからね」
不思議なことを言うゴドウィンに、私は首を傾げた。
「してやられましたな、お嬢様」
「……どういう意味?」
「私は、ブライアン様がお嬢様を連れ戻すのは不可能だと思っておりましたよ」
私は泣きすぎて赤く腫れてしまった目を瞬いた。
「まさか転移の魔法具まで使うとは。
ブライアン様の執着にも困ったものです」
「……ゴドウィン、あなた……」
ゴドウィンは、私の祖父が侯爵だったころからこの家に仕えている。
当然ながら私も生まれたときからの付き合いではあるのだが、あまり話をしたことはない。
「お嬢様なら、アボットでも元気に生きていけると思っておりました。
実際、そうだったのでしょう?」
「……ええ、そうよ。
毎日楽しく暮らしていたわ」
「ここでのお嬢様は、いつも窮屈そうでしたからな。
アシュビー侯爵家と縁が切れても、コリーンとダルトン家がいれば大丈夫だろうと、遠くからお嬢様の幸せを願っていたのですよ」
冷たそうな印象のゴドウィンの顔が、わずかに緩んだ。
「知っておりましたよ。
お嬢様がわざと茨姫と呼ばれるように仕向けていたことも、黄金の女神亭というレストランのことも」
「そうだったの?」
「もちろんですとも。
アシュビー侯爵家のことで、私が知らないことなどありません」
できるだけ目立たないように行動していたが、ゴドウィンにはバレバレだったようだ。
というか、そんなことができたのもゴドウィンがさりげなくサポートしてくれていたからなのだろうと今になって思った。
「……お父様とブライアンに、報告したの?」
「いいえ。あのお二人にはなにも知らせておりませんよ」
「えぇ? どうして?」
「聞かれませんでしたし、お嬢様が楽しそうにしているのに水を差すこともないと思いまして」
ゴドウィンはアシュビー侯爵家の家令だから、当主である父に忠誠を誓っていると思っていたのだが、違うのだろうか。
「私は長いこと侯爵家にお仕えしてきましたが、旦那様と奥様に何かを期待することはとっくの昔に諦めております。
ブライアン様は優秀な方ですが、ああも根性がねじ曲がっていてはお仕えするのは苦労しそうですし、お嬢様も無事脱出を果たしたので、そろそろお暇を頂こうかと思っていたところですなのですよ。
私も、もう年ですからね」
私が黄金の女神亭の開業資金を調達できたのは、ゴドウィンが私に割り当てられた予算の一部を現金で渡してくれたからだ。
あれがなければ、私の忠臣たちは困窮したままだった。
思えば、紹介状も持っていなかったコリーンをメイドとして雇う時も、ニコラスを専属護衛に引き抜いた時も、ゴドウィンはなにも言わずに私の好きなようにさせてくれた。
ゴドウィンはずっと前から、私の行動を見張りつつもさりげなく後押ししてくれていたのだ。
「手紙では、お嬢様は辺境伯様のところでメイドとして働いているということでしたが、本当は違うのではありませんか?」
「……あの手紙に書いたのは嘘よ。
私は、ダスティン様の……お試しの妻として、幸せに暮らしていたの」
「お試しの妻ですか。なんとも興味深い。
よろしければ、お話を聞かせてくださいませんか」
私がこれまでのことをかいつまんで説明すると、黙って聞いていたゴドウィンは最後に大きく頷いた。
「お嬢様。やはり、明日に備えて食事をお召し上がりください」
「ブライアンとの結婚式に備えろって言うの⁉」
そんなの嫌だ。
ブライアンと結婚なんてしたくない。
「そうではありません。
辺境伯様がお嬢様を迎えに来てくださるはずですから、それに備えるのです」
ダスティン様と会ったこともないはずなのに、ゴドウィンは自信満々で言い切った。
「観光客向けの温泉宿とは、なんとも面白いことを考えつくものですね。
お嬢様なら、きっと成功させられると思いますよ」
「……私がいなくても、イーノックたちがいれば成功すると思うわ」
王都のレストランも、私は資金を提供しある程度口を出したが、経営はイーノックたちに丸投げだった。
レストランの従業員の大半がアボットに移住してくれたことだし、私抜きでも温泉宿は問題なく開業にたどりつけるはずだ。
「温泉宿のためだけではありません。
それだけ仲睦まじく過ごしておいて、お嬢様がどれだけ得難い女性であるかが理解できない男などおりませんよ」
「……そうかしら?」
私は首を傾げた。
「いつも明るく前向きなお嬢様の近くにいると、周囲のものも自然と同じように前向きになるのです。
お嬢様ほど王太子妃にふさわしい令嬢などおりますまいに、王太子殿下も惜しいことをなさいましたな」
「本当にそう思っているの? 過大評価じゃない?」
「私の目から見た、正当な評価ですよ。
まぁ、それがブライアン様に執着される原因にもなってしまったわけですが」
「……」
「とにかく、英雄との呼び声高い辺境伯様が、お嬢様をむざむざと奪われたままでいるとは思えません。
きっと迎えに来てくださいますよ」
「でも……また御璽を使われたら」
「お嬢様が去ってから、私なりにアボットのことを調べてみました。
グリフォンに守護されているというだけでなく、とても豊かな土地柄なようですね」
「ええ、そのとおりよ」
「マクドゥーガル家がホールデン王国の辺境伯として封じられ、アボットが併合されたのは、今から二百年ほど前のことです。
それまでは、あの地は独立した国だったのですよ」
言われてみて、かつて読んだ歴史書にそのようなことが書かれてあったのを思い出した。
確か、グリフォン騎士団の庇護を得るため、王家の姫君がマクドゥーガル家に輿入れしたことにより、アボットはホールデン王国の一部となったということだった。
ということは、ホールデン王国にはマクドゥーガル家とアボットが必要だが、逆にホールデン王国は必要とされているわけではない、といえなくもないということだろうか。
「お嬢様から見て、辺境伯様はどのような方ですか?」
「……不器用なところもあるけど、すごく優しくて……素敵な方よ」
ダスティン様は私の初恋で、共に過ごす時間が積み重なる度にもっともっと大好きになっていった。
「お嬢様のことを、大事にしてくださっていたのではありませんか?」
「……大事に……してくれていたと、思うわ」
きちんと私の顔を見て話を聞いてくれて、私がつくった料理を美味しいと褒めフランと取り合いする勢いで食べてくれる。
私に向けられる榛色の瞳はいつも優しくて、普段は壊れ物を扱うように丁寧に私に触れる大きな手は、閨では情熱的に私の肌を暴くのだ。
それだけ甘やかしてくれるのは、私を大事に思ってくれているからだと思っていいのだろうか。
「迎えに……来てくれるかしら」
「来てくださいますよ。
私の宝物の、先代からいただいたペンを賭けても構いません」
先代アシュビー侯爵家当主、つまり私の祖父は、手堅く領地を治めるだけでなく、役職について王城にも出仕していた。
趣味にあけくれる父とは大違いの、立派なご当主様だったのだそうだ。
私が生まれる前に亡くなってしまった祖父を、ゴドウィンは今も敬愛しているのだろう。
ゴドウィンのことを私は信用していたわけではないが、少なくとも私に危害を加えることはないだろうくらいには以前から思っていたし、今は確かな情を感じる。
そんな彼の言葉を、私は信じてみることにした。
「ありがとう、ゴドウィン。
元気が出てきたわ!」
ただ蹲って泣いているだけなんて、私らしくない。
これまでと同じで、私は自分で幸せを掴み取るのだ。
「その意気ですよ、お嬢様」
「夕食もちゃんといただくわ。
しっかり食べて、力をつけておかなくちゃね!」
少し冷えてしまった料理をパクパク食べる私を、ゴドウィンはわずかに目を細めて見守っていた。
その夜、もしかしたらブライアンが夜這いに来るかもしれないとペーパーナイフを握りしめて身構えていたが、ゴドウィンが阻止してくれたのか何事も起こらず無事に朝を迎えることになった。
転移の魔法具はとても便利だが、犯罪につかわれる恐れがあるため許可なく製作することは禁じられている。
基本的に王族とその側近たちだけが、緊急脱出用として持つことを許されている特別な魔法具なのだ。
それだけでなく、転移の魔法具を製作するには非常に高価な素材が必要な上に使い捨てなため、本来の目的以外で使用すると王族の側近でも罰せられることになる。
今回、ブライアンは危険から逃れるためではなく、私を攫うために魔法具をつかった。
それがどういう結果を招くか知らないはずないのに。
「あれは俺のじゃなくて、おまえの魔法具だ。
だからなにも問題はない」
かつて王太子殿下の婚約者だった私も、転移の魔法具を所持していた。
各種書類と一緒に私室に残しておいたから、てっきり王家に回収されたと思っていたのに、なんとも管理が杜撰なことだ。
「ここはどこなの?」
「俺の部屋だ」
私はアシュビー侯爵家に連れ戻されてしまったようだ。
ブライアンの私室の場所は知っていたが、中には入るのは初めてだ。
「エメライン」
ブライアンは私をぎゅっと抱きしめた。
吐息が耳にかかる感触に、ぞっとして鳥肌がたった。
中肉中背なブライアンだが、私がどれだけ抵抗しても簡単に押さえつけることができるだろう。
「は、放して」
「嫌だ。こうしたいって、ずっとずっと思ってたんだ……」
感慨深げに囁かれても、私は気持ち悪いとしか思えない。
「私はもう、結婚しているのよ」
「おまえと辺境伯の結婚は、とっくの昔に白紙に戻っている」
「え⁉」
私はぎょっとしてブライアンを見上げた。
「辺境伯にも、手紙でそう伝えてある。
知らなかったのか?」
知らなかった。
本人たちの意志を無視して貴族の正式な結婚を白紙にするなんてかなり無茶なことだと思うが、御璽があればそれも可能だろう。
「おまえは俺と結婚するんだよ、エメライン」
ブライアンの手が私の髪を撫でた。
「ああ、やはりおまえはきれいだな。
この姿を俺以外の前で晒していたのは癪だが、こうしておまえが手に入ったのだから許してやろう」
「……私がわざとあんな恰好をしていたことを、知っていたのね」
「知っていたよ。
偶然、素顔のままのおまえを見て……心を奪われた。
あの時、将来は絶対におまえと結婚するって決めたんだ」
なんて迷惑な!
自分勝手にもほどがある!
「嫌よ! 私はあなたと結婚なんてしないわ!」
私が愛しているのは、ダスティン様ただひとりだけ。
この身も心も、全てダスティン様に捧げているのだ。
だが、今ここでそれを口にしてブライアンの神経を逆撫でするのは悪手だ。
逆上したブライアンになにをされるかわからない。
「嫌だといったところで、おまえになにができる。
おまえの味方は、俺しかいないんだぞ」
「あなたのどこが私の味方だというのよ!」
「わざわざあんな田舎まで出向いて攫ってくるくらい、おまえを愛しているんだ。
味方以外の何者でもないだろう」
あまりに自分本位なブライアンに、私は眩暈がするようだった。
「今日からはもうメイドとして働かなくていいし、子守りをする必要もない。
次期アシュビー侯爵の妻として、ここで優雅に暮らせるんだ」
「そんなこと、私は望んでいないわ!」
「ちょうど明日、王城で夜会がある。
そこで俺たちの結婚を発表して、そのまま簡易的な結婚式をしてしまおう」
「ええぇ⁉」
「おまえはただ俺の隣で笑っていればそれでいい。
ドレスもなにもかも、全部準備してあるからな」
ブライアンが私にこんなにも執着していたなんて、全くの予想外だ。
せっかくアボットで幸せに暮らしていたというのに、このままでは私は全てを失ってしまう。
「私をアボットに帰して!」
「俺はもう二度とおまえを手放さない」
「嫌! 嫌よ! ブライアン、放して!」
ブライアンは私を引きずるようにして、私の私室だった部屋へと連行した。
廊下をたまたま歩いていた侍従に、ブライアンは「エメラインを部屋から絶対に出すな」と命じ、侍従は目を丸くしながらも私ではなくブライアンに従った。
私はコリーン以外の使用人をあまり信用していなかったので、できるだけ遠ざけていたのだが、それが裏目に出てしまった。
ブライアンは私を部屋に押し込むと、扉をばたんと閉めた。
「ブライアン! ここから出して!」
扉を叩いて叫んだが、聞いてもらえるはずもない。
ガチャンと鍵がかけられる音に続き、ブライアンの声がした。
『俺は王太子殿下に話をつけてくる。
おまえは明日に備えて、ゆっくり休んでおくといい』
足音が遠ざかっていき、室内にしんと静寂が満ちた。
閉じ込められた私は、ひとり頭を抱えるしかなかった。
「ダスティン様……ダスティン様……」
愛しい男の名を呼んでも、応えるものはいない。
私とダスティン様の結婚は、もう白紙に戻されている。
そして、私は明日ブライアンと結婚させられるのだ。
また御璽を持ち出すのだろうから、誰にも拒否などできない。
言葉にはせずとも、ダスティン様と心が通じていると感じるようになっていたのに、引き裂かれてしまった。
こんなことになるなら、お試しの結婚なんていって粘ったりせず、さっさとこの国を離れればよかった。
ダスティン様とは、もう二度と会えないのだろう。
あのきれいな榛色の瞳を見つめることも、逞しい胸に顔を埋めることも、もうできないだ。
そう思うと、涙がこぼれた。
ダスティン様も、私がいなくなったことを悲しんでくれるだろうか。
同じ言葉を返してくれなくても、一度くらい愛してるって言葉にして伝えればよかった。
「ダスティン様、愛しています……
私には、あなただけ……」
無力な私は、ダスティン様を思って泣くことしかできなかった。
陽が傾きかけたころ、扉がノックされた。
「お嬢様、ゴドウィンでございます。
夕食をお持ちしました」
そう声がかけられ、扉が開かれるとカートを押したゴドウィンが入ってきた。
ゴドウィンは、アシュビー侯爵家の家令だ。
もう高齢で頭髪は真っ白になっているが、背筋はしゃんと伸びているし手足の動きもきびきびとしている。
趣味にかかりきりで頼りにならない父に代わって領地を管理し、屋敷によりつかない母に代わって家政をとりしきっている、侯爵家になくてはならない存在だ。
「お久しぶりでございます、お嬢様」
「……ええ、そうね……」
「お嬢様がお好きな料理をお持ちしました。
どうぞお召し上がりください」
「食欲なんてないわ」
こんな状況で、とてもではないが食事が喉を通る気がしない。
「多少無理をしてでも、お召し上がりになったほうがいいと思いますよ。
いざという時、空腹だと体が動きませんからね」
不思議なことを言うゴドウィンに、私は首を傾げた。
「してやられましたな、お嬢様」
「……どういう意味?」
「私は、ブライアン様がお嬢様を連れ戻すのは不可能だと思っておりましたよ」
私は泣きすぎて赤く腫れてしまった目を瞬いた。
「まさか転移の魔法具まで使うとは。
ブライアン様の執着にも困ったものです」
「……ゴドウィン、あなた……」
ゴドウィンは、私の祖父が侯爵だったころからこの家に仕えている。
当然ながら私も生まれたときからの付き合いではあるのだが、あまり話をしたことはない。
「お嬢様なら、アボットでも元気に生きていけると思っておりました。
実際、そうだったのでしょう?」
「……ええ、そうよ。
毎日楽しく暮らしていたわ」
「ここでのお嬢様は、いつも窮屈そうでしたからな。
アシュビー侯爵家と縁が切れても、コリーンとダルトン家がいれば大丈夫だろうと、遠くからお嬢様の幸せを願っていたのですよ」
冷たそうな印象のゴドウィンの顔が、わずかに緩んだ。
「知っておりましたよ。
お嬢様がわざと茨姫と呼ばれるように仕向けていたことも、黄金の女神亭というレストランのことも」
「そうだったの?」
「もちろんですとも。
アシュビー侯爵家のことで、私が知らないことなどありません」
できるだけ目立たないように行動していたが、ゴドウィンにはバレバレだったようだ。
というか、そんなことができたのもゴドウィンがさりげなくサポートしてくれていたからなのだろうと今になって思った。
「……お父様とブライアンに、報告したの?」
「いいえ。あのお二人にはなにも知らせておりませんよ」
「えぇ? どうして?」
「聞かれませんでしたし、お嬢様が楽しそうにしているのに水を差すこともないと思いまして」
ゴドウィンはアシュビー侯爵家の家令だから、当主である父に忠誠を誓っていると思っていたのだが、違うのだろうか。
「私は長いこと侯爵家にお仕えしてきましたが、旦那様と奥様に何かを期待することはとっくの昔に諦めております。
ブライアン様は優秀な方ですが、ああも根性がねじ曲がっていてはお仕えするのは苦労しそうですし、お嬢様も無事脱出を果たしたので、そろそろお暇を頂こうかと思っていたところですなのですよ。
私も、もう年ですからね」
私が黄金の女神亭の開業資金を調達できたのは、ゴドウィンが私に割り当てられた予算の一部を現金で渡してくれたからだ。
あれがなければ、私の忠臣たちは困窮したままだった。
思えば、紹介状も持っていなかったコリーンをメイドとして雇う時も、ニコラスを専属護衛に引き抜いた時も、ゴドウィンはなにも言わずに私の好きなようにさせてくれた。
ゴドウィンはずっと前から、私の行動を見張りつつもさりげなく後押ししてくれていたのだ。
「手紙では、お嬢様は辺境伯様のところでメイドとして働いているということでしたが、本当は違うのではありませんか?」
「……あの手紙に書いたのは嘘よ。
私は、ダスティン様の……お試しの妻として、幸せに暮らしていたの」
「お試しの妻ですか。なんとも興味深い。
よろしければ、お話を聞かせてくださいませんか」
私がこれまでのことをかいつまんで説明すると、黙って聞いていたゴドウィンは最後に大きく頷いた。
「お嬢様。やはり、明日に備えて食事をお召し上がりください」
「ブライアンとの結婚式に備えろって言うの⁉」
そんなの嫌だ。
ブライアンと結婚なんてしたくない。
「そうではありません。
辺境伯様がお嬢様を迎えに来てくださるはずですから、それに備えるのです」
ダスティン様と会ったこともないはずなのに、ゴドウィンは自信満々で言い切った。
「観光客向けの温泉宿とは、なんとも面白いことを考えつくものですね。
お嬢様なら、きっと成功させられると思いますよ」
「……私がいなくても、イーノックたちがいれば成功すると思うわ」
王都のレストランも、私は資金を提供しある程度口を出したが、経営はイーノックたちに丸投げだった。
レストランの従業員の大半がアボットに移住してくれたことだし、私抜きでも温泉宿は問題なく開業にたどりつけるはずだ。
「温泉宿のためだけではありません。
それだけ仲睦まじく過ごしておいて、お嬢様がどれだけ得難い女性であるかが理解できない男などおりませんよ」
「……そうかしら?」
私は首を傾げた。
「いつも明るく前向きなお嬢様の近くにいると、周囲のものも自然と同じように前向きになるのです。
お嬢様ほど王太子妃にふさわしい令嬢などおりますまいに、王太子殿下も惜しいことをなさいましたな」
「本当にそう思っているの? 過大評価じゃない?」
「私の目から見た、正当な評価ですよ。
まぁ、それがブライアン様に執着される原因にもなってしまったわけですが」
「……」
「とにかく、英雄との呼び声高い辺境伯様が、お嬢様をむざむざと奪われたままでいるとは思えません。
きっと迎えに来てくださいますよ」
「でも……また御璽を使われたら」
「お嬢様が去ってから、私なりにアボットのことを調べてみました。
グリフォンに守護されているというだけでなく、とても豊かな土地柄なようですね」
「ええ、そのとおりよ」
「マクドゥーガル家がホールデン王国の辺境伯として封じられ、アボットが併合されたのは、今から二百年ほど前のことです。
それまでは、あの地は独立した国だったのですよ」
言われてみて、かつて読んだ歴史書にそのようなことが書かれてあったのを思い出した。
確か、グリフォン騎士団の庇護を得るため、王家の姫君がマクドゥーガル家に輿入れしたことにより、アボットはホールデン王国の一部となったということだった。
ということは、ホールデン王国にはマクドゥーガル家とアボットが必要だが、逆にホールデン王国は必要とされているわけではない、といえなくもないということだろうか。
「お嬢様から見て、辺境伯様はどのような方ですか?」
「……不器用なところもあるけど、すごく優しくて……素敵な方よ」
ダスティン様は私の初恋で、共に過ごす時間が積み重なる度にもっともっと大好きになっていった。
「お嬢様のことを、大事にしてくださっていたのではありませんか?」
「……大事に……してくれていたと、思うわ」
きちんと私の顔を見て話を聞いてくれて、私がつくった料理を美味しいと褒めフランと取り合いする勢いで食べてくれる。
私に向けられる榛色の瞳はいつも優しくて、普段は壊れ物を扱うように丁寧に私に触れる大きな手は、閨では情熱的に私の肌を暴くのだ。
それだけ甘やかしてくれるのは、私を大事に思ってくれているからだと思っていいのだろうか。
「迎えに……来てくれるかしら」
「来てくださいますよ。
私の宝物の、先代からいただいたペンを賭けても構いません」
先代アシュビー侯爵家当主、つまり私の祖父は、手堅く領地を治めるだけでなく、役職について王城にも出仕していた。
趣味にあけくれる父とは大違いの、立派なご当主様だったのだそうだ。
私が生まれる前に亡くなってしまった祖父を、ゴドウィンは今も敬愛しているのだろう。
ゴドウィンのことを私は信用していたわけではないが、少なくとも私に危害を加えることはないだろうくらいには以前から思っていたし、今は確かな情を感じる。
そんな彼の言葉を、私は信じてみることにした。
「ありがとう、ゴドウィン。
元気が出てきたわ!」
ただ蹲って泣いているだけなんて、私らしくない。
これまでと同じで、私は自分で幸せを掴み取るのだ。
「その意気ですよ、お嬢様」
「夕食もちゃんといただくわ。
しっかり食べて、力をつけておかなくちゃね!」
少し冷えてしまった料理をパクパク食べる私を、ゴドウィンはわずかに目を細めて見守っていた。
その夜、もしかしたらブライアンが夜這いに来るかもしれないとペーパーナイフを握りしめて身構えていたが、ゴドウィンが阻止してくれたのか何事も起こらず無事に朝を迎えることになった。
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